Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

トム・ティクヴァ「マリアの受難」

2007-04-20 01:22:46 | cinema
マリアの受難

1993ドイツ
監督・脚本・製作・音楽:トム・ティクヴァ
脚本:クリスティアーヌ・ヴォス
撮影:フランク・グリーベ
音楽:クラウス・ガーターニヒ
出演:ニナ・ペトリ(マリア)カティヤ・シュトゥット(16のマリア)ジュリアン・ハイネマン(10のマリア)ヨーゼフ・ビアビヒラー(父)ペーター・フランケ(夫)ヨアヒム・クロル(ディーター)


大上段に振りかぶってみたり細部に拘泥してみたりあることないこといじくって理屈をこねたり誤読に意訳を重ねてあらぬ方向へ妄想を駆り立ててみるのが映画を見る楽しみであったりするわけで、時には誤読の方が面白い映画なんかもあったりするのもまた面白く。
とはいうものの、どんなに屁理屈のエンジンをふかしてみてもその先へ先へとどんどん疾走して追い付けない映画というのもあるもんで、そういう映画ほど実は好きだったりもするし。
で、「マリアの受難」はそうそう追い付けない先回りの映画でありました。

原題はDie Toedliche Maria(oはほんとはウムラウト)
ディー・テートリヒェってのは、ドイツ人にとってどういう語感なんだろうなと前から知りたいと思っている。普通に訳すと「死すべき運命にある」「瀕死の」てなことだろうと思うんだけど。80年代に活躍したドイツのグループDie Toedliche Dorisは、いつのまにか「致死量ドーリス」という訳が定着しているみたい。なんかきっともっと独特な感覚を呼び起こす言葉なんだろうと勝手に想像する。


【この先、極度にネタバレしそうです!!】


で、この映画、見方によっちゃ割と深刻だけどありがち?な見方もできるよな。
「精神の死」は社会の弱い所にひずみとなってやってくるけれど、その一つの切り口は「女性」ってことで。(ありがちでしょ?)

マリアという女性にあてがわれる極端な孤独と労働。
小さい時は変に親に囲われて、母の不在ということもあって父親の屈折した愛憎の対象となるし。
長じて思春期を迎えても当然父親の理解なんか得られないし、家事ばかりやらされる毎日。
しまいにゃ半身不随となった父のツライ介護も加わって。
結婚相手も父にあてがわれていわれるまま。セックスも愛情なんかないし。

友だちはおばにもらった怪しげな木彫りの人形だけ。人形に宛てて毎日手紙を書いてはしまいこむ自家発電の日々。
向いに住む怪しげな男とちょっとしたきっかけで仲良くなっても、それは日常を打開する光明なんかじゃなくて、変に解放されたリビドーが異様な妄想に加担する一方。

そんなマリアがいきなり破水!妊娠もしてないのに。と思ったら産み落としたのはなんと10代の頃の自分自身。なんだよ、新しい生命すらもまた、同じ道を歩む「死すべき運命の」子なのか??

結局この愛なき世界のひずむ所、精神の死の再生産を繰り返すだけなのだぁ~??

***
10代のマリア

***

・・・という社会派的テーマで実はこの映画終わらないのだ~

死の再生産から抜け出す契機は、急激に訪れた自分自身との出会いにある。
一つは、自分で書きためた膨大な手紙をクローゼットの裏から取り出してみたこと。怒濤のように忘れていた過去の些事の嵐がマリアに襲いかかる。これで自分自身が客体として現れる一方で、鬱屈した精神の方は徐々にはみだしにかかり、あらぬ夢となってマリアに寝汗をかかせることになる。
もうひとつは、件の人形との濃密な共犯関係が形をなしてくること。人形は、マリアの古くからの話し相手、友人という関係から、その人形に隠したヘソクリを夫に盗み取られることを契機に一心同体の存在となり、やがてマリアを懐妊させる男性器となり、ついには夫の殺害の共犯者とさえなるのだ。

この自分との出会いは、外面的なカタストロフをもたらすが、精神においては解放をもたらしたということなんだろう。破滅と解放の両方を生きた瞬間、彼女の涙に海の波の音がかぶさり、窓辺でえもいわれぬ光に包まれる。あのラストへ向けてのシークエンスはなかなか感動的である。

で、このままマリア昇天・・と誰もが思ったであろう次の瞬間、なんとまあ、マリアの死は成就しないのである(おっと!)
こ・これは?
破滅した現実の中を、解放された精神で生きよ・・ということなんだろうか?
それはそれでなんと過酷な・・・?

****

****

・・・などというたわごとは軽~く追い抜いて、この映画は突っ走っていってしまうのだ。

細部が徹底して面白い。
時計のカッチンと針が動くアップや、
ペーパーフィルターのコーヒーにお湯を注ぐ超アップとか、
親父の部屋のシーンでは必ず妙なドローン音が律儀に欠かさず入るとか、
母の死の場面のストロボ効果とか、
1カット毎になにかしら普通でない。
こういうところにも、先回りするパワーの秘密があるに違いない。

スタイルも手法も全然違うけれど、モノへの異常なまでのクローズアップはシュヴァンクマイエルに、最後に人形を洗うシーンのような明示されないおどろおどろしさはリンチに、時計の音や人のささやき声は実相寺に、それぞれ通じるモノがあった。

光も音響設計も凝っている。
1993年、28歳でこんなしっかりした映画を撮る若者がいたとはね~
「パフューム」よりも監督の資質がはっきり出ていると思った。
「ラン・ローラ・ラン」も観ないといけないな。

10歳のマリアも16歳のマリアもとてもよかった。10歳のあどけなさ16歳の不安定さをしっかり表情だけで表現した。ジュリアンの口元のできものとかカティヤのそばかすだらけとかそういう細部が絶妙だよ。


パンフが洒落てるのさ。
ちょと高いけど。


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2 コメント

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シュヴァンクマイエル風 (かえる)
2007-04-20 12:38:06
こんにちは。
再度のコメントをありがとうございました。
本作をご覧になっている方は少ないので嬉しいです。
そうそう、シュヴァンクマイエルを思い出しますよね。
確かに、リンチっぽくもありますね。
物語の解釈はうまく言葉にできなかったんですが、感覚的にはとても気に入った作品でした。
トム・ティクヴァ作品は日本で観られるのものはみんな観たのですが、それ以降の作品とはテイストが違っていた感じです。
ディテールがとてもいいですよねぇ。
返信する
そうそう (manimani)
2007-04-20 19:00:15
☆かえるさま☆
かえるという名前はなんだかいいですね~

グロテスクのベクトルがシュヴァンクマイエルっぽいのだと思いますね。虫のコレクションとか。
音の出るモノにぐ~っと寄っていくところなんかがリンチっぽいなと思いました。

そうですか他の作品はテイストが違うんですね。確かに「パリ・ジュテーム」ではぜんぜんグロくありませんでしたし。
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