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2023.4滋賀 滋賀院門跡・日吉東照宮を歩く

2024年03月15日 | 旅行

 2023.4 滋賀 滋賀院門跡・日吉東照宮を歩く

 県道47号に戻って北に5kmほど走り、県道沿いの駐車場に車を止めて滋賀院門跡に寄る。
 滋賀院は、1615年、107代後陽成天皇が天台宗の僧天海(1536?-1643)に京都法勝寺を下賜し、当地に移して建立した寺である。
 天海の生年が正しいとすると没年は107?108?歳になるが真偽はおいて、京都法勝寺を移築し寺を建立した1615年ごろ、天海は徳川家康の相談役だった。1616年、天海は大僧正となる。同年、家康は葬儀は増上寺、遺体は久能山、位牌は三河の大樹寺、1年後に日光に改葬と遺言し、息を引き取る。天海大僧正は1616年に増上寺での葬儀を行い、1617年には2代秀忠の日光東照宮建立を補佐して日光への改葬を行い、江戸城の鬼門=北東にあたる現在の上野公園に東叡山寛永寺を建立(1625年)する準備などで大忙しだったから、当地の滞在は慌ただしかったに違いない。
 天海没後の1655年、108代後水尾天皇から滋賀院の号を贈られる。以後江戸時代末まで、滋賀院は延暦寺の貫主で天台宗の長である天台座主になった皇族代々の居所として使われ、高い格式を誇った。1877年、建物が全焼、1879年に比叡山無動寺谷法曼院などの建物を移築して再建され、1908年に慈眼堂内の羅漢堂が滋賀院内仏殿として移築再建された。

 県道沿いの駐車場から石垣+生け垣の急坂を下り、左に折れて石畳を進む。石垣の上は漆喰塀に変わり、少し先に奥まった勅使門が建つ(写真web転載)。
 漆喰塀には定規筋と呼ばれる横線が5本入っている。5本は最高位を表す。重厚な桧皮葺の唐破風も格式の高さを示す。
 勅使門の先に冠木門が構えていて、拝観・Pの看板が立っていた(写真web転載)。別の道からは車で冠木門を進入でき、境内に駐車することができる・・車で境内に入ってしまうと勅使門を見落とすかも知れない・・。

 唐破風を乗せ堂々たる構えの本堂式台で受付をする(写真)。
 展示品を見ながら順路を進む。記憶では、天海僧正の鎧兜(僧正だから鎧兜は着用しないと思うが)、天台座主が乗った輿、延暦寺から分灯した不滅の法灯、巨大な磬子(きんす=仏教で用いる鉢状の鐘)、円山応挙の襖絵(写真)、狩野派の障壁画などを見る。
 円山応挙(1733-1795)は丹後国現亀岡市で生まれ、京で狩野探幽派の石田幽汀に絵を学んだ江戸時代中~後期を代表する画家である。愛らしい犬を描いた狛犬図を美術展で見たことがある。この襖絵は痛んでいて絵が不鮮明であり、応挙の犬が可哀想だった。
 順路なりに階段を上り、内仏殿で本尊薬師如来に合掌する。内仏殿からは琵琶湖を遠望することができる。

 順路を戻り、庭園を眺める(次頁写真)。小堀遠州(1579-1647)の作庭で、中央に蓬莱山、左右に鶴島石組と亀島石組(写真手前)を配置した池泉式庭園である。鶴も亀もそう思って眺めると鶴と亀に見えてくる。
 小堀遠州については、2023年2月に備中松山城主だったことを知り(HP「2023.2岡山 備中松山城を歩く」参照)、2023年3月に龍潭寺庭園を作庭したことを知ったばかりで(HP「2023.3静岡 龍潭寺を歩く」参照)、幅広い活躍に改めて驚かされる。
 庭園の先に穴太衆による石垣が見える(写真)。
 穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太の出身で、古墳築造に始まり、延暦寺などの寺院の石工を任され、安土城で石垣技術が高く評価され、各地の城郭の石垣構築にも携わるようになった。
 戦国~江戸の築城でしばしば穴太衆が登場する。金沢城や江戸城にも穴太衆が積んだ石垣がある。滋賀の旅のガイドブックに穴太衆が紹介されていて、その一つが滋賀院門跡だった。滋賀院門跡の石垣は野面積みで、穴太衆が大小さまざまな自然石を巧みに組み合わせ、堅固な石垣に積み上げる技術に優れていたことをうかがわせる。
 野面積みは自然石を組み合わせた石垣なので隙間があり、敵が上りやすい欠点がある。このため、城郭では石を加工し、隙間をなくす積み方=粗加工石積み=打込接が広まる(写真web転載、金沢城河北門)。
 さらに、石と石の接合面をあらかじめ加工して隙間なく積み上げる=切石積み=切込接へと発展する(写真web転載、金沢城二の丸北面)。
 手間暇、費用は、野面積み>打込接>切込接で、金沢城では適材適所に3種類の石垣が築かれていた(HP「2018.5 金沢を歩く4 金沢城」参照)。
 切込接になると敵をはねつける防御と同時に城主の威信が表現され、人を寄せつけない冷たさを感じるが、滋賀院門跡などの野面積みは、自然に馴染んだまろやかさを感じる。天台座主は野面積みの石垣に囲まれた境内、小堀遠州の庭で心を平らかにしたのであろう。
  

 滋賀院門跡をあとにして急坂を上り、駐車場に向かう。滋賀院門跡あたりの標高はおよそ140m、駐車場あたりの標高がおよそ161m、20mの高低差だからかなりの上り勾配である。上りきると、駐車場の横に日吉東照宮の石段が上っている(写真)。
 話が前後するが、徳川家康は葬儀は増上寺、遺体は久能山、位牌は三河の大樹寺、1年後に日光に改葬、と遺言する。2代秀忠は徳川の威信を懸け、突貫工事で1617年に東照社を建立する。3代家光は21年忌に向け東照社の大改修、大改築を行い、1636年に完成する。1645年、朝廷より宮号が授与され、以後、東照社は東照宮と呼ばれる。
 天海大僧正の念頭には京都の鬼門=北東を鎮護する比叡山延暦寺があり、徳川に進言し、1625年に江戸を鎮護する東叡山寛永寺の造営を主導した。同時に、1617年の2代秀忠による日光東照社建立、1736年の3代家光による東照社大改修を主導していた。
 天海の頭には家康、秀忠、家光、日光東照社、日光輪王寺、東叡山寛永寺などが渦巻いていただろうから、比叡山麓の寺=現滋賀院門跡に来たとき、ごく自然に当地に家康を祀る東照社建立が発想されたのではないだろうか。1634年、天海は日吉東照社=現日吉東照宮を建立する。
 話を戻して、石の大鳥居で一礼し、石段を見上げる。駐車場あたりの標高がおよそ161m、上りきった日吉東照宮唐門あたりの標高がおよそ192m、30mを上ることになる。一段一段踏みしめるうち、気持ちが集中する。
 上りきり、呼吸を整える。正面石段の上に唐門が建つ(写真)。柿葺き切妻屋根の四脚門で、左右に斜め格子の透塀が延びている。土日休日公開で、この日は非公開だった。
 透塀から拝殿を望む(写真)。銅瓦葺き入母屋屋根に千鳥破風、唐破風を乗せた向拝が伸びだしている。透塀からは見えないが、拝殿の奥に相の間=石の間、その奥に本殿が続く権現造だそうだ。金箔を用いたきらびやかで細やかな装飾が細工されている。翌年完成する日光東照宮が意識されたのであろうか。
 唐門、拝殿・石の間・本殿ともに国の重要文化財である。
 振り返ると、30mの高低差の石段の先に琵琶湖が遠望できる(写真)。天海大僧正の生年が正しければ白寿になる年である。天海にはかなたの江戸、さらにかなたの日光が見えていたのかもしれない。  (2024.3)

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