前編からの続きです。
博多リバレインから川端通商店街に向かいます。商店街の入り口には、川上音二郎の銅像があります。
川上音二郎は、1864年(文久3年)博多の大きな藍問屋に生れ世界を駆け巡った明治の演劇人です。
14歳の時に博多港から大阪に渡り歩いて東京まで行き給仕や巡査などの職を転々としたのち、郷里で政治運動に投じ、自由童子と名乗って過激な言動に走りしばしば投獄されます。
やがて、政談演説が禁止されると、落語家桂文之助に入門浮世亭○○の芸名で大阪の寄席で時局風刺の漫談を演じます。1887年(明治20年)には京都の中村駒之助一座で俳優としての
経歴を始めます。その後、書生芝居の一座を組んで巡業を始め東京の開盛座や中村座公演を果たしたのち、自由民権運動をからませた羽織袴に陣羽織姿にハチマキ、
手には日の丸の軍扇という出で立ちで唄った「オッペケペー節」が一世を風靡しました。1899年(明治32年)にアメリカに渡り興業、翌年にはパリ万博に呼ばれて公演し大人気を博しました。
尚、当時人気芸者だった「貞奴」と結婚しています。(博多の魅力より)
「オッペケペー節」
権利幸福嫌いな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ
堅い裃角取れて マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット 貴女や紳士の扮装(いでたち)で
表面(うわべ)の飾りは立派だが 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない 心に自由のたねをまけ
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ
川端通商店街の真ん中には、「川端ぜんざい広場」があります。大正初期、川原四姉弟によって創業された「川端ぜんざい」は、一口ごとにタクアンを食べ、お茶を飲まないと
食べられなかったと言われるほど「日本一甘い」ぜんざい店として評判でした。ところが、姉弟が亡くなり1985年(昭和60年)に一旦閉店してしまいます。しかし、その味を懐かしむ声が高まり、
地元商店街を中心に1994年「川端ぜんざい広場」として復活。その甘さは、当時の3分の1程度に抑えられてはいるものの、現在も博多の名物として愛され続けています。(川端通HPより)
私も若いころ、甘いもの大好きな会社の後輩と一緒に食べに行ったことがあります。ぜんざいは丼に入っていて、辛党の私には、甘すぎて半分しか食べれませんでした。
然し、この後輩君、なんとお代わりをするのです。これにはびっくりしました。川端ぜんざいをお代わりするなんてホント化け物です!!!
商店街には、前回15kmコースでも紹介しましたが、博多弁の番付があります。イラストは、長谷川法世さんです。
「ちゃっちゃくちゃら」・・・・めちゃくちゃ、「好か~ん」・・・嫌いという意味ですが、甘える感じです。本当に嫌いなときは、いっちょんすかんといいます。
「すったり」・・・・まったくダメ。
前回はスルーしましたが、博多の総鎮守「櫛田神社」です。今年はコロナ禍で博多山笠は来年に延期になりましたが、今年の飾り山笠は、櫛田神社だけ展示されています。
櫛田神社を出ると博多町家ふるさと館があります。今日は、開館25年記念で入場無料でした。おまけにマスクまでいただきました。
「博多町家」ふるさと館は、明治中期の博多織織元の町家(住居兼工房)を移築復元し、福岡市の指定文化財に登録されている「町家棟」のほか、「みやげ処」「展示棟」の3棟で
構成されています。明治・大正の時代を中心に博多の暮らしや文化を広く紹介しており、博多の歴史、祭り、伝統などを感じて楽しんでいただける施設です。
博多町家ふるさと館の館長は、「博多っ子純情」の漫画家長谷川法世さんです。
館内を見て回ると、館長の長谷川法世さんをお見掛けしました。(通りもんのお菓子は持っておられませんでしたが・・・)
博多町家ふるさと館から祇園町の方に向かいます。途中、小さな神社があります。
新硯(しんけん)稲荷神社です。普通稲荷神社は、キツネの像が置いてあるのですが、ここは、屋根の鬼瓦がおキツネさんです。
稲荷神社から先に進むと、右側に純和風の旅館「鹿島本館」があります。建てられたのは、大正~昭和初期で国登録有形文化財に指定されています。
龍宮寺は、浄土宗。開山は谷阿上人。当初は袖の湊の海辺にあり浮御堂と称していたが、貞応元年(1222)に海中より人魚が出現した際に国家長久の瑞兆と占われた。その人魚を寺内に埋葬したことにちなんで寺名を龍宮寺と改称。この時朝廷より下向した勅使・冷泉中納言の姓をとって冷泉山と号するようになった。文明12年(1480)、正風連歌を確立したことで有名な宗祇がこの寺に寄寓し「秋更けぬ 松のはかたの 奥津風」と歌に詠んだことで知られる。
東長寺は、福岡藩主黒田家二代忠之公、三代光之公、八代治高公の墓所があります。
崇福寺には、32代総理「廣田弘毅」、博多織の祖「満田彌三右衛門」、初代玄洋社社長「平岡浩太郎」の墓所です。
廣田弘毅は、前回の博多阪急15kmコースで紹介しましたが、満田彌三右衛門は、33歳の時、南宋に渡り、織物、箔焼などを習得して帰国した。特に博多織の祖として有名であります。
平岡浩太郎は、明治11年自由民権運動に参加し進藤喜平太と共に向陽社を組織し、明治14年(1881)玄洋社と改名し、初代社長に就任した。福岡の炭鉱王とも呼ばれ、
その財力は玄洋社の活動に止まらず、郷土の後輩の学費の援助や孫文など支援していたようです。※「玄洋」とは、玄界灘のことを指します。
聖福寺から西門橋を渡り、石堂大橋に向かいます。石堂橋の手前には「濡衣塚」があります。「濡衣塚」は、その名の通り、“濡れ衣”という言葉の由来になった塚。その昔、
聖武天皇の時代(8世紀頃)に、筑前の国司として、佐野近世が妻と一人娘・春姫を連れて赴任したが、在任中に妻が亡くなったため、土地の娘を後妻として迎え一女を授かったそうな。
ところが、連れ子の春姫が疎ましく思えた後妻が、漁師に「春姫様が釣り衣を盗むので困っている」と近世に訴えさせ、その証拠にと、濡れた釣り衣を着て眠っている春姫の姿を見せられた
近世は逆上してその場で春姫を切って捨てたとか。
一年後、近世の夢枕に無実を訴える春姫が現れ、自分の行動を悔いた近世は出家して石堂川の畔に濡衣塚を造ったとされています! (福岡よかとこより引用)
コースは千代町に入りました。崇福寺は、福岡城址の表御門が山門として移築されています。また、福岡藩黒田家の菩提寺にもなっており、藩祖黒田如水公(官兵衛)、初代長政公、四代綱政公、
六代継高公、七代治之公、九代斉隆公、十代斉清公の墓所があります。
黒田家の墓所に行こうとしましたが、墓所の門には、鍵がかけられ中に入ることができませんでした。
崇福寺には、玄洋社の墓所でもあります。
崇福寺から東公園に向かいます。
松原水は、明治初期、まだ井戸水を利用していたころ、博多部の井戸は水質に恵まれず、そのため飲料水は当時の那珂郡千代村一帯(現在の博多区千代付近)に続く松林(千代松原)の
砂地から汲む井戸水を運んでまかなわれていた。これも次第に建て込む人家の家庭汚水で利用できなくなってきた。
そこで明治二九(一八九六)年 福岡市は、飲料水確保のため千代村堅粕(現在の博多区東公園)の東公園内の国有地約一アールを年間一円八銭で借り受け、工費五〇円で市設の井戸を掘った。
これが「松原水」の起こりである。明治34(1901)年には、福岡市による「市設井戸取締規程」が定められている。井戸には看守を置く事、汲む者は給水許可証を携帯すること、
料金は一石(180リットル)に十銭宛などと細かく規定して本格的に管理された。このようにして、業者も水桶一二個積んだ大八車をガラガラ引いて、戸別に配達したため、
上水道通水(大正12年)まで、松原水売りは博多の風物詩であった。
なお、明治33(1900)年 皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が来福の際、飲料水として使われ、記念の石碑が傍に建っている。(説明文より)
東公園は、かつての千代の松原の一部であったのを1873年(明治6)太政官布告に基づいて公園地とした福岡県内初の県立公園です。
野球のグラウンドなどがありましたが、1981年(昭和56)県庁が移転してきたため、廃止になりました。
千代の松原というと、私、思い出があります。当時は現場を担当していたのですが、現場の宴会(顔見世会、打ち上げ会、忘年会・・・)でよく皆さんと博多の歌を歌っていました。
博多ワルツ、博多夜船、・・・こういう歌に千代の松原の歌詞が入っていました。勿論当時はカラオケなどありませんでした。
東公園内には、日蓮聖人像や亀山上皇像があります。日蓮は、文応元年(1260)立正安国論で、当時の鎌倉幕府執権北条時宗にいち早く元(モンゴル)軍の来襲を警告しました。
亀山上皇は、元(モンゴル)軍来襲の際、「わが身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願されました。銅像の下の部分には「敵国降伏」の文字が刻まれています。
コースも終盤です。九州の鉄道は1889年(明治22)博多~久留米間で開通しました。当時の博多駅は、ここ出来町公園の所でした。
昭和38年(1963)出来町公園から500mぐらい離れたところに新しく博多駅が誕生しました。そのころは、博多駅舎以外何もなくただ田園地帯が広がる所でした。
あれから半世紀以上経ち、現在の博多駅前は高層ビルが立ち並び福岡の玄関口にふさわしくなっています。
12:10 イヤーラウンド10kmゴールしました。GPSでは、距離が12,5kmとなっていました。
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