洛陽到着二日目は定鼎門址、その北西に接する寧人坊址を見学し、午後から明堂と方壇を見学した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/5f/a36145c89efbccf35f5140f9ed3a4e87.jpg)
定鼎門址はこの様に整備されていた。発掘調査開始の時から知っている私としてはとても複雑な思いだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/97/7484834e7ea4c7320e922d1c8f9a7e35.jpg)
定鼎門の前、城外に進む道の復元整備。さきに見える色の違うところが駱駝などの足跡を屋外展示したコーナー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e7/3985b319edcced2a6148e15b541024c9.jpg)
東門闕の復元。南外郭城壁の上に乗っているだけであることがこれでよくわかる。
定鼎門址はかつて発掘調査中に訪れ、その復元に付いくつかの案があるとのご説明を受けたその遺構である。
① 遺構の位置だけを立体表示する
② 遺構を覆い屋で保護し、保護施設は定鼎門風の施設に作る。
③ 遺構をすっかり復元する
こんな案だったかと思う。それで行けば第②案が採用されたようで、西安郊外の陽陵の西門闕がそうであるように遺構をすっぽりと定鼎門風の建物で覆ったものであった。その面構えは古代建築様式の知識を活かして復元したもののようで違和感はないのだが、復元されてみて気付いたのだが、洛陽城の正面の門にしては意外と立体性に欠けるものだな、という印象であった。
発掘調査時にも感じていたことだが、こうして復元されてみるとさらにその印象を強くしたのが、東西の門闕であった。それなりの規模で付属させられているのだが、定鼎門の左右に延びる外郭城に平行に付設されているため、前後への迫力がないのである。漢魏洛陽城の昌闓門ですら前面の道路にこれらを突き出しているのに、ここではそれがないのである。
そんな印象を持ちながら、内部の保護区に入った。なかなかよくできた展示施設で、発掘調査時の写真はもちろん、様々な比較資料や出土遺物の解説が所狭しとパネル紹介されていた。特に圧巻だったのは3本ある門道の中央門道、これは皇帝が通る門道だが、これを通行できるようにしているところだ。なかなか粋な計らいでもある。
さらにもう一つ、門は楼閣のように重槨構造になっており、その2階部分から京内や京外が見渡せるのであるが、城外を見ると門道から延びる「道路跡」が色彩の違う石版で表示してあり、さらにその途中に、発掘調査でも見学した道路下に残され得た駱駝や人の足跡、轍が現地表示されているのだ。こうした細部にわたる遺構の表示は考古学者の提案無くしてあり得ないだろう。今は現場を離れられた調査担当者の思いの伝わる復元であった。
この後見学した遺跡復元施設の展示でも言えることだが、考古学関係者の深く関わっている公開施設の展示はとてもよく工夫されているのだが、博物館になるとからきし駄目なのである。これはおそらく、考古学関係者が世界各国、特に日本との交流が深く、全国各地の遺跡復元をご覧になって参考にされているからではないかと推察するのである。現に、現場を案内下さった方々とは旧知の仲なのである。
敢えて意見を言わせてもらうとすると、「遺物の展示」であろうか。門跡に遺物が少ないのは当然である。しかし、現場を訪れた時に見せてもらった大量の塼雅あるはずなのである。様々なマークが刻印されていて、これを研究した研究者は塼の製作と関係しているのではないかと考えておられた。残念なことに研究者が担当を離れられたので、その研究が活かされなかったのかも知れないが、「物」の少ない施設だけに、その展示コーナーがあってもよかったと思う。
定鼎門址の復元施設に感激しながら次の現場、定鼎門を入って直ぐ西側の寧人坊の現場を見学した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/90/ab55d212a0295e2ef2cae6d4f1e645e9.jpg)
これは洛陽城内から南へ延びてき、定鼎門に至る大街の現状である。この右手・西側が洛陽城南端大街に接した町、の寧人坊である。
これまた宮都発掘関係者にはたまらない内容の濃い現場であった。まだ発掘調査が始まったばかりなので、詳しい内容をご紹介できないのが残念だが、いずれ全面調査がなされ、報告書が出れば、間違いなく日本の都城制との比較研究に欠かせない資料となるだろう。これまでの中国の都城のイメージを一新する衝撃的な現場であった。やはり掘ってみるものだな!!というのが強い強い印象であった。
文献史料だけでは都城は語れない!!文献史料にだけ頼っているととんでもない誤解をすることがあるのだと実感できた現場であった。
とても強い感想を覚えた後、市内に戻り、明堂と方壇、応天門址の復元施設や発掘現場を見た。これまた様々な感慨を与えてくれた現場なので、別に日を改めて紹介することにする。
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最も発掘調査の成果をどこまで日本の研究者、発掘担当者が活かそうとしているのかについてはこれまた新たな考えが浮かんできた一日でもあった。
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定鼎門址はこの様に整備されていた。発掘調査開始の時から知っている私としてはとても複雑な思いだった。
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定鼎門の前、城外に進む道の復元整備。さきに見える色の違うところが駱駝などの足跡を屋外展示したコーナー
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東門闕の復元。南外郭城壁の上に乗っているだけであることがこれでよくわかる。
定鼎門址はかつて発掘調査中に訪れ、その復元に付いくつかの案があるとのご説明を受けたその遺構である。
① 遺構の位置だけを立体表示する
② 遺構を覆い屋で保護し、保護施設は定鼎門風の施設に作る。
③ 遺構をすっかり復元する
こんな案だったかと思う。それで行けば第②案が採用されたようで、西安郊外の陽陵の西門闕がそうであるように遺構をすっぽりと定鼎門風の建物で覆ったものであった。その面構えは古代建築様式の知識を活かして復元したもののようで違和感はないのだが、復元されてみて気付いたのだが、洛陽城の正面の門にしては意外と立体性に欠けるものだな、という印象であった。
発掘調査時にも感じていたことだが、こうして復元されてみるとさらにその印象を強くしたのが、東西の門闕であった。それなりの規模で付属させられているのだが、定鼎門の左右に延びる外郭城に平行に付設されているため、前後への迫力がないのである。漢魏洛陽城の昌闓門ですら前面の道路にこれらを突き出しているのに、ここではそれがないのである。
そんな印象を持ちながら、内部の保護区に入った。なかなかよくできた展示施設で、発掘調査時の写真はもちろん、様々な比較資料や出土遺物の解説が所狭しとパネル紹介されていた。特に圧巻だったのは3本ある門道の中央門道、これは皇帝が通る門道だが、これを通行できるようにしているところだ。なかなか粋な計らいでもある。
さらにもう一つ、門は楼閣のように重槨構造になっており、その2階部分から京内や京外が見渡せるのであるが、城外を見ると門道から延びる「道路跡」が色彩の違う石版で表示してあり、さらにその途中に、発掘調査でも見学した道路下に残され得た駱駝や人の足跡、轍が現地表示されているのだ。こうした細部にわたる遺構の表示は考古学者の提案無くしてあり得ないだろう。今は現場を離れられた調査担当者の思いの伝わる復元であった。
この後見学した遺跡復元施設の展示でも言えることだが、考古学関係者の深く関わっている公開施設の展示はとてもよく工夫されているのだが、博物館になるとからきし駄目なのである。これはおそらく、考古学関係者が世界各国、特に日本との交流が深く、全国各地の遺跡復元をご覧になって参考にされているからではないかと推察するのである。現に、現場を案内下さった方々とは旧知の仲なのである。
敢えて意見を言わせてもらうとすると、「遺物の展示」であろうか。門跡に遺物が少ないのは当然である。しかし、現場を訪れた時に見せてもらった大量の塼雅あるはずなのである。様々なマークが刻印されていて、これを研究した研究者は塼の製作と関係しているのではないかと考えておられた。残念なことに研究者が担当を離れられたので、その研究が活かされなかったのかも知れないが、「物」の少ない施設だけに、その展示コーナーがあってもよかったと思う。
定鼎門址の復元施設に感激しながら次の現場、定鼎門を入って直ぐ西側の寧人坊の現場を見学した。
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これは洛陽城内から南へ延びてき、定鼎門に至る大街の現状である。この右手・西側が洛陽城南端大街に接した町、の寧人坊である。
これまた宮都発掘関係者にはたまらない内容の濃い現場であった。まだ発掘調査が始まったばかりなので、詳しい内容をご紹介できないのが残念だが、いずれ全面調査がなされ、報告書が出れば、間違いなく日本の都城制との比較研究に欠かせない資料となるだろう。これまでの中国の都城のイメージを一新する衝撃的な現場であった。やはり掘ってみるものだな!!というのが強い強い印象であった。
文献史料だけでは都城は語れない!!文献史料にだけ頼っているととんでもない誤解をすることがあるのだと実感できた現場であった。
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最も発掘調査の成果をどこまで日本の研究者、発掘担当者が活かそうとしているのかについてはこれまた新たな考えが浮かんできた一日でもあった。