<斜読・日本の作家一覧> book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015
下 第7章 大徳寺三門
聚楽第普請は1586年2月に始まり、翌1587年秋にほぼ完成する。信春は永徳らとともに障壁画に腕を振るう。久蔵が腕を上げ、狩野派の若い弟子からも兄貴分として慕われる。永徳は信春に、久蔵を預かり、一流の弟子に育てたいと申し出る。信春は久蔵が狩野派の弟子になることに悩むが、永徳のもとで久蔵を学ばせる道を選ぶ。
久蔵は欠けたが能登屋は順調で、扇は洛中一、二を争うほど繁昌し、新たに職人を雇い、総勢12人になる。
信春は大徳寺・春屋宗園60歳に師事して禅を学び始めていた。大徳寺に行くと、宗園と利休67歳が、利休の寄進で三門を2階建てに作り替える話をしていた。信春は、三門の壁画を任せて欲しいと密かに願う。
信春は些細なことで清子と言い争い、清子が本法寺に帰ってしまう。本法寺住職になった日通上人が訪ねてきて、清子を大事な人と思うなら娶ってはどうですかと話す。清子の献身に気づいた信春は結婚を申し出る。信春は久蔵に、清子との結婚を伝える。久蔵は二十四孝図屏風で忙しく、かなり遅れて了解の返事が届く。
永徳は信春に聚楽第本丸御殿内覧会を知らさなかったので、利休が信春を内覧会に同行させる。信春の襖絵は、永徳の差し金で?別の部屋に移されていたが、永徳のきらびやかな襖絵に信春は度肝を抜かれる。
利休屋敷に誘われた信春に利休は、永徳の絵は本物の美しさではないと話す。そこに、秀吉、石田三成29歳が来る。秀吉は信春に、二の丸対面所の梅の枝にとまった二羽の雀は若いころのわしと嬶のようで気に入った、と話す。三成は、永徳が三門の壁画を寄進したいと申し出たことを明かす。
話は秀吉が聚楽第に迎える後陽成天皇18歳の御幸に移るが割愛。
信春が大徳寺を訪ねると、春屋宗園が三門の絵のことかと信春の魂胆を見透かし、信春に在りのままの自分とは何か分からぬようでは修行が足りないと、追い返す。
信春は1年間苦しみ、心を形としてはとらえることはできないが、在りのままの自分は絵に現れることを得心し、急いで大徳寺三弦院を訪ねる。長老は留守だったので、僧の制止を振り切り秀吉からの襖に心の内からわき上がってくる想いに従って一心不乱に筆を振るってしまう。
1589年5月、秀吉53歳と淀殿とのあいだに鶴松が誕生する。宗園と利休は信春の襖絵を鶴松様の誕生祝いにすると話し、二人は三門の壁画も信春に頼むと言う。
三門壁画には手手が必要なので、信春は狩野永徳に久蔵を返すよう頼む。ところが、久蔵は永徳の企みで?、加賀・前田家の仕事に行かされていた。
信春は三門の下絵にとりかかる。信春は、自分の内の何者かが絵という形をとって飛び出しているように感じながら筆を振るう。天空でとぐろを巻く龍、体をくねらせ鋭い爪を立てる昇り龍と降り龍、怒気を発し人間の弱さや愚かさを見据える阿吽の仁王に、宗園は感心し、信春の精進をほめる。
狩野の嫌がらせで職人が集まらなかったが、久蔵が狩野派を飛び出し金沢から戻り、久蔵を慕って狩野派の若手七人も来てくれ、三門の壁画が完成する。
利休は信春に等白の号をすすめ、秀吉以下諸大名列席の落慶法要が行われて、等白の名が知れ渡る。
下 第8章 永徳死す
1590年、秀吉は小田原・北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣命令が下る話は割愛・・阿部氏は歴史に詳しく、信春=等白=等伯の活躍にからめて時代の動きが描写される・・。
長谷川等白の大徳寺三門の壁画の評判が全国に知れ渡り、能登屋はてんてこ舞いの忙しさになる。清子が妊娠する。
狩野松栄の頼みで等白は久蔵を連れ、永徳に会う。永徳は傲慢な態度で接する。久蔵は、秀吉に信長像の描き直しを命じられてから永徳が心の病をわずらった、と等白に話す。
京都所司代・前田玄以から、秀吉が仙洞御所の対の屋を造営するので襖絵の絵師に等白を推薦するが、石田三成から永徳にも話が伝わっていると告げられる。等白は襖絵を描きたい気持ちに執着し、近衛前久に会うが力になれないと断られる。
兄武之丞が現れ、片目を失ったが隠棲した畠山義綱に仕えていると話す。等白は、武之丞の案内で夕姫に会い、仙洞御所対の屋襖絵の後押しを頼む。夕姫から、対の屋を巡る秀吉の駆け引きや近衛前久の立場が語られるが割愛。
等白は、夕姫の工作量?300両(≒3000万円)を清子の反対を押し切り武之丞に渡す。前田玄以から、鶴松誕生後、豊臣家が加藤清正らの武断派と石田三成らの吏僚派に勢力が割れていることが語られるが割愛。
信春は、武之丞から狩野派に対抗するために必要とさらに300両を渡す。600両は能登屋1年分の利益、不安になった等白に、玄以から 対の屋の絵が等白に決まったと連絡が入る。ところが狩野永徳が有力公家に働きかけ、朝議で等白の決定が覆り、狩野派に発注される。
等白は酒の勢いで狩野屋敷に乗り込み、永徳に裏工作は止めよ、初心に返り魂のこもった絵を描けと迫る。信春は押し止めようとする弟子ともみ合って頭から血を出し、永徳が久蔵を返せ、久蔵に絵を教えていると初心に返ることができたと話すのを聞きながら、気を失う。
それからひと月ほどして永徳が急死する。等白、久蔵は弔問に駆けつけたが、追い返される。
下 第9章 利休と鶴松
1591年、等白は清子、久蔵、清子とのあいだの子(のちの宗也)と正月を迎え、600両の損失、狩野派との行きちがいを反省し、初心に返り、自分の絵の完成をめざそうと思う。
久蔵は、父等白の絵は天才的な個性の表れのために近づけないが、永徳は狩野家の技法と修練を身につけ、さらに新しい水準に高めようとするので、自分でも鍛練を積めば絵を上達させられる、と語る。
その年、秀吉は弟秀長たちの反対を押し切り朝鮮出兵に動き出す。秀長の病没で三成ら官僚派の力が強くなり、出兵が推進される。
三成は、利休を排除しようと大徳寺三門に置かれた利休像を問題視する。等白が大徳寺を訪ねると、利休は等白に、筋の通らぬことに屈して生きるより己の生き様を貫いて命を終える方がいい、わしは茶の湯の門、お前は絵師の門を命をかけて守らねばならぬ、と話す。利休は、形見分けと言って、等白の白に人偏を書き足す。以後、等伯と名乗ることになる。
等伯は利休の助命のために力になって欲しいと夕姫に会う。夕姫は、石田三成が身辺を洗いざらい調べ、弱みを見つけ脅しをかけていると話す。
等伯は清子の止めるのも聞かず、利休助命のため等伯に宛てた利休の添え状と30両を持ち出し夕姫に会いに行く。清子は宗也を連れて家を出る・・等伯は思い込むと猪突猛進に突き進む性格で、読み手はそのたびにハラハラさせられる。阿部氏の筆裁きか?・・。
等伯の行動は報われず、利休は切腹させられる。利休のさらし首を見た等伯は怒りで自分を見失い、いつの間にか大徳寺三弦院に着く。宗園に喝を入れられ気を失う。気がついた等伯に宗園は、亡き者を背負って画境に向かえ、利休に向き合って肖像を描け、と諭す。
等伯は利休を背負って生きようと、画帳に向き合う・・このあと、清子が静子13回忌のために戻ったこと、久蔵の永徳に学んだ技法による蘇鉄の襖絵などの話が続くが割愛・・。
朝鮮出兵の話も割愛・・、1591年8月、鶴松が3歳で逝去する。ちまたでは利休の祟りと噂される。等伯が前田玄以に呼ばれて所司代を訪ねると、玄以は、鶴松供養のために祥雲寺を建立する、その障壁画を利休の祟りという噂を打ち消すため、秀吉は(利休に目をかけられていた)等伯に任せよとおおせられた、と告げる。
祥雲寺の造営奉行は、ふつうなら鶴松の母淀に与する官僚派の石田三成だが、分権派の筆頭である徳川家康につとめることになる。
等伯が秀吉に目通りすると、秀吉は、(信春と永徳の勝負で描いた)老梅に小禽図は心が和むと言い、鶴松のいる浄土の景色を描くように命じる。
またも玄以に呼ばれ等伯が所司代に行くと、夕姫に渡したはずの添え状を兄武之丞が持っていて利休讒訴の咎で斬首される、と教える。石田三成が利休死罪の批判をかわすため、夕姫、武之丞を謀ったようだ。等伯が牢獄で両目を失った武之丞と話した3日後、武之丞は斬首される・・夕姫も10章で三成によって水死させられる・・。
朝鮮出兵の準備が進む。名護屋城築城が始まる。等伯のもとに、祥雲寺方丈の図面が届く。
等伯は大徳寺真珠庵・蘇我蛇足の絵に倣おうと久蔵に話すと、久蔵は大徳寺転瑞寺・狩野永徳の絵に倣いたいと応える。等伯も久蔵に賛同し、中之間は松と黄蜀葵、礼之間は松と立葵、仏壇の間は松に春草図の金屏風、旦那之間は久蔵が桜、衣鉢之間は等伯が楓を描くなどの方針が定まる。
久蔵は自分の絵が納得できず姿を消す。等伯いわく、表現者は孤独、誰にも真似のできない境地を目指し一人で求道の道を歩かねばならない、久蔵も自ら極めなければならない。久蔵は気比の松原で松を眺め続け、見えているように描けばいいことに気づく。
二人の下絵を見た秀吉は、感服し松を天井まで突き抜けるように、久蔵に名護屋城の障壁画も任せる、と話す(写真web転載、現在の智積院所蔵国宝、左等伯・楓図、右久蔵・桜図)。 続く
下 第7章 大徳寺三門
聚楽第普請は1586年2月に始まり、翌1587年秋にほぼ完成する。信春は永徳らとともに障壁画に腕を振るう。久蔵が腕を上げ、狩野派の若い弟子からも兄貴分として慕われる。永徳は信春に、久蔵を預かり、一流の弟子に育てたいと申し出る。信春は久蔵が狩野派の弟子になることに悩むが、永徳のもとで久蔵を学ばせる道を選ぶ。
久蔵は欠けたが能登屋は順調で、扇は洛中一、二を争うほど繁昌し、新たに職人を雇い、総勢12人になる。
信春は大徳寺・春屋宗園60歳に師事して禅を学び始めていた。大徳寺に行くと、宗園と利休67歳が、利休の寄進で三門を2階建てに作り替える話をしていた。信春は、三門の壁画を任せて欲しいと密かに願う。
信春は些細なことで清子と言い争い、清子が本法寺に帰ってしまう。本法寺住職になった日通上人が訪ねてきて、清子を大事な人と思うなら娶ってはどうですかと話す。清子の献身に気づいた信春は結婚を申し出る。信春は久蔵に、清子との結婚を伝える。久蔵は二十四孝図屏風で忙しく、かなり遅れて了解の返事が届く。
永徳は信春に聚楽第本丸御殿内覧会を知らさなかったので、利休が信春を内覧会に同行させる。信春の襖絵は、永徳の差し金で?別の部屋に移されていたが、永徳のきらびやかな襖絵に信春は度肝を抜かれる。
利休屋敷に誘われた信春に利休は、永徳の絵は本物の美しさではないと話す。そこに、秀吉、石田三成29歳が来る。秀吉は信春に、二の丸対面所の梅の枝にとまった二羽の雀は若いころのわしと嬶のようで気に入った、と話す。三成は、永徳が三門の壁画を寄進したいと申し出たことを明かす。
話は秀吉が聚楽第に迎える後陽成天皇18歳の御幸に移るが割愛。
信春が大徳寺を訪ねると、春屋宗園が三門の絵のことかと信春の魂胆を見透かし、信春に在りのままの自分とは何か分からぬようでは修行が足りないと、追い返す。
信春は1年間苦しみ、心を形としてはとらえることはできないが、在りのままの自分は絵に現れることを得心し、急いで大徳寺三弦院を訪ねる。長老は留守だったので、僧の制止を振り切り秀吉からの襖に心の内からわき上がってくる想いに従って一心不乱に筆を振るってしまう。
1589年5月、秀吉53歳と淀殿とのあいだに鶴松が誕生する。宗園と利休は信春の襖絵を鶴松様の誕生祝いにすると話し、二人は三門の壁画も信春に頼むと言う。
三門壁画には手手が必要なので、信春は狩野永徳に久蔵を返すよう頼む。ところが、久蔵は永徳の企みで?、加賀・前田家の仕事に行かされていた。
信春は三門の下絵にとりかかる。信春は、自分の内の何者かが絵という形をとって飛び出しているように感じながら筆を振るう。天空でとぐろを巻く龍、体をくねらせ鋭い爪を立てる昇り龍と降り龍、怒気を発し人間の弱さや愚かさを見据える阿吽の仁王に、宗園は感心し、信春の精進をほめる。
狩野の嫌がらせで職人が集まらなかったが、久蔵が狩野派を飛び出し金沢から戻り、久蔵を慕って狩野派の若手七人も来てくれ、三門の壁画が完成する。
利休は信春に等白の号をすすめ、秀吉以下諸大名列席の落慶法要が行われて、等白の名が知れ渡る。
下 第8章 永徳死す
1590年、秀吉は小田原・北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣命令が下る話は割愛・・阿部氏は歴史に詳しく、信春=等白=等伯の活躍にからめて時代の動きが描写される・・。
長谷川等白の大徳寺三門の壁画の評判が全国に知れ渡り、能登屋はてんてこ舞いの忙しさになる。清子が妊娠する。
狩野松栄の頼みで等白は久蔵を連れ、永徳に会う。永徳は傲慢な態度で接する。久蔵は、秀吉に信長像の描き直しを命じられてから永徳が心の病をわずらった、と等白に話す。
京都所司代・前田玄以から、秀吉が仙洞御所の対の屋を造営するので襖絵の絵師に等白を推薦するが、石田三成から永徳にも話が伝わっていると告げられる。等白は襖絵を描きたい気持ちに執着し、近衛前久に会うが力になれないと断られる。
兄武之丞が現れ、片目を失ったが隠棲した畠山義綱に仕えていると話す。等白は、武之丞の案内で夕姫に会い、仙洞御所対の屋襖絵の後押しを頼む。夕姫から、対の屋を巡る秀吉の駆け引きや近衛前久の立場が語られるが割愛。
等白は、夕姫の工作量?300両(≒3000万円)を清子の反対を押し切り武之丞に渡す。前田玄以から、鶴松誕生後、豊臣家が加藤清正らの武断派と石田三成らの吏僚派に勢力が割れていることが語られるが割愛。
信春は、武之丞から狩野派に対抗するために必要とさらに300両を渡す。600両は能登屋1年分の利益、不安になった等白に、玄以から 対の屋の絵が等白に決まったと連絡が入る。ところが狩野永徳が有力公家に働きかけ、朝議で等白の決定が覆り、狩野派に発注される。
等白は酒の勢いで狩野屋敷に乗り込み、永徳に裏工作は止めよ、初心に返り魂のこもった絵を描けと迫る。信春は押し止めようとする弟子ともみ合って頭から血を出し、永徳が久蔵を返せ、久蔵に絵を教えていると初心に返ることができたと話すのを聞きながら、気を失う。
それからひと月ほどして永徳が急死する。等白、久蔵は弔問に駆けつけたが、追い返される。
下 第9章 利休と鶴松
1591年、等白は清子、久蔵、清子とのあいだの子(のちの宗也)と正月を迎え、600両の損失、狩野派との行きちがいを反省し、初心に返り、自分の絵の完成をめざそうと思う。
久蔵は、父等白の絵は天才的な個性の表れのために近づけないが、永徳は狩野家の技法と修練を身につけ、さらに新しい水準に高めようとするので、自分でも鍛練を積めば絵を上達させられる、と語る。
その年、秀吉は弟秀長たちの反対を押し切り朝鮮出兵に動き出す。秀長の病没で三成ら官僚派の力が強くなり、出兵が推進される。
三成は、利休を排除しようと大徳寺三門に置かれた利休像を問題視する。等白が大徳寺を訪ねると、利休は等白に、筋の通らぬことに屈して生きるより己の生き様を貫いて命を終える方がいい、わしは茶の湯の門、お前は絵師の門を命をかけて守らねばならぬ、と話す。利休は、形見分けと言って、等白の白に人偏を書き足す。以後、等伯と名乗ることになる。
等伯は利休の助命のために力になって欲しいと夕姫に会う。夕姫は、石田三成が身辺を洗いざらい調べ、弱みを見つけ脅しをかけていると話す。
等伯は清子の止めるのも聞かず、利休助命のため等伯に宛てた利休の添え状と30両を持ち出し夕姫に会いに行く。清子は宗也を連れて家を出る・・等伯は思い込むと猪突猛進に突き進む性格で、読み手はそのたびにハラハラさせられる。阿部氏の筆裁きか?・・。
等伯の行動は報われず、利休は切腹させられる。利休のさらし首を見た等伯は怒りで自分を見失い、いつの間にか大徳寺三弦院に着く。宗園に喝を入れられ気を失う。気がついた等伯に宗園は、亡き者を背負って画境に向かえ、利休に向き合って肖像を描け、と諭す。
等伯は利休を背負って生きようと、画帳に向き合う・・このあと、清子が静子13回忌のために戻ったこと、久蔵の永徳に学んだ技法による蘇鉄の襖絵などの話が続くが割愛・・。
朝鮮出兵の話も割愛・・、1591年8月、鶴松が3歳で逝去する。ちまたでは利休の祟りと噂される。等伯が前田玄以に呼ばれて所司代を訪ねると、玄以は、鶴松供養のために祥雲寺を建立する、その障壁画を利休の祟りという噂を打ち消すため、秀吉は(利休に目をかけられていた)等伯に任せよとおおせられた、と告げる。
祥雲寺の造営奉行は、ふつうなら鶴松の母淀に与する官僚派の石田三成だが、分権派の筆頭である徳川家康につとめることになる。
等伯が秀吉に目通りすると、秀吉は、(信春と永徳の勝負で描いた)老梅に小禽図は心が和むと言い、鶴松のいる浄土の景色を描くように命じる。
またも玄以に呼ばれ等伯が所司代に行くと、夕姫に渡したはずの添え状を兄武之丞が持っていて利休讒訴の咎で斬首される、と教える。石田三成が利休死罪の批判をかわすため、夕姫、武之丞を謀ったようだ。等伯が牢獄で両目を失った武之丞と話した3日後、武之丞は斬首される・・夕姫も10章で三成によって水死させられる・・。
朝鮮出兵の準備が進む。名護屋城築城が始まる。等伯のもとに、祥雲寺方丈の図面が届く。
等伯は大徳寺真珠庵・蘇我蛇足の絵に倣おうと久蔵に話すと、久蔵は大徳寺転瑞寺・狩野永徳の絵に倣いたいと応える。等伯も久蔵に賛同し、中之間は松と黄蜀葵、礼之間は松と立葵、仏壇の間は松に春草図の金屏風、旦那之間は久蔵が桜、衣鉢之間は等伯が楓を描くなどの方針が定まる。
久蔵は自分の絵が納得できず姿を消す。等伯いわく、表現者は孤独、誰にも真似のできない境地を目指し一人で求道の道を歩かねばならない、久蔵も自ら極めなければならない。久蔵は気比の松原で松を眺め続け、見えているように描けばいいことに気づく。
二人の下絵を見た秀吉は、感服し松を天井まで突き抜けるように、久蔵に名護屋城の障壁画も任せる、と話す(写真web転載、現在の智積院所蔵国宝、左等伯・楓図、右久蔵・桜図)。 続く
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