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2021.10新潟を歩く 麒麟山 阿賀野川舟下り

2022年03月30日 | 旅行

新潟を歩く>  2021.10 新潟を歩く 麒麟山・阿賀野川ライン舟下り

 瓢湖をあとにして若松街道と呼ばれる国道49号線を南に走る。ナビに阿賀野川が現れ、国道49号線は東にカーブする。阿賀野川は何度も大きく蛇行していて、国道49号線も何度か阿賀野川を渡る。
 磐越西線津川駅近くで阿賀野川に架かるきりん橋を渡って間もなく国道459号線に折れ、ほどなく麒麟山温泉絵かきの宿福泉に着いた。
 宿は阿賀野川に面していて、部屋からも露天風呂、大浴場からも阿賀野川の遠大な風景を眺めることができる(写真、部屋から)。
 このあたりの阿賀野川は、川幅は広いが波立っているから深さはなさそうで、大雨ですぐ氾濫しそうである。彼方の山は飯豊朝日連峰らしい。宿の主が絵描きなのか、絵描きがよく泊まりに来るのかは聞き損なったが、絵筆を取りたくなるような風景である。
 和会席の夕食は盛りだくさんで、海老などの小付、前菜、鯛などのお造り、山女の塩焼き、萩真丈などの煮物、牛肉の朴葉味噌焼き、天麩羅が続き、食後には手作りのプリンが出た。食べ過ぎである。
 地元には麒麟山酒造がある。地域に根ざした酒造りを進めていて、蔵人も米作りをし、植林・山作りもしているそうだ。利き酒セットを味わった。端麗辛口を基本に、まろやかさ、酸味を変えているようだった。
 寝しなに、阿賀野川の流れを感じながら露天温泉で体をほぐし、ぐっすり休んだ。

 3日目朝、阿賀野川と常浪川の合流点にそびえる標高194.7mの麒麟山に向かった。新潟県の天然記念物に指定されている植物や野鳥の宝庫でそうだ。
 由来を記した説明板が立っていた。1252年、会津・芦名一族の藤倉氏が麒麟山に津川城を築城し、その子孫金上氏が居城・・wikipediaでは1252年に会津佐原氏の一族金上氏が築城と紹介されている・・、戦乱のなかでも津川城主金上氏が続いたが1589年に伊達政宗に敗れ、・・wikipediaではその後の城主の変遷が紹介されている・・、関ヶ原の戦い後の1627年に廃城になったそうだ。・・
 麒麟山には津川城跡を巡る城址コースと天然記念物などの自然を巡るコースが整備されていて、どちらも2時間の行程である。阿賀野川を展望できる城址コースの本丸跡まで上って戻ることにして、うっそうとした山道を上る(写真)。
 山道は整備されているが林がうっそうとし阿賀野川は見えない。侍屋敷跡、空堀跡、二の曲輪跡、出丸跡を過ぎ、津川城本丸跡に着く。25分ほどの行程だった。
 本丸跡からは阿賀野川と飯豊朝日連峰がよく見える(写真)。会津藩と新発田藩を結ぶ越後街道=会津街道は会津五街道の一つとして重視されていて、阿賀野川と越後街道=会津街道を見晴らせる麒麟山は交通の要衝だった。麒麟山に平地は少なく、城下町もないが、交通の要衝が津川城築城の理由であろう。
 整備された山道なので下りは早い。20分ほどで駐車場に戻り、道の駅・阿賀の里に向かう。

 道の駅・阿賀の里は国道49号線を西に走り、磐越西線東下条駅を過ぎた左手=南にある。狙いは、道の駅から発着する阿賀野川ライン舟下りである。
 話は日光金谷ホテルに飛ぶ。幕末の1859年、アメリカの医療伝導宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンJames Curtis Hepburn(1815-1911、いまはhepburnはヘップバーンと和訳される)が妻とともに来日し、医療活動に従事しながら聖書の日本語訳、和英辞典の編纂に努め、横浜にヘボン塾を開設するなどヘボン式ローマ字を広めた。現在の明治学院大学の前身である明治学院の初代総理に就任し、高橋是清、島崎藤村などを輩出している。
 ヘボンが日光を訪ねたとき東照宮楽師の金谷氏が自宅に泊め、それを聞いた外国人が金谷宅に泊まるようになった。金谷氏は外国人が気楽に滞在できるように、1837年、自宅の一部を改修して外国人向け宿泊施設「金谷カッテージ・イン」を開業した。
 その後、金谷氏は空きホテルを修理、増築して1893年に金谷ホテルを開業する。これが東照宮の神橋の少し手前に建つ金谷ホテルの始まりになる。

 1878年、女性冒険家・探検家のイザベラ・バードIsabell Lucy Bird(1831-1904)が来日し、金谷カッテージ・インに滞在する。
 イザベラ・バードはイギリス・ヨークシャー生まれで、幼少のころ病弱だったため転地療養するうち旅好きになり、1856年にアメリカ、カナダを旅し、The Englishwoman in Americaを書く。その後も世界各地を旅し、旅行記をまとめている。
 1878年に来日したイザベラ・バードは、通訳兼従者を雇って6月に金谷カッテージ・インに滞在したあと9月にかけて会津から新潟を経て北海道に至る旅をし、のちにUnbeaten Tracks in Japan日本奥地紀行を書いた。10月には神戸、京都、伊勢、大阪も訪ねている。
 その後も、インドからペルシャ、チベット、1894年にカナダから清国、日本、朝鮮を訪ね、1901年にはモロッコを旅している。
 イザベラ・バードが会津から新潟に向かう途中、津川に滞在したそうだ。「日本奥地紀行」は読んでいないが、阿賀野川ライン船下りの乗船券には、「・・ドイツのライン川に似てとてもすばらしい景色・・」「・・鱒の塩焼きが大変美味しかった・・」とイザベラ・バードの手記を紹介している。

 阿賀野川ライン船下りに利用されるジェット船の名前は「イザベラ・バード」で、定員44人、40分の周遊である。乗船券2500円を購入し、11時発に乗り込む。15名ほどのグループは後ろ側に座ったので、最前席に座る。
 目の前に「イギリスの女性旅行家イザベラ・バード46歳の阿賀流域行路を辿る 横浜~日光~会津~津川~新潟~山形~秋田~青森~函館~室蘭~苫小牧~神戸~京都~伊勢神宮~大阪へと旅をする」などと書かれたポスターが貼ってあった(写真)。
 元遊覧船の操縦士だったガイドはなめらかな口調で、四季折々の自然や水鳥、途中の咲花温泉のエピソード、イザベラ・バードの旅などを語ってくれた。観光に寄与しイザベラ・バードも喜んでいるかもしれない。
 阿賀野川の流れは穏やかで、ジェット船はしぶきを上げずにまず下流に向かい、Uターンして乗船場を過ぎて上流に向かい、Uターンして40分周遊の予定通り乗船場に戻った(写真はジェット船からの眺め)。
 記憶では、ドイツのライン川はもっと川幅が広く、ローレライ伝説が生まれるほどの難所の岩場があり、高台ごとに古城が見えた。「ライン川に似てすばらしい」は、筆が走りすぎたのではないか。

 11:40過ぎに道の駅・阿賀の里を出て、国道49号線を西に走る。新潟市に入って間もない12:40ごろ海鮮寿司処ことぶき寿司を見つけた。開放的な店構えなので、本日のおすすめ8貫盛り1936円を食べた(写真、2貫を食べてから撮影)。新潟は海の幸が新鮮である。
 時間があったので西海岸の浜辺で日本海を眺め(写真)、新潟駅でレンタカーを返し、駅ビルのスターバックスでコーヒーを飲み、16:10発とき332で家路についた。
 おおざっぱなスケジュールだったが、新発田城址、堀部安兵衛、イヨボヤ会館、鮭の人工ふ化、千年鮭きっかわ、黒塀プロジェクト、福島潟、潟博物館、瓢湖の白鳥、麒麟山津川城跡、阿賀野川ライン舟下り、イザベラ・バードなどなど、盛りだくさんの体験をし、記憶を思い出した。大いに「心」「身」を刺激することができた。  (2022.3)

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