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ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

天の父なる神

2016-04-20 14:23:54 | 祈り
祈りが苦手といっている私ではありますが、毎朝毎晩、共にいます神に祈りを捧げます。
私の祈りの最初の言葉はワンパターンで「天の父なる神様、聖名を賛美します」から始めます。
「父なる神様」とは私たちの、私の、「父」なる神様だと思って祈っていましたが、ある時、礼拝で
左近牧師が「イエス・キリストの父なる御神」と祈り始めました。
エッ、そうなの? 「父」って、私の父でなくイエス様の「父」だったの?
そう言えばイエス様は「アッバ、父よ!」と呼びかけていらしたなぁ~。
それから私は「イエス・キリストの父なる神様・・・・」と祈りを始めることにしていました。

昨日、どうも気になって「聖書事典」で「父である神」の項を読みました。
大納得!です。 神様はイエス・キリストの父であり、私たちも契約を仲立ちに「父なる神の子」で
よいのですね。
これからは安心して以前のように「天の父なる神様、聖名を賛美します。傲慢で信仰浅く欠けの多い私ですが、
どうぞあなたの「子」として受け入れてください」と祈り始めることにいたします。 (^-^)

「聖書事典」 『父である神』の項 ************
『聖書において神を父と呼ぶ場合、人間の父子関係から推測される血族的な関係を現わすのではなく、
「契約」に基づく父が子に対する如くの神の特別な愛に夜関係を表わす(申7:6以下)
旧約聖書において神を父と呼ぶ場合、創造者、贖い主、指導者、尊敬すべき者としてイスラエルの民
全体の父と言う意味である(申32:6、イザヤ63:16他)。
さらにこれは律法が守られる場合にのみ、その父子関係が維持されるという義務を伴っていた(イザヤ1:2)。 
それゆえ、父である神の憐れみとそれにふさわしくない人間の離反が旧約聖書中に一つの緊張した
問題として残されていた。 したがって、旧約聖書では神の父性は一つの約束として成就を待望している。
新約聖書では、イエス・キリストにおいてこれが成就されたと理解する(Ⅱコリント6:18)。 
イエスは独自な意味で神を「アッバ、父よ」と呼んだ。(マルコ14:36他)
そしてイエスの贖罪死と復活を信じて、人間が真に神を父と呼びうるにいたったのである(ヨハネ20:17他)。 
御子キリストを主として持つ者は神を父と呼ぶことができるのである(ヨハネ8:19他)。 
そこで「父なる神を信ず」はキリスト教の信仰告白で最も基本的なものである。』****************


公園の<バン>雛、今頃ずいぶんと大きくなっているでしょうね。
私の連れ合いの病が少々深刻になって、今年の春は殆ど公園に行けません。
写真は在庫からです。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ね下さい。
キリスト教って難しいけれど(難しいから、かな?)奥が深くて、聖書は読み飽きることがなく
心満たされます。 心に重荷を負う方、空しい思いに囚われている方、どうぞ東京は渋谷の
美竹教会に一度、ぜひおでかけ下さい。
「ブログを見て来ました」という方がお一人でも礼拝にいらしたら、このブログ、お休みしても
いいかなぁ、と私は思っているのですが、いまだに一人もいらっしゃいません。 クーッ! (T__T)
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