鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

本山、ACL出場か

2010年05月07日 | Weblog
鹿島の本山が練習試合に出場 12日のACLで復帰も
 鹿島アントラーズは7日、水戸ホーリーホックと練習試合を行い、戦列を離れていた本山雅志が復帰した。昨年の12月12日に行われた天皇杯準々決勝ガンバ大阪戦以来146日ぶりに試合のピッチに立った。

「45分の予定だったんだけど前半あまりに悪すぎて」ということで後半途中までプレー。運動量は少ないながらも1アシストを決めるなど、パスセンスはさび付いておらず、随所に集まったサポーターをうならせるプレーを披露した。
「ユニホームを着たのは写真撮影の時以来初めてですね。接触プレーはあまりなかったし、もうちょっと寄せ切るところとかはやらないといけなかった。でも、まずは第一歩が踏めて良かったです」

 練習試合後、その表情は充実感にあふれていた。ただ、試合直後には「まだまだ」と悔しさをにじませていた。本来のプレーに戻るにはもう少し時間が必要なのかもしれない。とはいえ、12日に控えるAFCチャンピオンズリーグに話を向けると「迷惑がかかるんじゃないかな」と言う一方で「後半くらいのプレーができれば」と自信ものぞかせた。体力面での不安を払拭(ふっしょく)できれば、後半途中から切り札として登場する可能性も十分にある。もしそうなれば、ラウンド16を目前に控えた鹿島にとってなによりの朗報となるだろう。


取材:田中滋
[ スポーツナビ 2010年5月7日 21:11 ]


今季、ユニの袖に腕を通したのは写真撮影以来と語る本山である。
口では「まだまだ」と申すものの、12日のACLには出場する気十分である。
是非とも勇姿を拝みたい。
背番号10のパスに奔る興梠が、マルキーニョスが観たい。
これは聖地に集まらざるを得ない。
声を出して本山を鼓舞しよう。
気合いを入れ直してアジアに挑むのだ。

本山、実戦復帰

2010年05月07日 | Weblog
本山実戦復帰!鹿島が練習Gで水戸に快勝
 鹿島は7日、茨城県鹿嶋市内のクラブハウスでJ2水戸と練習試合を行い、5-1で勝利した。お互い控え組中心のメンバー構成で臨み、FW大迫勇也が先制点を含む2ゴールを奪取。存在感を示した。2月に腰椎椎間板(ようついついかんばん)ヘルニアの手術を受けて復帰を目指していたMF本山雅志も約5カ月ぶりに実戦復帰。先発出場で後半途中まで出場し「本当は前半45分だけの予定だったけど、前半があまりにも悪かったので後半途中まで出ました。(完全復帰への)第1歩ですね」と話していた。
 [2010年5月7日20時3分]

本山の復帰がニュースになっておる。
それだけ注目度の高い選手なのである。
この背番号10がピッチに立てば、我等の気持ちは否応なしに盛り上がる。
今季の真の開幕が近づいたと言って良かろう。
本山と共に、アジアを、リーグを、そして世界を狙おうではないか。

練習試合 水戸ホーリホック戦

2010年05月07日 | Weblog
2010年 5月7日(金)

本日行われた水戸ホーリーホックとの練習試合は、2ゴールを決めた大迫選手の活躍などで5-1で勝利しました。

       大迫 よよ
  ヤス        本山
   船山      青木
ジウトン イノパン 大岩 當間
        杉山

ヤス、大迫×2、よよ、イノパン

杉山 → 佐藤昭大
本山 → 小谷野
當間 → 笠井健太
船山 → 修人
ジウトン → 宮崎


豪華な紅白戦である。
特に本山の出場は誰もが待つ望んだ結果と言えよう。
そして、その存在に発奮したヤスが、生き生きとしたプレイを魅せ、得点決めて活躍しておる。
これで、ACL ラウンド16のベンチが読めなくなった。
誰がベンチに入るのか予想しつつ、聖地へ向かいたい。
政子の元に、頼家が蹴鞠の最中に大量吐血して倒れた、という知らせが入った。

柳沢敦、黄金スパイクを賜る

2010年05月07日 | Weblog
J1通算100ゴール達成柳沢に「黄金靴」
 史上6人目のJ1通算100ゴールを達成した京都FW柳沢敦(32)に、「黄金スパイク」が贈られた。6日、用具の契約を結ぶミズノ社から、記録達成の記念スパイクを受け取り満面の笑みを浮かべた。4日には第1子となる男児が誕生。喜びは二重で「ゴールを決めたら、スパイクを赤ちゃんのように抱くパフォーマンスをしたい」と冗舌だった。
 [2010年5月7日7時38分 紙面から]

ミズノに讃えられる柳沢敦である。
この男のスパイクへの拘りは並々ならぬものである。
国産であるミズノ社のスパイクは評判がよい。
かのリヴァウドも愛用したほどである。
しかしながら、日本代表で後押しするA社や巨大スポーツメーカーであるN社が幅を効かせており、存在がアピールされておらぬ。
これは、少々残念である。
鹿島でミズノを愛用するのは曽ケ端と新井場である。
彼らの足から繰り出される多彩なボールで、勝利を掴んでいきたい。
源頼家とその子・一幡を調伏した廉で捕らえられていた阿野全成(源頼朝の異母弟)は、頼家の命により誅殺される運命となった。

仙台・平瀬、常勝の血

2010年05月07日 | Weblog
平瀬、勝利へ提案焼き肉決起集会…仙台
 FW平瀬智行(32)が6日、選手だけによる決起集会の開催を提案した。ここ5試合未勝利だけに「来週くらいにも焼き肉屋でやりたいよね」。ベガルタでは07年11月を最後に選手だけによる決起集会を開いていない。手倉森監督就任の08年以降は、まとまりが良く、開催の必要がなかった。同年加入の平瀬は「鹿島、横浜M、神戸でもよくやっていた。(チーム内には)一緒にメシを食いに行ったことがない選手もいるしね」と、きっぱり。
(2010年5月7日09時36分 スポーツ報知)

決起集会を企画する仙台・平瀬である。
こういったところに、鹿島の血が生きておる。
平瀬の力で仙台に勝利の味を覚えさせてあげて欲しいところ。
笹かまぼこと萩の月で舌鼓を打つのだ。
楽しんで欲しい。
北条と比企の争いを高みの見物と決め込む三浦義村であった。

食彩スタジアムSHINZOオープン

2010年05月07日 | Weblog
興梠W杯活躍で「お店を大きくしたい」

鹿島FW興梠(中央)と右は父善二郎さん、左は母定子さん
 鹿島のFW興梠慎三(23)が飲食店オーナーとしての第1歩をW杯へのカンフル剤にする。6日、地元宮崎市内で自身が出資した「食彩スタジアムSHINZO」がオープン。オフを利用して店に顔を出し「W杯で活躍してもっとお店を大きくしたい」と誓った。

 父善二郎さん(53)が同市内で経営する「ローストチキンこおろぎ」のチキンが自慢のメニュー。店内は個室を含め35席があり、サイン入りユニホームなどの鹿島グッズが勢ぞろい。「父親のチキンを提供できる店を出すことが夢の1つだった」と笑顔で話した。

 これまでも高級外車や高級腕時計を購入することで「結果を出してもっと稼がなければ」と自分に責任を背負わせてきたが、今回は飲食店。当落線上に位置しているW杯メンバーの発表は10日。「やることはやった。あとは結果を待つだけです」。W杯で結果を出すために、朗報を待つ。
 [2010年5月7日8時27分 紙面から]

W杯と同じくらいの夢!興梠オーナー店開店
 鹿島のFW興梠が、オーナーを務める飲食店「食彩スタジアムSINZO」が6日、地元の宮崎市でオープンした。

 父・善二郎さんが同市内で経営する「ローストチキンコオロギ」に次ぐ出店で、この日はチームのオフを利用して自らが店頭に立ってPR。「W杯に出ることと同じくらい自分の店を持つことも夢だったのでうれしい。でもまたサッカーに集中しないと」と10日のW杯メンバー発表でもう1つの夢の実現を願っていた。

[ 2010年05月07日 ]

興梠が故郷の宮崎市内にレストラン開店…鹿島

宮崎市内にオーナーとして「食彩スタジアムSHINZO」をオープンさせた鹿島FW興梠慎三と父・善二郎さん(右)、母・定子さん(左)

 日本代表FW興梠慎三(23)=鹿島=が6日、故郷の宮崎市内に「食彩スタジアムSHINZO」をオープンさせた。「父(善二郎さん、53)が作るローストチキンを店に出すことが夢だった。W杯に行きたいとか優勝したいとか、同じくらいの目標をかなえることができた」と喜びをかみしめた。

 興梠流のステップアップ策でもある。05年のプロ入り後から、両親が住む自宅の援助をしたほか、高額腕時計、高級外国産車と毎年のように大枚をはたいた。後に引けない状況を作り、08年からは鹿島の主力に定着。今やW杯に参加する代表メンバー入りに、手が届きそうな位置にいる。

 今回のオーナー就任は「サッカーに集中する」ため、資金面のバックアップのみで、実際の運営は個人後援会のメンバーが行う。店では、父が経営する鶏肉店のローストチキンを中心に提供する予定。興梠は自らを追い込み、南アW杯での活躍を期した。

(2010年5月7日06時01分 スポーツ報知)

夢を叶えた興梠である。
宮崎市内に飲食店をオープンさせたとのこと。
と言いつつも、興梠本人は出資したのみで、経営は講演会メンバーである。
今は、サッカーに集中するときと、本人も申すとおり、ここは重要な時期である。
チームはアジア制圧へ向けて全力で戦っており、リーグも気は抜けぬ。
それは今季だけでなく、来季も再来季も同様なのである。
まだ若き興梠慎三には、これから永きに渡ってエースであってもらわねばならぬのだ。
外部の雑音はシャットアウトし、鹿島で力を発揮して欲しい。
鎌倉では将軍(頼家)の外戚となった比企一族が権力を誇示していた。