パラダイス・ナウ
2005フランス/ドイツ/オランダ/パレスチナ
監督:ハニ・アブ・アサド
脚本:ハニ・アブ・アサド、ベロ・ベイアー
出演:カイス・ネシフ(サイード)アリ・スリマン(ハーレド)ルブナ・アザバル(スーハ)アメル・レヘル(ジャマール)ヒアム・アッバス(サイードの母)
うまく言えないが、人には人それぞれの事情がある、というのが世の真理で、一人として同じ事情をもった人間というのが存在しないであろうことは、ちょっと考えるだけでわかろうというもの。
そのうえ、ひとりの事情だって大義名分から個人的なものまで、いろいろなものの集積なのだ。
だから人の世は無数の異なる事情からなる巨大4次元モザイク構造体なわけだ。
でも世の中をとらえようとする時、モザイクをモザイクのままとらえるというのは大変難しく、面倒なことなので、ついついモザイクが織り成す大きな模様とか色の偏りなんかを見つけては、全体をとらえたかのように思って自分を納得させてしまう。
でもそれはモザイクそのものではなくて、モザイクについての像なのだ。
もちろん、モザイクを全部まとめてモザイクのまま受けとめることなんてことは人間にはほぼ不可能に思える。世の中を知るにはなんらかの像によるしかないのだろう。
ならば、どうせならその像は4次元構造をしっかり感じさせてくれるものであって欲しいし、多様なものならその多様性をしっかり伝えてくれる像であって欲しいのだ。
*****
で、と、「パレスチナ・ナウ」は2005年のパレスチナ人というモザイクを、その構造も欠片のひとつひとつもいっしょくたに伝えることのできる像を作ろうという試みである。
パレスチナをめぐる像というのは、日本では(というと大きく構え過ぎなら自分自身のこれまで持っていたイメージでは)しばしば大くくりな、大雑把な、悪く言うならステレオタイプな、無批判な、像だっただろう。
アラブ、イスラム、西欧に対する他者、信仰心、過激派・・
典型的なのはいわゆる「自爆テロ」に対する反応で、狂信的/非人道的な犯罪ととらえるのが日本のマスコミが主導する像である。
(「自爆テロ」という言葉自体、事情を安易に解釈した結果の用法である)
しかしこの映画は、自爆攻撃の当事者の行動には、まさにそれぞれの生きた事情があり、事情に捕われて生きてゆくと言う点で、なんらその他の人と変わる所のない、普通の人間であることを、生々しく描いている。
モザイクを感じさせる像なのだ。
****
【ここからはネタバレです。】
社交的なハーレドは、自爆攻撃の実行者に選ばれた時も積極的に犠牲となることを選ぶが、後にヨーロッパ育ちの女性スーハに、占領の終結には他の手段を模索すべきだと説得されて実行を取り止める。
しかしハーレドの友人で同じく実行者に選ばれたサイードの事情はより複雑である。彼の父は密告者であり、処刑された。家族はそのことについて社会的に負い目を負わされていて、サイードは無意識的にその汚名を晴らしたいという欲求を抱えている。占領下で出口のない抑圧と闘うという大きな動機に加えて、そうした個人的な内圧を秘めている彼は、実行を取り止める機会がありながらも最終的には自爆の道を選ぶ。
【ネタバレ解除】
このように実行者の動機は決して狂信的で凶悪な人間の性格に由来するものではない。
占領下という抑圧環境での閉塞感、宗教的背景から個人的な性格や家族関係、外部からの視点(主にスーハがもたらす)が様々に折り合わされた「事情」が動機となっているのだ。
撮影にあたり、現地の抵抗勢力が脚本をチェックしたそうだが、抵抗組織のメンバーは、登場人物が実際にいる仲間のように感じられたと言ったということである。
この映画を、テロリストを正当化するものだととらえることは容易いだろう。しかしそうした現地での反応をも併せて考えるならば、この映画はある面でのリアルなパレスチナの姿を伝えていると言ってもよいだろう。
中東の問題に関心のある人は必見と思われる。
(無関心の人もぜひ見るといいとは思うが。)
************
話法も表現形態もかなりちがうのだが、スピルバーグ「ミュンヘン」(同じく2005作品)とは合わせ鏡のようになっていると感じた。
両方見てバランスがとれるような感覚だ。
特に触れなかったけれど、自爆攻撃に送り出す側の事情についても、やはりステレオタイプとは離れた描き方をしている。宣誓シーンでの出来事などはコミカルですらあるのだが、あれも実は日常的な感覚なのだとか。
上映パンフレットがとても良い出来です。こんなブログよりよっぽどいいことが書いてあります。世の映画パンフはこの水準を目指してもらいたい。
平日のモーニングショーだったので観客は二人だけ。
贅沢な見方をしてしまった。
東京では8月上旬まで、あとは各地でも上映があるようなので、見るとよかです。
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2005フランス/ドイツ/オランダ/パレスチナ
監督:ハニ・アブ・アサド
脚本:ハニ・アブ・アサド、ベロ・ベイアー
出演:カイス・ネシフ(サイード)アリ・スリマン(ハーレド)ルブナ・アザバル(スーハ)アメル・レヘル(ジャマール)ヒアム・アッバス(サイードの母)
うまく言えないが、人には人それぞれの事情がある、というのが世の真理で、一人として同じ事情をもった人間というのが存在しないであろうことは、ちょっと考えるだけでわかろうというもの。
そのうえ、ひとりの事情だって大義名分から個人的なものまで、いろいろなものの集積なのだ。
だから人の世は無数の異なる事情からなる巨大4次元モザイク構造体なわけだ。
でも世の中をとらえようとする時、モザイクをモザイクのままとらえるというのは大変難しく、面倒なことなので、ついついモザイクが織り成す大きな模様とか色の偏りなんかを見つけては、全体をとらえたかのように思って自分を納得させてしまう。
でもそれはモザイクそのものではなくて、モザイクについての像なのだ。
もちろん、モザイクを全部まとめてモザイクのまま受けとめることなんてことは人間にはほぼ不可能に思える。世の中を知るにはなんらかの像によるしかないのだろう。
ならば、どうせならその像は4次元構造をしっかり感じさせてくれるものであって欲しいし、多様なものならその多様性をしっかり伝えてくれる像であって欲しいのだ。
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で、と、「パレスチナ・ナウ」は2005年のパレスチナ人というモザイクを、その構造も欠片のひとつひとつもいっしょくたに伝えることのできる像を作ろうという試みである。
パレスチナをめぐる像というのは、日本では(というと大きく構え過ぎなら自分自身のこれまで持っていたイメージでは)しばしば大くくりな、大雑把な、悪く言うならステレオタイプな、無批判な、像だっただろう。
アラブ、イスラム、西欧に対する他者、信仰心、過激派・・
典型的なのはいわゆる「自爆テロ」に対する反応で、狂信的/非人道的な犯罪ととらえるのが日本のマスコミが主導する像である。
(「自爆テロ」という言葉自体、事情を安易に解釈した結果の用法である)
しかしこの映画は、自爆攻撃の当事者の行動には、まさにそれぞれの生きた事情があり、事情に捕われて生きてゆくと言う点で、なんらその他の人と変わる所のない、普通の人間であることを、生々しく描いている。
モザイクを感じさせる像なのだ。
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社交的なハーレドは、自爆攻撃の実行者に選ばれた時も積極的に犠牲となることを選ぶが、後にヨーロッパ育ちの女性スーハに、占領の終結には他の手段を模索すべきだと説得されて実行を取り止める。
しかしハーレドの友人で同じく実行者に選ばれたサイードの事情はより複雑である。彼の父は密告者であり、処刑された。家族はそのことについて社会的に負い目を負わされていて、サイードは無意識的にその汚名を晴らしたいという欲求を抱えている。占領下で出口のない抑圧と闘うという大きな動機に加えて、そうした個人的な内圧を秘めている彼は、実行を取り止める機会がありながらも最終的には自爆の道を選ぶ。
【ネタバレ解除】
このように実行者の動機は決して狂信的で凶悪な人間の性格に由来するものではない。
占領下という抑圧環境での閉塞感、宗教的背景から個人的な性格や家族関係、外部からの視点(主にスーハがもたらす)が様々に折り合わされた「事情」が動機となっているのだ。
撮影にあたり、現地の抵抗勢力が脚本をチェックしたそうだが、抵抗組織のメンバーは、登場人物が実際にいる仲間のように感じられたと言ったということである。
この映画を、テロリストを正当化するものだととらえることは容易いだろう。しかしそうした現地での反応をも併せて考えるならば、この映画はある面でのリアルなパレスチナの姿を伝えていると言ってもよいだろう。
中東の問題に関心のある人は必見と思われる。
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話法も表現形態もかなりちがうのだが、スピルバーグ「ミュンヘン」(同じく2005作品)とは合わせ鏡のようになっていると感じた。
両方見てバランスがとれるような感覚だ。
特に触れなかったけれど、自爆攻撃に送り出す側の事情についても、やはりステレオタイプとは離れた描き方をしている。宣誓シーンでの出来事などはコミカルですらあるのだが、あれも実は日常的な感覚なのだとか。
上映パンフレットがとても良い出来です。こんなブログよりよっぽどいいことが書いてあります。世の映画パンフはこの水準を目指してもらいたい。
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で、「パラダイス・ナウ」の方はというと、事前の期待とはかなり違ってました……「青春映画」的な部分があったためでしょう(どうも青春モノは苦手なんで)。「トレインスポッティング」の影響を受けているという説もあるくらいですから。
とはいえ、オスカーの外国語映画賞はどうせあげるんだったら、「ツォツイ」よりこちらの方が良かったと思います。まあ、政治的な理由で避けられたんでしょうが。
「ミュンヘン」は中途半端でかえってほっとしたというか、あの監督の影響力で立場を明確にしていたらそれこそワースト入りかなあと思います。。
「パラダイス・ナウ」は私も予想とは違うものでしたが、予想外に好印象でした。監督のインタビューでは北野武などの影響を認めていますね。
アカデミー賞では賞への反対運動も起きたようです。
もっとも、私が「中途半端」だと思ったのは政治的な立場のことではないんですが。
確かにいろいろと半端なところがあるかもしれませんね~最後の暗殺に失敗するとこなんか、あのあとどうやって帰国するに至ったのかなあとか?アヴナーはなんでミュンヘンの出来事をフラッシュバックするんだ?とか?そんなようなことでしょうかしら??
わたしもどちらかというとひねくれ者なので、不完全な作品はなんとなく気に入っちゃったりするんですよね(笑)
まあ「ミュンヘン」をそんなに気にいっているわけではないんですが。
そうですね。すべての事象は、モザイク状の複雑な多面体を構成しています。
どの角度から、モザイクをみるか、全体像か個別像かということで、見え方が異なってきますね。
TBとコメありがとうございます。
モザイク多面体をその本質を損なわずに伝えることができるのが芸術なのかもしれないなと思うのですが、そういうことを素朴に信じることも危険な気がしますし。。どうすりゃいいんでしょうか?