よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日本スリーデーマーチ1日目20kmコース(埼玉県東松山市他)

2021-11-14 15:31:45 | ウォーキング

【歩き旅2日目】日本スリーデーマーチ1日目20㎞コース

この大会へは、2019年に申し込みをしていましたが、東日本台風で中止、昨年はコロナで中止、コロナ禍で各大会が中止になっており、今年もどうかな?と思っていましたら、

5000人限定で開催されることになり、即、申し込みをしました。(今回は事前登録のみ当日受付はありません)

私のトレードマークの「風車」も昨年2月の沖縄・浦添の大会から自粛状態になっていましたので一緒に連れていくことにしました。(鯉のぼりは2年半ぶりです)

   

会場は東松山駅から徒歩12分の東松山市役所。駅前には、東松山市出身のノーベル賞受賞の「梶田隆章氏」の記念碑が立っていました。

 

会場の東松山市役所に着くと、市役所に「前橋藩 松山陣屋跡」の碑があります。

東松山市HPによると、前橋藩が領地管理のために設置したのが松山陣屋です。
寛延2年(1749年)、前橋藩の居城である前橋城(現在の群馬県前橋市)が利根川の度重なる氾濫によって破壊が進み、ついに本丸が崩壊する危機にさらされてしまいます。

前橋藩主・松平朝矩は再建を目指しますが、財政難で対応ができず、明和4年(1767年)、再建を諦めて居城・藩庁を川越に移します。
それから100年後の慶応3年(1867年)、前橋領内で前橋城の再建と藩主の前橋復帰を求める強い要望が出ると、藩主・松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て前橋藩が再立藩します。

こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまいました。これを管理するために、慶応3年(1867年)、前橋藩松山陣屋が置かれます。
松山陣屋は、現在の松葉町1丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、南北が丸広デパート付近から市役所の北端まで、東西が市役所の東端から松山第一小学校の正門付近までありました。

当時は幕末の動乱期で、役所や御殿など主要な施設を守るため、土塁や城塀の外側に堀がめぐる堅牢なつくりとなっていました。
国内でも有数の規模であった松山陣屋ですが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、わずか4年でその役割を終えることになります。

 

今年の日本スリーデーは、コロナ感染防止対策がとられています。スタートは、30分ごとの時差スタート、受付にカードを提出し検温、手指の消毒を行います。

また、途中でコースの変更は認められません。3日間同じ距離を歩きます。(私の場合3日間20kmです)

会場内は一方通行。私たちは8:30~9:00のスタートです。  

  

今日は、久留米のUさん、北九州のKさんと歩いています。

  

鶴おじさんもお元気でした。

  

森林公園駅通過。ここで広島のTさん(平戸出身)に声をかけられました。今までいろんな大会でお会いしていましたが、ホント懐かしかったです。

  

羽尾平集会所前広場で「あめ」の接待。

  

コースは、嵐山(らんざん)町に入ります。槻川の渓谷の美しさを京都の嵐山になぞられて付けられた町です。嵐山町のマンホールは、国蝶「オオムラサキ」、蛍、鈴虫が描かれています。

また、柚子の木を多く見かけました。

  

  

鬼鎮(きぢん)神社に着きました。1182年、畠山重忠が菅谷館築造の際に鬼門除けとして金棒を持った鬼の像を奉納したのが始まりとされています。「鬼」を祭った全国でも珍しい神社で、

毎年2月3日には「福はうち、鬼はうち、悪魔そと」という変わった掛け声の節分祭が催されています。また、勝利の神の神社としても知られ、戦時中は軍人が武運を祈ったことでも知られています。

   

 

鬼鎮神社を出ると30k、20kの分岐点です。20kは、左折。歩いていると見たことのある方が歩いています。岐阜・大垣の「あるっクマ&ノリネコ」さん夫婦です。

今年は、リュックの後ろに「コロナに負けるな」「大会開催ありがとう」というプラカードをつけています。大垣から車で来られたそうです。

  

 

菅谷館跡がチェックポイント。チェックカードを箱に入れます。ここまで約10km。早いけどお弁当を食べている方もいます。

菅谷館跡は、鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡である。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、

やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。

元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。

長享2年(1488)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に

対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで

山内上杉家の拠点である河越城に対するおとして使われる。

その後は、天文15年(1546)の河越夜戦以降にこの地域に進出した後北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。

中世城郭研究会の中田正光によれば、当時の最前線だった松山城を強化する必要から付近の青鳥城や杉山城と共にこの菅谷の旧城も更に築城拡大されたと述べており、全周を覆う堀には多くの

折りが使用され、虎口には全て横矢が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な縄張り等の特徴を指摘し、このような実戦的な

城郭は後北条氏の典型的な特徴であり、それ以外は考えられないと指摘している。なお、過去の発掘調査の結果では後北条氏時代の遺物が出土していないため、杉山城と同様に後北条氏進出以前に

廃城になったという説もあるが、発掘調査面積自体が小規模だったため、今後の調査次第では畠山時代や後北条時代の遺物が出土する可能性も考えられる。(ウィキペディアより)

   

  

  

  

丸木美術館は、1945年8月6日、広島に人類最初の核兵器、原子爆弾が投下されました。
広島出身の丸木位里と妻の俊は数日後に現地に入り、そこで目のあたりにした惨状の記憶や多くの被爆体験者の証言をもとに、夫婦共同制作で「原爆の図」を描き、国内各地や世界20カ国以上を

まわり巡回展を行いました。夫妻は1966年に東松山市下唐子に移り住み、翌年に「原爆の図丸木美術館」を開館、30年以上の歳月をかけて全15部の「原爆の図」を完成させました。

 

丸木美術館には、修学旅行の高校生の集団がいたため、スルーしました。美術館の前では第一生命の方がジュースを配られていました。

  

唐子中央公園で休憩します。

 

10分後再スタート。東松山は、栗林が多いですね。木にはまだ栗の実が残っていました。

 

  

東松山市街地に入ります。左側にはBOSCHの大きな工場があります。私が現役時代このBOSCHの電動工具を販売していましたのでここで電動工具を造っているのかな?と思い社員の方に

尋ねるとこの工場では、自動車用のディーゼルエンジンの部品を作っているそうです。BOSCHは、家電と電動工具しか知りませんでしたので新しい発見です。

 

箭弓(やきゅう)稲荷神社に着きました。箭弓稲荷神社は、社記によると、平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従え、

ついにその威を関八州にふるい、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきました。

朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に当たらせ、当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲が

にわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行きました。

頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、

神を信じ戦う頼信軍が勝利しました。

帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷と改めて呼ぶようにと

里人に命じたのでした。

以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎えるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、

江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれています。現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、

厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めています。(箭弓稲荷神社HPより)

現代では、箭弓=野球ということで野球の神様としても有名です。

  

 

12:55東松山市役所の会場にゴールしました。ゴール会場では、50k、40k、30k、20kと分れています。僕らは20kのブースに行き、チェックカードを提出します。

 

久しぶりの20kmでしたので足が張っています。明日は大丈夫かな?

今日のGPSです。

 

 


横浜・三渓園へ(横浜市中区本牧)

2021-11-13 05:27:04 | ウォーキング

11/4から1週間の予定で横浜、埼玉、栃木の方へ旅しました。遠出をするのは、昨年2月沖縄・浦添以来です。

【1日目】横浜・三渓園

博多発6:56の新幹線さくらで新神戸へ9:24着。新神戸で新神戸発9:34のひかりで新横浜へ。新横浜着12:24.

(新幹線のぞみの特急料金は、ジパング俱楽部の割引がきかないのでさくらからひかりに乗り換えました)

家内の元職場の上司の方などと横浜駅で待ち合わせ、本牧の三渓園に行きます。

途中、「亀の子石」というのを見つけました。

案内板によると、「大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石は、のどを守る神、特に百日咳に効験ありと信仰され、

百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを

倍にして返礼する習わしがある。」

  

三溪園に到着しました。三溪園は、横浜観光情報によると、

三溪園は、製糸、生糸貿易で財を成した実業家・原三溪が明治39(1906)年に開園した敷地面積18万平方メートルの広大な日本庭園です。

東京ドーム4個分の広大な敷地には京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物17棟が自然豊かな園内にたくみに配置されています。園内にある臨春閣や旧燈明寺三重塔など10棟は、重要文化財に

指定されています。

梅や桜、ツツジ、紅葉などの名所として知られ、外国人にも人気が高い、横浜でも有数の日本文化が体験できる観光スポットです。園内から園外の建物がほとんど見えないため、

結婚式の前撮りスポットとしても人気です。

入場料700円を支払い園内へ。

 

   

園内には、いろいろな花が咲いています。

  

 

  

 

 

園内では、菊花展が行われていました。

  

  

 

原三溪の碑

 

1時間半の滞在の後、横浜駅から明日日本スリーデーが行われる埼玉県東松山へ移動しました。

何回か乗り換えなければいけないかな?と思ってましたが、1本の電車で乗り換えなく東松山迄行くことができました。

 

 

 

 


志免鉄道公園・シーメイトを訪ねて(福岡県粕屋郡志免町他)

2021-11-03 17:37:04 | ウォーキング

11/3(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「志免鉄道公園・シーメイトを訪ねて」でした。

集合場所は、JR香椎線宇美駅。参加者38名。

 

9:30 ウォーキング開始。まずは「宇美八幡宮」へ。

 

宇美八幡宮は、神功皇后が応神天皇を出産したといわれる地で、敏達天皇の時代(572年~586年)に創建されたといわれています。境内には、助産師の始祖が祭られている「湯方社」、

応神天皇の産湯に使ったとされる「産湯の水」、神功皇后が出産された際につかまったとされる「子安の木」など安産に関する言い伝えが数多く残っており、多くの方が安産祈願に

訪れています。また、これらの安産信仰にまつわる言い伝えは、「宇美八幡宮の安産信仰に関する伝説地」として福岡県有形民俗文化財に指定されています。(宇美町HPより)

 

今日は、祭日と重なり、境内には、七五三詣りの方も多くみられました。

  

宇美八幡宮から旧JR勝田線跡地の緑道を歩きます。ちょうど宇美八幡宮あたりが下宇美駅でした。

 

最初の休憩地が「光正寺古墳公園

光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器甕の制作年代から3世紀中頃から後半と考えられ、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。

また、光正寺古墳は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。
中国の「魏志倭人伝」には3世紀中ごろの日本が「倭国」として紹介されています。その倭国には色々な国があったことが記されています。その中で福岡市域(奴国=なこく)の隣に

あったとされる「不彌国=ふみこく」ではないかと考えられます。不彌国の所在地は「嘉穂説」と「宇美説(粕屋)」に分かれていますが、光正寺古墳の調査で「宇美説=粕屋平野説」が

有力な地域として考えられるようになりました。(宇美町HPより)

 

歩いていると塔が見えてきます。たぶん団地の給水塔ではないでしょうか?

  

勝田線旧志免駅跡が志免鉄道公園になっています。

志免町には、1985(昭和60)年まで石炭輸送のために作られた鉄道がありました。香椎線の引き込み線と、勝田線です。
香椎線は、1909(明治42)年から開通した博多湾鉄道旅石線(後に博多湾鉄道汽船から西日本鉄道、日本国有鉄道へ変わった香椎線引き込み線・1984(昭和59)年12月31日廃線)のことです。
勝田線は、1919(大正8)年に開通した筑前参宮鉄道(後に西日本鉄道から日本国有鉄道へ変わった勝田線・1985(昭和60)年3月31日廃線)のことです。
石炭景気の需要による開通で、当時の一日乗客数は300名、石炭は750トンと、石炭輸送が主でした。
現在、勝田線は緑道として公園整備され、志免駅は志免鉄道記念公園となり、レリーフが当時を偲ばせています。(志免町HPより)

 

志免鉄道公園から「シーメイト」に向かいます。

シーメイトは、志免炭鉱竪坑櫓の近くに造られた健康と福祉を考えた情報発信基地です。

志免炭鉱竪坑櫓は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、

鉱員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。

さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、

ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。

志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。

また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、

世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。

1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、開坑から閉山まで国営で

ありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。(志免町HPより)

 日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。

 

 

シーメイトから緑道に戻ります。

 

イオンモールから駕与丁(かよいちょう)公園へ。駕与丁公園は、現在秋のバラが咲いています。

 

 

  

 

駕与丁公園が今日の仮ゴールです。バラの花を少し鑑賞して長者原駅に向かいました。