マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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櫟枝のごーさん札

2015年04月05日 07時56分46秒 | 大和郡山市へ
行事の名称を聞きそびれていた大和郡山市櫟枝町のマツリ。

かつては9月15日であったが、昨年はそれより早い第一週目の日曜日だったと聞いている。

もしやと思って出かけたが八幡宮にはどなたもおられなかった。

乗っていたトラクターから男性が降りられた。

行事のことは村の人に聞けば判ると思って尋ねた。

宮さんのお渡りはあるにはあるが、隣村の新庄町のような和装でもなく普段着。

随分と簡素化したと話す。

トーヤの家から出発して宮司が神事を執り行われる。

トーヤについていくのは4人の手伝いさん。

なんでも年長者から一老、二老、三老、四老の呼び名があるそうだ。

そうであれば「座」の存在であるが、あくまでもマツリの主役はトーヤさん。

これまで拝見した県内各地の在り方から考えれば主客転倒したのではと思った。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば櫟枝町には宮座は「なし」と書かれていた。

座の在り方はすでに退廃していたのであろう。

話しをしてくださったNさんは75歳。

若い時から村の農業委員を勤めてきた。

神社の事情も詳しいが息子さんなど若い人たちに後継を譲ったという。

座の饗応にも参加をせず、お渡りが着くころに神社へ寄るだけにしたという。

隣村の横田町は150戸もあるが、櫟枝町は25戸の集落。

嫁入りも葬儀も家内で行っていた。

今では簡素化され、念仏講が営む7日タイヤの数珠繰りやご詠歌もすることがなくなったという。

時代とともにかわった生活文化の流れである。

農業を営むNさん所有の作業場。

ここには知り合いの人が集まってたむろする場。

いろんな人が交流する場でもある。

県立民俗博物館にはかつて所有していた竃を寄贈したことがあるという。

何らかの展示に寄贈した竃があったそうだ。

竃には煤がつく。

それを版木で摺るごーさん札の墨にしていた。

煤のごーさん札は2年前の苗代で拝見したことがある。

そんな話をすれば、2階に残していると案内してくださる。

1町7反もの田んぼがあるから苗代も2カ所。

そういうわけでごーさん札は2本授かっていた。

年々減らした田んぼ。苗代田も減らして1本にした。

「よかったら貰ってくれるか」と云われて2本のごーさん札をいただいた。

ひとつは墨汁で摺った札。

もうひとつは煤を混ぜて摺ったお札である。

今年の苗代田で拝見したごーさん札は墨汁であったが、2年前は煤を混ぜたお札であった。

札を広げて見るわけにもいかなかったので、お札の文字は判らなかった。

いただいたお札を広げてみれば、中央に「八幡宮」。

右が「牛□」で左は朱印を押した「寶印」である。

2年がかりで判明した櫟枝のごーさん札であった。

版木は何年間も使っているから一部分が欠けているように見える。

煤を混ぜたお札も拝見した。

これにははっきりと文字が判るが、「牛玉(若しくは王)」にあたる「玉」は文字ではなく寶印のような形に見える。

2階にはもっと面白いものがあると見せてくれたのは、昔ながらの雨具。

藁製の蓑(みの)である。

跳ねておらず、太さもある稲のような藁が何本もあるように見えたので棕櫚(しゅろ)ではなく、萱の茎ではなかろうか。

また、かつてカドボシに敷いていたミシロ(ムシロ)も残されているN家の民俗調度品。

学芸員に伝えたくなった。

隣村の横田町は郡山藩。

市内の東側はほとんどが郡山藩であるが、西は片桐藩。

櫟枝は高取藩であったという。

(H26. 9. 6 SCAN)