ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「関係に生きる」

2014-10-29 20:10:02 | 説教 十戒
先日の主日礼拝説教 テキストは「出エジプト記」20章1節~3節 「マタイによる福音書」22章34節~40節
タイトルは「関係に生きる」でした。

今日から数週間、礼拝説教で「十戒」について学んでゆきたいと思います。
「十戒」は「使徒信条」「主の祈り」と合わせてキリスト教の三要文として
教会の信仰の骨格を作るものとして重んじられてきました。
十戒は皆さんよく耳にする機会もあり、聞きなれた言葉かもしれませんが、
時には立ち止まって味わうことも必要かと思います。

「十戒」はヘブライ語で書かれた聖書の基の原稿では“十の言葉”という呼び名でした。
後に翻訳されたギリシャ語の聖書でも“decalog”やはり十の言葉という意味でした。
これがなぜ“戒め”という言葉になったのでしょう。
16世紀に、聖書はルターによるドイツ語訳やそのほか英語訳など色々な言語に訳されましたが、
その一つにジュネーブバイブルがあり、その中で“ten commandments”と書かれました。

出エジプト記の20章2節は「十戒」前文です。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
この前文によって十戒は輝き、聖書的響をまとうことになります。
「十戒」はこの前文の下に置かれることによって単なる戒律ではなくなります。
戒め、我々を縛るものではなくなります。
クリスチャンとは挫折の傷を負ったまま救われる人、人生の痛みを知って生きなおす人、罪許された罪びとです。
十戒を守れば救われる、守れなければ駄目であるという縛りでなく、十戒は赦す救いの力があるのです。

ここで十戒の出現する背景を少しお話しします。
ユダヤ人(ヘブライ人)はモーセに導かれてエジプトの国から脱出しますが、これは単なる移動ではなく、
人生、歴史の転換となった出来事です。
命すら自分のものではない、家畜以下の、置き換え可能な道具としてしか見られなかった奴隷状態からの解放です。

今の日本はこの時代のヘブライ人のようではなく、自由があるように見えます。
しかし、暗黙の了解に縛られている社会の決まりごとや無言の圧力、情報の刷り込みなど、
どこか生きにくさを感じることは無いでしょうか。
目に見えない何かに囚われた状態があるのではないでしょうか。
聖書で「出エジプト」として語られるもの、それぞれの時代にあって人の行動を縛るもの、
それはずっとあり続けました。
出エジプトに重ねて自分の生活を顧みると、そこに聖書の語るところが見えてきます。

ゴスペルが生み出された背景をみると、出エジプトの出来事に今日出くわすことへの思いが重ねられて
歌われていることが分かります。礼拝の時だけは解放されている、という喜びが語られ歌われています。
アメリカにいるときに何回か訪れたアトランタのキング牧師の通っていた教会では、礼拝の時、
聖書や讃美歌や祈りの中で、何らかの形で必ず出エジプトに言及していました。

出エジプトの神の語りかけは今の私たちになされています。
罪の奴隷である私たちは死に支配されています。
すべての人を支配している死から解き放たれる救いが語られています。

聖書の罪は犯罪行為ではなく誰もが陥る“的外れな生き方”原点を持たない、支点を持たないハカリ、
起点を持たない円のように、根本に目標の無い生き方、的を外した生き方を言っています。
そしてそれは自己中心の生き方になり破たんします。
誰かの奴隷ではないが自分を持て余して孤立します。
人生の目的を見失い彷徨う生き方、神ならぬものを絶対化する生き方に、外からの語りかけをするのが
「出エジプト」の神です。神は私たちの原点、支点、起点となります。

「出エジプト記」3章でモーセは取り返しのつかない殺人という罪を犯します。
しかし、神はそんなモーセを召し出し用いられました。
神は自ら下って私たちを救い出す神です。
私はある・・・・関係を大事にしてる、あなたに対して私はある、と常にその関係を保たれます。
神と自分の間に割って入る者はいません。 愛の原点はこの神の愛にあります。
「わたしをおいてほかにない」この関係に並ぶものが果たしてあるでしょうか。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)



この日はミニコンサートということで、礼拝に友人二人が来てくれました。
美竹教会について友人はどんな印象をもつだろうか等々、そんなことにばかりに気持ちが散って
私はすっかり緊張し、舞い上がってしまいました。
そんな私の説教メモは「心ここにあらず」で、いつもより更にいい加減な要約になりました。 
友人には説教のメッセージがしっかり届いていますように! 祈る思いです。
教会に新しい方がいらしたり、友人を誘ったりするのは緊張するものですね~。



アワコガネ(粟黄金)という菊に止まった<ヒメアカタテハ>です。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
教会の扉を開けてどうぞ教会にもいらしてください。
私のようなアタフタした信者をみてもがっかりしないでくださいね。 (^^;)
教会の中心は神様で、神様が私たちを、そしてあなたを愛し導いてくださるのですから。
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