4/10、佐賀城址の桜が綺麗だと聞いていたので、街道歩きを中断し、
佐賀城跡に向かいました。
佐賀城は、天正年間(約420年前)龍造寺氏が築き、慶長16年(1608)実権を受け継いだ
鍋島勝茂氏が入城しました。
先ず佐賀城の鯱の門です。
これは、天保9年当時の姿を残しています。
佐賀の乱での鉄砲の跡も残ってます。
桜は、天守閣跡に咲いています。
ちょっと盛りは過ぎた感はしますが、見事な桜です。
やはり、城と桜似合いますね。
佐賀城本丸です。
佐賀城本丸は、明治新政府以降佐賀藩庁として使われました。
その後裁判所、小学校などとなり、平成16年佐賀城本丸歴史観として建て替わりました。
「御座間」は天保期の瓦、柱などが使われています。
佐賀城の近くには、大隈記念館があります。
御存知の通り、大隈重信は、早稲田大学の創設者、政界では2度の総理大臣を
経験しています。
大隈重信の生家が残っていました。
龍谷高校の近くには、大木喬任(たかとう)の生誕地が
あります。大木喬任は、江藤新平と共に「江戸遷都」を唱え、文部卿として
教育体制の整備を行いました。東京府知事でもありました。
弘道館跡
佐賀藩の藩校です。この弘道館からは、大隈重信、大木喬任、副島種臣、
江藤新平、島 義勇(よしたけ)、佐野常民など明治新政府で活躍した人たちが
巣立っています。
※島 義勇・・・・札幌を中心に北海道を開発した北海道開拓の父。
佐賀の乱で江藤新平と共に刑死。
※佐野常民・・・・工部大丞・元老院議長、農商務相、枢密顧問官などを歴任、
博愛社(現日本赤十字社)の創設者。
※副島種臣・・・・維新後参議となり、外務卿時代にはマリア・ルース号の解決に
あたる。征韓論を主張して下野。のち、枢密顧問官、内相などを
歴任。書家としても才能を発揮した。
弘道館の教育方針は、25歳までに卒業しないと親の家禄を削減するというもので
現在のスパルタ教育みたいなものでした。
弘道館跡横には、徴古館(ちょうこかん)があります。
ここには、鍋島家ゆかりの博物館として昭和2年開館。しばらく休館していましたが
平成10年再開。鍋島家伝来の資料を公開しています。
私が行った日は、開館時間を過ぎており、中には入れませんでした。
徴古館近くにもきれいな桜が咲いていました。
佐賀城跡に向かいました。
佐賀城は、天正年間(約420年前)龍造寺氏が築き、慶長16年(1608)実権を受け継いだ
鍋島勝茂氏が入城しました。
先ず佐賀城の鯱の門です。
これは、天保9年当時の姿を残しています。
佐賀の乱での鉄砲の跡も残ってます。
桜は、天守閣跡に咲いています。
ちょっと盛りは過ぎた感はしますが、見事な桜です。
やはり、城と桜似合いますね。
佐賀城本丸です。
佐賀城本丸は、明治新政府以降佐賀藩庁として使われました。
その後裁判所、小学校などとなり、平成16年佐賀城本丸歴史観として建て替わりました。
「御座間」は天保期の瓦、柱などが使われています。
佐賀城の近くには、大隈記念館があります。
御存知の通り、大隈重信は、早稲田大学の創設者、政界では2度の総理大臣を
経験しています。
大隈重信の生家が残っていました。
龍谷高校の近くには、大木喬任(たかとう)の生誕地が
あります。大木喬任は、江藤新平と共に「江戸遷都」を唱え、文部卿として
教育体制の整備を行いました。東京府知事でもありました。
弘道館跡
佐賀藩の藩校です。この弘道館からは、大隈重信、大木喬任、副島種臣、
江藤新平、島 義勇(よしたけ)、佐野常民など明治新政府で活躍した人たちが
巣立っています。
※島 義勇・・・・札幌を中心に北海道を開発した北海道開拓の父。
佐賀の乱で江藤新平と共に刑死。
※佐野常民・・・・工部大丞・元老院議長、農商務相、枢密顧問官などを歴任、
博愛社(現日本赤十字社)の創設者。
※副島種臣・・・・維新後参議となり、外務卿時代にはマリア・ルース号の解決に
あたる。征韓論を主張して下野。のち、枢密顧問官、内相などを
歴任。書家としても才能を発揮した。
弘道館の教育方針は、25歳までに卒業しないと親の家禄を削減するというもので
現在のスパルタ教育みたいなものでした。
弘道館跡横には、徴古館(ちょうこかん)があります。
ここには、鍋島家ゆかりの博物館として昭和2年開館。しばらく休館していましたが
平成10年再開。鍋島家伝来の資料を公開しています。
私が行った日は、開館時間を過ぎており、中には入れませんでした。
徴古館近くにもきれいな桜が咲いていました。