Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「処女の泉」イングマール・ベルイマン

2013-08-18 03:39:42 | cinema
処女の泉JUNGFRUKALLAN
1960スウェーデン
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウッラ・イーサクソン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:マックス・フォン・シドー、ビルギッタ・ペテルソン、グンネル・リンドブロム、ビルギッタ・ヴァルベルイ ほか



『野いちご』とは違って物語はいたってシンプル。
しかし主題は信仰という形而上学的なもの。
北欧におけるキリスト教という独特な事情を背景に、農村の家族に起こった悲しい出来事を軸に、信仰の力や虚しさを叙事的な筆致で描く。

そこでの主題は旧約聖書ヨブ記を思い起こさせるものがある。信仰に篤い家族の中で、無垢な魂を象徴するような娘が、悲惨な仕打ちを受ける。なぜのこ家族に試練がもたらされるのか。
どんなに信仰があっても神は試練を与えるのか。

しかし映画はヨブ記とは違い、試練が与えられる理由などには一切触れることはない。娘を手にかけた連中を知ると、父親は水垢離をした後、彼らを手にかける。神の教えに反し、仇をとり人を殺める。
父親は娘を失ったこととともに、この殺人についても苦悩する。(父親が殺した3人には子供も含まれている)

この二つの苦悩に対する神の答えはただ一つの現象である。
そこには明確な意味付けもない。ただ神が答えたということだけが明らかである。

信仰やそれに対する不実の結果は、決して俗世の利益や損失としてわかりやすく打ち返しがあるようなものではないのだ。
神は不可知であり、不可知の領域との関わりにおいては、人はただ現前するものに対して対処したり受け入れたりする他はなく、理由や論理とは違うところで理解するしかないのだ。
というような、すこしレム的な主題を宗教に絡めたもののように思えた。

***

特に娘が襲われるシーンでの演技は迫真で、多分当時にしてはすごく大胆で暴力的な描写だったのではないかな。
襲われた直後に娘が呆然と数歩歩く足取りと表情がよかった。
(襲われるシーンは日本公開時はカットしてあったそうだ)


北欧の神話との絡みもあるところがまた深みを与えている。
処女に対する者として登場する妊婦は、未開・異教の象徴である。
彼女が北欧の神オーデンに厄を祈る冒頭と、そのことを後悔する後半、そして彼女か成敗されることなく許されるところなど、この映画のもう一つの流れを作っているように思える。


@ユーロスペース

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2 コメント

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極限の世界観 (pfaelzerwein)
2013-08-18 17:43:57
この監督は子供のときから最も気になって仕方の無い映画を作っているのですが、実際に見ているのは小数です。最近、ネットでダウンロードできたのが、「野いちご」とこれで、「沈黙」はまだ探せていません。

野いちごはその生死感などが、子供のときからとても気になっていたのですが、最近この歳になって見ると、監督もそのときは十分に若かったのだなと感じました。後年の作品のそれとは少し違うかもしれません。それに比較すると、この作品は監督の若い視線も活きているような気がしました。

兎に角、この監督作品は私にとっては最も違う世界観を垣間見せてくれて、その北方プロテスタンティズムか体験させてくれるに十分です。あのトコトンまで行った福祉政策も、増えた自殺者数も、これらの映画を観るととても納得できるもので、ある意味極限の世界観をここに観ることが出来るかと思います。スクリーンを司る第三の視線のようなものが、TV作品においてもこの監督作品の特徴ですね。
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北欧的 (すた)
2013-08-19 01:20:31
☆pfaelzerweinさま☆
コメントありがとうございます。
本作と『野いちご』『第七の封印』は今回デジタルリマスターされての公開ということで、遠からずDVD/BDでの発売があるだろうと思っています。

『野いちご』に若さを感じるのは同感です。主題にかかわらず。北欧的な何かが充溢していることも感じます。ドライヤーの『奇跡』などにも雰囲気が似ていると思います。
他の作品も観てみたいです。
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