【歩き旅2日目】日本スリーデーマーチ1日目20㎞コース
この大会へは、2019年に申し込みをしていましたが、東日本台風で中止、昨年はコロナで中止、コロナ禍で各大会が中止になっており、今年もどうかな?と思っていましたら、
5000人限定で開催されることになり、即、申し込みをしました。(今回は事前登録のみ当日受付はありません)
私のトレードマークの「風車」も昨年2月の沖縄・浦添の大会から自粛状態になっていましたので一緒に連れていくことにしました。(鯉のぼりは2年半ぶりです)
会場は東松山駅から徒歩12分の東松山市役所。駅前には、東松山市出身のノーベル賞受賞の「梶田隆章氏」の記念碑が立っていました。
会場の東松山市役所に着くと、市役所に「前橋藩 松山陣屋跡」の碑があります。
東松山市HPによると、前橋藩が領地管理のために設置したのが松山陣屋です。
寛延2年(1749年)、前橋藩の居城である前橋城(現在の群馬県前橋市)が利根川の度重なる氾濫によって破壊が進み、ついに本丸が崩壊する危機にさらされてしまいます。
前橋藩主・松平朝矩は再建を目指しますが、財政難で対応ができず、明和4年(1767年)、再建を諦めて居城・藩庁を川越に移します。
それから100年後の慶応3年(1867年)、前橋領内で前橋城の再建と藩主の前橋復帰を求める強い要望が出ると、藩主・松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て前橋藩が再立藩します。
こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまいました。これを管理するために、慶応3年(1867年)、前橋藩松山陣屋が置かれます。
松山陣屋は、現在の松葉町1丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、南北が丸広デパート付近から市役所の北端まで、東西が市役所の東端から松山第一小学校の正門付近までありました。
当時は幕末の動乱期で、役所や御殿など主要な施設を守るため、土塁や城塀の外側に堀がめぐる堅牢なつくりとなっていました。
国内でも有数の規模であった松山陣屋ですが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、わずか4年でその役割を終えることになります。
今年の日本スリーデーは、コロナ感染防止対策がとられています。スタートは、30分ごとの時差スタート、受付にカードを提出し検温、手指の消毒を行います。
また、途中でコースの変更は認められません。3日間同じ距離を歩きます。(私の場合3日間20kmです)
会場内は一方通行。私たちは8:30~9:00のスタートです。
今日は、久留米のUさん、北九州のKさんと歩いています。
鶴おじさんもお元気でした。
森林公園駅通過。ここで広島のTさん(平戸出身)に声をかけられました。今までいろんな大会でお会いしていましたが、ホント懐かしかったです。
羽尾平集会所前広場で「あめ」の接待。
コースは、嵐山(らんざん)町に入ります。槻川の渓谷の美しさを京都の嵐山になぞられて付けられた町です。嵐山町のマンホールは、国蝶「オオムラサキ」、蛍、鈴虫が描かれています。
また、柚子の木を多く見かけました。
鬼鎮(きぢん)神社に着きました。1182年、畠山重忠が菅谷館築造の際に鬼門除けとして金棒を持った鬼の像を奉納したのが始まりとされています。「鬼」を祭った全国でも珍しい神社で、
毎年2月3日には「福はうち、鬼はうち、悪魔そと」という変わった掛け声の節分祭が催されています。また、勝利の神の神社としても知られ、戦時中は軍人が武運を祈ったことでも知られています。
鬼鎮神社を出ると30k、20kの分岐点です。20kは、左折。歩いていると見たことのある方が歩いています。岐阜・大垣の「あるっクマ&ノリネコ」さん夫婦です。
今年は、リュックの後ろに「コロナに負けるな」「大会開催ありがとう」というプラカードをつけています。大垣から車で来られたそうです。
菅谷館跡がチェックポイント。チェックカードを箱に入れます。ここまで約10km。早いけどお弁当を食べている方もいます。
菅谷館跡は、鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡である。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、
やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。
元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。
長享2年(1488)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に
対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで
山内上杉家の拠点である河越城に対するおとして使われる。
その後は、天文15年(1546)の河越夜戦以降にこの地域に進出した後北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。
中世城郭研究会の中田正光によれば、当時の最前線だった松山城を強化する必要から付近の青鳥城や杉山城と共にこの菅谷の旧城も更に築城拡大されたと述べており、全周を覆う堀には多くの
折りが使用され、虎口には全て横矢が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な縄張り等の特徴を指摘し、このような実戦的な
城郭は後北条氏の典型的な特徴であり、それ以外は考えられないと指摘している。なお、過去の発掘調査の結果では後北条氏時代の遺物が出土していないため、杉山城と同様に後北条氏進出以前に
廃城になったという説もあるが、発掘調査面積自体が小規模だったため、今後の調査次第では畠山時代や後北条時代の遺物が出土する可能性も考えられる。(ウィキペディアより)
丸木美術館は、1945年8月6日、広島に人類最初の核兵器、原子爆弾が投下されました。
広島出身の丸木位里と妻の俊は数日後に現地に入り、そこで目のあたりにした惨状の記憶や多くの被爆体験者の証言をもとに、夫婦共同制作で「原爆の図」を描き、国内各地や世界20カ国以上を
まわり巡回展を行いました。夫妻は1966年に東松山市下唐子に移り住み、翌年に「原爆の図丸木美術館」を開館、30年以上の歳月をかけて全15部の「原爆の図」を完成させました。
丸木美術館には、修学旅行の高校生の集団がいたため、スルーしました。美術館の前では第一生命の方がジュースを配られていました。
唐子中央公園で休憩します。
10分後再スタート。東松山は、栗林が多いですね。木にはまだ栗の実が残っていました。
東松山市街地に入ります。左側にはBOSCHの大きな工場があります。私が現役時代このBOSCHの電動工具を販売していましたのでここで電動工具を造っているのかな?と思い社員の方に
尋ねるとこの工場では、自動車用のディーゼルエンジンの部品を作っているそうです。BOSCHは、家電と電動工具しか知りませんでしたので新しい発見です。
箭弓(やきゅう)稲荷神社に着きました。箭弓稲荷神社は、社記によると、平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従え、
ついにその威を関八州にふるい、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきました。
朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲が
にわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行きました。
頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、
神を信じ戦う頼信軍が勝利しました。
帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷と改めて呼ぶようにと
里人に命じたのでした。
以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎えるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、
江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれています。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、
厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めています。(箭弓稲荷神社HPより)
現代では、箭弓=野球ということで野球の神様としても有名です。
12:55東松山市役所の会場にゴールしました。ゴール会場では、50k、40k、30k、20kと分れています。僕らは20kのブースに行き、チェックカードを提出します。
久しぶりの20kmでしたので足が張っています。明日は大丈夫かな?
今日のGPSです。