yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

【研究報告版-10】 第5回東海例会報告 ① 開催主旨版

2005-08-09 14:19:17 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

(もっと早く書き込もうと思っていたのだが、意外と当日のレジュメ集の読み直しに時間と労力がかかって、こんなに遅くなってしまった。期待されていた、もう徳島にいらっしゃるはずのOさんゴメンナサイ!ちゃんと雄姿もアップしておきますから。それにしても考古学研究会のアジテーターも歳を取りましたねー。)

 『第5回考古学研究会東海例会「古墳時代における地域と集団」~後期古墳と横穴式石室を手がかりに~』(第5回考古学研究会東海例会事務局2005.8.6)(レジュメ集は会場で1000円で売られていた。きっと主催者に聞けばまだ残部があるはず。)
 8月6日は岐阜市にて表記のような考古学研究会の東海例会第5回を開いた。若い学生さんを中心とした100人弱の参加者に会場は熱気で溢れていた。今回は僕の仕事は最初の挨拶だけなので、気楽なものだったが、会の成否は少し心配だった。

 討論の中でも少し意見を求められたし、その後の宴会でも一部話したこともあるが、改めてレジュメ集を読み直して、当初の課題との関係で思うところをまとめておこうと思う。

 なお、大変驚いたのは懇親会に出席していた中に何人かこのブログを読んで楽しんでいる人がいたということだ。発表者の一人O氏に至っては、今日の例会については余り詳しく書かないように!との強いお達しもいただいた。しかし天の邪鬼な私には、これは逆効果で、張り切って書こうということになった。

 ところが思うようにいかないのもので、張り切って書くとなると長い上に随分時間がかかってしまった。少し気の抜けたビール状態だが、何回かに分けて詳細を報告すると共に、少し現状での意見を述べることにする。

 まず本研究会の主旨を主催者である中井正幸さんはこのように表現している。
 「各地の地形環境のもとに人々は、それぞれの地域の中でどのように集団を形成し、また集団間の関係を維持していったのか」「墓地はその土地(集団が生活の基盤とする地域)に原則として営まれ、群をなして墓域を形成することが多い。さらに時代によっては墓地を営む階層が地域集団の中で形成されていることから、そこから地域集団社会に迫ることができる。例えば、(中略)横穴式石室を採用する古墳群は基本的にはその土地に生活を営む集団の墓地として考えることができ、そこから地域集団の特質を葬制の中から読み取ることができる。」とするのである。葬制の中から集団を読み取る事例の一つとして、大垣市金生山一帯から採れる石灰岩を用いた古墳を素材に「地域集団の造母集団間に石材の選択による表象に近い紐帯を読み取」ろうとする。なお、この造墓集団の具体的な構成については、花岡山古墳群の3・5号墳の人骨・人歯の人類学的分析を通して石室の規模や構造と埋葬人骨の家族構成との関係を分析する。

 確かに墓地が当該地域の集団社会の思想や家族構成、社会的関係を反映していることは明らかであり、これまでにも用いられた視点であろう。“どのような横穴式石室を作るのかは地域集団の意思による”と仮定することも、古墳時代後期研究者が度々取る手法である。古墳時代後期研究の正攻法の手法から課題に迫ろうとする姿勢は正統派らしい研究スタイルかも知れない。

 横穴式石室の成果と人類学的分析結果を用いて、主に美濃地域の古墳を抽象化し、短小石室は直系親族の被葬者が埋葬され、細長石室は直系親族と傍系親族が共有した広い石室であるとする。また、文献史学からの今津勝紀氏の研究を用いて、再婚戸主層と非再婚戸主層の家族数の違いを古墳の規模や構造に読み解こうともする。大変意欲的な報告であった。

 惜しむらくは、こうした二形態の戸主層で構成される地域社会とはどのような地域間関係に置かれた社会なのかという問題について、より大きな視野から論じてもらえなかった点である。
 花岡山の営まれた7世紀中頃?は評制施行前後の時期に当たる。古代王権は地方を支配した国造を官僚的に統制するための第1段階として、全国一律の評制を施行し、その長を評督・助督に任命していた時期である。最新の国造制研究である森公章さん「評司・国造とその執務構造」(『東洋大学文学部紀要』第58集史学科編第30号2005年3月15日)によると、遅くとも天武朝の資料には明確に評督の下に五十戸「造」がいたことが知られる(天武朝後半期まで評の下には五十戸(サト)が所在していた)。まさに中井氏の言うところの地域である。そしてその地域の「集団」が五十戸に編成され、これを統括する役職として五十戸造が置かれていたというのである。彼らの墓こそ横穴式石室のいずれか(またはすべて)であろう。私にはここまで「歴史」を説いてもらわないと十分にイメージすることができないのである。

 また森氏は同時代の部民制と国造との関係について、「国造が国内を統括して部民制的貢納を実現するためには各々の部管掌者たる地方伴造の実務的補助が必要であり、国造と彼らとの関係には様々な場合があった」とする。部の性質によって各実務に応じた地方伴造の個性(個性が墓制に反映する可能性は十分ある)も当然あるはずなのである。美濃国はそうした意味で、七世紀木簡の宝庫である。こうした「考古資料」を十分に生かして「地域」「社会」「集団」「歴史」を述べて頂ければ完璧だったろう。


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2 コメント

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ご批判お願いします。 (オールド「あじていたあ」T.O.)
2005-08-10 00:50:04
山中先生

 例会終了後、冷や冷やしながら過ごしています。期待と恐怖のない交ぜで「判決」の順番を待っています。今日は未だ私の番でなかったのでちょっと胸をなで下ろした次第。もっとも一度発話してしまった以上、後へは退けませんので、準備不足の不十分な拙論ですが、ご批判お願いいたします。その上で考え直してみたいと思います。



 ところで、石室型式(というより型式を構成するところの個別要素)の一般的吟味から

集団関係をリアルに、かつ適切な形で復元することが可能か、方法レベルで疑問を感じています。確かに一個の型式が再現ないしは模倣される過程では一般論レベルで情報の授受の介在を想定することは出来るでしょう。しかしそうした授受の「個別具体的な」契機を、復元することは相当に至難と思えてしまいます。今回の「石室工人集団」という媒介項の設定は、「情報(もちろん技術を含む)の授受」の具体相に迫る(ように見えてしまう)ものですから、それなりに魅力的な感はありますが、その編成や存在形態を吟味しないと、便利なブラックボックス化してしまうことを危惧します。この点はかつての土器(型式)論のいくつかの失敗・挫折を想起してしまいます。

 それと、山中先生がここで指摘された「具体的な歴史事象の解明」という方向性、当日の報告を聞いていた限りでは、報告者の方が全く意図していなかったものではないかと憶測しています。サンプルとして具体的な二地域を挙げておられましたが、ダイレクトに地域史の復元に向かわれるのではなく、パターン論構築する素材という位置づけと感じました。もちろんそのことを批判するつもりはなくあえて個別具体的な歴史事象の解析に直接的に向かわず、一旦それを回避して方法論の研鑽に向かう作戦も、一つの手法として「あり」と思います。(ただし今回の論に限れば成果が出るか私は疑問。)ですから報告者とコメンテイターの「戦略レベルの差違」討論の折にちょっと注意を促し、議論の深化期待したのですが、時間不足と私の表現の不味さから不発。・・それとも私の思い違い??

 以上オールド「あじていたあ」と表現されてしまった徳島ではなく香川在住のT.O.でした。
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ゴメンナサイ香川でした (yaa)
2005-08-10 07:33:49
 この前そう聞いたばかりなのに、元ホンとのアジテーターも完全に老化が始まっています。香川でしたよね。

 これから奈良へ向かいますので余り詳しくは言えませんが、正直申し上げてその通りだと思います。余り身内同士でバトルするのも・・・と(これも老化の証拠!)思い、遠回しに「歴史」のことを申しあげております。

 今回の報告は私にとっては6・7世紀史を抽象化するのに新たな素材を提供して頂き、改めて感謝する次第ですが、主旨からすると(時間も短かったという大きな問題はあるのでしょうが→私はいつもこの手の研究会は時間を短くするのか?と疑問に思っています。発表者に最低でも討論も入れて1.5時間は与えるべきです。逆にこれで「時間がない」という発表者は単なる準備不足です。)、肝心なところ、「歴史」つまり抽象化が全くなされませんでした。

 もちろんO.Tさんはきちんと抽象化されているわけで、だから正直言って、私にはコメントしにくいのです。Oさんの難解な(単に私に読解の能力がないだけなのですが)レジュメを丁寧に読み直しながら頭を整理中です。

 私のいけないところは文献史の成果を受け入れすぎ!という点でしょうか。Oさんの喜兵衛島の分析を読むと直感的に「アーこれこそ典型的な海部の編成や!」と思ってしまいます。以前にもお話ししたようにこの動向はまさにTK43、6世紀後半に全国一斉に(少なくとも海部については)起こる現象です。全国に塩や干物生産(おそらくある特定の力への貢納)のための「強制」が働くのです。そして終焉が7世紀中頃(もちろんそのまま続くところがあります。→日間賀島もその一つでしょうか)なのです。私にはこの終焉も「強制」だと思えます。つまり評制の施行です。間もなく日本列島は律令制です。評はほとんど郡と重なります。そんなものが突然できるはずがないのです。

 小さな、狭い「地域」からは「日本史」は見えません。見えないと思います。特にこの古墳時代後期という時代は!

 Oさんへのコメントはできるだけ抽象化して行いたいのですが、果たして・・・・???きっとちんけなことしか言えませんのでせせら笑ってやって下さい。



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