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2022.6河口浅間神社・冨士御室浅間神社を歩く

2022年12月25日 | 旅行
山梨を歩く>  2022.6 河口浅間神社・母の白滝+冨士御室浅間神社を歩く


 河口湖沿いから北上して笛吹市に至る国道137号線は御坂みちと呼ばれる。御坂は、日本武尊が東国遠征の際に越えた御坂峠に由来するそうだ。日本武尊の足跡にあちらこちらで遭遇する。古代の歴史、日本書紀、古事記に疎い。東征はまっすぐ東に向かうのではなく、かなり広範囲だったようだ。
 河口湖大橋北から県道(=もと国道137号線)の旧御坂みちを北に2kmほど走ると、右に浅間(あさま)神社と書かれた石柱が左右に立ち、注連縄が張られている(写真)。右奥にも浅間神社と彫られた石柱が立つ。参道の先の駐車場に車を止める。
 河口浅間神社は、864年の富士山噴火を鎮めるために865年に浅間大神(あさまおおかみ)=木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀ったのが始まりとされる。木花咲耶姫命の父である大山祗命 (おおやまづみのみこと)、夫の瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)も祀られていたとされるが、現在は両神は祀られていない。
 御坂山地の南斜面に位置し、河口湖越しに富士山を拝礼する向きに建てられたらしいが、現在の参道、拝殿、本殿は西南西向きである。1606年に本殿が焼失、1607年に再建されているので、そのときに社殿が移され、西南西向きになったのかも知れない。
 参道の先に高さ18mに及ぶ朱塗りの大鳥居が立ち(前頁写真)、参道には樹齢800余年、高さ45m、根回り7mの杉並木が並ぶ。
 大鳥居には三国第一山と書かれた扁額が掲げられている。新倉冨士浅間神社の扁額は天皇から贈られた称号だったが、河口浅間神社の三国第一山は親王が書かれたそうだ。当時、富士山を畏れ敬う浅間神社には三国第一山が贈られたのであろうか。大鳥居で一礼する。


 石段を上ると随神門が建つ(上写真)。随神門で一礼し、石畳、石段、さらに石段を上ると拝殿が構える(中写真)。
 拝殿奥に木花咲耶姫命を祀った本殿が見える。本殿扁額の「大元霊(おおもとだま)」は60代醍醐天皇の宸筆だそうで、河口浅間神社も格の高さをうかがわせる。二礼二拍手一礼する。
 本殿は、慶長11年1606年に焼失し、翌慶長2年1607年再建された。一間社流造で、唐破風の向拝を備えている(下写真)。


 境内には山梨県指定天然記念物の七本杉(樹高47m、根回り最大30m)や桧、栂、欅、樅、松、栃など100本以上の大木が生い茂っていて、深山=神山の空気が清浄に感じられる。七本杉を順に見上げながら境内を一回りする。
 随神門に向かって左に「浅間古道」の案内があった(写真)。河口浅間神社の北斜面に山宮社が祀られていて、山宮社を富士山頂に見立て、富士登山を体感する自然道だそうだ。
 叢林のなかの浅間古道には一合目、二合目・・の目印が立てられている。富士登山をイメージしながら・・五合目・・九合目を過ぎ、7~8分上ると山頂の山宮社に着く。富士山頂の気分で二礼二拍手一礼する。


 河口浅間神社のパンフレットに母の白滝神社が紹介されている。
 河口湖に注ぐ寺川の上流の河口集落に滝があり、河口浅間神社の末社として木花咲耶姫命の姑神にあたる栲幡千々姫命(たくはたちちちひめのみこと)を祀った白滝神社が建てられた。
 平安のころから富士登山者は河口集落を宿坊とし、滝で身を清め登山の安全を願ったそうだ。
 急な山道を10数分走ると道は行き止まりなる。このあたりが河口集落らしい。右手は急斜面で視界が開け、彼方に霊峰富士山が勇姿を見せている(写真)。
 富士山噴火を経験した人々は、ここを富士山遙拝地とし、神社を建立したのであろう。
 母の白滝の案内板が立っていて、江戸時代には不動明王が祀られ、白滝不動と呼ばれ参詣者を集めたと紹介されていた。
 整備された山道を4~5分上ると、母の白滝が豪快に流れ落ちていた(写真)。
 滝の左に小さな祠の白滝神社が祀られている。一礼する。
 岩場には小さな不動明王が、修験者の雰囲気で立っている。神仏混淆時代には神様+仏様に登頂の成功を祈ったのであろう。


 行き止まりに戻る。急斜面に床を迫り出した建物がいくつか建っている。工事中の建物もある。河口湖+霊峰富士山の絶景を楽しむためのコテージ、別荘のようだ(写真)。
 このコテージで夕闇迫る富士山を眺めながらの一杯は格別だろうし、寝ぼけ眼で朝日を浴びた富士山を眺めればとたんに目が覚めそうだ。工事中の建物は人気の高さを裏付ける。


 山道を下り、御坂みちから河口湖大橋を渡り、河口湖南側に沿って西に走り、冨士御室浅間(おむろせんげん)神社に車を止める。駐車場は西鳥居の近くにあり、案内板の境内図に大鳥居が図示されていたので、境内に沿って歩き、大鳥居で一礼する(写真)。
 由緒書きによれば699年、平安時代中期の貴族、官吏・藤原義忠によって富士二合目に木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が奉斎され、722年に雨屋が建てられた。名前の「御室」(=神の坐)は石柱をめぐらせた中で祭祀を行ったことによるそうだ。
 800年の富士山噴火で雨屋が焼失、807年に平安時代の武将・坂上田村麿が社殿を創建、中世には修験道、近世には富士講で発展した。
 たびたびの富士山噴火で社殿が損壊、焼失し、1525年、武田信虎が再建し、武田家の庇護を受けた。現在に残る本宮は1624年、甲斐国谷村藩主・鳥居成次が造営し、その後の改修を経て、1974年、二合目から現在地に移築された。
 一方、958年、62代村上天皇により祭祀の利便のため河口湖の南岸、現在地に里宮が創建された。ゆえに1974年までは現在地の里宮と二合目の本宮が富士御室浅間神社になる。
 叢林の茂る表参道を北に進む。中ほどに随神門が建つ(上左写真)。随神門の手前に東西の参道が延びていて、西に本宮があり、西外れが西鳥居になる。
 表参道の奥は社林に覆われた里宮社で、南向きに建つ(上右写真)。富士山二合目にあった本宮に向き合う配置だったようだ。二礼二拍手一礼する。
 祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。由緒には父の大山祗命 (おおやまづみのみこと)、夫の瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)については触れていない。
 もともとは富士山の御神体である浅間大神(あさまおおかみ)=木花咲耶姫命を祀り、祭礼が行われたのであろうが、富士講が盛んになり広く富士山信仰が広まるとともに大勢の神々の方が御利益があると、大山祗命、瓊瓊杵尊もあわせ祀られたのであろう。


 随神門に戻り、移築された本宮に向かう。本宮は瑞垣(=玉垣)で囲まれていて、北向き中央に拝殿を兼ねた門が設けられている(次頁左写真)。二礼二拍手一礼する。
 瑞垣の側面から本宮を見る(次頁右写真、重要文化財)。本宮は北向きで、富士山に向かって拝礼する形になる。一間社入母屋屋根で唐破風の向拝をつけている。屋根は銅板茸きだが、当初は茅葺きだったようだ。
西鳥居から駐車場に戻る。


 帰りは、国道137号線、国道139号線を経て富士吉田ICから中央道に乗ればいい。通り道の国道137号線に面してハーブ庭園・富士河口湖庭園があるので寄った。
 広々とした庭園に季節ごとのハーブが植えられていて、色合いと香りを楽しめる。斜面を上っていくと展望台のふじさんデッキが建っていて、前庭に縁取りされた小さな池が設けてある。富士山を正面にすると、額縁の池に逆さ富士が写る(写真)。観光客が次々と額縁の逆さ冨士を撮っていた。商売人はいろいろなことを工夫する。


 2泊3日の旅で、富士山ゆかりの地をたっぷり巡った。どこから見ても富士山は霊峰にふさわしい美しさを感じる。日本最高峰3776mは登山者の魅力だろうが、霊峰の勇姿が富士講を始めとして人々の信仰を集めるのではないだろうか。富士山を堪能した旅になった。 
(2022.12)

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