♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■たましいをきよめるために /山中直義

2011年04月19日 | Weblog
2011/4/19放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。

 今週から二週に渡って、イースタースペシャルをお送りしています。イエス様が十字架に架かられる三日前に、宮清めと呼ばれる出来事が起こりました。新約聖書マルコの福音書11章15節からのことばです。

 「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。

 当時のエルサレム神殿は沢山の人でにぎわっていました。ですが、そこには本物の信仰が見られなかったと言います。利得に目が眩(くら)んだ宗教家たちの欺瞞。表面的な宗教行為でどこか満足してしまっている人々の欺瞞。それが当時の姿であり、また今の私たちの偽らざる姿ではないかと思わされます。

 本物の信仰、本当に実りある信仰を持つようにとイエス様は熱心に清めをなそうとなさいました。ですが、イエス様のこの正しさ、イエス様のこの熱心は人々の恐れと妬みを招きました。人々はこのイエス様をこの三日後に十字架につけて殺してしまったのです。

 しかし実はこのイエス・キリストの十字架こそが本当の清め、私たちの魂の清めをもたらしたのだと聖書は教えています。

 私たちの魂が本当に清められるために必要なこと、それは私たちがこのイエス・キリストの十字架にしっかりと心を留め、自分の罪を素直に告白して祈ることだ、と聖書は教えています。もし私たちが心から祈り、心からの悔い改めを捧げるなら、イエス・キリストは必ずその祈りを聞き、私たちを許してくださると聖書は言います。魂に清めがもたらされるためにどうか心を込めて聖書を読み、心をこめて神様に祈ってください。

     (PBA制作「世の光」2011.4.19放送でのお話しより )

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海地方での世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送に協力してくださる場合の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
            (自由ケ丘キリスト教会内)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■エルサレム入城 /関根弘興

2011年04月18日 | Weblog
2011/4/18放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。

 イエス・キリストの生涯は新約聖書の福音書に記されていますが、特にイエス・キリストの最後の1週間に関して沢山のページが割かれ紹介されています。

 その1週間のスタートはイエス・キリストがエルサレムに入られる出来事から始まっています。それはユダヤ最大の祭り・過ぎ越し祭りの時期でした。このお祭りが近づくと世界中から入れ人たちが神殿のあるエルサレムに押し寄せ、沢山の人でごった返していたのです。 そのお祭りの時期にイエス・キリストはエルサレムに入って行かれました。

 しかしその姿は少し奇妙な姿でした。なぜならイエス・キリストは子ロバばに乗ってエルサレムに入られたからです。白い馬にまたがって颯爽と入られるのなら何か勝利者にふさわしい王様にふさわしい姿です。しかし子ロバとは何とも貧弱な感じがいたしますよね。

 当時馬は軍事目的のために使われていました。兵隊は馬に乗り戦いに出かけ、戦いに勝った時には堂々と馬に乗って凱旋の行列をするわけです。一方、ロボはいかにも頼りなさそうな家畜です。しかし実はロバは平和を表す家畜として、また柔和な姿を表す家畜として象徴的に用いられていたのです。

 イエス・キリストは馬ではなくロバに乗ってエルサレムに入って行かれました。それはイエス・キリストが軍事的な目的ではなく平和の君としてエルサレムに入ることを示していたからすね。

 旧約聖書の中に登場するゼカリヤという預言者は救い主がこられることをこのように預言しています。
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ書 9章9節) 

 イエス・キリストがどうして子ロバに乗ってエルサレムに入られたのか、それはイエス・キリストこそが旧約聖書で預言されていた救いであることを示すためだったんですね。そして預言者ゼカリヤは、「この方は正しい方であり救いを賜る方である。そしてこの方は柔和な方なのだ。」と記しています。このイエス・キリストがご自分の最後を遂げるためにエルサレムに子ロバに乗って入っていかれました。それは人々の罪を身代わりに背負うためであり、赦しの道を開くためでした。子ロパに象徴されるように、イエス・キリストは一人一人に本当の平和を与えるために来てくださったのです。

 (PBA制作「世の光」2011.4.18放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■系図に示された人の姿 /羽鳥頼和

2011年04月16日 | Weblog
2011/4/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 聖書には系図が出てきます。系図は人の名前ばかりで読むことを避けてしまう人が多いと思います。けれどもこのような系図にも神様からのメッセージが込められています。

 旧約聖書の歴代誌第一にも系図があります。この系図は何と1章から9章に渡る長ーい系図です。この系図は元(はじめ)の人であるアダムから始まります。そしてアダムからアブラハムへ、アブラハムからヤコブへ、そしてヤコブの12人の子供たちの系図、そして12人のうちの一人ユダの系図からダビデの子孫であるイスラエルの歴代の王様の系図へと進みます。その後、イスラエルの国がバビロンの国によって滅ぼされ、人々が捕え移されてしまいました。バビロン捕囚と言われる出来事です。歴代誌はこのバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰国することができた人々までの系図を記しているのです。

 このようにこの系図は人の歴史の始まりからイスラエルの国の存亡の歴史を語り、イスラエルの人々がバビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻ってくることができた長い歴史を記しています。

 これらの系図の所々にエピソードも記されています。そこには信仰深い人の事も記されていますが、人の醜い罪も記されています。

 例えば系図の最後の方で、イスラエルがバビロンに捕え移されたのは彼らの不信仰の罪のためであると記されています。そして最後の系図は神殿を再建した人々と祭司など礼拝のために働く人々の系図が記されていて、イスラエルが礼拝をする民となったことを教えています。

 この歴代誌の長い系図は人の本当の姿と人のあるべき姿を教えています。人の本当の姿とは人とは罪を犯してしまうものであるということです。そして人のあるべき姿とは神様を礼拝するものとなるということです。

 私たちが本来の姿を取り戻すためにイエス・キリストが罪からの解放者として来てくださいました。そしてキリスト教会が、人がするべき礼拝をする所となっているのです。あなたも救い主であるイエス・キリストを知るために神様を礼拝することができる教会にいらしてください。
 
  ( PBA制作「世の光」2011.4.16放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■イエス・キリストは神なのか? (2) /岩井基雄

2011年04月15日 | Weblog
2011/4/15放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 今日はキリストの復活の出来事からキリストが本当に神であるかを一緒に考えてみたいと思います。

 イエス・キリストがこの地上で生涯を送り、最後は十字架刑に遭ったことを否定する学者は殆どいません。しかし聖書が言うように三日目によみがえったことについては多くの人が疑問を投げかけます。では聖書には何と書いてあるでしょうか。

 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」 新約聖書 コリント第一の手紙 15章17節
 
 キリスト教の信仰はこのイエス・キリストの復活にかかっていると言っても良いのです。そしてそれはキリストが神であるかどうかに関する重要な事柄でもあります。多くの人々がこの復活の出来事について聖書やその他の文献を調べた上で、本当にキリストがよみがえったのだということを心から信じています。なぜでしょうか。少なくとも三つの証拠があるといわれます。

 第一は、本当にキリストの墓は空であったということです。キリストの死んだ身体は確かに見出せませんでした。弟子たちがその身体を盗んだという噂も流れました。しかしもしそうであれば、彼らは自分たちが作り出した嘘のために命をかけてキリストの復活を宣べ伝えたことになります。そんなことができるでしょうか。

 第二に、復活したキリストの目撃者が少なくとも500名はいたことが証しされています。しかも新約聖書が記された時、その多くの人々がまだ生存していたのです。彼らは自らが経験したことを力強く証ししていました。

 第三に、それまでユダヤ人たちを恐れ、キリストを裏切り、逃げた弟子たちが命をかけてキリストのよみがえりを伝えます。何か大きなことがなければ彼らはそのように変わることはできなかったでしょう。

 イエス・キリストは本当に死からよみがえられたのです。それはキリストが永遠のいのちの源である神ご自身であることをも表しています。あなたの人生に本当のいのちと希望を与えるために神であるキリストはよみがえられたのです。

 新約聖書 ローマ人への手紙4章25節にはこうあります。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

   (PBA制作「世の光」2011.4.15放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しく
はPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。
日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。
予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。
問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■聖書は廃棄されない /福井 誠

2011年04月14日 | Weblog
2011/4/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「聖書は廃棄されない」です。それではマタイの福音書5章17節から読んでみましょう。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。」・・・「律法や預言者」というのは旧約聖書の事を言っています。つまりイエス様は自分がこの世に来たのは旧約聖書に書かれていることをことごとく成就するためだと言っているのです。

 実際イエス様の生涯はあらかじめ旧約聖書に預言されたことでした。イエス様は旧約聖書に書いてある通りに誕生し、人間としての生涯を送り、十字架の苦しみの死を味わい、三日目によみがえられたのです。

 旧約聖書の要点は、人類の救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになるということですね。新約聖書はそれを受けて旧約聖書に預言された通りにイエス・キリストについて語ったことが成就したと証しされています。

  実際マタイの福音書には、「これは、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」と言うことばが繰り返し出てきます(参照 1章22節、2章15節、2章23節、4章14節、8章17節、12章17節、13章35節、21章4節)。まさにイエスが旧約聖書に書かれていることをことごとく成就するために来られたということを当時の読者であるユダヤ人に納得させようとしているのですねえ。

 皆さんは聖書をどのような書物として受けとめてきたことでしょうか。聖書のことは知っているけれど聖書の中身についてはあまりよく知らないという人は多いことでしょうね。聖書はイエス・キリストについて証ししている書です。イエス・キリストが人類の救い主であることは昔から預言されてきたことであって、その預言の通りに私たちの魂を救ってくださる方がいらっしゃったのだと証ししているのです。

 あなたにもぜひ聖書を読んでいただきたいと思います。そして確かに自分のためにもこの聖書は書かれている、そして自分のためにもイエス様は十字架にかかって死んでくださったんだという事を発見していただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2011.4.14放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくは
PBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっ
そり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大
抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なし
でもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹
介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■はじめに、言(ことば)があった /板倉邦雄

2011年04月13日 | Weblog
2011/4/13放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか。板倉邦雄です。

 今日は「はじめに、言(ことば)があった」という題でお話ししましょう。
 ことばとはまことに不思議な力を持っています。

 創世記1章の3節からは、神様はことばによって天地万物をお造りになったと書いてあります。神様は「光あれ」と言われました。すると光がありました。神はその光を見て良しとされました。大いに満足した、と書いてあります。神はその光と闇とを区別されました。神様は光を昼、闇を夜と名付けられました、と書いてあります。

 まさに神様はことばによって天地万物を創造されました。まさに無から有を呼び出されたのです。

 ヘブル語で神様のことをエロヒームと言います。意味は「力ある方」です。 しかもこのことばは複数形です。三位一体の神様を暗示しているとよく言われていますね。

 ところで私たち人間社会の営みにおきましても、ことばは大切なものです。力があることを知っているでしょう。ことばは人を生かすことも殺すこともできる力を持っています。ことばは私たちの人格を形成し、一人の人間として成長させてくれます。また人々を慰め励ます力を持っているでしょう。またことばによって私たちが考えていること計画していることが実現していくのを私たちは体験していますね。

 ではこのような創造力の欲求の源はどこから来たのでしょう。それは、天地万物をことばによってお造りになった神様から来ているのです。私たち人間は神様のイメージ・神の形にしたがって造られた被造物だからです。神様のイメージとは知性と感性と意志あるいは道徳性を持った存在として人間は造られました。ですから私たち人間の本質に創造的欲求があるのは当然です。私たちも神様と同じように、ことばを使い様々な道具を作るものなのです。

 聖書のことばです。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
                 ヨハネ福音書の1章1節 (口語訳聖書)

  ( PBA制作「世の光」2011.4.13放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくは
PBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっ
そり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大
抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なし
でもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹
介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■絶望の先にある希望 /山中直義

2011年04月12日 | Weblog
2011/4/12放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。山中直義です。

 夜が明けるその少し前に闇は最も暗く冷たくなると言います。ですが、暗く冷たいその闇に朝の光は訪れます。

 十字架に架けられる前夜、イエス・キリストは偽りの裁判にかけられていました。そんなイエス様から少し離れた所に人々に紛れて様子を伺う弟子ペテロがありました。そのペテロに女中の一人が近づいてきて尋ねました。「あなたもあのナザレ人イエスと一緒にいましたね。」 必死にごまかしてその場を立ちそろうとしたペテロでしたが、そばにいた人々にも詰め寄られた時、彼はとうとうイエスを否定してしまいました。

 新約聖書マルコの福音書14章71節からのことばです。
  彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。
  そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。


 愛するべき人を裏切り、傷付ける。そんな時私たちは自らの深い闇に気付かされ、絶望的な思いになるのではないでしょうか。夜の闇が明けようとしていたまさにその時、ペテロは自分の内側にある深く冷たい闇に気づかされ、「激しく泣いた」(マタイ 26:75、ルカ 22:62)と言います。「私は・・・その人を知りません。」 イエス・キリストの愛に気づきながらも、その愛を拒絶しようとする。そんなどうしようもない闇が私たちのうちにも確かにあるのではないでしょうか。

 ですが、暗く冷たい闇に朝の光が訪れるように、その絶望の悩みにも希望の光は訪れます。私たち人間の弱さ、愚かさ、醜さ、本当にどうしょうもない闇を知った上でそれでもなおイエス・キリストは私たちを深く深く愛し、十字架についてくださった。そうしてすべての罪を、本当にすべての罪を赦してくださったと聖書は言うのです。

 絶望の闇の先に希望の光は必ず訪れます。あなたもイエス・キリストを信じてください。

     (PBA制作「世の光」2011.4.12放送でのお話しより )

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海地方での世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送に協力してくださる場合の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
            (自由ケ丘キリスト教会内)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■思い煩い /関根弘興

2011年04月11日 | Weblog
2011/4/11放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日も一日、さわやかに過ごしていきたいですね。

 新約聖書 ピリピ人への手紙4章6節
 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 
 私たちは毎日のように思い煩いや心配事が絶えません。でもパウロは「あなたがたの思い煩いをすべて神様に知っていただきなさい。」と書いています。私たちの神様は私たちの美辞麗句で飾られたことばを待っておるのではなく、私たちの正直な心の叫びを聞いてくださる方なんですね。

 宗教改革者のマルティン・ルターをあなたもご存知だと思います。彼にまつわるこんな話を読んだことがあります。

 ルターがある時、いろいろなことで落ち込んでいた時でした。この様子を見た奥さんが何とかしてルターの気持ちを回復させようと考えました。そして彼女は自分の部屋に戻り、何と喪服に着替えてルターの傍らに立ったんです。ルターはびっくりして言いました。「誰が死んだのかね。これからどこの葬式に行くのかね。」 すると奥さんはこう答えたと言うんです。 「はい、実は神様がお亡くなりになったんです。」 「ばかなことを言うな。神様が亡くなるはずがないではないか。」 「はい、そう思ったのですけれど、でも神様が生きておられなら、その生きた神様にお頼りしているあなたがどうしてそんなに失望なさっているのでしょうか。あなたの失望している姿を見ると、てっきり神様がお亡くなりになったのだと思いまして。」 こう言ったというんですね。 この奥さんの行動で、自分が思い悩んでいた事が小さなことだという事をルターは知ったというんです。

 私たちの毎日の生活にもたらされる思い煩いは私たちの心を不安と心配の嵐に巻き込んで行きます。私たちを消極的な方向に向かわせ、精神的にも時には肉体的にも打撃を与えます。そして正しい判断を失わせていくんですね。

 実は思い煩いの原因というのはあってないようなものが非常に多いんです。自分で勝手にシナリオを書いて悩んでしまうんです。もしかしたらの人はこう思ってるかもしれない。いやそう思っているに違いない、というように勝手にシナリオを書いてしまうんですね。

 パウロはどんなことを勧めているのでしょう。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と記しています。大切なのは静かに目を閉じ、心を静めて神様にあなたの心を知っていただくことです。

 旧約聖書イザヤ書30章15節
 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、
  落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。


 (PBA制作「世の光」2011.4.11送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■イエスさまを十字架につけたのはだれか /羽鳥頼和

2011年04月09日 | Weblog
2011/4/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 今日から土曜日を担当します羽鳥頼和です。よろしくお願いします。

 五旬節というユダヤのお祭りの時、エルサレムに集まってきた多くの人々に向かってペテロはイエス・キリストの事を話しました。ペテロはこのように言いました。
 「皆さん。イエス様は神様によって遣わされた救い主です。しかしこの救い主であるイエス様は十字架にかけられて死んでしまいました。実はそのことも神様のご計画だったのです。ですから神様は死んでしまったイエス様をよみがえらせました。」 そして最後にペテロは言いました。「すべての人々はこのことをはっきりと知らなければなりません。すなわち神様が真の救い主とされたこのイエス様をあなたがたは十字架につけたのです。」 人々はこれを聞いて心を刺され、ぺテロに「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言いました。そこで、ペテロは彼らに答えました。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」 そしてその日3000人の人がイエス様を救いにしと信じて、教会の一員になったのです。

 この人たちと同じように、「あなたがイエス様を十字架につけたのです」ということばに心刺された人がいます。それはオランダの画家レンブラントです。彼は1633年に『十字架を立てる』という題の絵を描きました。その絵はローマ兵たちがイエス様を張り付けにした十字架を立てようとしているところを書いたものです。その絵の中心には、青いベレー帽をかぶった男が十字架を立てています。実はその男こそレンブラント自身なのです。レンブラントは自分をイエスの十字架を立てている張本人として描いているのです。そしてこの絵を見る人々に、自分の罪がキリストを十字架につけてしまったことを見るように、と語っているのです。

 聖書はイエス様を十字架につけたのが自分の罪であることに気づいたら、悔い改めてバプテスマを受けなさいと勧めているのです。バプテスマとは洗礼とも言われ、イエス様を救い主と信じ、教会の一員となって信仰を持って歩むことを告白することです。あなたも神様による救いを得るために、ぜひお近くのキリスト教会へいらっしゃってください。

  ( PBA制作「世の光」2011.4.9放送でのお話より )

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■祈りの手 /岩井基雄

2011年04月08日 | Weblog
2011/4/8放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 今年の初めにドイツの画家アルブレヒト・デューラーの絵を上野に見に行きました。聖書の出来事を版画等で描いた見事な作品の数々でした。デューラーの絵で有名なのは「祈りの手」と呼ばれる作品でしょう。オーストリアのウィーン、アルベルティーナ美術館にあるその絵は節くれだった手がそっと合わされ、神様への祈りが捧げられている1580年の作品です。

 この絵が描かれた背景には有名な物語があります。デューラーは子沢山の貧しい鍛冶屋の子として生まれました。幼い頃から画家になりたいという夢を持っていましたが、彼には絵の具やキャンバスを買うお金がありません。デューラーは同じような境遇の絵描きと友達になります。しかし二人とも働くことに精一杯。絵も描けず、日々の生活に困るようなありさま。その友達はデューラーに言いました。「このままでは二人とも画家になる夢を捨てなくてはならない。だから一人が働き、もう一人がそのお金で絵を学ぼう。そして四年経ったら交代しよう。まず僕が働くから君は絵を書いて欲しい。」と。その友達は炭鉱で働きデューラーを支えました。時は流れデューラーの才能が開かれ、初めて売れた絵のお金を持って友達の家を訪ねました。しかし喜んでくれた友達の手は炭鉱の重労働で指は曲がり、繊細な絵を描くことはもうできなくなっていたのです。デューラーは悲しみのうちに彼の家を出ます。友達の犠牲の上に成り立っていた自分の画家としての歩み。彼は深い罪悪感を覚えつつも、もう一度友達の家を訪ねます。すると小さな祈りの声が部屋の中から聞こえてきました。その友達が失意の中にいたデューラーのために祈っていたのです。ゆがんでしまった手を合わせ一心に祈っていました。その姿を書いたのが「祈りの手」という作品なのだそうです。自分のために犠牲を払って働き、祈り続けてくれた友の手を彼は題材としたのですね。

 聖書にこのようなことばがあります。
 「彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。
     新約聖書 ルカの福音書6章35節 

 聖書は「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒 20章35節)と語ります。私たちも愛を届けるものとさしていただきたいですね。

   (PBA制作「世の光」2011.4.8放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書
通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しく
はPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。
日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。
予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。
問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする