吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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藤原不比等の后となった県犬養三千代が賜った橘姓 No229

2011-02-17 02:38:54 | 日記
県犬養三千代は美努王に嫁して葛城王(後の橘諸兄)を産んでいるのだが、
夫の美努王が大宰帥として筑紫に赴任中に離縁して
権力者である藤原不比等の後妻となっている。
この県犬養三千代は和銅元年708年に行なわれた元明天皇の大嘗祭で
酒盃に浮かべた橘とともに橘宿禰の姓を賜っている。
それでその一幕を続日本紀で確認しようとして
続日本紀の708年の欄を見たのだが記載されていなかった。
調べてみるとその一幕は続日本紀の天平8年736年に
記載されている葛城王と弟の佐為王の聖武天皇への奏上文の中にあった。
この奏上文の中身は弟の佐為王と共に母である橘三千代の姓氏である
橘宿禰を継ぐことを願い出たものだ。
《天平八年(七三六)十一月丙戌【十一】》の項参照
天皇、誉忠誠之至。賜浮杯之橘。
勅曰。橘者、果子之長上。人之所好。柯凌霜雪而繁茂。葉経寒暑而不彫。
与珠玉共競光。交金銀以逾美。
是以、汝姓者、賜橘宿禰也。
この記載の中で、橘についての説明がある。
橘はくだものの中で最上に位置する。人々は好んでいる。
枝は霜雪にもめげずに繁茂して葉は寒暑にあっても凋まない。
輝きは珠玉とも競うほどである。金銀にもまして美しい。
そのように橘について書かれている。
これを読む限り橘とは蜜柑のこととしか考えられない。
708年といえば葛城王が24歳の時で736年は52歳になっている。
当事者である県犬養三千代は733年に死去している。
少なくとも708年には蜜柑が日本にあったと考えて良かろう。
ただ元明天皇は女帝であり県犬養=橘三千代も女性であるから
金柑レベルの酸味でも美味しいと感じるかもしれない。

いずれにせよ橘は珍奇で高貴なものであった筈で
だからこそ橘姓を授ける意味があったといえるし
その裏には弟橘姫の伝承があるのも間違いない。
弟橘姫は命を捨てて夫を助けるが、
橘三千代も天皇にそれだけ命を惜しまずに仕えたというのだろう。

蜜柑の生産は記録上は熊本が最も古いが、
この珍奇で高貴な蜜柑栽培をもたらした人物は
肥後初代国司の道君首名公と考えて間違いないだろう。
唐もしくは新羅からの船が九州に到着した際に
九代目の遣新羅使の権限で苗を分けて貰ったのだろうと考えている。

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