yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「等伯」斜め読み4/4

2023年06月15日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>   book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015 

下 第10章 松林図
 祥雲寺方丈に続き仏殿、法堂、大庫裏などの内装は長谷川派に任され、等伯は200人を超える職人を率いて絵を描いていく。
 久蔵は、名護屋城の御座の間、大広間の絵を描くため名護屋城に向かう。名護屋城のほかの障壁画は、狩野永徳の長男光信が請け負い、狩野派が描いている。
 朝鮮出兵のその後が挿入されるが割愛。
 病に伏した松栄から会いたいとの連絡があり、等伯は狩野図子の屋敷に出かける。松栄は、せがれ永徳の天才ぶりに野生の血を持つ信春をぶつけようとした、永徳の唐獅子図屏風は信春に出会った永徳が自分の殻を破ろうともがいた結果、と話す。ほどなく松栄没す。


 等伯55歳は祥雲寺大庫裏の絵を仕上げていく。正面の松に雪はまだ納得できないが、西側の猿猴図は評判になり、下絵を見た秀吉から褒美が届く。
 清子に男の子が生まれ(のちの左近)、久蔵がお祝いに戻ってくる。等伯は久蔵とふるさとの七尾へ向かう。妙蓮寺で静子の遺骨を受け取り、気比神社に参詣、翌日は気多大社に参詣する。正覚院所蔵の信春が26歳のときに描いた十二天像の話が挿入されるが割愛。
 七尾は前田利家の所領となり町は大きく変わった。かつての長谷川家は跡形もなかった。長寿寺は本延寺の日便上人が兼務していて、静子の遺骨を納め追善供養を行う。
 翌朝、まだ夜は明けていないが等伯は七尾湾の松林に出かけ、海面から水蒸気が立ち上り、手前の松は色濃く、遠ざかるにつれ次第に薄く見える風景を目に収める(この風景が松林図に反映される)。
 清子の仲立ちで久蔵が見合いするが、割愛。


 等伯が出家した畠山義綱から、夕姫は石田三成に謀られ、琵琶湖で口封じのため水死させられたと聞く話は割愛。
 夕姫の悪夢にうなされた等伯は、善女竜王を祀る神泉苑で占ってもらうと、遠くにいる息子に災いが起きると告げられる。急ぎ久蔵に護符を届けさせるが間に合わず、久蔵が名護屋城の外壁に絵を描いているとき足場が崩れ転落死したと知らせが入る。追って、名護屋城造営奉行をつとめる浅野弾正の配下が、久蔵の遺骨を届ける。
 不審に思った等伯と清子が、清子の伯父の豪商油屋を通して調べてもらうと、狩野派の企みと分かる。
 等伯が京都所司代前田玄以に相談すると、玄以は、秀吉は朝鮮出兵の頓挫に苦慮していて名護屋城での不祥事が明らかになるのを避け、ことを穏便に納めようとしている、淀が懐妊したので世継ぎが生まれると石田三成らが権力を握ることになり、三成には逆らえない、と話す。
 納得できない等伯は、狩野宗光の側女が住む別宅に乗り込み、宗光を押さえ込んで小刀で脅し、裏狩野=忍び狩野が久蔵を転落死させたこと聞き出し、念書を書かせる。


 等伯は、大徳寺天瑞寺での秀吉の母=大政所一周忌の法要への参列を許されたので、訴状を胸にしのばせ下座で控えていた。酒宴を終え秀吉が茶会に向かうとき、等伯は三成が止めるのを振り切り訴状を秀吉に渡そうとして警固番に取り押さえられる。
 秀吉の怒りを買い、三成も投げ飛ばしたので万事休す。そこへ出家して龍山と名乗る近衛前久が現れ、秀吉に、一時の怒りで絵描きを処刑するのは金の卵を産むにわとりを殺すようなもの、と言う。秀吉は、等伯の絵が余の目にかなったなら処刑はやめる、さにあらば龍山公にも責任を取ってもらう、と応じる。
 前久は等伯に、これまで誰も見たことのない絵を描けと注文する。秀吉は伏見城への移徙(わたまし=転居)の酒宴に、絵か、絵描きの首を引出にすると公言する。


 等伯は山水図を画題とし、祥雲寺書院に描ききれなかった七尾の海の霧にかすんでいく松林を描こうとする、が筆が進まない。
 本法寺に籠もり、本尊曼荼羅の前で勤行する。虚空会(時間、空間を超えた永遠の世界=仏の悟りの世界)に加わる如来の一人になりきり、悟りに向かって一心不乱に唱題していると、目の前に霧の情景が広がった。
 等伯は、11歳のとき長谷川家に養子に出され、辛さと悲しみに打ちのめされて家を飛び出したときの、気嵐が立ちこめる七尾の海の情景に迷い込んでいた。寒風に吹きさらされた浜辺の松は、遠ざかるにつれて気嵐の中に消えていく。それは死んだ者、失意の者が黄泉の国に向かう姿のようだ。
 在りのままの実相を描き、悟りの世界にいざない、見る者すべてに己に通じるものがあると感じさせる絵、等伯の筆が勝手に走り出す。三日間、寝食を忘れ、33枚の大判の紙に描き続け、完成とともに気を失う。
 気づいた等伯に、大徳寺の春屋宗園が眼福にあずかった、寿命を延ばしてくれた、と語る。
 等伯は、秀吉の伏見城移徙の日に松林図を携え伏見城に赴く。大広間で開かれていた100名近い酒宴が終わる。秀吉の声で大広間の襖が開かれる。百畳近い大広間は松や虎の絢爛豪華な障壁画がつらなり、上段の間の後ろには大きな唐獅子がにらんでいる。
 等伯は、縦五尺二寸、横十一尺八寸、六曲一双の松林図屏風を立てる。霧におおわれた松林が姿を現し、風に吹かれた霧が幽玄の彼方に人の心をいざなう(写真web転載、東京国立博物館所蔵、国宝)。
 近衛前久が等覚一転名字妙覚(法華経の教えで、等伯が初心にかえり普遍的なところに突き抜けたことを意味する)と言う。
 秀吉、家康ら、戦国の世を血まみれになって生き抜いてきた者たちが、松林図に心を洗われ、在りのままの自分にもどり、涙を流した。
 秀吉は龍山公の慧眼に感服し、等伯を誉め称える。


 それから16年、松林図を描いて以降も多くの絵を描き、1605年に朝廷から法眼に叙される。
 清子は先立ち、宗也、左近も絵師として成長する。
 1610年、家康に招かれて江戸に向かう旅で等伯は病を患い、江戸に着いてほどなく息を引き取る。
 享年72歳、波瀾万丈の生涯だったが利休の言葉通り絵師の道に命をかけて大成し、近衛前久、春屋宗園、豊臣秀吉、徳川家康・・・・、現代においても見る人の心に迫り続けている。
 安部龍太郎氏の力量のお陰で、長谷川等伯をよく理解できたし、等伯の絵の見方も学ぶことができた。
  (2023.6)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「等伯」斜め読み3/4 | トップ | 2022.9山梨・湯村温泉を歩く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

斜読」カテゴリの最新記事