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「天地明察 下」斜め読み

2022年12月24日 | 斜読
book544 天地明察 下 冲方丁 角川文庫 2012 斜め読み


第4章 授時暦
 寛文5年1665年、朱子学を批判し新しい学問体系を研究した山鹿素行が「聖教要録」を著し、物議を醸した話が語られる。のちに春海の改暦を否定する場面で再登場する。冲方氏は史実を折々に挿入していて、記憶の薄れた歴史を思い出させてくれる。


 春海の義兄・安井算知は碁打ち衆の頂点である碁所に就き、本因坊道悦が勝負碁を申し出る。4代家綱は二十番碁を命じる。
 算知は勝負碁のためにも28歳の春海=算哲に嫁を勧め、19歳のことと祝言をあげて、二人は京に住む。ことは甲斐甲斐しいが、体が弱い。
 寛文6年1666年、大老に就任した43歳の酒井忠清が春海と碁を打ちながらいろいろなことを質す。寛文7年1667年、春海は水戸光国(のち光圀)40歳に招かれ、北極出地に始まり渾天儀に話しが進む。
 その翌日、酒井忠清が春海と碁を打ちながら、会津肥後守・保科正之の所望を伝え、春海は会津に向かう。保科正之は2代秀忠の子で、3代家光は正之を副将軍とし、のちの4代家綱の養育を任せ、後見人としている。


 春海は会津鶴ヶ城で57歳の保科正之に会う。正之は視力が衰えているが、碁は達人で初手を天元に打つ。春海は指導碁ではなく真剣勝負をし、せめぎ合いのうえ21目を勝つ。碁のあと、正之は春海に、28歳のとき一揆が起き、島原の乱終結で原因を調べ武家諸法度改正を建議した直後だったので、直訴の35人を磔にしたことを語る。なぜ凶作飢饉は起こるのか、豊作凶作は天意に左右されるのであれば民のために蓄え、民の生活向上を目標にしなめればならない、江戸の水道網を進言し成功させた、明暦の大火では米を放出し、天守閣は再建せず道路網を整備したなどを語る。
 そのうえで春海に宣命暦を聞く。春海は宣命暦は800年経ち、通用しないと答える。
 次に授時暦を聞く。春海はあらゆる暦法のなかで最高と答えると、春海に改暦研究を言い渡す。正之は、水戸光国、山崎闇斎、建部昌明、伊藤重孝、安藤有益、酒井忠清も春海=安井算哲を推薦していたと告げ、「天を相手に真剣勝負せよ」と申し渡す。
・・保科正之が、子どもだった春海の才能を見つけ、その後の成長を北極出地で確かめさせ、酒井、光国などに吟味させていたようだ。改暦の仕掛け人は正之とは、冲方氏の構想は遠大である・・。


 春海に寝起き+改暦作業のための武家屋敷が与えられた。春海と山崎闇斎、安藤有益、島田偵継が中核となり、6名の藩士で改暦研究が始まる。観測のための大象限儀、子午線儀などを組み立てる。宣命暦より授時暦の方がふさわしいことを立証するため、正当な文芸書に記された儀式の日時、出来事、十干十二支の暦注を調べる。
 春海は、改暦による宗教、政治、経済への影響を考え、天皇が改暦の勅令を発し、幕府が勅令を受けるため新たに天文方を創設する案を正之に報告する。ところが朝廷からは授時暦は不吉と返答されてしまう。春海たちは、宣命暦はいずれ蝕の予報をはずすはず、それまで改暦事業を推進しようと誓う。


 春海は江戸に戻る。安井算知と本因坊道悦による碁所を争う勝負碁の御上覧で活気づいていた。
 寛文9年1669年、31歳の春海は共著の「春秋述暦」「春秋暦考」、単独で天測結果をまとめた「天象列次之図」を発表、天測結果をもとに渾天儀を完成させる。
 渾天儀を最初に京に住む妻ことに見せる。ことは「幸せ者」とうれし泣きする。漆と金箔で仕上げた渾天儀を光国に贈る。
 寛文10年1670年、勝負碁で春海は本因坊道策に負け、翌11年にも碁で惨敗する。追い打ちをかけるように病弱だったことが死ぬ。


第5章 改暦請願
 ことに続き、北極出地をともにした伊藤重孝が死ぬ。悲嘆にくれた春海は、鬼気迫る様子で天測と授時暦研究に没頭する。
 江戸に戻った春海は酒井と碁を打ちながら、宣命暦の2日のずれを話す。寛文12年12月、宣命暦は月蝕の予報を外す。宣命暦の誤謬が明らかになり、授時暦の精確さが評価される。
 保科正之が62歳で没す。直前に15箇条の家訓を遺言する・・家訓は割愛・・。正之の訃報を聞き、春海は改暦研究にひたすら邁進する。寛文13年、35歳の春海は授時暦の最終研究を終え、同年夏、112代霊元天皇と4代家綱に授時暦への改暦「欽請改暦表 臣安井算哲」を請願する。
 延宝元年=寛文13年、春海が磯村塾を訪ね、28歳のえんと再会する。えんも良人を亡くしていた。春海は関孝和を名指しした、算術の術理を用いて3年間6回の蝕を宣命暦、授時暦、大統暦それぞれで計算した蝕考を磯村塾に貼る。
 次の蝕は1年10ヶ月後の5月朔日になる。それまで蝕考を貼っておいてとえんに頼むと、えんはそれ以上待ちませんという。この奇妙な会話が春海とえんの結びつきを暗示させる。
 春海は村瀬から借りた関孝和の新しい稿本「発微算法」(のちの代数学)を読み、独創的な解答法に感動する。
 寛文13年6月の宣命暦に予報された月蝕、日食、翌延宝2正月の宣命暦に予報された日蝕は起きなかった。延宝2年6月、授時暦の月蝕予報は合致し宣命暦、大統暦より精確だった。延宝2年12月も授時暦の月蝕予報が合致し、宣命暦、大統暦より精確だった。
 磯村塾に貼り出した6枚のうち、5回とも明察である。朝廷の勅を受けるため、幕府は改暦の準備を進める。ところが同年5月、授時暦は無蝕と予報し、大統暦も日蝕なしだったが、宣命暦は予報より遅れたがわずかな日蝕が起きた。
 授時暦は予報を外したのである。春海は緊急に御城に呼び出される。予報を外した理由が分からず、春海は将軍家綱、大老酒井、水戸光国、老中稲葉にただただ低頭する。
 改暦の機運は消滅し、春海は亡骸のような日々を送る。
 不運は重なる。安井算知は本因坊道悦に敗れて碁所を譲る。春海は御城碁で道策に惨敗する。
 延宝4年正月、会津藩邸で無為な毎日を過ごしていた春海にえんが会いに来て、半年前に関が春海に出題してたことを伝える。


第6章 天地明察
 延宝4年1月、春海は磯村塾で関の出題「図の如く日月の円が互いに蝕交、日円の周の長さを月円の周の長さで割ると七分の三十、日月が蝕交している長さは?」を見て解答不能に気づく。自分に改暦の道を開いた建部、伊藤、改暦事業を与えてくれた保科正之、さらには関孝和の期待を裏切ったことに戦慄を覚え、涙を流す。
 春海は重い心で関を訪ねる。関は数理を理解しながら授時暦の誤りに気づかぬとは何ごとか、と責め立てる。関は甲府藩主・徳川綱重(3代家光の3男、4代家綱の弟、5代綱吉の兄)から授時暦研究を命じられていて、膨大な考察をしていた。
 関は、天理は数理と天測を結集しなければ明らかにならない、天測は私の限界を越える、天理を極められるのは春海だけだと、考察結果を春海に託す。


 急ぎ磯村塾に駆け戻った春海は、えんに「改暦で挫折したが関の膨大な研究で大勢の期待を担っていることに気づいた、星を測るための旅したとき日と月とあなたの面影に護られた」と話し、秋に迎えに来ると結婚を申し込む。えんは「あなたが期限を守れるようにそばで見張ります」と答える。約束から半年遅れの延宝5年春、春海はえんと結婚する。
 本因坊道悦が碁所を引退し、道策32歳が碁所に就いたこと、道策との御城碁で春海は五目差、三目差に迫り、異例にも将軍家綱から双方見事の言葉を受けるなどが挿入される。
 春海は、授時暦誤謬の解明の新たな方法論の土台を大地におく。延宝5年、全国各地の精密な天測と運行の計算に裏付けられた星図である「天文分野之図」を出版する。続けて暦注検証を総括した「日本長暦」を版行する。この2冊により、日本独自の国家的占星術の基礎がまとまる。
 2冊を受け取った水戸光国は大いに喜び、改暦事業に希望はあるかと訊ねたので、春海は西洋の天文学の詳細を著した中国・遊子六の本である「天経或問」を希望する。光国は「天経或問」といっしょに、南蛮人が製作した世界地図「坤輿万国全図」も届ける。 
 前後するが、延宝6年、関孝和は徳川綱重の跡を継いだ綱豊に、甲府藩勘定吟味役として仕える。


 延宝8年、将軍家綱が40歳で急逝し、老中堀田正俊が異母弟の綱吉を5代将軍に擁立、大老酒井は罷免となり、堀田が大老に就く。
 春海が酒井に呼ばれ碁を打っていると、返納した刀と事業に使えと金子を渡し、改暦の儀では保科が望んだように刀を差せと告げる。
 その3ヶ月後、酒井忠清は58歳で没す。
 5代綱吉は、保科正之を理想の君主と考えていて、改暦の儀、天文方の構想に興味を示す。天和2年、綱吉は改暦の儀に賛成している神道家・吉川惟足を寺社奉行直下に創設した神道方の初代に任命する。
 春海44歳のとき、師である65歳の山崎闇斎が春海に垂加神道の奥義を伝授して世を去る。
 天和3年春、春海は授時暦がつくられた中国の経度と日本の経度の差が術理の根本に誤差をもたらしたことを実証する。さらに太陽は地球に近づく秋分から春分までは早く動きおよそ179日弱、地球から遠ざかる春分から秋分は遅く動きおよそ186日余であることを明らかにする。
 えんに話し「おめでとうございます、旦那様」といわれ、春海は北極出地からの23年を思い涙を流す。関に話すと「大和暦」という呼び方をすすめる。関孝和は「解状題之法」(=行列式)という新たな術理を導いていて、春海は関の術理を和算と呼ぶ。


 大老堀田の政治姿勢は緊縮財政の一点張り、春海は指導碁と称して堀田に会い頒暦による富を伝える。
 天和3年11月、宣命暦が月蝕の予報を外す。112代霊元天皇は土御門家が改暦を行うと決定する。
 土御門家から幕府に「暦法家として、また神道家として名高い、保科算哲こと渋川春海様に、改暦の儀に参加してもらいたい」との書状が届く。・・冲方氏は春海の政治的な工作に詳しく触れていないが、春海は碁打ちらしく先々の手を読んでいたようだ・・。
 春海45歳、関に改暦の動きを伝えたあと京に向かう。29歳の土御門泰富は好奇心旺盛で、春海の改暦に関する技量を理解し、春海を歓待する。
 春海の情報収集により朝廷内では授時暦派、大統暦派、大和暦派に3分裂していたことが分かる。春海は勝負の手を考える一方、市中で賑わっている場所を探し、賛同者に送る手紙を用意する。
 貞享元年3月、霊元天皇は改暦の勅を発布する。このときの情景が序章になる。「からんころん」と鳴る絵馬、関の一瞥即解、えんとの出合、北極出地、それから23年である。ところが泰富の期待は裏切られ、霊元天王は賀茂家の工作で大統暦採用を下す。
 土御門泰富は狼狽するが、春海は大和暦を再度上奏し、280通の手紙を出す。梅小路に巨大な子午線儀、大象限儀を組み立てて天測を始め、次第に京市民のあいだで大和暦が評判になる。
 春海の工作で幕府は泰富に「諸国陰陽師師主管」の朱印状を下す。土御門家は全国の陰陽師を支配した。莫大な収益になる。それを知った大統暦、授時暦を支持した公家が土御門家になびく。春海はさらに頒暦販売網も掌握する。
 加賀藩主・前田綱紀が春海の要請で、娘の嫁ぎ先である西三条家に働きかけ、西三条家の仲介で関白・一条冬経は大和暦を支持する。
 すべて春海の布石通りに動き、貞享元年10月、霊元天皇は大和暦採用の勅を発布し、貞享暦の勅命を与える。
 知らせを受けた5代綱吉は大いに歓喜し、天文方初代に春海を任命する。このあと綱吉の悪政や光圀、関らの死、春海とえんのその後、子どもたちのことが語れるが割愛、正徳5年10月、春海とえんは同日に没し、物語が幕となる。


 碁打ち侍・安川春海=安井算哲を主軸にした日本独自の大和暦=貞享暦実現の壮大な物語を読み終えた。学校教育では学べない歴史の舞台裏やさまざまな出来事を知ることもできた。春海とこととえん、関孝和、保科正之、水戸光圀らの人情味を感じながら、緩急自在な冲方氏の筆裁きに引き込まれ、通読2回、行きつ戻りつでさらに数回読んだ。新たな知見に出会いながら、春海に意気投合し、読み終えた。 (2022.10)
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