マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大柳生・吐山・篠原「大和の太鼓踊り」の講演と体験ワークショップin奈良県立図書情報館

2016年09月27日 10時08分25秒 | 民俗を聴く
忘れないように書き込んでおこうと思った講演会と体験ワークショップがある。

奈良県立図書情報館で行われた一日限りのイベント。

奈良県内の大柳生・吐山・篠原で行われている「大和の太鼓踊り」をテーマに開催された。

このイベントを知ったのはたまたま登場したFBのイベント紹介である。

どういう関係からこれが登場したかは判らないが、主催に「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」がある。

この実行委員会の存在は存じていない。

いつできあがったものかも判らないし、何をしているのかも判らない団体である。

ここに並列表記した(事務局)に「奈良県教育委員会事務局文化財保存課」の課名がある。

記されていた電話番号も課の番号である。

イベントタイトルからでも判る大和の伝統的な民俗行事の太鼓踊り。

大柳生は奈良市東部山間にある大柳生。

吐山は旧都祁村にあった現奈良市都祁吐山町。

篠原は旧大塔村の篠原。

現在は吸収合併した五條市内の大塔町篠原である。

イベントチラシに「県内では45もの祭りや行事が、国や県の無形民俗文化財に指定されています。今回は、“太鼓踊り“をテーマに3地域を取り上げました。”頭“と”体“を使って地域と文化財を知る、感じる、つなぐ、きっかけになればと思います」と書いてあった。

第一部は“広く知る“に「大和の太鼓踊り~風流踊りという芸能~」をテーマに元京都学園大学准教授の青盛透氏が語る基調講演がある。

第一部のもう一つに”それぞれを知る“がある。

前述したキーワードに挙げている大柳生・吐山・篠原、各地域の太鼓踊り映像で観て地域の人から話しを聞く、である。

第二部は各地域の太鼓踊りを教わって一緒に体感してもらおうというプログラムだ。

協力に大柳生町自治会、吐山太鼓踊り保存会、篠原おどり保存会のみなさんが登場する。

共催は奈良県立図書情報館。

今回のイベント資料に太鼓踊りや奈良県の指定無形民俗文化財に関連する図書館所蔵リストが配布された。

研究者にとっては調べる手がかりになりそうなリストであるが、ここでは省く。

到着したときはすでに講演会が始まっていた。

後方にビデオ収録していた二人は顔馴染み。

頭を下げて静かに席につく。

そこで気がついた筆記用具。

メモを残すに必須アイテムが要る。

ボールペンを忘れたことに気がついたが、遅し、である。

頭の中に映像や語りを残そうと思っていたが、帰宅して数か月も経過すれば真っ白。

残ったのはケータイ電話で撮った体験ワークショップの様相である。

篠原おどりは講演会会場。

持ち込まれた太鼓とバチがある。

そこには艶やかに舞う女性陣が使う扇だ。

太鼓は10張。



その中に古くから使われてきた太鼓がある。

じっくり拝見する余裕はない。

太鼓を打つ人は床に座る。

後方には扇を手にして舞う。

篠原踊りの艶やかさはここにあるが、太鼓を打つまでの体験だけに太鼓役は座って打つ。

足の振り付けはないが、長老が唄う篠原踊りの唄が哀愁を帯びていた。



その場に居た人物はどこかでお見かけしたことがある。

名前が思い出せない。

もしかとすればと思って声をかけたら川上村東川在住のMさんだった。

実に9年ぶり。

平成18年9月18日に訪れた烏川神社の豊穣祭の千本杵以来である。

千本杵で餅を搗く際に唄われていたご仁である。

「めでた めでたの 豊穣の祭り ソリャー豊穣の祭り イョー みなの幸せ ソリャー祈りましょ おもしろや」とおめでたい言葉が連なる伊勢音頭の囃し歌だった。

この場に来られていたのはたぶんにご招待。

東川には大きな祝いごとにしか登場しない太鼓踊りがある。

私が取材した日は平成17年11月13日

東川では古典太鼓踊りと称していた。

太鼓踊りのつながり関係で来館していたのであった。

9年ぶりにお会いしたMさんとは年賀状でやり取りをしていた。

その賀状に書いてあった川上村のビッグイベント。

話しを聞いて納得した土蔵生誕百年祭である。

体験ワークショップは篠原だけでなく大柳生もある。



踊り演舞は場所をとる。

他地域に影響を与えることなく一室離れた場で行われた。

自治会長自らが演じる足腰。

イチ、ニー、サーン、シーと数えながら跳びながら移動する。

太鼓を胸に付けての踊りはそれが慣れてからだ。

もう一つの団体は館の外庭だ。

チャンチャチャチャンの鉦の音にドン、ドンと打つ太鼓。

足さばきは身体ごと左右に動く。

シデ振りと太鼓打ちは中央で行われる。



民俗行事を丹念に追いかけて写真を撮っているTさんも体験していた。

ところで青盛透氏の講演語りである。

メモがないからまったく思いだせない。

配布された資料を紐解く。

と云っても書き写している間に思いだせると思って書きだした。

資料のタイトルはコラム②の「“風流”と“風流踊り”」である。

前年の平成27年11月3日に取材した行事がある。

それは奈良県ではなく京都府南山城村で長く伝承されてきた田山の花踊りである。

現地で拝見した踊りは奈良県内の太鼓踊りとは異なるものだと確信した。

主に三重県に伝わる太鼓踊りは服装も所作も異なる。

敢えていうなら奈良市月ヶ瀬の石打で行われている太鼓踊りが近いと思っていた。

石打は三重県寄りに近い地域。影響を受けたことは当然であろう。

田山の花踊りを調べるに、一般公開されているネットを駆使して探した。

見つかったのは「三重県インターネット放送局」が公開している三重県内の伝統行事である。

そのすべてではないが、一部にカンコ踊りとかを解説していた断片的な報告書が添付されていた。

執筆者にこの日語りをする青盛透氏や植木行宣氏、鬼頭秀明氏、長谷川嘉和氏らの名がある。

取材地によっては㈱CNインターボイス社がまとめた報告書もある。

これらは「平成22年度ふるさと文化再興事業地域伝統文化伝承事業」の報告書の一編である。

地域的な伝承はコラム②にも書かれているから読んで欲しいし、県内で民俗行事を写真でとらえている写真家は特に拝読して欲しいと思うのだ。

質問した内容はメモも捕っていないのでまったく思いだせないが、青盛透氏の回答は「女装は間違いなく風流である」と云ったことだけが記憶にある。

“風流”は“ふうりゅう”でなく、“ふりゅう”と呼ぶ。

コラム②によれば「貴人に下賜(かし)された装束や道具の豪奢な飾りの意味があり、そこから趣向を凝らした造り物、仮装行列、また、それに伴う歌や踊りの意味として用いられた。

大治四年(1129)六月十四日条にある『長秋記』。

美麗な飾りの意味であり、芸能そのものではなかった」。

「鎌倉期、平等院で催された延年風流に大がかりな造り物があった。院政期からか鎌倉期の祭礼に、山鳥の毛をつけた笠を被り、装束を着たきょうの町民や郊外村民が領主や貴人宅を訪れて歌舞を演じていた」。

寛喜二年(1203)七月七日条の『名月記』である。

このころの風流は「歌や舞が伴う囃子物。芸能風流はプロの集団ではなく素人の手による芸能であった」。

室町期、さらに広がる風流は正月の松囃子、盆の念仏風流、雨乞い風流、・・・季節の行事、信仰とは関係なくあらゆるものに付随するもになった。

戦国期には歌謡小唄を組み合わせた踊り唄も。

唐織物の小袖で衣装を統一した踊りが登場したことを書いているのは大栄元年(1521)七月十四日条にある『春日社司祐維記』だそうだ。

風流踊りに特化したものが女装。

京都、奈良、大坂などの都市部に流行。

これがいわゆる“風流踊り”であると氏が伝える。

こうして講演や体験ワークショップを書き残していたら、ふと思いだした。

青盛氏に質問した内容が頭の中に湧いてきた。

京都府南山城村の「田山の花踊り」に登場する「唄付」である。

唄付は「フクメン」の女装化であった。

(H28. 3.26 SB932SH撮影)

第16回光匠会写真展in入江泰吉奈良市写真美術館

2016年09月27日 09時47分27秒 | しゃしん
つい先日お会いした元上司は婦人とともに写真クラブを運営されている。

会員の一人は堺で勤務していたときの職場仲間の人だ。

当時、仕事を終えて写真の講評をしてもらっていたのがそのときの上司だ。

写真展は毎年の案内状で通知される。

今回で16回目になる光匠会の写真展も昨年同様の入江泰吉奈良市写真美術館の一班展示室で開催される。

私はといえばカメラのキタムラ奈良南店で「食を干す」テーマに8枚組で展示している。

それを見てくださっていたご夫妻には身体のことで心配をかけた。

近距離、かつ単独運転の条件で許可されたことを伝えるためにも出かけたかった写真展だった。

会場は階段を降りて右旋回する場にある。

左は入江泰吉奈良市写真美術館本展の受付。

そこに見慣れた人が立っていた。

5カ月ぶりにお会いするKさんだ。

5カ月前は撮影を依頼された村行事のゾークを撮っていた。

そのときにお会いしたときは脈拍が110拍になっていた。

神社手前の若干の坂道を登るのが困難だった。

足が動かないというか、上がらないのだ。太鼓台の巡行を撮りたかったが、追いつけなかった。

そのときの様子は判らなかったというKさんは前回のゾークの状況をかすかに覚えているようだ。

それはそれももっと賑わっていたという。

祭典もそうだが、ゴクマキの量がとにかく多かったという年代は高校生。

隅から隅までの記憶はないらしい。

12月にアブレーション処置をした今の身体の脈拍は一挙に下がって40拍前後。

民俗行事の取材は自宅近所の3行事ぐらい。

10日ほど前に取材した村行事のオコナイに道具になる植材が変化していると話した。

オコナイに登場する植物は牛玉杖(ごーづえ)や乱声の叩き棒などだ。

護岸工事でカワヤナギが全滅して行事の材を変更せざるを得なかったという地域もある。

こういう状況に陥っている地域は増えつつある。

有名な東大寺・薬師寺などの大寺においても同じような現象が起きている。

村行事であれば、自然に生えた植物であっても村の人が採取するだけに集めやすい。

地元の自然は地元の人が詳しい。

山間の村であれば、山入りする人が生えている植生状況を知り尽くしている。

平坦ではそういうわけにはいかない。

取材地で話題にでる時期的な植生に松の木がある。

門松に立てる松はオン松にメン松の二揃い。

これを入手するのが難しくなって植木屋に頼む時代になっているのも現実だ。

調達できなくなって道具の材が代わる。

代替で継承する時代が長ければ長いほど変化の要素を忘れ去る。

こういう代替は文書化をすることがない。

口頭で引き継がれていくのが常である。

例えば長老が切り替えた状況を認知していたとする。

或はやむなく切り替えた植材を採取した人がいるとする。

だいたいが、その役目を担うのはトーヤさんだ。

トーヤの引き継ぎ書にそう書いてあれば後継者に伝わり、村の歴史が物語れるのだが、口頭の場合は記憶も曖昧になり、何十年も経過すれば代替わりで記憶は消える。

今日継承されている村でも、なぜにこの道具の材であるのか尋ねても答えは「判らない」である。

人の手によって変化をもたらせた植生の影響で行事やマツリに必要な道具が代替化する。

場合によっては道具そのものが廃止になった事例もあるやに聞く。

東大寺二月堂の修二会行事は講社(仁伸会・山城松明講・江州紫香楽一心講(フジヅル)・庄田松明講・伊賀一ノ井松明講・百人講・河内仲組・河内永久社・朝参講など)と呼ばれる組織の人たちが集め、運び込まれた道具の材料寄進によって支えてこられた。

松明の支柱になる真竹は入手しやすいが、一心講のようにフジヅルやタラ、ホウの木などある程度、植生範囲が特定地域にしか生えない植物を寄進する講社もある。

自然の恵みが変化し、入手、調達が困難になってくればどうするのだろうか。

難しい課題を抱えている。

考えさせる将来展望の長話に終わりはない。



ここらで一旦はお開きして光匠会写真展会場に移動する。

迎えてくれたのは前述したご夫妻だ。

その後の身体状況を伝えて、早速拝見する。

作品をひと通り見て回る。

気にいった作品があった。

一つは「火伏せ」。

もう一つは「雨の永平寺」だ。

その他にもいいなと思った作品がある。

「神代の音」、「リズム」くらいかな。

強烈な印象を受けたのは入口を入ったところに展示していた三枚組の「火伏せ」だ。

どの写真にも「水」の文字がある茅葺家屋をとらえた作品だ。

火災に見舞われないように屋根付近、三角部分の壁にある妻飾りの破風(はふ)文字は「水」。

それだけで消火機能は果たすこともない「水」の文字はまじない。

妻飾りの原型は火除けまじないの懸魚<げぎょ>)である。

作品の中央に配したのは大きく取り上げた妻飾りの「水」文字写真。

左右の写真は茅葺民家の屋根の内部をとらえていた。

「水」の文字は空洞。

白抜き文字のような感じだ。

屋根の内部は光がなければ真っ暗だ。

S暗闇のなかにぽっかり浮かんだ「水」文字。

外光を浴びた「水」文字は光が直線に伸びて屋根の下。

つまり天井板間へと繋がる。

光が当たった先には藁束が積んである。

そこに写りこんだ文字が「水」だ。

もう一枚も同じような感じだが、挿し込む光跡をうまくとらえている。

一般的に茅葺民家を撮影するには外しかから撮ることはできない。

作者は民家住民の許可を得て天井に登ったのであろう。

民俗的景観を表現した「火伏せ」の写真に感動したのであるが、「住」テーマの一つと思っていたものがガラガラと崩れた。

感動ものの写真はもう一枚。

「雨の永平寺」である。

雪か雨か判らないが、流れるように降り注ぐ状況の奥に僧侶が動く。

その場は楼門である。

霞むというか古風な色彩で描かれる絵画的手法の作品はどういう具合に撮ったのだろうか。

気になって作者に求めた。

細かく落ちる点々は雨。

その日は土砂降りだったそうだ。

流れる点が伸びる。

落ちる速度とシャッタースピードと相乗効果、とでもいった方がいいのか。

手前に流れる滴が点々の列で描かれる。

一直線に落ちる形跡は屋根から流れる溢れた雨滴だったのだ。

逆の方を向いて撮っていた。

僧侶が歩く気配を感じた瞬間に振り返って思わずシャッターを押した。

ゆえにピントを合している間もなかったという。

三脚もなく手持ち撮影。

ブレもなく、斜め感もなく、ぴたりと位置する水平状態を保った作品に圧倒された。



写真はいずれも光匠会代表からいただいた飲み物券が利用できる入江泰吉奈良市写真美術館の喫茶ルームでとらえたものだ。



展示された写真を拝見した印象が記録にのこればと思ってシャッターを押していた。

(H28. 3.12 SB932SH撮影)