1975年、つくば万博が開催されました。そのころ私は、マレーシアでの4年間の長期在外研究から帰国したばかりで、つくばの公務員宿舎に住んでおり、土浦には来る機会がありませんでした。従って「水都・土浦」の本当の姿を観る機会はありませんでした。つくばでは万博景気に沸き立ち、インフラ整備が進み、観光客目当てのホテルが林立していました。つくばに隣接する土浦でも万博景気にあやかろうと、土地造りに奔走したようです。写真のタイル画は、運河を埋め立てて造成した土地に建設した川口モールに記念碑として立てられているものです。私が当時の「水都・土浦」を忍ぶ数少ない「遺跡」です。
タイルには水都・土浦として知られていた当時の情景が描かれています。霞ヶ浦に高瀬舟が行き交い、運河沿いに商家が立ち並んび賑わっている風景です。JR土浦駅から徒歩5分にある川口モールの場所はかつての大きな運河があったところで、土浦市内の交通渋滞を緩和する目的で、運河を埋め立てて、土歌駅東口から土浦市内の上を通過してつくば方面に連絡する高架道を建設したのです。高架道の下を3階建ての商店街・川口モールにしたのです。しかし川口モールは、商店のスペースを作っただけの500メートルほどの細長いプレハブ的施設で、人を引き付ける街並みの魅力は皆無です。
この高架道は思わぬ効果を生みました。東口方面の人達は土浦には寄らず、まっすぐつくばへ行ってしまうのです。その煽りで、万博が終わると土浦はシャッター店が並ぶ閑散とした街になってしまったのです。他の運河も悉く埋め立てられ、道路拡張用地や駐車場に成り下がり、今ではただの一本も残っていません。土浦らしさを演出する運河を埋め立ててしまっては、「水都・土浦」の命運は尽きました。小江戸と親しまれ多くの観光客をひきつける川越の街並みを引き合いに出すまでもなく、もし土浦に、かつての水都を髣髴とさせる運河とその沿岸に並ぶ店蔵の街並みが一本でも保存・整備されていれば、必ずや「日本の街並み100選」にノミネートされ、土浦振興の起爆材になったに違いありません。先祖が遺した取り返しのつかない貴重な遺産を疎かにした罰が当たったのです。
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