よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京都・せっかくウォーク「長岡天満宮と勝龍寺城を巡るみち」(京都府長岡京市)

2023-03-18 09:25:20 | ウォーキング

3/6(月)京都ツーデーウォークのせっかくウォーク「長岡天満宮と勝龍寺城を巡るみち」10kmに参加しました。

集合場所は、JR長岡京駅。参加者は約100人。

平成7年(1995年)それまでの神足(こうたり)駅から長岡京駅に変更されました。

駅前には、電子部品メーカー「村田製作所」の社屋が建っています。

  

 

実は、私、2014年11月西国街道を歩いたときに長岡京市を歩いています。その時のブログがこちらです。西国街道を歩く(大山崎~京都・東寺)その1 - よっちゃんのおててつないで (goo.ne.jp)

コースは、長岡京駅スタート~長岡天満宮~小倉神社~阪急西山天王山駅~調子馬ノ池公園~恵解山古墳~勝龍寺~勝龍寺城跡公園~長岡京駅ゴールの10km。

10:00 長岡京駅をスタート。

 

マンションの所に「開田城跡の土塁」があります。開田城は西岡衆と呼ばれるこの地域の国衆のひとり、中小路氏の居城です。中小路氏はもともとは開田天満宮(現在の長岡天満宮)の

神官職で、現在に至るまで代々、天満宮の宮司をつとめています。過去におこなわれた発掘調査の結果、一辺約70m程度の方形居館で、周囲には堀と土塁をめぐらせた典型的な構造で

あることがわかっています。現在城址にはマンションが建てられていますが、城の西側と南東隅の土塁が「開田城土塁公園」として復元保存されています。マンションのエントランスに

復元模型が展示されており、誰でも見学可能となっています。

 

八条ヶ池は、長岡天満宮境内の東側に広がる池です。寛永15年(1638年)に当時の領主である八条宮智仁親王が造るように命じた溜め池です。
池の真ん中を分断する中堤は長岡天満宮への参道となっています。中堤中心の太鼓橋は加賀前田 候の寄進と言われています。(京都観光スポットより)

  

長岡天満宮 ご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。道真公が太宰府へ左遷される途中,かつて 在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から 「見返り天神」とも呼ばれています。太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像を ご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。

 

 

長岡天満宮から小倉神社に向かいます。

長岡京市、向日市、大山崎町は、「乙訓(おとくに)」と呼ばれ、竹林が多い地区です。竹取物語の伝承地ともいわれています。(伝承地は日本で何か所かあります)

京都の長岡京市は孟宗竹伝来の地と言われおり、平安時代には貴族たちに旬のものとしてタケノコを献上していたそうです。土壌は地域特有の粘土質で弱酸性であり、気候は気温の

寒暖差が激しいということで、タケノコが柔らかく大きくなりやすい風土です。

 

小倉神社は、京都御所の裏鬼門神社で718年に創建されました。

 

 

 

西国街道と丹波街道の分岐点「調子八角」で昼食タイム。

 

 

昼食後再スタート

 

国史跡「恵解山(いげのやま)古墳」恵解山古墳は、古墳時代中期に築造された乙訓地域で最大の前方後円墳です。
桂川右岸の標高わずか16メートルの台地端につくられており、全長約128メートル、後円部の直径約78.6メートル、高さ10.4メートル、前方部の幅約 78.6メートル、高さ約7.6メートルと

推定されています。周囲に幅約30メートルの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長は約180メートルに及びます。古墳の表面には砂岩やチャートなどの葺石がふかれ、埴輪が並べられて

いました。死者を埋葬した施設は古くから墓地があるため明らかになっていませんが、後円部に竪穴式石室があったとみられます。

鉄刀176、鉄短剣141など鉄製の武器類が多量に出土したことからも、恵解山古墳の埋葬者は5世紀前半頃に桂川以西の乙訓地域全土を治めた有力な豪族だったと推測できます。

 

 

勝龍寺(しょうりゅうじ) 勝運・ぼけ封じのお寺。大同元年(806)に帰朝した弘法大師(空海)が、唐の長安で修業した青龍寺の名をとって創建したと伝わるお寺です。

嵯峨天皇のころ、勅願によって観音堂をはじめとした九十九坊が建てられ、勝龍寺の名が広く知られました。神仏習合の名残から、境内には勝竜寺地区の氏神を祀る「春日神社」が

あります。ぼけ封じのお寺ということですのでしっかりお参りしました。

 

 

勝龍寺から少し歩いたところに「勝龍寺城跡」があります。

 

 

勝龍寺城跡は、元亀2年(1571)に織田信長の意向を受け、細川藤孝により、その後の城郭の標準となる瓦・石垣・天主を備えた、先駆的な城郭として造り替えられたものです。

天正6年(1578)藤孝の子息、忠興と明智光秀の娘、玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われ、天正10年(1582)には山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀がここへ退却し、

北門から落ち延びたといわれています。

平成4年(1992)に公園として整備、令和元年(2019)には管理棟をリニューアルし、展示内容を一新しました。(京都府観光案内より)

キリスト教の洗礼を受けた玉は、洗礼名を「ガラシャ」としました。ガラシャとは、神の恵みという意味だそうです。

 

 

 

勝龍寺城跡公園で京都ウォーキング協会会長の挨拶がありました。

13:20 長岡京駅へゴールしました。

 

 

 

 


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