Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「ブロの道」ウラジーミル・ソローキン

2016-09-13 01:44:09 | book
ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)
クリエーター情報なし
河出書房新社


ソローキン「氷三部作」の一つ目を読みました。
執筆順では2番目、作品の時系列では1番目ということなので、
悩んだけど『ブロの道』から読み始めることにしました。

一貫して主人公であるアレクサンドル(=ブロ)の視点で語られていて、
語り口も起伏はあるものの重く沈着した感じ。

内容は奇想を孕むものの、小説らしい小説となっていて、
ロシア文壇で批判、論争が起きたというのもよくわかる、
ソローキンらしからぬ作風。

『氷三部作』が「心」への回帰を匂わせる点に対して、ポストモダン的批判が寄せられたのだが、
ソローキンは批判に対して「いつもと異なる方面から自分たちを見るという直感的な試みの一つに過ぎない」と反論し、
また汎テキスト的な視点にある批評家や学者を批判している。

この批判は2つのベクトルを持っているように思う。
ひとつは「作者の死」を前提とするポストモダン的、コンセプチュアル的な方法や観点の閉塞感への挑戦。
もうひとつは、「作者の心」、形而上学的なスタイルへの「回帰」を、あたかも魂を売り渡したかのように捉え
批判を向ける考え方の不自由さの指摘。

ソローキンは実践者として、19世紀的な主観的な方法もまた、
それを否定するコンセプチュアル的な方法と配置できるものとして、
可能性を広げるツールとして用いることで、ポストモダンが新たに提示してきた
「枠」をさらに乗り越えようとしているのだろう。
そのある意味相対主義的な態度が、作品が提示している「心」の文学の「真剣さ」を
疑わしいものにしている、というさらなる批判を生んだとのことだが、
その批判こそがまさに近代的な発想に止まっているということになるだろう。

****

「ブロの道」の中身だが、つい最近たまたま某所で某氏とツングース隕石について
与太話を交わしたところだったので、その偶然に驚いたりしているわけです。
読むべき時に本書を開いちゃった感あり。

某氏とは、ツングースカ川に行ってみたいもんであるとか話したんだが、
ロシア通の彼も現地に行くのは熾烈を極めるだろうと言っていた。
本書前半でもその熾烈な探検の様子が描かれている。
観光地化してくれないかなロシア政府。

中盤からは、宇宙の起源に源を持つ光の一族が同族を探す物語になっていくのだが、
現実的な熾烈さは引っこみ、世界から23000人を探し出すという途方もない企ての割に、
ご都合主義的にとんとん拍子に事が進む感じ。

それも、一族の超越的な視点から、ツングース事件以降のヨーロッパ史を冷徹に俯瞰するという
意図からもたらされたものだろう。
特に途中主人公たちが「心の眼」で世界を見るようになってからは、文体から若干の変化をして、
徹底的に世界を突き放して見るようになる。

普通の人間たちはもはや「肉機械」呼ばわりだし、ドイツ語を話す肉機械の国で、
強烈な思考を持ち人前で大きな声で話すのが好きでたまらない1つの肉機械が権力を握り、
先祖がその国に住んでなかったというだけで他と変わらない肉機械を迫害し始めたみたいな書き方になってくる。
徹底的な俯瞰。

一族にしても、仲間に対する愛は宇宙規模で深いのに、人間たちに対する愛情は欠片もない。
無常で無情の人間の歴史の上に、無情な一族のネットワークレイヤーがかぶさっている。
この先一族は、人間は、どうなっていくのか。次は『氷』を読むよ〜。


コメント
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