よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーク №25(その1)(見附宿~袋井宿)磐田市~袋井市

2017-07-11 18:03:28 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

7/4(火) 台風3号が発生。夕方から夜にかけて静岡県に接近するそうです。今日は、見附宿~掛川宿まで歩く予定にしていますが、天気がひどくなったら引き返すことも考えています。

浜松のホテルを出発し、8:00に前日ゴール地の磐田駅に到着。磐田駅から北口に降りようとすると、すごい行列ができています。降りてみてみると、ヤマハ発動機向けの社員送迎バスでした。

昨日、country walkerさんから教えていただいた「御殿遺跡公園」に行きました。

家康公は、天正14年(1586)府八幡宮の神主を務めていた秋鹿(あいか)家の跡地に、見附、中泉支配や軍略の拠点として「中泉御殿」を建てています。

江戸時代になると、敷地内に代官所と陣屋が建てられ、初代代官は、秋鹿家が勤めていました。中泉陣屋は通称中泉代官所と呼ばれ、幕府の直轄地を支配し、その範囲は遠江を中心に西は三河、

北は信濃まで及んでいました。中泉陣屋の大きさは、絵図によると西は、東城道に面し、周囲は土塁や水路によって仕切られ、総延長571mありました。

敷地の北半はには、書院や長屋などの建物が並び、南半は、畑や池とともに稲荷宮が置かれました。

    

磐田駅北側には、「前島 密」像がありました。前島密は、新潟出身で、江戸に出て医学や英語を学んだ。維新後静岡に移住し、明治2年(1869)1月13日から8月16日までの間、

奉行として中泉に赴任し善政を尽くす。まず、江戸から無禄武士を受け入れ新たに職業の道を指導する。また、身寄りのない老人や子供更に身体の不自由な人達のために福祉施設の

普済院を創設する。この施設を地元寺院の住職や青山宙平が献身的に支えた。のちに前島は新政府に出仕し、英国に渡って郵便事業の実態を視察する。帰国後は我が国に初めて

郵便制度を設けた。更に郵便為替や郵便貯金も兼営して国営による郵便事業の基礎を確立した。

このあと、駅南側に行き、見附宿に向かいました。途中、昨日案内していただいた「西願寺裏門」の案内板がありました。

この通りは、ジュビロ通りといわれており、歩道には、ジュビロ像が建っていました。

   

磐田は、トンボの町でもあります。市東部の桶ヶ谷沼には、絶滅危惧種の「ベッコウトンボ」が生息しています。

磐田市のマンホールや歩道のプレートには、トンボが描かれています。

  

遠江国分寺跡

奈良時代、国分寺や国分尼寺は、日本全国約60か所に建てられたといわれますが、そのほとんどが礎石程度しか発掘されていません。昭和27年(1952)からの調査で七重塔など主要な

伽藍跡などが発見されており、国宝と同格の国特別史跡に指定されています。

    

遠江国分寺跡の向かいには、「府 八幡宮」があります。

奈良時代に遠江国の治安を祈願に仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三神を祀り建立されました。本殿は二代将軍秀忠公の娘、東福寺院が寄進しました。

楼門は、純和風の随身門で、県の文化財です。この門に続く中門は禅宗様(唐様)で楼門と対照的な美しさを見せています。

  

  

街道は、郵便局から右折。再び大きな道と合流した加茂川の所に「西光寺」があります。ここの楼門も中泉御殿の門が移設されています。

  

西木戸跡  木戸とは、江戸時代の都市において隣り合う二町の境界、武家町・町人町の境界または町と在との境に設けられた保安用の門のこと。

二本の親柱の間に門扉を付けたもので、昼間は扉を開いており通行自由であったが、非常時の場合や夜にはこの扉を閉じて通行を止めていた。

西坂町バス停の所に「姫街道分岐」があります。見附宿から浜名湖の北側を迂回し、御油宿を結ぶ15里(60km)の道は、姫街道、または本坂峠を越えることから本坂道などとも呼ばれています。

姫街道の呼び名は、新居関所の厳しい取り締まりを避けるため、女性が多く利用したという説や古いという意味の「ひね」が変化したからとも言われています。

起点は浜松の安間と言われ、一里塚も築かれています。

西坂の梅塚」は、見附の東坂町、西坂町にそれぞれ1本の梅があり、通称東坂の梅の木、西坂の梅の木と呼ばれている。これを梅塚という。

この梅塚は、昔、陰暦八月初めに一筋の白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番と申し、娘を怪物の犠牲に備えた家の前にそのしるしとして植えたものだとして伝えられている。

そして西坂の梅塚はその最後のものであった。

  

栗田家土蔵群跡」 江戸時代から磐田は煙草の産地であり、遠州葉というブランドもあり、葉煙草の一大集積地でした。栗田家は明治20年(1887)頃に栗田煙草合資会社を設立し、

遠州でも有数の煙草製造会社で、明治から昭和初期に建てられた土蔵群が近年まで残っていました。

  

旧見附学校

現存する日本最古の洋風木造学校で、明治8年(1875)に造られました。建物の石積みは横須賀城(掛川市大須賀)から移設され、当初は4階建てで、明治16年(1883)に5階建てとなりました。

玄関のエンタシスをつけたドリス式の飾り柱や男女の分かれた入口などが残り、建物内では当時の学校風景や資料が展示されています。

  

  

見附学校の隣は、「淡海国玉神社」(おうみくにたまじんじゃ)です。 

大国主命を祀る神社です。大国主命と兎の「因幡の白兎」の話は有名ですが、一説には八上姫が兎を使者として結婚相手を探し、その後大国主命と八上姫がめでたく結婚されたことから、

縁結びの神様としても慕われています。境内の狛犬?は、狛兎??です。

   

    

見附宿バス停の手前に「本陣跡」がありました。見附宿は、家数1029軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒、人口3935人でした。(1843年資料より)

   

本陣跡からちょっと奥のほうに入った所に「大見寺」があります。境内には、珍しい木「ジャガランタ」の花が咲いていました。一見桐の花みたいです。

この大見寺には、「鳥人幸吉」の墓があります。1757年生まれ。本名は浮田幸吉。記録によれば、1785年夏に岡山城下の京橋から滑空し、世間を騒がせた罪で岡山藩を所払いに。

船員として全国を巡った後、静岡で舶来時計の修理や入れ歯の製作で成功。50歳の頃、飛行に再挑戦。再び所払いに遭い、静岡県磐田市見付へ。そこで結婚し、91歳まで生きたとされる。

  

見附宿は、お寺が多いです。次に行くお寺は、白波五人男の日本駄右衛門のモデルとなった「日本左衛門」の墓がある「見性寺」です。

日本左衛門は、尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。

延享3年(1746)年9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟し、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される。

これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、

安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念。延享4年(1747)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方(あるいは大坂にて大坂町奉行牧野信貞)に自首し、江戸に送られ、

北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれた。刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒された。

なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29才。(wikipediaより)

歩いているとオリンピックでメダルを獲得した「水谷隼」「伊藤美誠」の垂れ幕がありました。お二人とも磐田北小学校の出身だそうです。

   

朝8時から見附宿周辺を探索していますが、もう10時です。見附宿は見どころ満載でなかなか先に進みません。

今日も暑く、途中のスーパーで休憩しました。暑いときにはこれですね。ガリガリ君。

水分をたっぷり補給して再び出発します。

昨日countrywalkerさんから教えていただいた「宣光寺」に行きます。宣光寺は、「みがわり地蔵」といって元亀三年(1572)三方原の戦いで信玄に追われた家康は、見附に逃れて、町に火を放った。

地蔵は、にげまどう人々を助けるため、幼児に化身。身にやけどを負いながら火を消して回った。その功徳によって多くの人々は難を逃れた。深く地蔵に帰依した家康は、のち天下人になった。

以来、心や身体の苦しみなどの災難を身代りになってくれる仏として信仰を集めています。世にみがわり地蔵といいます。

    

見附宿東木戸跡近くに「見附天神(矢奈比売(やなひめ)神社)」があります。祭神は、矢奈比売命、菅原道真、霊犬悉平太郎で創建は不明ですが、延喜5年(905)の延喜式に名前が記されています。

旧暦8月に行われる例大祭「見附天神裸祭り」は国の重要無形文化財に指定されています。

   

富士見公園があります。昔は、ここから富士山が見えていたでしょう。然し、今日は、薄曇りでその形を見ることができません。

道路の左側の高地に「遠州鈴ヶ森」があります。白波五人男の日本左衛門は、ここで処刑されたと伝えられています。

鈴ヶ森の先の歩道橋を渡ります。このあたり「行人坂」です。ここには、行人(山伏)が多く住んでいて村の祀りごとや社会奉仕に携わっていたのでこの坂を「行人坂」と呼ぶようになったそうです。

   

行人坂の所に「北向き地蔵」があります。明治の中頃、この地区で疫病が流行りこれを封じるためにお地蔵さんを方角が悪いとされた北向きに建立して身代りになっていただいたと伝えられています。

  

(その2)に続く