鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

日本代表候補岩政大樹存在感を示す

2008年01月18日 | Weblog

DF岩政、適応能力の高さ光る 覇気のあるプレー披露

戦術練習で矢野(後方)を封じるDF岩政=鹿児島県指宿市
 サッカー日本代表候補は17日、鹿児島県指宿市内で合宿3日目の練習を行った。

 最終ラインで岩政の存在が光っている。

 初の戦術練習では適応能力の高さを見せた。岡田監督の意図を理解し、MF、FW陣にプレスのタイミングを指示。「体が動くようになってきた」と言い、ミニゲームでは激しいスライディングなど、覇気のあるプレーを披露した。J1王者の鹿島の守備ラインを支えた25歳は「(代表に)選んでもらってるので、それに恥じないようなプレーをしたい」と意気込みを口にした。

岩政 最終ラインで抜群の存在感
 日本代表候補の岩政が、最終ラインで抜群の存在感を示した。初の戦術練習では岡田監督の意図を理解し、MF、FW陣にプレスのタイミングを指示するなど適応能力の高さを見せた。「体が動くようになってきた」と、ミニゲームでは激しいスライディングなど、闘志あふれるプレーを披露した。
[ 2008年01月18日付 紙面記事 ]

自称サッカーマニアの岩政が岡田戦術を会得した模様。
代表候補に選出された自覚も芽生え、今季の彼には更なる飛躍を予感させられる。
ところで、サンスポ速報とスポニチ紙面がコピーのように同じ言い回しなのは偶然なのか否か疑惑の念に駆られる報道である。


日本代表候補合宿紅白戦 田代ゴール

2008年01月17日 | Weblog

代表候合宿2日目で初の紅白戦
 サッカー日本代表候補は16日、鹿児島県指宿市で合宿2日目の午前と午後の練習を行い、午後にはこの合宿初めて紅白戦を実施した。

 メンバーを入れ替えて約30分の前後半を行ったが、布陣はいずれも4バックで、中盤で短いパスをつなぐ意識を徹底した。高原(浦和)大久保(神戸)田代(鹿島)らが得点した。午前の練習では少ないタッチでパスをつなぎ、サイドチェンジする練習に時間をかけた。

 合宿は23日まで。19日には地元の鹿屋体大と練習試合を行う。
[ 2008年01月16日 19:29 速報記事 ]

高原効果で矢野、大久保ら奮起弾
 高原の活躍に触発された日本代表候補のFW陣が次々とゴールを決めた。矢野が先陣を切り、大久保、田代が続いた。MF中村憲のCKから得意の頭で決めた田代「ああいう形でシュートまで持っているのが高原さん。まねできるところはまねしたい」と刺激を受けた様子。磐田で一緒にプレーした経験を持つ前田は、この日はノーゴールに終わり「自分も決めないと」と奮起を誓っていた。
[ 2008年01月17日付 紙面記事 ]

田代、大久保が得点…日本代表合宿
 田代と大久保が紅白戦で得点、存在感を見せた。中村憲の右CKを滞空時間の長いヘディングで決めた田代「高さは自分が持っている武器。紅白戦でもアピールしたかった」と胸を張った。

 右足でゴールした大久保は「良かったです」と笑顔。「体がついていってないが、体調を整えてアピールしたい」と話した。
(2008年1月16日20時26分  スポーツ報知)

【日本代表候補 トレーニングキャンプ】1/16練習後の日本代表各選手コメント(前田、内田、中村、岩政、田代、橋本選手を追加しました) [ J's GOAL ]
●内田篤人選手(鹿島):
「疲れました。天皇杯が終わって、チームで『とりあえず休め』って言われたので休んだから、この合宿が大変で(苦笑)。ミーティングでは、最初の合宿で言っていたことを繰り返したり、シーズン初めだからケガに注意しろって言っていた」
●岩政大樹選手(鹿島):
「代表に選ばれて、楽しいといえば楽しい。沢山の選手がいるし。まだ周りが自分のことを理解していないし、自分も周りのことを理解していないので、自分のやりたいことをまだやりきれていないとは思うけど、焦らずにやっていきたい」
●田代有三選手(鹿島):
「岡田監督はパススピードを上げて、小さいところでパスを回して崩すという日本人ならではのことをやっていきたいみたい。僕としては小さいところではたいて、逆サイドに振ったときに、真ん中に入っていきたい。できる限りいいポジションに入っていけるようにと考えながらゲームをやっていた。片方に集めて逆サイドに振って崩すというのを繰り返すと監督は言っていた。イメージは分かったつもり。選手はみんなうまいからすぐタイミングも分かると思う。まだ自分の特徴は出せていないし、もっと呼び込んで行きたい。今日のゲームではあのゴールの1本だけ。でも、あの時だけは自分のほしいところに入っていったらボールがきちんと来た」

天皇杯では今一歩不発に終えた田代有三であるが、日本代表に於いては早速結果を残したようである。
高さがアピール出来たことは喜ばしい。
ただ本人はまだまだ不満の模様。
向上心を持って挑み続けて欲しい。
さすれば倒幕軍総大将の道も開けるのである。


羽田レンタル延長

2008年01月16日 | Weblog

羽田憲司選手のセレッソ大阪への移籍期間を延長
標記の通り、羽田憲司選手が2008年シーズンもセレッソ大阪でプレーすることになりましたのでお知らせいたします。1年間の期限付き移籍となります。

■羽田憲司(はねだ・けんじ)
<生まれ>
1981年12月1日、千葉県出身
<主な経歴> ※カッコ内の数字は加入年
市川市立塩焼小学校─市川市立妙典中学校─船橋市立船橋高校─鹿島アントラーズ(2000)─セレッソ大阪(2007)
1999年度全国高校サッカー選手権優勝
2001ワールドユース(現U20W杯)日本代表
<成績>
J1リーグ通算 19試合2得点(鹿島アントラーズ)
J2リーグ通算 25試合0得点(セレッソ大阪)
ナビスコカップ通算 12試合0得点(鹿島アントラーズ)
天皇杯通算 5試合0得点(アントラーズ在籍時は3試合0得点)
<ポジション>
ディフェンダー
<サイズ>
180センチ、74キロ

ハネケンが再びセレッソへ。
特に驚きのない発表である。
伊野波の加入でCBの枚数が足りたためファボンの動向とは無関係に羽田は放出対象となっただけである。
セレッソでポジションを得ており、必要とされている場所にいることが幸せである。
セレッソは今季J2であるため、J1に昇格したところで売却となろう。
来季は是非とも完全移籍を果たして対戦したい相手である。


こんにちは伊野波

2008年01月16日 | Weblog

伊野波雅彦選手が完全移籍で加入
標記の通り、伊野波雅彦選手が、FC東京からの完全移籍で加入することが決定しましたのでお知らせ致します。

■伊野波雅彦(いのは・まさひこ)
<生まれ>
1985年8月28日、宮崎県出身
<経歴>
宮崎東サッカースポーツ少年団―宮崎市立生目台中学校―鹿児島実業高校(2001)―阪南大(2004)―FC東京(2006)
<主な実績>
年度  クラブ  リーグ    カップ    天皇杯
        出場 得点  出場 得点  出場 得点
2006年 FC東京  28  1    5   0   2   0
2007年 FC東京  20  0    4   0   0   0
通算       48  1    9   0   2   0

2006アジアカップ予選日本代表 本大会出場権獲得
2007北京五輪アジア最終予選(U-22)日本代表 北京五輪出場権獲得
2005ワールドユース(現U20ワールドカップ)日本代表 ベスト16
2005ユニバーシアード日本代表 金メダル
<ポジション>
ディフェンダー
<サイズ>
179センチ、73キロ
<伊野波選手コメント>

小さい頃からの憧れだったアントラーズに、移籍という形ですが、入ることができてうれしく思っています。FC東京で2年間やってきた経験をアントラーズで生かしたいと思います。結果を出さなければならない立場だと思っているので、チームに貢献できるように頑張ります。地域の方やサポーターの皆さんと、さらに歴史や伝統を作っていければと思います。

鹿島がU23代表DF伊野波獲得を発表
 鹿島は15日、北京五輪に出場するU-23(23歳以下)日本代表の主力DF伊野波雅彦(22)を東京から完全移籍で獲得したと発表した。

 宮崎県出身の伊野波は鹿児島・鹿児島実高から04年、阪南大へ進学。06年に東京へ入団し、日本の五輪出場にも貢献。アジア杯などで日本代表にも招集された。

 伊野波は広報を通じ、「小さいころからのあこがれだったアントラーズに入ることができてうれしい。FC東京での経験を生かしたい」とコメントした。
[2008年1月15日19時7分]

鹿島 伊野波を完全移籍で獲得
 J1の鹿島は15日、北京五輪に出場するU―23(23歳以下)日本代表の主力DF伊野波雅彦(22)をJ1のFC東京から完全移籍で獲得したと発表した。

 宮崎県出身の伊野波は鹿児島・鹿児島実高から2004年、阪南大へ進学。06年にFC東京へ入団し、日本の五輪出場にも貢献。アジア・カップなどで日本代表にも招集された。

 伊野波は広報を通じ、「小さいころからのあこがれだったアントラーズに入ることができてうれしい。FC東京での経験を生かしたい」とコメントした。
[ 2008年01月15日 18:39 速報記事 ]

伊野波「あこがれ」鹿島に完全移籍
 鹿島はFC東京のU―23日本代表DF伊野波雅彦(22)を完全移籍で獲得したと発表した。今季はリーグ連覇はもちろん、アジア制覇も目標に掲げており、過密日程をにらんでボランチ、ストッパーなど、守備的位置ならどこでもこなせる伊野波に白羽の矢を立てた。伊野波は千葉など、複数のクラブからオファーを受けた中で鹿島入りを決断。「小さいころからのあこがれだったアントラーズに入ることができてうれしく思っています」とコメントした。
[ 2008年01月16日付 紙面記事 ]

鹿島 U―23主力DF・伊野波を獲得
 J1の鹿島は15日、北京五輪に出場するU―23日本代表のDF伊野波雅彦(22)をJ1のFC東京から完全移籍で獲得したと発表した。伊野波は広報を通じ、「小さいころからのあこがれだったアントラーズに入ることができてうれしい。FC東京での経験を生かしたい」とコメントした。

 伊野波は鹿児島・鹿児島実高から2004年、阪南大へ進学。06年にFC東京へ入団し、日本の五輪出場にも貢献。アジア・カップなどで日本代表にも招集された。
(2008年1月15日18時48分  スポーツ報知)

1月11日に報じられた通り伊野波雅彦が”完全”にて移籍してくる運びとなった。
登録ポジションもFC西東京時代とのMFからDFとなりCBの定位置を大岩から奪おうとする立場となりそうである。
本人のコメントは昨季のマルキーニョスに通じるものがあり好感度アップである。
それに見合うだけの活躍を望む。

ここで昨季までの対戦を思い起こしてみたい。
初対戦は2006年7月22日Jリーグ第14節である。
このとき3連敗中であった我等であるが遠く松本の地で撃破した試合でボランチとして出場しておる。
反スポーツ的行為でイエローをもらっているので記憶している者も多いであろう。
二度目は2006年9月24日Jリーグ第24節
フェルナンドが最後の出場となった試合でハットトリックを記録しておる。
このときは左サイドバックの出場であった。
そして三度目は2007年6月30日Jリーグ第18節となる。
篤人をU-20で欠いた我等は聖地で逆転負けを喫し口惜しい試合であった。
この試合ではボランチとして出場しておる。
いずれの試合でもフル出場を果たしており、FC西東京に於いては戦術的に重要な位置にあったことを示している。
その男が望んで我等の元へ奔った。
喜ばしき事実である。
島津斉彬の命で若手藩士は江戸へ行けるようになるも、西郷吉之助は祖父、両親の死で思うようにならぬ。
行動すべき時に思い通りにならぬのは歯痒いもの、しかし耐えれば日本の夜明けはやってくるのである。


さらば首藤

2008年01月15日 | Weblog

首藤慎一選手が水戸ホーリーホックに完全移籍
標記の通り、首藤慎一選手が、水戸ホーリーホックに完全移籍することが決定しましたのでお知らせ致します。

■首藤慎一(しゅとう・しんいち)
<生まれ>
1983年6月8日、大分県出身
<経歴>
高田スポーツ少年団(大分)―カティオーラFC(大分)―鹿島アントラーズユース―鹿島アントラーズ(2002)―JAPANサッカーカレッジ(2006)―鹿島アントラーズ(2007)
2000、2001茨城県国体選抜
<成績>
リーグ戦・ナビスコカップともに出場経験なし。天皇杯出場1試合(0得点)。
<ポジション>
ゴールキーパー
<サイズ>
190センチ、84キロ
<首藤選手コメント>

アントラーズのサポーターの皆様、今までお世話になりました。同じ県内のホーリーホックに移籍することになりました。茨城ダービーでアントラーズサポーターの皆様にプレーする姿を見せられるよう努力していきたいと思います。ありがとうございました。

首藤と言えば真っ先に思い出されるのが、2002年のイタリア代表との試合であろう。
しかしながら、記憶に残るのは唯一の公式戦は2005年11月3日の天皇杯ホンダロック戦である。
誓志のハットトリックや名良橋の復活で記憶に残る試合であった。
この試合、残り十分となったところで首藤がゴールマウスを守った。
結果は完封。
未来の手応えを感じた瞬間であった。
それも過去となった。
次は敵として相見えることとなろう。
我等は忘れない、昨季の優勝メダルが足りずに悲しんでいた裸のマルキーニョスの胸に自分のメダルをかけてあげる優しき巨人首藤慎一その人を。


J's GOAL岩政インタビュー

2008年01月15日 | Weblog

【 4th MEDIA連動企画:岩政大樹選手(鹿島)インタビュー】「タイトルを獲りたい」から「獲らなくちゃいけない」へ。自分を変えないといけないという気持ちが芽生えたんです [ J's GOAL ]
J1リーグ戦で劇的な優勝を遂げ悲願の10冠を達成すると、1か月後には天皇杯で11冠目を獲得。再び黄金時代への階段を登り始めた感のある鹿島アントラーズ。
「優勝してない世代だった僕らよりも、さらに下の世代も成長しての優勝だった」と2007シーズンを振り返ってくれた岩政選手は、リーグ戦終了後もJリーグアウォーズでベストイレブンに選ばれ、日本代表合宿にも参加…と大忙し。
インタビューは昨年末、天皇杯のスケジュールの合い間を縫って実現しました。開幕後勝利のなかった5試合、その後の9試合無敗、そしてキーポイントになった2回の大敗から、終盤の9連勝など…山あり谷ありだった1年間をじっくりと語っていただきました。

Q:悲願の10冠を達成した2007年は、岩政選手自身、大きな飛躍を遂げた年でした。
    「周りにはそう見えるかもしれないけど、僕個人としてはプロで4年間、コツコツやってきた結果だと思ってます。1年の結果ではなくて、集大成的なものなんですよ」
Q:なるほど。では、改めて1年を振り返ってもらえますか? 今季は開幕から5試合未勝利という厳しいスタートを強いられました。
    「監督が代わって、チーム作りに時間がかかるのはいつものこと。正直、最初の2試合は相手も強かったし(川崎F、G大阪)0-1での敗戦だったし、そんなに心配してなかったんです。でも、その後の3試合も勝てなかった時には、さすがに焦りもありましたね」
Q:パウロ・アウトゥオリ前監督とオズワルド・オリヴェイラ現監督は何が違ったんですか?
    「オリヴェイラの場合は『相手がボールを回したら、こう守備をしろ』といった決まりごとがそんなに多くないんですよ。そういうものはチーム全体が試合をこなしていかないと、共通イメージが出来上がっていかない。それで時間がかかっていたのはありますね。まあ、最終的には、型にはめすぎない『臨機応変さ』につながったと思います」
Q:岩政選手がその頃に考えていたことは?
    「僕はもっといろいろなことを変えていかないといけないと思って、みんなと話をしたりしました。ただ、監督がやろうとしていることも信じていかなきゃいけない。そのへんのバランスが難しい時期だったと思います」
Q:第6節・横浜FC戦での初勝利は大きかったですか
    「いや、僕としては次の清水戦の勝利のほうが大きかった。当時は清水のほうが状態がよくて、攻められる中、何とか耐えて守って点を取り、終盤また押し込まれたところを守り切った試合ですしね。強豪相手にアウェイで、ああいう展開で勝てたことで、やっと『勝つ形』が見えてきたかなという気がしました」
Q:それが5月以降の浮上につながります。
    「勝っていった時期も試合内容自体はよくなかった。相手にボールを回されて、後ろで辛抱して、前の選手の個性で点を取って勝つという試合が多かったから。でも、流れが悪くても試合に勝つためのサッカーをするという割り切り方ができたんです。それが大きかったですね」
Q:前半戦の9試合無敗(9~17節)の頃は、試合内容は苦しかったと?
    「そうですね。基本的にずっと攻められているイメージが僕の中にはありました。ただ、うまくプレスがかからなくても、それでチームがうまくいってないと考えることが問題なんだと思う。あの頃は、プレスがかからなくても失点さえしなければ自然に流れが向いてくると試合中も切り替えができていた。だから、みんなが戻ってゴール前で体を張って…。
    優勝したことで最後の9連勝が目立ちますが、苦しかったこの時期にずっと勝点を拾っていけたことが大きかったと思います」

Q:後半戦から小笠原満男選手が復帰したことも大きな変化につながったと思いますが?
    「満男さんが戻ってきて、前半戦でボールが支配できなかった部分は変化するだろうなとは思いました。ただ、満男さんの試合勘が戻るまでは、前半戦と同じような流れの試合が多かったですけどね」
Q:1つのターニングポイントになったと思うのは、第23節でのG大阪戦の大敗(1-5)と第25節の名古屋戦の敗戦(0-3)です。
    「満男さんが帰って来て、みんなが『前に行ける』と思ってしまう試合が続いて、勘違いが起きたんでしょうね。前半戦はボランチを青木と中後がやっていたのに、 1人が満男さんに代わったことで、まず前目の選手が1人増えてるわけですよね。満男さんがボールを持てるから、タク(野沢)もモトさん(本山)も前に行く回数が増え、さらにサイドバックまで出て行ってしまう。そうやってリスクを冒すことも大事ですけど、試合に勝っていくためにはやっぱりバランスを保たなければいけない。それをしなかったからガンバ戦、名古屋戦で負けた。あれは必要な大敗だったと思います。あそこで負けたからこそ、満男さんを加えた新たなバランスを見つける時間が早急にできたんですよ」

■これからまた『常勝軍団・鹿島』を目指して頑張っていきたい
Q:ここからリーグ戦では9連勝するわけですが、ヤマザキナビスコカップ準決勝ではG大阪に再び敗れています。
    「ヤマザキナビスコカップで敗退した後、(第29節)磐田に勝って『4連勝ですね』と言われたんですけど、僕らの中ではそういうイメージが全くなかった。リーグ優勝したから言えますけど、ヤマザキナビスコカップで1敗したのも必要な負けだったと僕は思っています。そのまま最後まで9連勝したわけじゃないんでね。
    ヤマザキナビスコカップ準決勝はアウェイゴールの差で敗退したんですが、2戦目は勝った(3-2)。ガンバに勝ったという自信が少しついたんじゃないかな。だから、磐田戦以降は全くチームの状態が変わったと思います」

Q:とはいえ、今季最初のタイトルを逃したことは痛手だったでしょう?
    「個人的に言うと今年4年目なんですけど、Jリーグに適応するために3年はかかると思っていたんで、今まではあまり焦りはなかった。で、今年は絶対に獲らなきゃいけないと思ってシーズンに入って、ヤマザキナビスコカップ準決勝の頃はリーグ戦よりも可能性が高いと思っていましたから、今年はヤマザキナビスコカップを獲って、来年はリーグ戦…というイメージもありました。でも最終的に守り切れなかった。あの時点では、ガンバのほうが単純にチーム力が上だったと捉えていますけど、やっぱりショックは大きかった。それまで自分は順調に来ているなと思っていましたけど、あそこで1回、『今までやってきたものを打ち壊していかないとダメだ。タイトルを獲るために自分を変えないといけない』という気持ちが芽生えたんです」
Q:自分を変えていくというのは、具体的にはどういうことですか?
    「常に『タイトルを獲りたい』とは思っているんですよ。でも、その必死さの度合いというか、泥臭さの度合いというか…。微妙なニュアンスなんですけど、『獲りたい』じゃなくて『獲りにいかなきゃいけない、獲るためにとにかく必死にならなきゃいけない』というハングリーさやガツガツ感が僕の中に出てきた。チームもそうだったと感じます」
Q:その後、鹿島はどう変化しましたか?
    「名古屋戦の後に(田代)有三が先発に入ったことがチームとしてすごく大きかったと僕個人は感じています。ヤマザキナビスコカップ準決勝のアウェイのG大阪戦では有三がスタメンで出てなくて負けた。彼が入ってチームの戦い方にオプションが増えたんですよね。彼とマルキーニョスがボールを追っていくことでチーム全体が引っ張られる部分がありましたし。それで連勝しながら浦和戦(第33節)に向かっていけたのは大きかったですね」
Q:迎えた浦和戦。岩政選手にはワシントン選手を止めるという明確な役割がありました。
    「ワシントンが東京Vにいた時から毎試合のように失点しているんですけど、彼がいろいろなところで『嫌なDF』に僕を挙げてくれていた。だから最後に自分の力をしっかり見せたいっていうのもありました。もちろん浦和に勝って優勝したかったし、十分なモチベーションがあの試合にはあった。試合前は大丈夫かなと心配していましたけど、試合の入りがすごくよかった。僕の中では今までのサッカー人生のベストゲームだったと思います」
Q:その浦和戦に勝利し、最終節のホームでの劇的な優勝に結びつくと…。試合後、大泣きしている岩政選手の姿が印象的でした。
    「単純に泣き虫なんで、いつも泣いているんですけど(笑)。負けた時もよく泣いています。まあ、でもこの4年間でタイトルを逃して何回も悔し涙を流してきたんで、4年間分のうれし涙を流さないとね。そのくらいは流れていたと思いますけどね(笑)」
Q:小笠原選手や本山選手たちがニコニコ笑っているのとは本当に対照的でした。
    「僕らは『タイトルを獲ってない世代』と言われてきて、悔しい思いをしてきました。でも今季はタク(野沢)もケガを乗り越えて活躍してくれたし、有三(田代)もいい仕事をして、もっと下の世代も出てきた。みんな、この1つ目のタイトルに対しての思い入れはものすごく強かったとは思います」
Q:これで2008年がますます楽しみになりましたね。新しいシーズンへの抱負は?
    「来年は初体験というか日本代表やACLなど、新しいことが入ってくる年なので、まだ具体的にはイメージできない部分もあるんですけど…。やっと1つタイトルが獲れたし、これからまた『常勝軍団・鹿島』を目指して頑張っていきたいです。秋田(豊)さんも僕もリーグタイトルは4年目だったんで、僕も頑張れば9つまで追いつけるんだと信じて、次のシーズンには3冠、4冠獲りたいですね」
取材日:12月20日
インタビュー・構成:元川悦子

アウトゥオリ前監督は決め事が多すぎたが故に読まれると失点を重ねたということが読みとれる。
オリヴェイラ監督になり決め事が少ないため現場で臨機応変に対応できるようになり勝利へ繋がっていったのであろう。
どちらが良いということではなく、結果的に応用力のある方が向いていただけと言えるのでは無かろうか。
監督がどのような戦術を目指そうとも、それを実践するのは選手である。
その選手の掌握術やモチベーションのコントロールがなしえなければ勝利はつかめぬ。
それがアジアカップの制覇とベスト4に終わった結果になったのではないかと代表について思う次第である。


健太決定!

2008年01月14日 | Weblog
笠井健太選手が加入
標記の通り、笠井健太選手が加入することが決定しましたのでお知らせ致します。

■笠井健太(かさい・けんた)
<生まれ>
 1985年12月25日、静岡県出身
<アマチュア時代の経歴> ※カッコ内の数字は加入年
 KFC (静岡)―ロンドン・ユース(カナダ・オンタリオ州、1993)―ロンドン・ユナイテッド(1997)─菊川東中学校(静岡、1999)─静岡県立袋井高校(2001)─ダラスインターナショナル(米テキサス州2002)─サントスFCジュニオール(ブラジル・サンパウロ州、2003)
<プロ選手としての経歴>
 パウリスタFC(2005年3月~2007年12月)
 ※サンパウロ州1部、全国リーグ2部
<ポジション>
 ディフェンダー
<プレーの特徴>
 多くのポジションをこなせるユーティリティープレーヤー。局面に応じた柔軟な対応が持ち味
<サイズ>
 178センチ、74キロ
<笠井選手コメント>

 できるだけ多く試合に出て、可能な限り戦力になりたいと思います。(練習生として)天皇杯では優勝のシーンに立ち会えたので、あの喜びをチームメートと一緒に、また味わえるように頑張ります。

1月9日に獲得決定と報じられておった笠井健太くんの加入が公式に発表された。
右SBの控えどころかGK以外は全てこなすという触れ込みである。
篤人が代表、U-23で抜ける穴以上に左SBに納まるやも知らぬ。
新井場はこれまでに無い正念場である。
また、4人と層の薄くなったFW起用もあり得る。
経歴豊富で想像がかき立てられる選手である。

せっかくなので2年前にパウリスタと契約した際に静岡で報じられた記事を紹介しよう。

菊川市出身DF笠井、リベルタ杯出るぞ!

パウリスタのユニホームを手に喜ぶ笠井
 菊川市出身でブラジルのパウリスタFCでプレーするDF笠井健太(20)が、南米NO・1を決めるリベルタドーレス杯に出場する可能性が出てきた。一昨年、プロを目指してブラジルに渡り、同年12月にプロ契約。昨年はU-20(2軍に相当)に所属し、今年晴れて1軍に昇格した。出場すれば、日本人では3人目の快挙。同チームの元日本代表FW呂比須ワグナー・アシスタントコーチ(37)も高く評価している。

 ブラジルに渡った笠井が、夢を実現する瞬間が迫っている。04年4月からサントスの練習に参加、同年12月にパウリスタと2年のプロ契約をした。昨年は2軍でレギュラーに定着し、今年1月に1軍に上がった。2月にはリベルタドーレス杯の登録メンバー28人に入った。出場すれば、01年のセロ・ポルテーニョMF広山望(現東京V)04年のグアラニFW福田健二(現スペイン2部カステリョン)に次いで日本人3人目、Jリーグを経ていない日本人では初の快挙となる。

 笠井はもともとFWだったが、運動量を買われてサイドバックに転向した。ポルトガル語も完ぺきに覚えて「ブラジル人以上にポルトガル語を流ちょうに話す日本人」と地元紙で報じられた。最初はプレーや判断力の速さに戸惑った。「練習中に考えすぎて気持ち悪くなった。先の先まで考えないとボールを取られてしまうから」。そんな中で鍛えられ、力を付けた。

 良き理解者がいたことも大きかった。ホンダFCでのプレー経験を持つマンシーニ監督や、昨年からアシスタントコーチを務める元日本代表FW呂比須氏は、日本人に対する理解があった。呂比須コーチは「彼はフィジカルも強くてキックも正確。スピードもある。潜在能力は十分。あとは信用、出場機会を得るが必要」と期待する。

 笠井は「高いレベルでやれて、楽しくて仕方がない。リベルタドーレスに出ることが今の目標。優勝して日本に行ければ最高」。現在、パウリスタはグループ3位につけている。12月に日本で開催される世界クラブ選手権で凱旋(がいせん)帰国することも、遠い夢ではない。

 ◆笠井健太(かさい・けんた)1985年(昭和60年)12月25日、菊川市生まれ。3歳でサッカーを始め、小2から中1までをカナダで過ごした。菊川東中3年で1カ月間、ブラジルのサントスに短期留学。袋井高では県大会出場に貢献するなど活躍し、高2の途中から米国にサッカー留学。父徹さん(47)は15年間、スズキFWとして県リーグでプレーした。177センチ、74キロ。血液型A。
[2006年3月27日11時20分 紙面から]

語学もさることながらこの20歳の時点でフィジカルが強いと太鼓判を捺されていることである。
逆輸入選手として大いに期待させられるニュースである。

新成人篤人

2008年01月14日 | Weblog

内田恐縮「凄すぎて怖い高原先輩」
 日本代表の鹿島DF内田が、地元静岡の函南町で行われた成人式に出席。421人の新成人を代表して、壇上で新成人の主張を行った内田は「今年は質を上げたい。謙虚さや向上心を忘れずに自分らしくやりたい」と決意表明した。清水東高の先輩・高原(浦和)とは「高1の時に会っただけ」で、15日から始まる代表候補の指宿合宿では「まずはあいさつから。凄すぎて怖い」と早くも恐縮していた。
[ 2008年01月14日付 紙面記事 ]

新成人・内田熱望!先輩高原と競演

静岡・函南町の成人式に出席した鹿島DF内田(中央)
 鹿島のDF内田篤人(19)は13日、静岡・函南町で行われた成人式に出席。母校の先輩FW高原(浦和)との「清水東高ホットライン」を代表候補合宿で作り上げる考えを明かした。高原とは03年以来の対面となるが「世界でやってきた選手で偉大な先輩。肌で感じてやりたい」と“競演”を熱望。また、今季の目標を「クロス、プレーの質向上」と設定。
(2008年1月14日06時00分  スポーツ報知)

篤人も成人式、今季は3年目となる。
このまま不動の右サイドバックとして君臨していくのか、笠井健太との競争に敗れる日が来るのか、勝負の年となろう。
代表なんぞに浮かれておっては鹿島でのポジションを失ってしまうであろう。
代表に出払っている間にポジションを奪うのは鹿島ではよくあること。
決意表明で言うように謙虚にそして向上心を忘れずに。
遠く江戸の地では呼び出された調所広郷が於一(後の篤姫)を思い自殺を図っておるやも知れぬ。
何故、あそこで思いを馳せるのか全く理解出来ぬ。
幼少の物語と歴史は分離して描いた方がよかったのでは無かろうか。


田代、披露宴

2008年01月13日 | Weblog

鹿島の田代がゴールIN…結婚式で代表ライバル高原に挑戦状!

田代は結婚式後にもボールを使って練習。高原にも負けず、代表FWに定着だ
 鹿島の2冠に貢献した日本代表候補FW田代有三(25)が12日、昨年4月16日に入籍した明日香さんと地元・福岡のウエディングパーク&パーティーハウス博多の森で結婚式を行い、南アフリカW杯予選イヤーの08年を更なる飛躍の年にすることを誓った。
 「チームの目標は全タイトルを獲ること。個人としては去年出られなかったので開幕スタメン。あと、代表は呼ばれるだけじゃ意味がないので、誰にも負けない気持ちでやりたい」
 勝負の1年だ。幸せの余韻に浸る間もなく、15日から始まる日本代表候補合宿に向けて、前日11日は体育館でトレーニングした。昨年10月2日に長女の愛華ちゃんが誕生したが、オフらしいオフは1日もなし。優勝した天皇杯や結婚式の準備のほか、空いた時間があれば明日香さんの実家・長崎で、近くの山の頂上を目指して走った。

 新たな刺激もある。代表候補合宿に追加招集された浦和FW高原だ。「海外で活躍した選手を近くで見て吸収できればいい」と期待を口にした上で、「自分にも負けないものがある」とライバル心をのぞかせた。鹿島2冠の要因となった『高さ』では負けるつもりはない。鹿島の鳥人が世界に向け、飛翔のときを迎えた。
(千葉友寛)

鹿島・田代、結婚式で誓った

跳躍力で代表生き残る福岡で行われた披露宴を終え、ヘディングをする鹿島の田代
 鹿島の日本代表候補FW田代有三(25)が12日、明日香夫人、長女とともに福岡市内で挙式及び披露宴を行った。挙式当日にもかかわらず、打倒・高原、代表生き残りに向け、ウエートトレーニングを敢行。「高原さんが代表に入ってますますFWの層が厚くなった。高原さんの技術を吸収したい。でも、自分にも負けない部分もあると思うのでそこをアピールする」と自慢の跳躍力で、真っ向勝負を挑む考えを明かした。前日も夜遅くまで体育館でランニング、バイクトレーニングを行うなど気合十分。「強い気持ちで今季を戦い抜きたい」と気持ちを新たにしていた。
(2008年1月13日06時03分 スポーツ報知)

田代の披露宴は報知のスクープである。
福岡に記者を送ったことに敬意を評しようではないか。
その田代有三は代表への思いを口にした。
記者の誘導尋問であることは見たとおりであるが、実際にポジションを得られたならばそれは彼の実力であろう。
しかしながら代表に選ばれずとも悔やむことはない。
選ぶ側に田代の能力を使いこなす自信がなかっただけなのである。
胸を張って鹿島で得点を重ねればよいのである。
我等が応援するのは鹿島の田代有三だけなのであるから。


伊野波長期契約

2008年01月13日 | Weblog

鹿島がDF伊野波と3年契約で合意
 鹿島が東京のU-23(23歳以下)日本代表DF伊野波雅彦(22)を3年契約の完全移籍で獲得することが12日、分かった。既に本人サイドと両クラブ間で合意しており、契約書へのサインを残すのみ。早ければ14日にも正式発表の運びとなる。鹿島は、伊野波が阪南大でプレーしていた05年時から将来性を高く評価。東京では主にボランチを、U-22代表ではセンターバックとして、今年8月開幕の北京五輪出場権獲得に貢献した。Jリーグ、天皇杯連覇とともにアジアチャンピオンズリーグへ向けた補強となった。
[2008年1月13日9時10分 紙面から]

三年契約は鹿島としては長期である。
つまり伊野波は将来を見込んだ移籍であるというということである。
目先の結果に囚われぬ、新卒同様の扱いと考えて良かろう。
とはいえ、層の薄いCBとしては大きな戦力であり、ACLでは活躍が見込まれる。
今季の目玉と考えて良かろう。
良い補強を行うことが出来たと言える。
一つ一つ穴を埋め、前へ進んでいくだけである。


さらばKing A

2008年01月13日 | Weblog

柳沢敦選手が京都サンガに完全移籍
標記の通り、柳沢敦選手が、京都サンガに完全移籍することが決定しましたので、お知らせ致します。

■柳沢敦(やなぎさわ・あつし)
<生まれ>
    1977年5月27日、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身
<主な経歴>
    FCひがし(富山)―富山第一高校─鹿島アントラーズ(1996)―サンプドリア(2003)―メッシーナ(2004)―鹿島アントラーズ(2006)
国際Aマッチ通算成績>
    58試合17得点
<FIFA公式大会での日本代表歴>
    * ワールドカップ(A代表) ▼2002(ベスト16) ▼2006(1次リーグ敗退)
    * コンフェデレーションズカップ(A代表) ▼2001(準優勝) ▼2005(1次リーグ敗退)
     * オリンピック(U-23代表) ▼2000(ベスト8)
     * ワールドユース(現U20ワールドカップ、U-20代表) ▼1997(ベスト8)
<ポジション>
    フォワード(利き足=右)
<サイズ>
    177センチ、75キロ
<柳沢選手コメント>

  この度、長年お世話になった鹿島から移籍する事を決意しました。
  入団してから12年、鹿島ではいろんな事を経験させて頂き、感動や喜びを味わうことが出来ました。
  これも、常に声援を送り続けて下さったサポーターの皆さんやチーム関係者の皆さん、そして共に戦ったきた選手の皆さんのお陰だと思います。
  この決断は簡単なものではありませんでした。
  元日の決勝後のサポーターの皆さんからの「ヤナギサワコール」。関係者の方の方々から「残ってほしい」と言って頂いた言葉。仲間の言葉・・・。
  自分の中ではある程度早い段階で決めていた部分もありましたが、自分の中で決めた後が苦しい日々でした。
  「プロ選手とはこういうものだ」と思う反面、プロ選手である前に「人として」という持論が頭の中でグルグルしていました。
  今まで、決断してきた事には責任を持ってやってきたつもりです。
  そして、この決断にも責任を持って前へ進んでいきたいと思ってます。最後まで応援して下さった鹿島サポーターの皆さん、本当にありがとうございました。また会える日を心から楽しみにしています。
  最後に、元日の決勝後、あれだけ長く声援を送って頂いたのに、何の言葉も見つからず、皆さんの前でお礼の言葉も言えなかった事をこの場を借りてお詫びしたいと思います。ただ、ただ、感謝の気持ちでいっぱいです。
  ありがとうございました。

柳沢が京都に完全移籍…鹿島サポーターに異例の“謝罪コメント”
 J1鹿島は12日、元日本代表FW柳沢敦(30)が今季からJ1に昇格する京都に完全移籍したと発表した。30歳を超えたため移籍金は発生せず、年俸は6000万円(推定)。柳沢はクラブを通じて異例の“謝罪コメント”を発表した。

 「長年お世話になった鹿島から移籍することを決意しました」。悩んだ末の決断を鹿島の公式HPでこう切り出した。短いコメントの掲載例はあるが、570文字に及ぶ長文は異例。「皆さんの前でお礼の言葉も言えなかったことをお詫びしたいと思います」と感謝と苦悩の胸中を表した。

 96年に鹿島に入団し、J1通算220試合80得点を記録。06年ドイツW杯にも出場した。セリエA・サンプドリアなど欧州移籍を経験したものの、日本国内では鹿島一筋だった。

 しかし、主将も務めた今季は左足小指の骨折などもあり、日本代表候補FW田代にレギュラーの座を奪われた。リーグ戦先発は12試合のみ。「選手として考えないといけないことがある」と退団を決意した。

 東京Vからもオファーを受けたが、最終的に尊敬する先輩、秋田豊氏も在籍した京都を選択。ただ1人チームの全11冠にかかわった“ミスター・アントラーズ”が、古都で復活と飛躍を誓う。

■柳沢のコメント(抜粋)
 決断は簡単なものではありませんでした。元日の(天皇杯)決勝後、サポーターの皆さんからの「ヤナギサワコール」。関係者の方々から「残ってほしい」と言っていただいた言葉。仲間の言葉…。
 決めた後が苦しい日々でした。「プロ選手とはこういうものだ」と思う半面、プロ選手である前に「人として」という持論が頭の中でグルグルしていました。
 今まで、決断したことには責任を持ってやってきたつもりです。この決断にも責任を持って前へ進んでいきたいと思ってます。
 最後に、元日の決勝後、何の言葉も見つからず、皆さんの前でお礼の言葉も言えなかったことをお詫びしたいと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

背水の陣だ!柳沢 京都に完全移籍

京都への完全移籍が決まり、12日にカシマのロッカルームの整理に訪れ、サポーターにサインする柳沢
 鹿島の元日本代表FW柳沢敦(30)の京都移籍が12日、両クラブから正式に発表された。この日、長年にわたり使用したロッカーの整理に鹿島のクラブハウスを訪れた柳沢は「たまに不思議な気持ちになる。数え切れないほどの思い出があり、いろんな人との出会いが僕をここまで成長させてくれた」と寂しげな表情をのぞかせつつも「前に向かっていくしかない」と話した。

 京都へは完全移籍で、年俸6000万円(推定)の単年契約となるもよう。今季J1に昇格したチームを選択した理由については「これから新しくつくっていくクラブだと感じて、自分もその中で成長して役に立ちたいと思った」と説明。さらに「信頼できる人がいる」と、元鹿島のチームメートで、昨季限りで現役を退き今季からトップチームのコーチに就任する秋田氏の存在を挙げた。

 新天地には背水の陣で臨む構えだ。03年7月にイタリアのサンプドリアに移籍したが「そのときとは少し心境が違う。今回は気持ちの面で崖っ縁にいる。そこからはい上がるために、この1年を過ごさないといけない」とサッカー人生を懸けて08年シーズンに臨むことになる。
[ 2008年01月13日付 紙面記事 ]

柳沢 京都ではい上がる…完全移籍発表

京都に移籍の決まった柳沢は、ロッカーの整理のため鹿島クラブハウスを訪れた
 元日本代表FW柳沢敦(30)が、鹿島から京都へ完全移籍することが12日、両クラブから発表された。1年契約の年俸6000万円(金額は推定)。柳沢は鹿島のクラブハウスでロッカーを整理し、新天地で完全復活することを誓った。

 ミスター・アントラーズはスパイク8足をケースに詰め込み、すべての荷物を運び終えた。「今回(の移籍)は、選手としてがけっぷちと思います。そこから何とかはい上がるために、この1年を過ごさなければならない」03年、サンプドリアへレンタル移籍した時とは違い、追い風は吹いていない。昨季はレギュラーではなかった。輝きを取り戻すため、京都を選んだ。「自分自身の成長と、何か役に立ちたいという気持ち」と説明した。

 11冠すべてに貢献。10年間通った場所を離れる。「寂しい。選手、フロント、スポンサー、そしてファン。素晴らしい人と出会えたことが、僕を成長させてくれた。感謝の気持ちでいっぱいですが、前に向かって行くしかない。活躍して、また(鹿島に)必要とされる時がくればいいと思います」サインをねだったファンから「また戻ってきてね」と言われ、うなずいてクラブハウスを後にした。
(2008年1月13日06時03分  スポーツ報知)

柳沢が京都移籍 決意新たに旅立つ「感謝の気持ちいっぱい」
2008/01/13(日) 本紙朝刊 スポーツ A版 12頁
 京都への移籍が発表された12日、FW柳沢敦(30)はロッカーを整理するため、鹿島のクラブハウスを訪れた。
 昨季のリーグ戦終了後に明らかになった移籍問題は、京都移籍という形で決着。クラブハウスから出てきた柳沢は少し寂しげな表情で「自分で決めて矛盾しているかもしれないけど、クラブに対しては感謝の気持ちでいっぱい。離れるのは寂しいけど次に向けてやっていきたい」と語った。
 ロッカーを整理をしている最中は「たまに不思議な気持ちになるときもあった」とも話し、「数え切れないほどの思い出がある。サポーターや一緒にプレーした選手、フロント、関係者、スポンサーの方々ら素晴らしい人たちと出会えた。その出会いが、僕をここまで成長させてくれた」と鹿島に入団してからの12年間を振り返った。
 京都への移籍を決めた理由については「信頼できる人が近くにいることと、これから新しくつくっていくクラブと感じたこと。その中で自分も成長し、何か役に立てばという気持ちから決めた」と話した。元鹿島で、今季は京都のコーチに就任することが内定している秋田豊氏の存在も大きかったようだ。
 柳沢にとっては国内では初めての移籍。「イタリアへ行ったときとは少し違った心境。今回は自分自身の気持ちの中でがけっぷちにいると思っている。そこからはい上がるために、この1年を過ごさないといけない。新人の気持ちで頑張りたい」と決意を述べ、将来の復帰を望む関係者らの言葉には「活躍して、また(鹿島に)必要とされるときがくればいいと思う」と話した。

柳沢のコメント
 この度、長年お世話になった鹿島から移籍する事を決意しました。
 入団してから12年、鹿島ではいろんな事を経験させて頂き、感動や喜びを味わうことが出来ました。
 これも、常に声援を送り続けて下さったサポーターの皆さんやチーム関係者の皆さん、そして共に戦ってきた選手の皆さんのお陰だと思います。
 この決断は簡単なものではありませんでした。
 元日の決勝後のサポーターの皆さんからの「ヤナギサワコール」。関係者の方々から「残ってほしい」と言って頂いた言葉。仲間の言葉…。
 自分の中ではある程度早い段階で決めていた部分もありましたが、自分の中で決めた後が苦しい日々でした。
 「プロ選手とはこういうものだ」と思う反面、プロ選手である前に「人として」という持論が頭の中でグルグルしていました。
 今まで、決断してきたことには責任を持ってやってきたつもりです。
 そして、この決断にも責任を持って前へ進んでいきたいと思ってます。最後まで応援して下さった鹿島サポーターの皆さん、本当にありがとうございました。また会える日を心から楽しみにしています。
 最後に、元日の決勝後、あれだけ長く声援を送って頂いたのに、何の言葉も見つからず、皆さんの前でお礼の言葉も言えなかった事をこの場を借りてお詫びしたいと思います。ただ、ただ、感謝の気持ちでいっぱいです。
 ありがとうございました。

やなぎさわ・あつし
 1977年5月27日生まれ、富山県出身。富山一高から96年に鹿島入団。97年に新人王に輝き、98、01年にはベストイレブンに選出された。03年夏からイタリア・セリエAのサンプドリアに移籍し、04年夏からはメッシーナでプレー。06年に鹿島に復帰し、昨季は主将を務め、J1リーグ、天皇杯の2冠獲得に貢献。鹿島の11冠すべてに関わり、国内3大タイトル優勝回数はビスマルクの12回に次ぐ歴代2位。J1リーグ戦通算220試合80得点。リーグカップ戦通算43試合8得点、天皇杯通算25試合8得点。日本代表としてもワールドカップの02年日韓大会、06年ドイツ大会に出場するなど、国際Aマッチ通算58試合17得点を挙げている。

ここまで報道にあったとおり柳沢敦は京都へ移籍である。
特に驚きも何もない。
ここまで来たら平常心である。
コメントを読む限り、移籍志願した時点で心も行き先も決まっていた模様である。
薄々我等も感じ取っておった。
彼が選んだ道を否定することは出来なかろう。
ただ単に我々とは別の道を歩むだけである。
秋田に誘われて心が揺らがぬわけがない。
98年に柳沢にポジションを奪われ黒崎が京都に移籍した、その十年後に柳沢がポジションを奪われて移籍した先が奇しくも同じ京都であったことだけが面白いだけである。


岩政、ラガーマン必読の書

2008年01月12日 | Weblog

岩政生き残りへ「大西理論」予習
 鹿島の日本代表DF岩政が代表生き残りに向け「大西理論」を予習する。日本代表の岡田監督が日本サッカーの指針として掲げる「接近、展開、継続」を提唱した、ラグビーの早大や元日本代表を率いた故大西鉄之祐さんの著書「闘争の倫理」を鹿島の大東社長から入手した。同社長は元ラグビー日本代表で大西氏から直接指導を受けた経験を持ち「これを読まないと接近、展開、継続は説明できない」。関係者を通じて本を手にした岩政も「いいですね。ぜひ参考にしたいです」と話した。
[ 2008年01月12日付 紙面記事 ]

岡田理論吸収へ岩政参考本入手
 鹿島の日本代表候補DF岩政が、日本代表・岡田監督がキーワードとして掲げる「接近、展開、継続」の元となった理論が記されている「闘争の倫理」(大西鉄之祐著)を手に入れた。著者の大西監督が率いる日本代表でフッカーをしていた鹿島の大東和美社長から「参考になれば」と贈られたもので、大西氏が提唱した「接近、展開、連続」の理論が記されている。「異なるスポーツでも何でも参考になる。ぜひ読みたい」と意欲的だった。
(2008年1月12日06時01分  スポーツ報知)

ビッグマウスがビッグイーストからビッグウェストの本を入手した。
不良少年が更生する物語も観ておくと良いであろう。
イソップ~


サンスポ伊野波報道

2008年01月12日 | Weblog

FC東京・伊野波の鹿島移籍が確実に…3チームで争奪戦
 FC東京のU-23日本代表候補MF伊野波の鹿島移籍が、週明けにも発表されることが分かった。関係者によると千葉、京都との争奪戦の末、鹿島への完全移籍が確実になったという。Jリーグに加え、ACLにも参加する鹿島はサイドバック、センターバック、ボランチをこなす伊野波の多様性を高く評価していた。

相変わらずサンスポは一日遅れである。
この辺りは社風なのであろう。
完全スルーのニッカンよりはマシといったところか。


石川竜也、レンタル延長

2008年01月11日 | Weblog

石川竜也選手の山形への移籍期間を延長
 標記の通り、石川竜也選手が2008年シーズンもモンテディオ山形でプレーすることになりましたのでお知らせいたします。1年間の期限付き移籍となります。

■石川竜也(いしかわ・たつや)
<生まれ>
    1979年12月25日、静岡県出身
<主な経歴> ※カッコ内の数字は加入年
    西益津小学校(静岡)―西益津中学校―藤枝東高校―筑波大学―鹿島アントラーズ(2002)―東京ヴェルディ(2006=期限付き移籍)─モンテディオ山形(2007=期限付き移籍)
    1999FIFAワールドユース選手権(現U20ワールドカップ)準優勝
<成績>
    J1リーグ通算 45試合3得点(鹿島アントラーズ)
    J2リーグ通算 67試合3得点(東京ヴェルディ、モンテディオ山形)
    ナビスコカップ通算 16試合0得点(鹿島アントラーズ)
    天皇杯通算 11試合2得点(アントラーズ在籍時は8試合1得点)
    アジアチャンピオンズリーグ 2試合0得点(鹿島アントラーズ)
    A3チャンピオンズカップ 2試合0得点(鹿島アントラーズ)
<ポジション>
    ディフェンダー
<サイズ>
    179センチ、69キロ

石川のレンタル期間が延長された。
一時は羽田と共に戻すとの鈴木満強化部長のコメントが報じられたが、山形の新監督が戦力の軸と考えており東北では昨年末に契約延長を報じられておった。
山形ではレギュラーポジションを得ておる。
今更サブに甘んじる日々に戻ることは彼のためにもならぬであろう。
我等も石神直哉、笠井健太、伊野波雅彦と左SBの控えは充実しておる。
であれば双方の利を考慮すればレンタル延長は自明の理である。
とはいえ何が起こるかわからぬのがサッカーの世界である。
再び石川のドラゴン・クロスを聖地で観る日もあるやも知らぬ。
その日のために伝家の宝刀に磨きをかけておいて欲しいものである。


岩政語る

2008年01月11日 | Weblog

鹿島DF岩政「浦和大補強」怖くない
 鹿島DF岩政は浦和の大型補強を恐れない。10日、FW高原の加入などが決まったライバル浦和の動向について聞かれると、冷静に言った。「確実に強くなる? やってみないと分からない。でも長谷部が抜けると、中盤の攻撃の厚みが減るし、ドリブルで入ってくるようなプレーが少なくなる」。ビッグネームを前に憶することなく現状を分析した。

 高原のほかにエジミウソン、梅崎も加わり、層は確実に増した。だが一方でピッチに立てるのは11人というルールは不変。「梅崎が出るということは(同じトップ下の)ポンテが出られないということ。ポンテは本当に守りにくい」。もちろんリスペクトも感じている。「高原さんは日本人でトップのストライカー。楽しみという面はある」。この日は、鹿島でフィジカルを中心に約1時間のトレーニング。岩政は名前負けすることなく、新たなシーズンに向かって着々と準備を進める。
[2008年1月11日8時51分 紙面から]

メディア的には浦和は大型補強の如くに伝えておるが、元セレソンのワシントンが高原になりポンテが梅崎に替わり、怪我がちの田中達也の穴をエジミウソンが入っただけなので、スケールダウンの感は否めない。
更に日本代表の長谷部も放出であるから、戦力的にはダウンしていると言わざるを得ないであろう。
それを正直にコメントしてしまう岩政は如何なものかとは思うが、彼の言葉は正論である。
浦和は悪しき存在ではあるが、必要以上に気にするほどの相手ではない。
敵は自らの中にある。
慢心であったり、自惚れなのである。
己に克って身を引き締めよ。
我等も同様に慢心はせず厳かに応援したいと思う。