よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№43「戸塚宿~保土ヶ谷宿」(横浜市戸塚区~横浜市保土ヶ谷区)

2018-10-08 20:34:46 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/19(水)東海道歩き3日目。藤沢のホテルから横浜桜木町のホテルに移動するため、7:30にホテルをチェックアウトします。

横浜桜木町のホテルに荷物を置き、家内の友人夫婦に会うため、根岸線で港南台駅に移動。約10分ぐらいの対面で再び昨日ゴール地の戸塚駅に移動します。

9:15 今日のウォーキング開始です。

旧街道は、戸塚駅西口から東口の方に入るようになっていますが、西口付近は道路改良などで大幅に変化しています。どうにか、東口の方にやってきました。

 

吉田大橋にやってきました。ここが広重が浮世絵で戸塚宿を描いた所です。当時は長さ10間(18,2m)、幅2間半(4,6m)の板橋でした。

 

現在の橋は、昭和61年(1986)に架け替えられ、両側に大名行列が持つ毛槍を模した外套や橋の真ん中には浮世絵のモニュメントがありました。

  

吉田橋を渡ると、「吉田の一里塚跡」があります。吉田の一里塚は、明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されたそうです。

宝蔵院の所に江戸見附がありました。参勤交代の大名らを宿役人がここで出迎えました。

  

五大夫橋・・・小田原北条氏の家臣であった石巻五大夫が小田原北条氏滅亡後に江戸へ移る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから名付けられたと伝えられています。

鎌倉ハム発祥の地・・・・明治初期、日本で初めてハムの製造販売がこの地で始められました。当時、戸塚は鎌倉群に属していたので「鎌倉ハム」として全国的に知られました。

斉藤満平は、イギリス人ウィリアムカーチスの妻、加藤かねの協力で製造を学び明治10年代日本人として初めてハムの製造を始めました。

  

護良(もりよし)親王首洗い井戸・・・・この地に伝わる言い伝えでは、鎌倉で弑された親王の御首を側女が夜中に盗み取ってこれを奉じ、当地の豪族斉藤氏に救いを求めて難を逃れ、

この井戸で御首を洗い清めたといわれています。

益田家のモチノキ・・・益田家の敷地には、県の天然記念物に指定された樹齢300年、樹高19mの株と2本のモチノキがあります。敷地は整地されていました。

   

歩いていると何かいい匂いがしてきました。先の方を見ると山崎パンの工場がありました。

  

品濃口の信号から東戸塚駅の方に歩きます。このあたりの道は大きく変わっており、道に迷いました。途中のお店で現在地を聞き、やっと旧街道に戻れました。

下関の歩友M・Mさんは、ご結婚当初この東戸塚駅付近に住んでいたそうです。そのころと比べ、街も変わっているでしょうね。

  

品濃一里塚の近くの栗の木に「リス」がいました。やはり栗を食べているのでしょうか?写真を撮ろうとしたのですが、動きが早くいい写真が撮れませんでした。

  

品濃の一里塚です。江戸から数えて9番目の一里塚。神奈川県内では、ほぼ完全な形で残っています。

品濃一里塚の先には、「焼餅坂」があります。焼餅坂は、当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160m)の坂でした。坂の傍の茶店で焼餅を売っていたので焼餅坂と名付けられたそうです。

  

武相国境モニュメント・・・・この地が武蔵国と相模国の境です。昔は、木の杭が建てられていたので境木と呼ばれたそうです。また、ここからは、武蔵国保土ヶ谷になります。

 

境木地蔵尊・・・江戸時代初めに鎌倉の浜に打ち上げられたお地蔵様を漁師が江戸に運んでいる途中、このあたりで牛車が動かなくなり、置いていかれました。夢枕に立ったお地蔵様の

託宣を聞いた村人がお堂を建てお祀りしたのでこのあたりの村は、栄えたそうです。万治2年(1659)建立。

 

箱根駅伝で有名な「権太坂」にやってきました。権太坂の説明の前にこのあたりに「投げ込み塚」があるということで探しましたが、わからず近所の人に聞いて探し出しました。

投げ込み塚は、昔、街道の近くに旅の途中で行き倒れた人や牛馬を葬った場所がありました。その後、平戸の東福寺に手厚く改装され、供養の為この碑が建てられました。

  

権太坂・・・・かつては、今より勾配のきつい相当な坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られています。松並木の続く景色も良かったため、浮世絵にも描かれています。

然し、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)鉄道開通により、旧道は、通行量も減って狭くなった。権太坂はもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代本格的に

道が改修されて宅地開発が進むまで往時の面影を残していました。

箱根駅伝の「権太坂」は、国道1号線の方を走ります。

権太坂の名前の由来・・・・・①ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名を聞くと、自分の名前を聞かれたと思い、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になった。

②昔、権左衛門という人が代官の指図により、開いてできた坂道をその名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのことか、「権太坂」と呼ばれるようになった。

   

 権太坂を下ると元町ガードです。ここには、旧元町橋跡と帝釈天があります。昔、今井川は、帝釈天の祠にある山裾に沿って流れ、祠の下あたりには、旧元町橋がありました。

今の元町橋は川筋を変えたあとのものです。

     

保土ヶ谷2丁目の信号から国道1号線と合流します。交通量が多くなります。

茶屋本陣は、保土ヶ谷本陣軽部氏の分家です。

   

保土ヶ谷宿は、本陣1、脇本陣3(藤屋、水屋、大金子屋)、旅籠67、家数558軒、人口2982人。慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が

「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、

小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で

、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、

現在に至っています。本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣がありました。 (説明文より)

  

保土ヶ谷1丁目信号を左折、東海道本線の踏切を渡ります。このあたりが宿場の中心地になります。

保土ヶ谷宿お休み処に「金沢横町石碑」が4基建っています。東海道と金沢道の分岐点で「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と詠われたようにここから人々は杉田梅林や金沢へと向かいました。

   

お昼時になってきましたので保土ヶ谷駅付近の「宿場そば桑名屋」に入ります。この桑名屋さんは、初代店主が三重県桑名市出身で、現店主は、保土ヶ谷宿保存に務められている方です。

下足箱には、東海道53次の宿場名がつけられています。また、2階は、まちかど博物館になっており、食事の後案内していただきました。

  

  

再び街道に戻ります。

問屋場跡・・・・・公用旅行者の荷物の運搬(馬継立)や飛脚の業務を行う所。

助郷会所・・・・・宿場で賄いきれない人馬を周囲の村から動員する詰所。

高札場跡・・・・・幕府の掟やお触れを張り出す所で宿泊代や人馬代も示されていました。

   

中橋跡・・・・・・今井川の改修。かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。 

 その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することに

なりましたが、なかなか改善されませんでした。しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の

借用を代官へ陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。

保土ヶ谷宿と品川台場建設。今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上 

することを申し出、3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。(説明文より)

香象院は、江戸時代、保土ヶ谷宿で最も大きい寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校になりました。

   

相鉄天王町駅の所には、旧帷子橋のモニュメントがあります。広重の浮世絵「保土ヶ谷宿」には、この帷子橋が描かれています。

 

 

  

更に先へ進むと、松原商店街です。昔は東海道松林があった所で、松原商店街も松林から命名されたのではないでしょうか?

橘樹(たちばな)神社 ・・・・・創建は、鎌倉時代初期(1186)。江戸時代は、牛頭(ごず)天王社といい、天王町の由来になっています。大正時代に現在の橘樹神社になりました。祭神は、素戔嗚尊。

昔は、この一帯は、橘樹郡に所属していました。

    

追分・・・・芝生(しぼう)村(現浅間町)にある追分は、旧東海道と旧八王子道との分岐点であると同時に、旧東海道の新町通りと古町通りの分岐点でもありました。

また、横浜開港以後、移住が自由とされ、芝生村には、まれな就業の機会に恵まれた稼ぎ場として地方からの移住者が多くありました。食麩、升酒小売、小茶屋、船乗り、大工、紺屋、提灯張り、

木具、髪結い、湯屋、看板書きなどの職人が多かったそうです。

                                            (つづく)

 

 


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4 コメント

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サンカヨウ様 (よっくん)
2018-10-11 18:46:28
コメント有難うございます。
私の東海道もようやくゴールが見えてきました。
12月中旬に日本橋へゴール予定です。
戸塚や保土ヶ谷、神奈川の宿場は、市街化が凄まじく昔の面影があまり残っていませんでした。地図を頼りに歩いていますが、私も見逃した所が多々あります。
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東海道ウォークお疲れ様でした。 (サンカヨウ)
2018-10-10 19:16:40
ご無沙汰しております。
お元気に歩かれている記事を読んでは元気をもらっています。東海道もゴール目前となりましたね。
長崎・出島から1500kmとはすごいです。
保土ヶ谷宿は、見落としている場所がいくつもあるのでよっくんさんの記事はとても勉強になりました。
また再訪したくなりました。
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親子ウォーカー様 (よっくん)
2018-10-10 17:25:17
こちらこそ御無沙汰です。
東海道もあと20km弱になりました。12月中旬に日本橋へゴール予定です。これが達成すると長崎・出島から約1500km、8年の歳月をかけて歩いたことになります。
鶴見川渡りました。渡ったらすぐ川崎だと思っていましたらしばらくは、横浜市なんですね。
そうですか、子ウォーカーさんも独り立ちされたのですか?(今年、福島花見山ウォークに参加して子ウォーカーさんも大きくなっただろうなと家内と話していました)
今、九州では、5歳の男の子と時々歩いています。この子、20kmぐらいは平気で歩きます。子ウォーカーの再来かな?などと思ったりしています。
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ご無沙汰しております (親子ウオーカー)
2018-10-09 21:03:37
東海道もゴール目前ということで、コメントを残さずにはいられませんでした(^^;
この後、川崎まで歩かれたのですね。
川崎に入る少し手前、鶴見川を渡ったと思います。
鶴見川の土手沿いを3分ほど下流へ下れば、子ウオーカーが今、独り立ちして住んでいる場所です。
夫婦そろって全国を歩かれているのが、やはりなんともうらやましい限りです。
これからも楽しみにしています!
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