マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大阪で2か所の写真展を巡る

2015年04月20日 07時28分02秒 | しゃしん
往復とも自家用車で出かけた写真展。

一つは大阪市内中央区南船場にあるリコーイメージングスクエア大阪で開催されていた第2回「写楽万遊」。

写真家宮崎壽一郎さんの写真展だ。

もう一つは2014全日本読売写真クラブ展。

写友人の森川光章さんが入選した作品が展示されている。

いずれも早くに案内状届いていた。

場は2か所とも大阪市内。展示場はすぐ近くになる。

一挙に拝見できる展示期間内の日を選んで出かけた。

午後1時半に自宅を出て戻ってきたのは18時15分。

走行距離は往復で70km。

片道35kmであるが、往路は1時間40分。

復路は1時間半。

それほど差はでなかった地道走行。

奈良から生駒山を越えて大阪に入る。

山越えである。

水走(みずはい)から市内中央区まではのろのろ状態。

大阪は信号が多く、車も多い。

奈良では味わえないのろのろ走行がずっと続くのである。

計算してみれば時速24kmだった。

写真作品を観る前にかかさずしているのはタイトル読みである。

タイトルからどのような映像を期待するのか、である。

ずいぶん昔に自然観察会の先生に言われたことがある。

シャッターを切ると同時にタイトルが浮かぶ写真撮り。

グラフィックイメージが投影された被写体を瞬間に撮るということだが、なかなかそいういう状況には落ちあわない。

一期一会の被写体は、そうは簡単に現れてくれない。

逆に撮った写真からどうイメージするかである。

タイトルに拘りすぎてもよくない。

何を伝えようとしたのか判らないタイトルもあれば、説明解説的なタイトルもある。

昨今はこれが多くなっているように思える。

「そんなの見れば判るでしょ」というようなタイトルが多いのである。

先日、拝見した三郷町の芸術祭・美術展に展示されていた洋画作品のタイトル。

「・・・の海」に感動した。

画風は難しい作品だった。

何度見ても、何を現しているのか判らない洋画であったが、「・・・の海」のタイトルにふと思った。

観る人によって「・・・」は、なんでもいいから貴方がイメ-ジした海を思い起こしてくださいという仕掛けであると考えたのである。

画も素晴らしかったが、タイトルでさらに作者の思いが伝わったように眼前に広がった「・・・の海」。

果てしなく広がる「海」を見たのである。

その作品は金賞を受賞していた。

審査員の講評に「少しおさえた色彩と形のおもしろさが群をぬいて目にとまった」とあった。

写真で何を伝え、何を訴えて拝覧者に考えてもらうか。

そんなことを考えながらこの日の写真展を一つ、一つじっくり拝見した。

(H26. 9.16 SB932SH撮影)

清水谷の講行事

2015年04月19日 09時33分44秒 | 高取町へ
写友人から伝えられた高取町の講行事。

電話で伝える場所は下子島にある郵便局より南下する地。

話しの状況から清水谷であると判断していた。

写友人がいうには大神宮さんにお供えをする講中は5月、9月、12月の3回に参っているようだと話していた。

講中は数軒。年寄り講は今にも消滅しそうだから早めに取材をしたらどうかという緊急情報であった。

そこでは庚申講もあったが30年前に中断されたが2軒で掛軸を廻しているともいう。

場所はあの辺りだろうと思って下見したこの日。

写友人が云うには街道を通り抜ければ小川の橋を渡って国道に出ると云っていた。

その街道は一方通行。

周囲は旧家と思われる民家が建ち並ぶ。

通りがかった民家の前で二人の婦人が立ち話をされていた。

立ち止まって講中の存在を尋ねた。

庚申講や大神宮の講中は知らないが、大神宮の石塔ならすぐ近くにあるという。

そこには八王子社もある。

婦人の一人は八王子講。

7月14日と9月28日には、そこで七巻の般若心経を唱えているというのだ。

以前は十五巻も唱えていたが、長丁場に声が出なくなったことから半分に短縮したという。

第一土曜日の10月4日は門屋に幕を貼って祭りごとをしている。

座敷奥に祭壇を組んで菅原道真公の掛軸を掲げて祝詞を奏上していると話す講の在り方にも興味をもった。

その婦人は古宮講。

もう一人の婦人は元宮講。

それぞれの講中によって祭り方は異なるようだ。

清水谷の講中は古宮講、元宮講以外に中宮講ともう一つがあるらしい。

その日は街道をだんじりが通り抜けて一方通行も封鎖されるらしい。

そうして近くにあった八王子社に向かった。

こん盛りした塚のような八王子社のご神木はフジの木とカシの木。

注連縄を掛けている。

婦人の旦那さんが手で結った注連縄を大晦日に掛けるという八王子社の燈籠に「宝暦二年(1752)三月日」と思える刻印があった。

その左手に建つのが大神宮である。

写真を撮っていたら古宮講の婦人がもう一人の婦人を連れてきた。

その婦人は明神講。

講元の當家にあたっているようだ。

話しによれば、大神宮は、時期は未定だが氏神さんが鎮座する場に移すことになったという。

氏神さんへ参るには急な参道を登らなければならない。

年寄りでは無理があるから、階段下に移すと話していた。

神社名は「たかお」。

充てる漢字は高生であったが、この日はこれまでとした。

(H26. 9.15 EOS40D撮影)

横田柳生垣内の九月日待ち

2015年04月18日 08時16分25秒 | 大和郡山市へ
2月、5月、9月の年3回集まる大和郡山市横田町の南垣内。

近隣村の櫟枝町でも通称である柳生垣内と呼ばれている。

戸数は17戸。

各家の代表者が集まる日待ちに掛軸を掲げる。



5月も掛けていた雨宝童子の掛け図にはサカキを立ててローソクを灯す。

御供はお神酒である。

この日の当番は前回に勤めたM家の隣。

Tさんは村の最高齢者の80歳。

おじいちゃんを補佐する若奥さんに孫もついていた。

この日訪れたのは掛軸の図柄を確認するためである。

昨年の当家祭りの日に拝見した掛軸は中央に雨宝童子を配した図柄。

これであるのか、それとも同じであるのかの確認である。掲げていた図柄は5月日待ちを同じであった。



それならもう一つあると水利組合長のNさんが家にあった掛軸を持ってこられた。

マツリのトーヤで持ち廻る掛軸というが三社託宣であったのだ。

中央に天照皇太神宮、右が八幡太神大で、左は春日大明神の三社託宣神号図は三神のお告げを記している。

三社託宣の始まりは正応年間(1288~)とする説がある。

鎌倉時代初期にはすでに成立していたとされる三社託宣。

室町時代中期以降に吉田神道を提唱した吉田兼倶が積極的に導入したと云われている。

公家から武家へ、そして一般庶民に広がったという三社託宣の掛軸は、お日待ちと関係するアマテラスオオミカミのお軸を掲げることが多い。

前年の秋に拝見した掛軸は中央に雨宝童子像を配し、多賀大社の伊弉諾尊・熊野神社の伊弉册尊・大巳貴命・稲蒼魂命の5神を描く「開運壽福地神」図だった。

推定であるが、柳生垣内には三つの日待ち講があったと思われる。

集まった人は16人。

午前中は村の道作りに汗を流していた。

ローソクに火を灯して日待ちが始まった。



当番のおじいちゃんが挨拶をして始めに区長が村の連絡事項を伝える。

それで終わりでなく、日ごろの村の問題点を協議する。

あれやこれやの問題点は水利組合関係に時間を費やす。

終わるようで終わらない長丁場の議論に話題が沸騰。

終えたのは1時間半後だった。

頼んでいたパック詰め料理が配られて下げたお神酒を注いでいく。



当番の乾杯で歓談の場に移った公民館。

和やかに場を過ごす。

(H26. 9.14 EOS40D撮影)

西竹田美食城のつけ麺・唐揚げ飯セット

2015年04月17日 07時27分54秒 | 食事が主な周辺をお散歩
佐味の八王子講を聞取りし終えた時間帯は午後1時を過ぎていた。

一週間前も訪れた田原本町の佐味。

ここより北に向かえば黒田に出て伴堂。

寺川に沿って自宅に戻る。

帰宅時間は遅くなる。

そう思って入店した台湾料理の美食城。

コンビニ店の跡地に次々と出店される料理チェーン店。

先月の7日は橿原法花寺町福順園で380円の台湾ラーメンを食べた。

美味いのである。

チェーン店であればどことも同じであろうと思って開店間もない西竹田にある美食城に決めたのだ。

最近はとにかく増殖中の台湾料理店。

大和郡山市も1軒あるし、広陵町でも見かけたことがある。

店内作りは若干の違いがあるが、雰囲気は違和感がない。

店員さんはカタコトの日本語でオーダーをとる。

いずこも同じである。

案内された席に「つけ麺祭り」が貼ってあった。

単品の場合はつけ麺が680円であるが、11時半から14時までのサービスタイムでは各種炒飯がセットで700円。

ものは試しと思って唐揚げ飯を頼んだ。

一品プラスの飯は唐揚げ飯の他、麻婆飯、青椒肉絲飯、高菜炒飯、回鍋丼、エビ炒飯、カレー炒飯、ニンニク炒飯、本店特製炒飯、天津飯、台湾炒飯、キムチ炒飯に普通の炒飯がある。

選択は実に悩ましき炒飯である。

注文して5分間待って運ばれたつけ麺・唐揚げ飯セット。



美味しそうな香りが漂ってくる。

それは唐揚げ飯だ。

最初に口にしたのはつけ麺。

つけ汁はゴマタレ。

刻みネギとカラシがついている。

一度に入れたら味を感じないと思って少し入れた。

麺はわずかに感じるちじれ麺。

黄色い麺には細切りの海苔を振っている。

味付け海苔ではないから風味を損なわないつけ麺。

口に入れて噛んでみた。

喉が唸るつけ麺の味に驚いた。

実に美味いのである。

つるつる麺が喉を通る。

止まらない箸が物語る。

一挙に半分ぐらい食べてしまった。

つけ麺に集中する時間に冷めてしまうと思った唐揚げ飯に移る。

金属スプーンで掬って口に放り込む。

これも驚きの味。

出てくる声が心のなかで叫んだ。「美味いっ!!」の連呼である。

美味しさを伝えるコメントは浮かばないが、卵とじの味はご飯に馴染んで、スプーンが止まらない。

ぱくぱく食べる唐揚げ飯の味付けは何だろうか。

なんとなくカニ味噌味のように思えた極上の味に口のなかが唸った。

唐揚げそのものは食べやすいようにしているのか、やや小ぶり。

そのほうが飯喰いに丁度良い。なんども掬って食べる唐揚げ飯。

いっこうに減らない。

一般的にセットであればミニ飯・丼であるが、台湾料理店はいくら食べても減らない量である。

半分食べて再びつけ麺に向かう。

これも多いのである。

見た目は少ないように見えた麺の盛り。

いくら食べても減らない。

日頃は一品で済ませる店屋の食事。

注文したことに後悔する盛りに圧倒された。

この量であれば二人分。

若い人にとってはそれぐらいで良いが60歳も過ぎた私にとっては苦痛の量。

そういえば隣に運ばれた炒飯の盛りはもっと多い。

単品の唐揚げも山盛り状態。

もしかとすればセットは台湾料理店ではミニであるかもしれない。

満腹以上に満腹した美食城の北側に鳥居が見えた。



眼と鼻の先にある神社は田原本町の富本(とんもと)。

鎮座する神社は冨都(ふつ)神社。

延喜式内社と表示されている古社である。

江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていたようで、明和六年(1769)年の建之された燈籠にその名が刻まれていた。

境内は奇麗にされている小社の行事は判らないが近くに旧村集落がある。

再訪する機会があれば行事を尋ねてみたい。

(H26. 9.14 SB932SH撮影)

佐味の八王子講行事

2015年04月16日 08時40分11秒 | 田原本町へ
昨年の9月15日に訪れた田原本町の佐味。

調べていたのは八王子講の人たちが催す子供の相撲である。

場は天神社境内社の八王子社であろうと思って来たが、どなたもおられなかった。

もしやと思って翌日の16日も訪れたが、前日同様に不在である。

仕方なく集落を巡って東側に流れる曽我川に辿りついた。

付近におられた住民に尋ねてみた。

子供相撲の行事は村行事でなく、数軒の礒橋家が主催する行事であった。

むかしむかしのこと。礒橋家が所有する田んぼに流れついたハッタサンを八王子社に祀った。

ハッタサンを祭る講は八王子講と呼ぶ礒橋家御一統である。

件の行事の詳細は礒橋家に聞かねばならない。

そう教えてもらった家は不在だった。

天神社には大和磯城ライオンズクラブが寄贈された佐味の歴史を記された立て看板があるが、八王子講のことはふれていない。

他の礒橋家を探す時間はなく立ち去った。

八王子講が主催する子供の相撲は15日辺りの休日だと聞取りしたお家の方が話していた。

その行事が行われる際にはマイク放送するとも言っていた。

もしやと思ってこの日に再訪した天神社は人影が見られない。

神社前におられた男性に尋ねてみた。

それならここより北に向かって東に折れた辺りに住む礒橋家が詳しいであろうと教えてくださった。

呼び鈴を押して訪ねた礒橋家。

訪れた経緯を伝えて行事の在り方を教えていただく。

応対して詳しく話してくださったのは当家の婦人。

かつては10軒の講中であった礒橋家御一統はウチワの親戚筋。

いつしか8軒になったが当家は長らくの間、講元を勤めていたと云う。

今では5軒になったが、今尚子供の相撲を主催していると云う。

いつの時代か判らないが、礒橋家の田んぼにハッタサンが流れ着いた。

ハッタサンを守る講が組織された。

それが八王子講である。

行事費用は稲作田で収穫した収益で賄っていた。

辻に提灯を立てて大きな長持(ながもち)を祠で祀ったハッタサンこと八王子社へ運んだ。

天神社が鎮座する小字は字八田。

まさにハッタサンの地である。

当日は朝から社殿周りを清掃する。

講中が集まるのは佐味の公民館。

かつては講家であったが、現在はそこに集まると云う。

半切りにしたカボチャに串を挿して先にミョウガやシイタケなどを取り付ける。

話す状況から御供の形状が見えてきた。

推定であるが、平成25年9月16日に拝見した大淀町馬佐の牛滝まつりの御供と同じように思えた。

おそらく長持に収納して運んでいるのだろう。

御供は二段の大きな餅もあったが、今では配りやすくするに前もってコモチにしているようだ。

御供はコブやスルメもあるというから神饌ものに違いない。

ハッタサンは相撲の神さんと崇められている。

社殿前に砂を敷いて土俵を作る。

行司が「はっけよい のこった のこった」と相撲を采配する。

勝者の子供にお菓子を渡しているが、佐味では子供が少なくなったと云う。

9時ころともなれば公民館に設置してあるマイクで行事案内を放送する。

聞き付けた子供たちがやってきて相撲をする。

子供は幼稚園児から小学生までのようだ。行事を終えた講中は公民館で会食する。

一連の在り方を伺ったが、この年の行事日は翌日の敬老の日。

送迎の仕事と重なりあいにく断念した。

(H25. 9.16 SB932SH撮影)
(H26. 9.14 記)

櫟枝町の当屋祭

2015年04月15日 07時29分36秒 | 大和郡山市へ
櫟枝町は大和郡山市。

櫟本町は天理市。

大昔、櫟本の西方に天狗が住むという櫟の大木があった。

人身御供を出せといって村人を苦しませた天狗は覚弘坊という坊さんがメガネと交換して追いだした。

天狗は米谷に去ったのを見届けて櫟の木を伐り倒した。

横倒しになった西村を横田。

枝がかかった地は櫟枝。

櫟の根があった地は櫟本と呼ぶようになったと天理市史・地名伝説に書いてあるそうだ。

横田は「横たわる」からその名がついたとも言えるが伝説は後年において創作されたと考えられる。

櫟の村は櫟本が「本村」で、櫟枝は「本村」に対する「枝村」と推論するが果たして真実は・・・・。

そんな話をする櫟枝町の住民。

この日は当屋のマツリで氏子が集まってくる。

かつて一老・・・・四老と呼ばれていた四人の手伝いさんは御供モチを搗いていた。

半紙を敷いて盛った御供はニンジン、シイタケ、コーヤドーフにリンゴやバナナの果物もある。

刈りたての稲穂もあるが、タイは出発前に置くと云う。

大和郡山市櫟枝町に鎮座する八幡宮の年中行事をお聞きしたことがある。

11月は新穀祭、9月16日も祭事があるらしいが、日程的には八朔であるかも知れないと思っていた。

10月17日は村のマツリであったが、近年においては集まりやすい体育の日に移ったようだと云う。

神社境内の北側にはお寺がある。

元は真言宗であったが、宝暦年間に融通念仏宗に改宗されたようだ。

苗代に立てていたゴーサンのお札はかつて真言僧侶がいた名残を示すのではないだろうか。

無住のお寺は尼講の人たちが掃除をして奇麗にしている。

それらのことを知ったのは平成25年5月25日であった。

畑から戻ってくる二人の婦人に聞いた答えがそうであった。

ゴーサンドーヤは2月の後半。

ヘッツイさんの煤を集めて墨にした。

話しによればどうやら「寶印」の文字らしい。

お札の周りに一本の墨スジがある。

版木の証しであろう。

ゴーサンドーヤが作るお札はヤナギの木に巻くように付ける。

ゴーサンドーヤでたばったお札は家で保管するというのだ。

八幡宮の祭りの日にゴーサンドーヤが作るお札はヤナギの木に巻くようにつけると散歩中の婦人が話していたのは今年の5月4日だった。

翌月の6月9日に出合ったYさんが言うには八幡宮の年中行事は4回。

この年、トーヤをてったい(手伝い)する4人のうちの一人。

2回目の行事にお札を祈祷・お祓いすると話していた。

3人が話す行事日程は一定でなくばらけている。

2月13日だという婦人は9月23日に近い日曜日にゴーサンの版木で刷ると話していた。

そのお札はゴーサンドーヤの日に祈祷すると云う「座」のような感じで話していた。

かつて9月15日であった例祭宵宮は不定日となり平成25年は9月7日の土曜だったと話す。

その年は、当屋のお渡りがあって座衆を饗応していたと云う。

翌日はさ来年のトーヤ決めをする。

それで、23日に近い休日にゴーサンゴーヤの祈祷札を版木で刷ると言っていたのだ。

話しの様相からむかしよみやでもなく八朔でもない村の行事。

10月の第二土曜は秋祭りの宵宮

提灯を掲げると言っていた。

翌日の第二日曜は秋祭り。

かつては16日、17日であったが集まりやすい休日に移ったようだ。

収穫を終えて11月17日辺りは神嘗(かんなめ)祭。

しかし、実際はいずれも不確かな情報であった。

婦人が話していた平成25年の9月の行事は7日の土曜日だった。

もしかと思って6日に訪れた。

八幡宮は誰もいない。

近くの作業場におられた男性に行事の件を尋ねた。

トーヤのお渡りがあるという行事は14日。

時間帯は10時ぐらいだと云う男性は、息子に譲ったことから参列はしない。

祭祀を勤める神職は池之内町在住の植嶋熈一さん。

大和郡山の行事で度々お世話になっている。

神職であれば明白なことが判るであろうと思って訪ねた。

トーヤ家の当主名は知らず、であるが、場所はある程度判った。

9時には御幣切りをすると云う。

そこへ行けば神社総代らを紹介すると話していた。

ところで、櫟枝町では不思議な縁があった。

三の丸公民館で卓球に勤しんでいるかーさん。

クラブ員に80歳ぐらいの婦人がいると云う。

その婦人は櫟枝町の住民。

クラブでよく話をしていると云う。

あるときクラブを休まれた。

なんでも行事ごとがあって休んだそうだ。

もしやと思ってクラブ員住所より探してみればどんぴしゃり。

平成25年5月25日にお会いした婦人であったのだ。

私がかーさんに伝えた出合いの件。

話をすれば僅かに覚えていると云うのである。

それが旦那の私である。

不思議な縁で繋がった櫟枝町。

行事に来られたらお茶でもと云っていたそうだ。

そうして着いた櫟枝町。

婦人が住むⅠ家を訪ねた。

話をしたことは覚えていると話す婦人。

一年前の出合いはかーさんともども縁が繋がった。

今年のトーヤ家を案内してくださる。

門屋から声をかければ「お待ちしていた」かのような雰囲気。

神職から私のことを聞いていた手伝いさんが手招きをされて早速の取材。

御供を並べて塩盛りを作っている最中だった。

お椀に入れた粗塩に水を加える。

ひっくり返せば見事な形になった塩盛りである。

シイタケ、ニンジン、リンゴ、バナナ、コーヤドーフの御供もあれば、搗きたてのモチもある。

コンブ、スルメの御供や玉串もある。

御供には刈りたての稲穂もあった。

出発間際にはタイも載せると云う御供である。

その場には丸めたお札もあった。



これがゴーサンドーヤのお札だと云って刷ったばかりのごーさん札を拝見する。

文字は6日にNさんからいただいたごーさん札を同じだった。

墨汁を版木に塗って一枚、一枚刷っていたと話す手伝いさん。

午前8時から刷っていたと云う版木を見せてくださった。

照りがある版木は刷った回数が多いのであろうかすり減って丸みを帯びていた。

中央に「八幡宮」。

左が「牛□(寶印の形)」で、右は「寶印」を彫った版木である。

「牛」の文字はやや欠けているが刷ったお札を見れば判別できる。



もしやと思って版木の裏面を拝見する。

手伝いさんとともに判読した文字は「寛永七年(1630)正月吉日 和州添上郡 櫟枝村 升屋願主」であった。

今より385年前に彫られた版木である。

「欠けているから新調しようと思っていた」と話す長老も驚かれた版木に櫟枝の歴史があったのだ。

当時より八幡宮としての行事として使われてきた版木であるが、これまで奈良県内各地で行われる数々のごーさん札を拝見してきた事例から推定するに、元々は寺行事の「オコナイ」であった可能性が高い。

「オコナイ」行事はおよそ真言宗派の寺で行われてきたのである。

八幡宮北に隣接する地に融通念仏宗派の極楽寺がある。

今では融通念仏宗のお寺であるが、宝暦年間(1751~1764)に真言宗から改宗したそうだ。

『ふるさと大和郡山歴史事典』によれば、改宗前の寺は石川町の区有文書に「和州添上郡石川村極楽寺天正四年(1576)壬子八月五日大工西京次郎、関賢坊云々」、「天和二年(1682)戌年見付上棟木、天和三年(1683)癸亥五月五日うつ志申、二郎兵衛、年寄衆」と記されている。

このことが櫟枝の極楽寺を云い現わしているのかどうか判然としないが、坊はおそらく真言宗であった極楽寺僧侶。

年寄衆は八幡宮を祭祀する宮守であったと考えられるのである。

「オコナイ」行事は正月初めに行われる初祈祷。

ごーさん札を刷って祈祷していたと思われる「正月吉日」の墨書記銘から、そう思った櫟枝のごーさん版木。

櫟枝町の当屋のマツリに村の歴史が残されていた。

御供が揃ったころにトーヤ(当屋)家に集まってきた氏子たち。

広い座敷いっぱいになった。

櫟枝町の戸数は25戸であるが、当屋衆を勤めることができる家は24戸だ。

かつては27戸の集落であったと云うから数軒が辞退したか、村を出たようである。

当屋を勤めるのは当家の息子さん。

年齢的には若衆にあたる。

「衣袋箱 櫟枝村 座中」の文字を墨書した衣装箱。

これもまた、古いものであるが年代記銘の有無を確かめる時間はなかった。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和11年祭祀並宮座調』によれば櫟枝町には宮座は「なし」と書かれていた。

座の在り方はすでに退廃していたのであったが、衣袋箱に書かれてあった墨書より、かつては「座」であったのだ。

衣袋箱から取り出した白い晒し木綿のような装束を普段着の上から着る。

袴は青い色である。

烏帽子を被って身を調える。

同じように装束を身にまとうのは長老・氏子総代の二人だ。

当屋家の門屋前に置いた手水で清めて出発する。



大御幣を持って先頭を行く当屋。

神職、長老・氏子総代に続いて御供を持つ氏子たち。

集落の道を通って八幡宮を目指す。

中央の辻を南下していくお渡りは一列に並ぶことなく渡っていく。



朱塗りの鳥居を潜って神社に着いた一行は本殿前に並ぶ。

一度に入りきれない氏子数だけに拝殿、境内までとなる。

神事は当屋祭次第に沿って行われる。



式次第は、修跋、開扉、献饌、奉幣、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で閉式する。

刷ったごーさん札やモチ御供などを本殿に供える。

櫟枝町・八幡神社の当屋祭祭典の特徴は当屋の奉幣振りがある。

本殿前に立って左右に二度振る。

大和郡山市内の事例では番条町・熊野神社の宮座の十月朔坐や新庄町・素盞嗚神社の当舎祭礼、観音寺町・八幡宮のマツリ、田中町・甲斐神社のマツリにしか見られない作法である。

また、折敷に載せた御供のうちの四つは本殿周りにある四隅の石に置く。

何の神さんであるのか伝わっていないが、これもまた市内行事では珍しい形式である。



祭典を終えた氏子たちはコヨリの籤を引く。

総代が手にしたコヨリに群がる氏子たち。

引いた籤に一番、二番、三番、四番とあればアタリである。

四人は神社祭祀を勤める手伝いさんであるが、一週間前に話していたNさんによれば一老から四老であると云っていた。

宮座で一老云々と云えば、宮守さんのことである。

かつてあった座中は一老から四老が勤めていたと考えられるのである。

この年は当屋を引き当てる籤はない。

と、いうのも前年に決まっていたのである。

当屋籤の始まりは24本。一年に一度ずつ当たっていく当屋であるが、翌年には当たりの当屋は外れて籤本数は1本減らす。

これを毎年繰り返して、前年は2本になった当たりを引いたのはこの年の当屋家。

残りは1本となって残る家が当屋を勤めるということだ。

不思議な縁で繋がったⅠ家が残り福。

前年に決まっていたのである。

翌年は全戸が対象になる当屋籤。籤引きの結果は予想もできない。

24年前に勤めた当屋が当たるかもしれないし、翌年に勤める当屋がなるかもしれない

期間は最長48年間、最短で1年後になるやもしれないのである。

こうしてコヨリ籤を終えた氏子たちは拝殿前庭で直会をされる。



ブルーシートを広げて、上にゴザを敷く。

座布団も置いた席に着く氏子たち。

当屋、神職、長老、総代は上座に座る。

パック詰め料理をいただく直会は、下げたお神酒で乾杯してからだ。

しばらくの時間は歓談の場。境内南側は黄色くなった稲穂が輝いていた。

(H26. 9.14 EOS40D撮影)

桐山大久保垣内の薬っさんのボタモチイセキ

2015年04月14日 09時34分35秒 | 山添村へ
毎年の9月12日、薬師さんに供えるキナコのボタモチを作っている。

大久保垣内の3軒の営みである。

山添村の桐山は大久保垣内の他、和田、大君の3垣内。

戸数は20戸の集落である。

田楽系芸能を継承している山添村大字の一つ。

他大字に北野、室津、峰寺(峰寺・松尾・的野)、中峯山がある。

大久保垣内は田楽を奉納される戸隠神社が鎮座する山の上にある垣内である。

室生ダムが建設されたおかげで村の道は拡張されてアスファルト道路になった。

それまでは車も通れない村の里道。

急な坂道を登るには牛の力が必要だった。

牛に曳かせた木造のソリに乗って上がったという。

いつしか耕運機に移ったが、その時代もソリであった交通手段である。

薬師堂が建つ付近の崖には防空壕もあったと話す。

薬師さんを安置する大久保垣内の薬師堂は平成10年9月22日に到来した台風七号の大風で屋根が吹き飛ばされて倒壊した。

「ぺしゃんこになって潰れた」と村人は云う。

当時の薬師堂は板間。

垣内共同で使うコメツキ場だった。

お堂の前には大きな椿があった。

いつの時代か判らないが「昔はお堂の前のカドで盆踊りをしていた」と話すNさんは大正13年生まれの最長老。

子供のころだったと云うから、昭和一桁時代であろう。

桧皮葺の職人がここに来て家で泊っていたとも云う。

お堂を建て替えするまでの「薬っさん」の場は一年交替のヤド家でしていた。

建て替えてお堂は美しくなった。

それからお堂に集まるようにしたと話す。

薬師堂には木彫りの仏像を安置している。

僅かに残る色彩が美しい。

「何時の製作か、どなたが作ったのやら、判らないが、こうして守っている」と話す。

この夜の「薬っさん」行事は「ボタモチのイセキ」と呼んでいた。

盆踊りがあったというからイセキに違いない。

「イセキ」はおそらく「会式」が訛ったものであろう。

この夜の取材は昨年の続きである。

ボタモチ作りは拝見したが夕方は大阪へ行かねばならなかった。

おふくろの病理診断であるMRI検査の立会だった。

手術した結果は良好だった。

イセキの様相は2年後となったわけである。

「薬っさん」に供えるキナコのボタモチがある。

この日の午後に作ったボタモチは大量だ。

一軒あたり一升米を持ち寄って作るというから三升にもなる。

ボタモチ作りは昨年に拝見した。

一人は飯椀によそって、椀を振るう。

そうすればまぁるくなる。

隣の老婦人に渡してオニギリの形にする。

それを手渡してキナコを塗す連携作業だった。



木造の薬師さんに供えるボタモチは5個。

大量のボタモチはコジュウタに入れて前に置く。



長老の息子さんのNさんはローソクに火を灯してオリンを打つ。

手を合わせることも念仏を唱えることもないイセキの在り方である。

同時に動いたボタモチ。

コジュウタから家に持ち帰る大皿に移していく。

一軒あたり30個にもなる分量だ。



供えたお神酒も下げて各家が持ってきた手料理とともに会食をする。

ボタモチは一口で食べきらない量。



お椀一杯分だけに何口にも分けて食べる。

甘い香りがするボタモチでお腹が膨れあがる。

もう1個食べてやと云われて口にする。

これで二杯分。

すでに胃袋は満腹になっている。

手料理もあるからそれも食べてやと云われて口にする。



別腹なのか、美味しいのか判らないが、口に入るのである。

この夜の参拝に若夫婦が参列した。

茶生産をするため入植した夫婦は垣内入りを容認されて、ともに会食をする。

生まれて間もない赤ちゃんも同席だ。

ひ孫ができたように思えて仕方がない長老があやせば笑顔で応える。

和やかな雰囲気で過ごす薬っさんのボタモチイセキの夜がふけていく。



外ではクツワムシがガチャガチャと奏でていた。

お堂辺りもそうだが、山から降りた県道筋も鳴いている。

そういえば隣村の奈良市北野山もそうであったことを思い出した。

(H26. 9.12 EOS40D撮影)

石川町八坂神社のむかしよみや

2015年04月13日 07時31分19秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市石川町は22戸の集落。

かつては環濠に囲まれた旧村のひとつ。

氏神さんを祀る八坂神社北は環濠であった。

城下町・郡山城に鎮座する柳澤神社に移ったものの、20年ほど前までは春日大社から神職が来られて神事が行われていた。

この日は「むかしよみや」と呼ばれる年中行事。

神社祭祀を勤める上六人衆によって行われる。

公民館横に建つ鳥居は明治四十五年五月吉日に建之された。

寄進奉納されたのは本座の頭屋中。

一方、社殿前に建つ鳥居は古基座中である。

秋のマツリにはそれぞれの頭座中が「トージ(ニ)ン トージ(ニ)ン ウワハハイー」と発声しながらお渡りをして参られる。

「むかしよみや」はそういった賑やかさはみられない。

参拝者もなく、上六人衆だけで祭典されるのだ。

10年ほど前まではマツリと同じように辻ごとに提灯を掲げていたと話す。

「むかしよみや」と呼ばれる行事は石川町だけでなく、市内では横田東椎木山田伊豆七条宮堂八条がある。

天理市では合場

田原本町では八尾八田法貴寺西口垣内で行われているが、いずれも9月であるが稀に田原本町の唐古例もある。

石川町では充てる漢字は昔宵宮。

ほとんどがそうであるが、稀には昔夜宮、或いは充てる漢字もなく「むかしよみや」と称している地域もある。

宵宮と書いている地域もあるが、一様に「よみや」と呼んでいる一夜、或いは一日限りのマツリである。

聞く処によれば、天理市庵治町もあるようだ。

上六人衆が言うには、「かつて旧暦にされていた行事でなかろうか。元々あったマツリをむかしと呼んでいたのでは」と話すが明快な答えはここでも見つからない。

この日の行事当番の人が運んできた御供箱。

ナシ、キュウリ、コーヤドーフ、コンブ、カマボコなどの御供も買いそろえて持ってきた。

器を包んだ風呂敷を持参する上六人衆が参集する場は公民館。

いつもの場で、いつものようにしばらくはお茶とお菓子で歓談をする。

今年の天候は不順。

異様な年であったが、水ツキは発生しなかった。

そういう年の作物の出来は不良。

米の価格も決まったそうだ。

例年よりは千円も安かったと話す。

一俵当たりの単価が下がれば農家を営む人にとっては大打撃。

ドロイモやサツマイモも実成りの評価を口々に話す。

出来、不出来は畑地によって随分と違うらしい。成り話は知人の福住までおよんだ。

ゼンマイは茶畑にあがるものは太くなるという話題まででた。

雨が多すぎたこの年の実成り話しはつきない。

そろそろ始めようかと腰をあげた六人衆。



神饌御供を盛っていく。

三枚の大きな膳は大御膳(おおごぜん)と呼び、小さめは四枚の小御膳である。

まずは、白紙で包んでいた器を取り出す。

御膳と呼ぶ折敷の底にコンブを敷く。

「神饌昆布」の名がついた昆布は市販品。

業務スーパーで売っていた。

そこで出た話題は敷きもののバランやナンテン。

何故にバランやナンテンを敷くのか知っているかと云う。

答えはそれに乗せた御供が毒物を含んでいるなら赤くなるというのだ。

バランやナンテンでなく、食べ物の下敷きに笹やシソの葉を使う「かい敷き」は数多くある。

防腐・殺菌効果の高い材は古来から使われてきたのである。

さて、本題に戻して行事の進行である。

公民館の縁側に調えた大御膳に小御膳。



それぞれを一人ずつ運んで社殿やイワクラに供える。



献饌である。

六人揃って中央の社殿に向かって拝礼する。



次は右に移って拝礼する。

その次は左の社殿に向かって拝礼する。

その次はアタゴサン、オイナリサン、西、東のハツホサンと呼ばれているイワクラに向かって拝礼する。



神事はそれで終わりでなく、三社を時計回りに周回するのである。

いつもなら三周するが、この日は二周。

境内でしばらくは談をとる。



石川町より数キロメートル、東は天理市の楢町である。

万葉集にも謳われた楢神社が鎮座する。

言い伝えによれば、楢神社は石川町から遷した分霊社であるという。

そうであれば石川町のほうが古社になるのである。

春日さん(かつては伊勢天照大神宮)、オオクニヌシ(コトシロヌシとも)、スサノオの三社を祀る石川町の八坂神社は明治時代までは八柱神社と呼ばれていたと話すKさん。

同家には古くから伝わる人員(名)帳が残されている。

それによれば八坂神社でなく八柱神社と記されている。

先代の前の前のもっと前の先代の名がある人員帳。

天保2年(1831年)生まれで安政四年(1858年)に称念寺で相続したとある。

江戸時代は八柱神社と呼ばれていた石川の八坂神社。

廃仏毀釈のおりだろうか、明治時代に八坂神社と改称されたようだ。

先人から東と西のハツホサンは八柱神社の上社と下社だったと聞いているという。

八柱はヤツバシラ、或いはヤツハシラ。

それが訛ってヤツバ若しくはヤツハを経て、ヤツホとなった。

その後も訛ってハツホとなったのであろうか。

「ホ」は「穂」だと4年前に勤めた六人衆は声を揃えて話していたことを思い出す。

ハツホサンと呼ぶ地にはアタゴサンやオイナリサンもある。

イワクラは四つの石造神。

オイナリサン、西、東のハツホサンが境内にあるのは、わざわざその地に行かなくとも神社に参ることで済ませるようにしたのであった。

では、アタゴサンの元の所在地はどこであろうか。

アタゴサンは火伏せの神さん。

火事にならないよう集落を守ってきたのであろう。

推定であるが、アタゴサンは神社付近にあったかも知れない。



それぞれの神さんに供えた御供は持ってきた風呂敷に包んで帰る。

(H26. 9.12 EOS40D撮影)

斑鳩幸前山久のハイカラうどん握り六貫

2015年04月12日 08時19分34秒 | 食事が主な周辺をお散歩
前日は奈良県文化会館で展示された「第12回奈良県美術人協会写真部会員展」。

精力的に活動をされている方々の作品を拝見した。

さすがのプロ集団。

目のつけどころが一味違う。度々お会いする方もおられるが、一年に一度の方も。何年振りかにお会いした報道写真家の方もおられた。

会話が弾んでワイガヤになった展示場。

よく見かける風景写真も多いが、初めて観るハイカラな写真もある。

とらえる視点は勉強になる。

で、この日は「第27回三郷町芸術祭美術展」。

三郷町文化センターで開催されていた。始めて知った美術展はD.A.Nプランニングを主宰されている宮崎一郎さん。

案内状には「宮崎でーす!!又見にきて下さい!!」とあった。

作品の写真を展示されているのだろう。

そう思って拝覧させていただいた写真の部。

なんと審査員を勤めていたのだった。

写真よりも感動したのは受付の会場。壁にあった書の展示。

「今しかない、「なりきる やりきる おもいきる」、「時がくれば花も咲く じたばたすることはない」、「ばかをみてもやっぱり正直が一番」、「雨の日もある 風の日もある」、「人生はいつでもいまが最高のとき」の詞を書で現した作品群。

「そうなんだよなあ」と思って心に刻んだ書の作品もあれば、洋画・日本画に陶芸もある。

幾何学的なワケが判らん画もあるが、何故か感動する心象作品もある。

陶芸は器だけだと思っていたが、そうではない。

造形、印象的な作品もあった展示会の作品目録には選評もある。

一つ、一つ作品を観ては選評を拝読して帰路につく時間帯は丁度昼どき。

斑鳩町から東進する。

左手に見えた食事処、「うどんと寿司」の看板。

株式会社さんきゅうが経営する関西の寿司店だ。

かつてこの場は靴屋さんだった。

倉庫のような建物で販売していた。

何度か買ったこともある靴屋さんはいつしか消えた。

数年経ったころだったか、お店は「うどん寿司」の看板になっていた。

「回転」の文字がないから、一般的な寿司屋さんでうどんもある・・・というような感じだった。

何度も通る国道24号線。

通り過ぎれば機会損失だと思って玄関のドアを開けて入店した。

メニューのほとんどが定食もの。

レストラン街にあるようなディスプレイに並んだメニューにたじろいだ。

引き下がるわけにもいかず、ドアを開ける。

「いらっしゃいませ」の案内でカウンター席につく。

メニューを探す。いつもならワンコイン以内。

今日は特別だと思ってはりこむが千円までとしよう。

そう思って選んだメニューはハイカラうどんに握り六貫がついた定食。

入店した理由の一つは手打ちうどん。

回転寿司ではお目にかかれない。

経営社名は「さんきゅう」だが、入店したお店は「山久」と書いて「やまひさ」と呼ぶようだ。

平成24年3月にリニューアル開店した法隆寺店は幸前にある。

「山久」のメニューは、セット定食だけでなく、一品の握り寿司もあればうどんもある。

カウンター席の向こう側は板前さんがいる場。



握る格好は見られなかったが、寿司ネタが並んでいた。

いかにも美味そうな魚介類がケース内で光っている。

新鮮みを感じる輝きである。

カウンターに運ばれた注文の品。



大きな器に天かすがいっぱい盛られたハイカラうどん。

トッピングは大量の刻んだネギだ。

握り寿司はサーモン、イカ、マグロ、鴨ロース肉、ボタンエビにタイであろう。

一口目はサーモンにした。

たっぷり脂がのっているサーモンには生姜を添えていて、美味い。

イカも食べた。

新鮮な味がとろけるように舌に纏わる。

ハイカラうどんは手打ち。

コシがある麺が喉をぐぐっと通る。

手打ちだから麺の太さは一定していない。

これが美味いのである。

出汁は何だろうか。

もしかとすれば昆布だし、それとも鰹出汁。

私の味覚では決定しない関西風。

つるつるさらいあげる箸は杉。

しっくりと手に馴染む。

杉の箸だから麺はしっかりと掴んでくれる。

うどんをたいらべて再び握り寿司へ移った。

やや大き目のマグロは中トロ手前。

赤身のマグロも美味い。

次は鴨ロースと思われる握り寿司。

肉臭さもなく、添えたマヨネーズであっさり感は丁度いい。

次は頭もついていた大きなエビ。

ぷりぷり感がたまらない。

おそらくボタンエビであろう。

尻尾にも甘み、旨みが詰まっているが、頭はいただけない。

何故か冷凍ものに思えた。

まさか、頭を食べる人はいないだろうと思ってか、飾りだけの頭だった。

最後の口なおしはタイ。

シコシコしたタイで〆た握り寿司に大満足。

満足したのはそれだけでなく、うんどの出汁もある。

舌が馴染んだ出汁の美味さ。

掬っては飲む、掬っては飲むで底まで達した。

どれをとっても美味かった「山久」の握り寿司とうどん。

これなら家人を誘ってもう一度来店したいと思った。

「美味しかった」とレジに伝えた支払いは、現金払いの税込みの896円。

お値段以上に味わえた。

(H26. 9.11 SB932SH撮影)

NaRaFamily6階のたんとと和くらのとろたん定食

2015年04月11日 08時50分00秒 | 食事が主な周辺をお散歩
今日はどこへも行かない返事をしたかーさんの答えはお見舞いの果物だ。

購入すると決めたお店は近鉄電車西大寺駅より北東のNaRaFamily。

親しみを込めて「ならファ」と呼ばれている。

買い物がてらに昼食もということで出かけた。

食事処は京都錦・柳馬場炭火の「たんとと和くら」。

本場仙台の牛たんが味わえるお店はかーさんのお勧め。

仙台名物の牛たんをメインにしている「杜もと」で食べたことがある。

極厚炙り牛たんは美味かったが、かーさんはそれよりもっと美味いというのである。

味を占め覚えた味覚は忘れられない。

もう一度食べたいという「たんとと和くら」は6階のフードレストラン内にある。

店名に「たんとと」とあるように、牛たんとトロ魚が主役のお店。

いずれも炭火で焼いた料理が売り物のようだ。

数多くあるメニューにはお酒の肴に合う一品もある。

夜はビジネスマン、昼は買い物客をあてこんだメニューなのであろう。

案内された席につくやいなや店員さんに頼んだとろたん定食は1490円。

私にとっては極上の料理。

かーさんが出先で食べる金額はごく普通のようだが、私一人では、まず頼むことのない高額商品。

メニュー一覧には1590円のところ、特別価格で1490円とある。

高額商品はさらに上がある。

特上、極厚と銘うったとろたん炭火焼定食は1950円。

これも特別価格の1850円のご奉仕価格。

味にどれほどの差があるか、食べてみなきゃ判らないが、そこまでは求めていないかーさん。

二人揃って同じメニューを注文した。

本場仙台の牛たんの違いをお知らせしている。

厳選した材料は皮剥きし、分厚くスライス。

数日間をかけて仕込みの熟成で、柔らかく風味豊かな牛たんを仕上げたとある。

調理場は店内の格子戸から拝見することも可能だ。

若い調理店員さんが焼きあげた牛たんが膳に盛られて運ばれた。



横から見ても判る分厚さだ。

香ばしい匂いがテーブルに漂う。

炭火焼きとは書いてなかったが、明らかに焼き目がある。

定食には出汁で溶いたとろろに麦めしがつく。

汁物はおそらくテール肉のスープであろう。

香物の白菜漬けもあるご飯の盛りは大・中・小を選べる。

私は中で、かーさんは小を頼んでいた。

椀の大きさは明らかに違うが、盛り量はそれほどでもない。

店員さんが言った。

「麦めしとスープはお代りができます」である。

最初に口にしたのはスープ。

濃い目の味である。

こってりでもなく透き通るような味ではある。

底に沈んでいたお肉は柔らかい。

溶けてしまうような柔らかさだ。

漬けものはあっさり系でさっぱりしている。

麦ご飯を口に入れる前に食べた牛たん。

ぎゅうっと噛んだ。

じゅわっとほとばしる肉味。

牛たんだと思ってかみ切りたい。

ところが切れない。

歯でかみ切ることができないのだ。

見苦しいが箸で引っぱってみた。

ぐいぐい引っ張っても切れない。

なんだかおかしいと思った牛たん。

切れずに一枚丸ごと口に放り込んだ。

ぐにゅぐにゅ感の肉。

柔らかく焼いた結果なのであろうか。

噛んでも、噛んでも喉が通らない牛たんがちっとも小さくならない。

ぐにゅぐにゅしている間にかーさんは数切れの牛たんをたいらげる。

私は選んだ右端の一枚目の牛たんに難儀していた。

同じ厚切りなのだが、どうもおかしいのである。

数分間もかかった牛たんは大きなまま無理やり喉を潜らせた。

添えつけの野菜サラダを食べる。

これもあっさり系のコールスローや漬けものをおかずに麦めしを食べる。

味わいは次に移って、出汁とろろをかける。



とろとろの麦めしはつるつると喉が通る。

麦めしは堅めでもなく、柔らかくでもなく美味いのである。

一枚の牛たんを食べるのが怖くなったが、もう一枚。

これも同じ食感で、ぐにゅぐにゅ。

またもや切れ味悪い牛たん。

一枚目と同じように難儀して喉を通らせた。

皿に盛られた牛たんは七切れ。

あと5枚もある。

先にとにかく喰ってしまえと思ってサラダ、漬けもので麦めしとろろを味わう。

恐怖の牛たん喰いは3枚目、4枚目も同じだ。

かーさんはとっくにたいらげていた。

ところがだ。

5枚目はザクっと難なく切れるのだ。

歯ごたえもあって美味さもある本来の味。

牛たんはこれでなくちゃと、思うが、次の一枚は元に戻るのだろうか。

これほど食べるのに苦労するのは初めてだ。

箸も進まない牛たん定食。

心配していたが、6枚目、7枚目とも美味かった。

おかわりスープも欲しかったが、頼まなかった。

支払いはクレジットカード。

消費税を入れて3218円だった。

レジの店員さんにこの日の味わいを伝えたが、「そうでしたが、申しわけございません」の一言だった。

恐怖の牛たんが恐ろしくなって、2度と行かなくなった。

(H26. 9. 9 SB932SH撮影)