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2024.5 皇居三の丸尚蔵館を歩く

2024年07月03日 | 旅行

日本を歩く>  2024.5 皇居三の丸尚蔵館を歩く

 2024年1月に京都・相国寺承天閣美術館伊藤若冲筆の「動植綵絵」30幅などをじっくり見た(紀行文未稿)。実物は宮内省に寄贈されていて、30幅は精密なコロタイプ複製だが写真撮影は禁止である。宮内省に寄贈された実物は国宝として皇居三の丸尚蔵館に収蔵されている。(伊藤若冲についてはHP斜読・河治和香著「book561 遊戯神通 伊藤若冲」参照)
 帰宅後、皇居三の丸尚蔵館で2023年11~12月に皇室のみやび第1期・動植綵絵・老松白鳳図など4幅の公開が終わり、2024年5~6月に第4期・動植綵絵・老松孔雀図などの4幅が公開されるのを知った(ポスター転載)。皇居三の丸尚蔵館は、75歳以上は無料だがオンラインによる日時指定制なので、オンラインで第4期の希望日時を予約し、出かけた。
 三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた美術品が1989年に国に寄贈されたので、収蔵美術品の保存、研究、公開を目的として1993年に皇居東御苑内に開館した。尚蔵は、古代律令制において蔵司の長官を指し大切に保管するという意味であり、旧江戸城三の丸に建設されたことから三の丸尚蔵館と名づけられ、一般に公開されてきた。2019年から収蔵庫、展示室を拡充するなどのために新たな施設の建設が進められていて、全館開館は2026年だが、2023年に一部が開館した。入館は初めてである。

 JR東京駅丸の内中央口で下りる。三の丸尚蔵館は大手門から入るので丸の内北口の方が近いが、辰野金吾設計の東京駅を背にして、丸ビル、新丸ビルのあいだを抜ける皇居前東京停車場線=都道404号を見はるかすと、かなたに無血開城で明治維新を迎えた江戸城=皇居を望むことができる。260年続いた徳川幕府を思うもよし、明治維新を思うもよし、辰野金吾の東京駅を思うもよし(辰野金吾についてはHP斜読・門井慶喜著「book553東京 始まる」参照)、丸の内オフィス街の変遷を思うもよし。私には、大学時代、O設計部のアルバイトで丸の内に日参した遠い記憶が重なる。
 皇居前東京停車場線を皇居に向かって西に進み、日比谷通りを渡ると堅固な江戸城の石垣が現れる(写真)。左の壕は馬場先壕、右は和田倉壕と呼ばれる。
 さらに西に進み、皇居前広場で左=北に折れると、桔梗壕の先に大手門が見える。大手門で手荷物検査の列に並ぶ(写真)。外国人観光客も多い。

 江戸城は徳川家康の命で藤堂高虎が縄張りし、天下普請で修築、増築が進められた。大手門は1607年に藤堂高虎によって作られた高麗門形式だが、1657年の明暦の大火で焼失し、1659年に再建された(写真正面、藤堂高虎についてはHP斜読・火阪雅志著「book478 虎の城」参照)。
 大手門の右奥に渡櫓が見える。1620年、伊達政宗、酒井忠世によって枡形形式に渡櫓が作られたが、明暦の大火で焼失し、大手門と同じく1659年に再建されたようだが、1945年の空襲で焼失し、1965年から始まった復元工事で渡櫓が再建され(前頁左写真)、大手門も修復された。大手門を入ると枡形の右手にが展示されている(前頁右写真)。刻印から1659年の再建時の鯱と推定されている。

 渡櫓の先に三の丸尚蔵館が建つ。手前側は工事用仮囲いで、2026年完成を目指し工事が進められている。奥が開館中の尚蔵館で、同時間の予約組がすでに列を作っている。外国人も少なくない。入館時間は予約制だが退館は自由なので、感激で満ち足りた人がパラパラと出てくる。期待が高まる。予約時間になり、スタッフの案内で入館し受付で予約QRコードをかざす。不要な持ち物はロッカーに預け、奥の展示室2に入る。
 前掲ポスターに取り上げられた伊藤若冲(1716-1800)筆の国宝「動植綵絵・老松孔雀図」を始め、「芙蓉双鶏図(左写真)・蓮池遊魚図・諸魚図」が目を奪う。
 離れてみると鳥や魚が動いているように感じるし、近寄ると細かな筆裁き、立体感を感じさせる描き方に驚かされる。実物の国宝だが、写真撮影可なので記憶と記録のために写真を撮ったが、およそ143cm×80cm×4幅の迫力を写しとることことはできない。4幅を行ったり来たり離れたり近づいたり何度も鑑賞する。
 諸魚図には足を伸ばして気持ちよく泳ぐ蛸が描かれているが、蛸の足に子蛸がしがみついている。伊藤若冲はユーモアたっぷりにほほえましい蛸の親子を描いている。観ている私も楽しくなる。

 酒井抱一(1761-1829)筆・花鳥十二ヶ月図のうちの二月・菜の花雀、三月桜雉子、十月柿小禽、十一月芦に白鷺(前頁右写真)が展示されている。抱一の風景描写は巧みである。
 展示室2は小さな矩形の部屋なので、作品を身近に鑑賞できる。

 展示室1に移る。展示室2の倍ほどの大きさで、入った早々、金地に並ぶ獅子が睨みつける。国宝・唐獅子図屏風で右隻が狩野永徳(1543-1590、上写真)、左隻が狩野常信(1636-1713、永徳の次男・隆信の子が探幽、探幽の弟が尚信、尚信の子が常信)である。左隻の獅子と右隻の獅子はともに威厳を見せつけるが、左隻・永徳の方が迫力を感じる。とはいえ、6曲1双に描かれた金地の獅子はいまにも動き出しそうに勢いがいい。
 横山大観筆6曲1双の「朝陽霊峰」、17世紀の8曲1双の「萬国絵図屏風」も目を引くが、並河靖之作「七宝四季花鳥図花瓶」(中写真)、戸島光孚ほか作「双鶏置物」、高島屋呉服店作「閑庭鳴鶴・九重ノ庭之図刺繍屏風」(下写真一部)に驚かされる。人間の技は限りなく研ぎすまされていくようだ。

 展示室1・2あわせ14点の展示だったが、類い希な名品に接し感嘆の連続だった。展示が多すぎると記憶が混濁し、感動が薄れてしまう。14点でも感嘆で息切れしそうだった。スタッフにお礼を言い、次の展示予定を聞くなどして尚蔵館を出る。

 三の丸尚蔵館は東御苑の東寄りに位置する。東御苑を散策することにして、尚蔵館を出て西に歩き、同心番所あたりで北に折れ、二の丸庭園を歩く(写真)。東御苑は無料開放されているので、散策する人が多い。軽装で家族連れの外国人もいる。東京に住んでいるのであろうか。二の丸庭園は菖蒲には早いが、水辺は清々しい。
 二の丸庭園から都道府県の木を植えた散策路を抜け、汐見坂を上って本丸に上る。今日は日射しが強い。芝生の本丸は日陰がないので人は少ないが、天守台に上る人は多い(写真)。高いところに上ろうとするのは人間の習性のようだ。

 徳川家康が築かせた天守は東御苑の西、富士見多聞辺りのようだ。黒田官兵衛の子・黒田長政が築城を担当し、1606年に完成した。1622年、徳川2代秀忠は本丸拡張に着手、当初の天守を撤去し、現在の天守台辺りに新たな天守台+天守を築く。1637年、徳川3代家光は秀忠の天守を修築する。屋根に金の鯱を載せた5層6階で、天守台の高さが14m、天守の高さが45m、本丸から見上げると58mの高さを誇ったそうだ。ところが1657年の明暦の大火で本丸御殿も天守も焼失する。
 1658年、加賀藩主・前田綱紀の普請で、堅固な花崗岩を積み上げた天守台が築かれる。これが現在に残る天守台で、東西41m、南北45m、高さ11mになる。徳川4代家綱に、家光の異母弟で家綱の後見役だった陸奥会津藩主・保科正之は、明暦の大火による被災者の救済、江戸の復興を優先するよう進言、天守再建は見送られる。その後の泰平の世に天守の必要性もなくなり、天守の代用として明暦の大火後に再建された富士見櫓(写真web転載、非公開)が利用された。
 全国の藩も江戸城に倣い、新たな天守の築造を控え、天守を3階櫓などと呼ぶようになった。
 
 天守台に上り、皇居周辺を一望する。天守台の東に、1966年、香淳皇后の還暦記念として建設された桃華楽堂が優美な姿を見せる(写真)。
 外壁はモザイクタイルで大きく羽ばたく鳥、日月星、衣食住、風水火、春夏秋冬、鶴亀、雪月花、楽の音、松竹梅などが表されている。設計は今井兼次(1895-1987)である。ガウディをいち早く日本に紹介し、長崎の日本26聖人記念館など個性的な作品を残している。
 天守台から徳川幕府260年を思うもよし、桃華楽堂から話を一気にサグラダ・ファミリアに飛ばすもよし。天守再建の活動が進められているらしい。天守が再建されれば東京の観光名物が増えそうだが、多額の建設費用を考えれば会津藩主・保科正之の言を再考すべきではないだろうか。天守台を下り、本丸をあとにして東御苑を出る。  (2024.7)

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