前回大宰府に置かれた兜跋毘沙門天が
観世音寺の宝物館に置かれていることを紹介したが
『大宰府 観世音寺 No205』
平安京の羅城門に設置された兜跋毘沙門天像は今は東寺にある。
羅城門倒壊の際になぜか東寺に持ち込まれている。
この兜跋毘沙門天像は国産ではなく中国の唐のものらしい。
遣唐使が持ち帰ったものということになると最後の帰朝の839年以前のものとなろう。
空海が帰朝するのが806年であるからその時に日本に持ち込まれた縁で
980年の羅城門倒壊の際に空海が建てた東寺に持ち込まれたのかもしれない。
『東寺 宝物殿』
中国産の魏氏桜桃=サクラの一種というものが使われているそうだ。
この像は国宝だが東寺には別の国宝の兜跋毘沙門天像も存在している。
『東寺 講堂 多聞天』
平安時代の作だと記載されている。
躍動の持国天は烈火の如く、攻めの増長天は風の如く、
鉄の守りの広目天は山の如く、静かなる兜跋毘沙門天は林の如くと
まさに風林火山を思い出した。
しかし並べて観てみると増長天と持国天が似た造りなのに対して
広目天は若干迫力に欠け、兜跋毘沙門天像はさらに異質に感じる。
実は大宰府の観世音寺の宝物殿にも四天王像が存在するが
とても四天のバランスがいい。
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観世音寺の宝物館に置かれていることを紹介したが
『大宰府 観世音寺 No205』
平安京の羅城門に設置された兜跋毘沙門天像は今は東寺にある。
羅城門倒壊の際になぜか東寺に持ち込まれている。
この兜跋毘沙門天像は国産ではなく中国の唐のものらしい。
遣唐使が持ち帰ったものということになると最後の帰朝の839年以前のものとなろう。
空海が帰朝するのが806年であるからその時に日本に持ち込まれた縁で
980年の羅城門倒壊の際に空海が建てた東寺に持ち込まれたのかもしれない。
『東寺 宝物殿』
中国産の魏氏桜桃=サクラの一種というものが使われているそうだ。
この像は国宝だが東寺には別の国宝の兜跋毘沙門天像も存在している。
『東寺 講堂 多聞天』
平安時代の作だと記載されている。
躍動の持国天は烈火の如く、攻めの増長天は風の如く、
鉄の守りの広目天は山の如く、静かなる兜跋毘沙門天は林の如くと
まさに風林火山を思い出した。
しかし並べて観てみると増長天と持国天が似た造りなのに対して
広目天は若干迫力に欠け、兜跋毘沙門天像はさらに異質に感じる。
実は大宰府の観世音寺の宝物殿にも四天王像が存在するが
とても四天のバランスがいい。
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塚田さんのサイトは初めて読んだのですが、「呉系楚人」という認識がいまひとつはっきりしません。Wikipediaあたりにも「呉系楚人」という項目はないようですね。
「句呉」に関しては下記のWikipediaに解説があります。春秋時代の呉人をテーマにしているのであれば要旨は同じだと思うのですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A5%E5%91%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
塚田さんは(鯰ぬるぬるツルツル)好みの呉人と
呉系楚人を区別されていて
秦氏などは呉系楚人と書かれていました。
それで油獏さまがおっしゃる句呉と呉の区別が
もしや呉と呉系楚人ということになるのかと
思って質問しました。
私は鯰信仰は呉人の信仰だと感じています。
ただ文化の輸入なのか民族の移動まであったのかは
判断がついていません。
ところで
周王朝の太伯が祖ってちょっとカッコいいですよね。
返信が遅れて申し訳ありません。
呉系楚人ってなんとなく意味深な言葉だと思います。
日本において歴史上重要な役割を果たした
中国の狗呉の系譜はなんとしてもきちんと理解したいのですが、
全く自分レベルでは構築不能です。
でも自分が知りたい九州の太古の歴史を知る上では
避けて通れないのも事実です。
博識な油獏さまの再構築結果を
胸躍る気持ちで待っています。