アナーキー小池の反体制日記

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#372 道徳心(上)

2010年01月17日 | ボクの思い・信条・理念
#369に愛国心について記しています。
道徳心も同様です。
今、国が推し進めている道徳教育はそれほど悪いものでありません。
当たり前のことを、当たり前にしようとする極めてまともなところが多いのです。
ボクがちょっと引っかかるのは"愛国心を植えつける"ところだけです。

広辞苑によりますと、道徳とは[人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。](以下略)とあります。

このようなのを見ていくと、日本人は戦後随分と道徳心が向上しているように思います。
他人へ迷惑をかける、他人に不快な思いをさせる人は昔ほど多いとは思いません。

道徳心が薄れてきたと嘆く輩(やから)は、道徳を勘違いしています。
戦前の修身と同一なものと捉えているのです。
"目上の者に絶対服従""万世一体の国家概念復活""家長制度の復権"など、道徳とは無縁な、昔の修身を思い起こしているのです。
そしてその輩たちは勘違いを勘違いととらえず、修身の復活を画策しているんです。
そんな不純な思いを持った輩がいるものだから、道徳という言葉も愛国心と同様まやかしいものになってしまいました。

ボクは戦後、道徳的に問題視されなければいけないのは"卑怯なことをしない""節操のない振舞いをしない""正義感の保持"・・・こんなものしか浮かびません。
ほかはみんな昔より今のほうがいいのです。

"卑怯なことをしない"
卑怯な人は沢山います。
昔に比べて多くなったように感じます。
卑怯な人は卑怯なことを、不道徳だとは認識できないのではないかと思います。
道徳教育で卑怯なことをしてはいけないと教えないのでしょうか。
それとも、道徳の教科書を作る人や選ぶ人が皆、卑怯な人だからでしょうか?
きっとそうなんでしょう。
卑怯な人は卑怯な行いをしても法を犯すわけではなく、罰を受けません。
そして往々にして卑怯な人は要領がいいため、組織の中では要職を占める場合が多くあります。
因みに広辞苑では"卑怯"は ①心が弱く物事に恐れること。勇気のないこと。臆病。 ②心だてのいやしいこと。卑劣。 です。
何人もの顔が浮かんできます。

次回に続きます。
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