ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

ピチピチと元気に!

2013-01-16 21:53:19 | 今日の聖句
新約聖書は、いつしか「テサロニケの信徒への手紙 一」を読み始めました。

今日の聖句は3章7節~9節です

それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの
信仰によって励まされました。
あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。
わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、
どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。


パウロはあらゆる困難に直面しても伝道の喜びにあふれ、その喜びを神に感謝しています。

今日から、大切な友人が薦めてくれた「イエスの言葉―ケセン語訳」山浦玄嗣著を読み始めました。

著者の山浦先生(お医者様です)は「ヨハネによる福音書」のはじめのことばを
『神さまの思いにはあらゆるものを幸せにピチピチ元気に生かす力があった』そして
『神さまの思いから出てきた幸せと元気は明るい光のように人間を喜びに輝かせた』と訳しています。

山浦先生のケセン語訳のイエス様の御言葉は私たちを元気にしてくれます。
神さまの救いに与る幸せと喜びを実感させてくれます。

私も、イキイキと明るく神様の御言葉を証しできますように! (祈)




<オナガ>
スズメ目カラス科でカラスの親戚の所為か声がイマイチですが
淡いブルーがそれはそれは美しい野鳥です。



私の通っている美竹教会のホームページです。
教会にいらして、ご一緒に神さまの福音を聴きましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

讃美歌511番

2013-01-15 12:52:56 | 讃美歌
1) みゆるしあらずば ほろぶべきこの身
   わが主よ、あわれみ すくいたまえ

   (おりかえし) イエスきみよ、このままに
           我をこのままに、救い給え

2) つみのみつもりて いさおはなけれど
   なお主の血により すくいたまえ

3) みめぐみうくべき 身にしあらねども
   ただ御名のために すくいたまえ

4) みわざを世になす ちからあるものと
   わが身もこころも ならせたまえ


この讃美歌、511番は二年前に亡くなった姉の好きな歌でした。
大和キリスト教会で行われた姉の葬儀の前夜式に、姉の愛唱歌として真っ先に歌われました。

「このままに、我をこのままに救い給え・・・・」と祈りつつ逝ったであろう姉の思いを偲んで、
私も精一杯歌いました。

このブログの「初めのご挨拶」にも書きましたが、私が姉の篤い祈りに背中を押されて
教会に戻ったのは事実です。
でも本当は神様の御許でもう一度姉と語り合いたい、という強い願いがあって、私は
教会に戻ったのかも知れません。



<ルリビタキ(♂)>
冬鳥として山から下りて都市公園にも現れます。



私が歌えるのは讃美歌集の半分くらいですが、素晴らしい讃美歌がたくさんあります。
ブログのカテゴリーに「讃美歌」を増やして、これから少しずつ載せたいと思います。

私の通う美竹教会でご一緒に讃美歌を歌いましょう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「平和の道」

2013-01-13 20:05:30 | 説教
今日の主日礼拝 説教のタイトルは「平和の道」 
テキストは「マタイによる福音書」 21章1節~11節でした。

<物語>
エルサレムに近づくと、イエスは二人の弟子に「向こうの村から子ロバを引いてくるように」と
命じられました。
イエスは子ロバに乗ってエルサレムに入られました。

大勢の群集は自分の服を道に敷き、また棕櫚の枝を切って道に敷き、
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ」と叫び、歓迎しました。


↓ 以下は私が聞いた御言葉の説き明かし(要約)です。
(文責は勿論"ゆうゆう"にあります、間違っていたらゴメンナサイ <(_ _)> )

何人もの王がそうしたように、イエスは王としての儀式に則ったパレードをしてエルサレムに入られました。 
しかし、着飾り、力強い馬にまたがって王の権力や栄華を誇示する従来の王とは違って、イエスは子ロバに
乗ってパレードをなされました。
子ロバは「柔和なもの」(柔和=貧しい、権力の無い、僕)をを象徴しています。

キリストが子ロバに乗ってエルサレムに入られる美しい情景は、旧約聖書の「ゼカリア所」9章9節に
述べられて(預言されて)います。

「ホサナ」とはヘブライ語で、元の意味は「今、救いたまえ」というのですが、当時の民衆は単に
「万歳!」という意識で叫んでいたと思います。

イエスを「ホサナ」と迎えた民衆ですが、イエスが富と栄華をもたらす王でないとわかった時、
わずか五日後には「十字架につけろ!」と叫ぶように変わりました。

王の最大の務めは民に平和を与えることです。

イエスは私たちに平和を与えるために戦い、そして十字架につけられ死にました。
そのようにしてイエスが勝ち取ってくださった平和とは神との平和、神による平安です。
イエスは私たちの魂を慰め、治めてくれる精神的な王なのです。

わたし達が自分を自分の王とする時には、私達もまた「ホサナ」から「十字架につけろ」に変わり得ます。

「自分の王はキリストである」という生活、それは主によって神に礼拝する生活です。
(神を礼拝し、聖書を読むことによって主の御心を知る生活、ということでしょうか。)

キリストを王として礼拝を捧げる生活を送るのが私たちの平和(神との平和)です。
「柔和な人は地を継ぐ」とマタイ伝5章5節にあります。 
礼拝者として生活するとき、私たちは本当の勝利者となるのです。





    淡いブルーが綺麗な留鳥の<オナガ> どこでも見られます。
     集団で水を飲んでいました。





今日は礼拝で素敵な讃美歌を歌いました。 いつかご紹介したいと思います。
東京渋谷区、駅から5分の美竹教会のホームページ 
上田牧師の福音に充ちた説教(全文)も載っています。 クリックしてお訪ねください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いつも感謝していなさい。」

2013-01-11 22:28:20 | 今日の聖句
「コロサイの信徒への手紙」 3章12節~15節

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、自愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも
同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。 愛は、すべてを完成させるきずなです。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。
この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体*1)とされたのです。 いつも感謝していなさい。


上の聖句を読むと、毎日の阿修羅のような自分の生活や性格がなだめられるような気がします。
神様は私を愛してくださって招いてくださったのだと、深く慰められます。

私の心はキリストの平和によって支配されているのだから、互いに赦し合うことも難なくできそうな気がします。

「いつも感謝していなさい」  ハイ、分かりました。 (^-^) と言えそうな気がします。






<オシドリ(♂)>
殆どの野鳥は雄のほうが美しい羽を持っています。
オシドリの雌を知っていますか? とても地味です。
でもとても可愛い・・・いつか写真を撮ってここに貼りますね。



*1) 一つの体、とは私の考えでは、多分、教会のこと、教会に集うことだと思います。 
美竹教会のホームページです。 クリックして覗いて見てくだい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三位一体の神

2013-01-10 22:32:13 | 今日の聖句
今日の聖句も「コロサイの信徒への手紙」1章からです。

15節~16節
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、
万物は御子において造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。


何回もでてくる「御子」とはイエス・キリストのことです。

キリスト教の神は、神と御子と聖霊の三つで、三位一体の神様です。
えっ? 三位一体ってなんですか? と私に訊いても無理です、答えられません。 m(_ _)m
ネットで「三位一体」と検索するとたくさんの記事がヒットします。 
ぜひ検索してみてください。

神と御子と聖霊の三位の神、私は御子イエス様が一番親しく身近に感じられます。
人間の形をとって人間の歴史に出現されたイエス様を敬愛、尊敬、崇拝しています。

聖書の中でもイエス様の誕生から復活までを記した福音書が一番好きです。

讃美歌にはイエス様をたたえた詩がたくさんあるようですが、私が知っているのは
512番です。

   わが魂の慕いまつるイエス君の麗しさよ
   あしたの星か、谷の百合か、何になぞらえて歌わん
   悩める時の我が慰め、寂しき日のわが友
   君は谷の百合、あしたの星、うつしよ(現世)にたぐい(類)もなし

ラブソングですね。 (^-^)




<ジョウビタキ(♀)>
冬鳥として山から下りてきて都市公園でもよく見られます。
愛称「おじょうさん」 ジョウビタキを見ない冬は冬らしくありません。


美竹教会のホームページです。
日曜礼拝は午前10時半からです、ご一緒に讃美歌を歌いましょう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたがたは既に聞きました。

2013-01-09 13:26:36 | 今日の聖句
新約聖書、昨夜から「コロサイ信徒への手紙」を読み始めました。
今日の聖句は1章5章~6章です。

それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、
あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、
あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。



この書簡はパウロ自身が書いたものではなく、パウロの死後、パウロの名を借りて書かれたもので、
「パウロの名による手紙」(あるいは第2パウロ書簡)として位置づけられてます。
手紙執筆の動機は信徒たちを惑わす危険のある偽りの教えの脅威でに対して、「神性」と明言される
すべての豊満さが宿っている宇宙的キリストを主張し、その信仰にふさわしく生きる必要を明らかに
するために執筆されました。  ******** 「新共同訳 聖書事典」より抜き書き

それにしてもこの聖書事典の難しいこと!
この「聖書事典」は誰に向けて書かれているのか、と「刊行の辞」を読んでみると、多くの読者だそうです。
私にはとっても難しいですね~ (笑)

「コロサイ信徒への手紙」の項の最後は、この書簡の著者がパウロではない、という著者問題について
書かれているのですが ・・・・

・・・・・・(この書簡の著者と)パウロとの思想的神学的違いも顕著である。
(この著者は)神性のすべてが満ちている宇宙的キリストを枢軸とする万物の支配と和解という視点から、
救済論や教会論を新たに展開している。
終末論のついても、パウロの終末論の未来的要素は、すでに成立しているが、(それは)天上において
であって、地上では隠されているという空間軸を中心として展開されている(のがこの書簡の著者の見解だ)
・・・・・・・・ のだそうです。 ふ~!
( )内は私が多分、そういうこと?と思って入れてみました。

5回くらい読んでようやく、なんとなくこういうことを言ってるのかな~? と思う始末。
やさしい「聖書事典」を買うことにいたしましょう。 (^-^)






今日の野鳥は<アオジ>です。
冬になると山から下りて都会の公園にもやってきます。
春、山に戻る頃になるごお腹がそれは綺麗な黄緑色になります。


美竹教会の礼拝で聖書の御言葉の解き明かしをぜひお聴きください。
教会の扉はいつも、どなたにでも開かれています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

求めているもの

2013-01-08 22:07:23 | 今日の聖句
「フィリピの信徒への手紙」 4章6節~7節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。



大好きな聖句です。

二年前に教会に戻るまでの苦しかった数年間、いつもこの聖句が頭にありました。
「思い煩うのはやめなさい。求めているものを神に打ち明けなさい。」
その言葉を信じて祈りました。

苦しみがあったから、再び教会の門を叩き、神様の御許に戻ったのでしょう。
そしてその結果、人知を超える神の平和が私の心を守っていてくださるのを実感しています。

でも「もし御心なら、求めているものを得させてください」と今も祈ってしまいます。
私はやはり求めているものを得たいのです。





    <翡翠(カワセミ)>の雄です。
    下の嘴の黒いのは雄、赤いのが雌です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊かな恵み

2013-01-07 23:02:37 | 説教
昨日は新年最初の主日礼拝でした。
説教のテキストは 「マタイによる福音書」20章1節~16節で、ここには『「ぶどう園の労働者」のたとえ』
という中見出しがついています。

実は、私の聖書のこの箇所には大きな「?」マークがついています。
このたとえ話を私は何度も読んでいるのですが、意味(比喩)することが理解できずハテナ?印が付いている
というわけです。

たとえ話の要旨は *********
あるぶどう園の主人が早朝、広場に出かけ、一日につき一デナリオン(当時の日当相当)の約束でぶどう園で働く
労働者を雇いました。
主人は9時ごろにも出かけ、何もしないで広場に立っている人に「ぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を
払ってやろう」と言いました。
その後、12時ごろと3時ごろにまた出かけて同じようにしました。
5時ごろにも行ってみると「誰も雇ってくれないのです」と言う人々が立っていたので主人はこの人たちも
ぶどう園に行かせました。
夕方になって主人が監督に命じて払った賃金は、早朝から働いた労働者も5時に雇われた労働者も同じ
一デナリオンでした。
早朝組の労働者がこのことについて不平を言うと、主人は「友よ、私は不当なことはしていない。
あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 私はこの最後の者にもあなたとおなじように
払ってやりたいのだ」と言いました。 ************ というものです。


↓ ここからが上田先生のお説教です。

このたとえ話は、天国はどのような所かを語った話です。
主人の姿勢の中に神の国は何か、が語られています。
天国や神の国とは来世のことを言っているのではなくて「神の御支配」を示します。

この話はわたし達の人生や今年一年のことだとも言えますし、主人は神(キリスト)労働者は私達とみて、
世界を救う道筋が示されているとも言えます。 早朝組はユダヤの民族、5時組は異邦人ということです。

この話を人生と見做すと、早朝組はクリスチャンホームに生まれたような、生まれた時からキリスト教の
世界にいた人、午後組や5時組はお年を召してから神に導かれた人を示すともいえます。

第三者として批判的に読むとこの話は矛盾に満ちていますが、自分に語りかけた言葉として何度も読むのが
正しい読み方です。
そして自分を最後の5時組の一人として読むと神の恵みが理解できます。
人生の終わり近くに神を信じ御許に集う人にも神は(早朝組と)等しい恵みを豊かに与えてくださいます。 
勿論、早朝組に自身を置き換えて読むこともできます。

5回も(何度も)広場に出かけ、最期まで労働者を導く主人の姿が印象的です。
これはこの世に満ちた神の恵みを表しています。


ここまでは私が理解し要約した上田先生の説教の最初の部分で、このあと(早朝組も5時組も)すべての人に
与えられる神の豊かな恵みについて深い説き明かしが語られました。
私の非力な文章力では、豊かなお説教を十分にお伝えすることができません。 

全文は(掲載まで少しタイムラグがありますが)美竹教会ホームページに載ります。
ぜひぜひお読みください



自分を早朝組の労働者に置き換えて、なぜ同じ賃金なのだ?と、疑問ばかりだった私は、今日のお説教の
最初のところで、目からうろこ(笑)胸のつかえが取れました。

聖書は信仰の書物ですから「祈りなくしては」読み切れない、とは思っていますが、祈りを持って読ん
でいるつもりでも私は読み切れませんでした。

やはり教会で牧師先生を通しての説き証しに導かれないと聖書は読み解けないようです。



   今日は公園で<トラツグミ>という野鳥を撮りました。
    黄色と黒の虎模様の綺麗なツグミです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パウロの信仰

2013-01-05 22:38:48 | 今日の聖句
昨晩は 「フィリピの信徒への手紙」 3章を読みました。

5節~6節
「わたしは生れて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

7節~9節
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では世の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくとと見なしています。
キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」

12節~14節
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めています。 (中略) 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、
お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

16節
「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」


ウーム! ・・・・・・・ パウロの信仰に圧倒されて何も言えません。 (^^;)




     お正月に公園で<アオゲラ>を見ました。 (^-^)



明日は新年最初の日曜日、美竹教会では午前10時半から礼拝が始まります。
教会の扉はいつでもすべての方に向かって開いています。 どうぞおでかけください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行わせるのは神

2013-01-04 09:52:57 | 今日の聖句
今日の聖句は 「フィリピの信徒への手紙」 2章13節 です。

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。


何年か前、苦しく辛い毎日を過ごしている私を心配した姉は、私が自分の母教会に帰るようにと
強く勧めてくれました。 
私の苦しみを忘れずに、日々の祈りに加えて祈ってくれました。

私はそれでも教会に行く決心がつかず、一人で祈り、聖書を読む日々が三年間続きました。

ようやく月に一回くらい教会の礼拝に出席するようになり、そこで上田先生のお説教を聴いて
励まされました。
また、礼拝の司会者の方の祈りに感動し、まだ上手く祈ることのできない私は、いつもその祈りに
心を合わせて祈りました。

今はほとんど毎週主日礼拝に出席しています。
毎晩聖書を読み、祈っています。
気分が落ち込んだ時、どうしようもない孤独感に打ちのめされる時に神が私の傍らにいてくださる
と信じられることは何物にも代えがたい幸せなことです。

私が教会に戻ったのは姉の篤い祈りのお陰だったのかもしれません。
苦しい時の神頼みのように、ただ必死に神様に縋り付いただけかもしれません。

そして多分、上↑の聖句のように、神の御心が働いていたのかもしれません。 感謝です。





 <ルリビタキ(♂)>
 冬鳥として都市公園に飛来し、三月頃まで滞在します。




神様はいつも私たち一人一人の傍らにいて、私たちを慰めてくださっていると思います。
美竹教会のホームページです、一度教会を訪ねてみてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする