lizardbrain

だらだらぼちぼち

2000.11 上高地

2006年04月26日 22時43分26秒 | 風景光景

この時期は、とにかく家の中にじっとしている事がイヤでイヤで仕方がなかった。

そんな時に、山登り好きな友人から、上高地では11月中旬に閉山式がありその後は春まで入山できない(徒歩、つまり冬山登りは可能)という事を聞いた。
この機会を逃すと、翌年の春まで行く事ができないので、急に長野県まで出かける事を思い立った。
と言ってもナマケモノを自任するワタクシである。
体力が必要な山登りなどするつもりはなかった。
単に、上高地とやらを歩いてみたくなったのだ。
乗鞍高原の国民休暇村に投宿して、上高地に入ったのが閉山式の当日だった。

天候は前日から曇り気味。
沢渡の駐車場にクルマを置いてバスで上高地入りした頃には、ポツポツと雨が降り出した。
せっかく来たんだからと傘を差して歩き出した
が、ショボショボと降る雨はいっこうに止む気配も無かった。
カッパを持っていたのだが、デイバックの中から取り出して着るのが面倒くさかったし、歩き出してしまうと雨宿りできる場所もなかったので、ひたすら傘を差して2時間ほど歩き続けた。

トレッキングシューズもデイバックも随分と浸水してしまい、ジワジワと濡れながら河童橋に戻った。
帰りがけに五千尺ホテル河童食堂で食べた山菜そばが美味かった。
冷えた体がポカポカと温まった。
値段は高かったけどね。



こういう天候だったため、持参した写ルンですパノラマで撮った写真は、ほとんどが光量不足で使い物にはならなかったが、その中でも一番マシな写真が、これ。
こんなのが一番マシな写真とは、悲しい限り。


閉山式の翌日には雨が止んだが、まだまだ曇り空。
後に、市販の入浴剤入りのインチキ温泉だった事が判明した(去年だったか?一昨年だったか?)白骨温泉へ向かう上高地乗鞍林道で撮った写真をスキャンしてみると、なんとなく不思議な雰囲気の写真になった。
狙って撮ったとしも、こんな雰囲気は二度と撮影できないだろう。

どうやら、ワタクシと雨には大いに縁があるようだ。
この上高地行きの10年ほど前に、バイクで山中湖の簡保センターに2泊した事があった。
その時も、曇天続きで下界からは富士山が見えなかった。
万に一つの望みをかけてバイクで富士山に登ってみても、やはり雨。
結局、山中湖に2泊している間、一度も富士山を見る事は無かった。
後に、山梨県は日本の都道府県の中で最も年間の晴天率が高い所だと聞いて、がっくりとうなだれた。
その旅が終わり帰って来た時に、富士山行きのために留守していた間、地元ではず~~~~っと晴れていたという事を聞いて、さらにがっくりとうなだれてしまったのだ、、、、、、、、、


桂枝雀一門会

2006年04月23日 00時50分21秒 | 無駄話

興行成績毎回絶好調のオムニバス・ライヴ、この日に開催されたLive Imageのチケットが取れなかった。
公演日の1ヶ月前にして、大阪フェスは既に完売していた。

ま、いいさ、
たまには落語会というのもオツなもんだ

出演、演目は

桂まん我 「寄合酒」  
桂こごろう 「へっつい盗人」
桂雀松 「マキシム・ド・ゼンザイ」
桂南光 「はてなの茶碗」

    中入り

桂枝雀 「代書屋」


ナマの落語は初体験だった。
TVやCDで聴く落語もエエけど、ナマが一番やね~
映画を自宅でビデオで鑑賞する時と、映画館で鑑賞する時との違いに通じる。
ナマの方が、聴く方の集中力もアップされ、話の流れが手に取るようにわかる。


出演者の名前の中に亡き桂枝雀師匠があるのは、DVDでの上映でトリをつとめたから。
枝雀マニアの友人からレコードを借りて何度も聴いている「代書屋」だったが、このDVD上映が、大爆笑に次ぐ大爆笑
前にナマで熱演した弟子達が、かすんでしまった。
これじゃ、枝雀師匠を超える事はかなり先になりそう。

枝雀師匠のDVD落語の上映に先立って、あれこれと解説する桂南光と桂雀松。
枝雀師匠の奥さんが当地の出身で、老後はこちらに住もうかと考えたらしく、師匠は、生前に当地に土地を買っていたそうだ。
この先、万一、おかみさんに何事かあったとしたら、弟子達で分ける事になるのかも?
と、この土地について桂南光が話しているシーン。
いやいや、枝雀師匠には2人の息子さんがいるのだ。
弟子に相続権は無いはずだが。


ダリル・ジョーンズの年俸?

2006年04月22日 11時50分18秒 | 音楽

脱退したオリジナル・メンバーのベーシスト、ビル・ワイマンの代わりにストーンズ入りし、もちろん今回の日本ツアーにも参加していたダリル・ジョーンズ

かつてはフュージョン畑やジャズ畑のアルバムでのサイドマンとしてよく名前を見かけたダリル・ジョーンズは、現在、ローリング・ストーンズの正式メンバーなのであろうか?

というのも、アルバムにはクレジットされているものの、最近のローリング・ストーンズとしてのメンバー集合写真にはオリジナルメンバーの4人だけが写っていて、ダリル・ジョーンズが一緒に写っていない事が多いので、こういう疑問が沸いてくるのだ。
その上、先日の東京ドームでのライヴの時、ミックとキースとロンがそれぞれステージ上を動き回りながら、ドラムのチャーリー・ワッツの周りに集まりオーロラビジョンの画面に一緒に映し出されるというサービスショットの時にも、ダリル・ジョーンズだけがカメラの視界から離れて位置している事が多かった。
何度もツアーを経験してきたはずだし、ステージ上での動き方については、今回も入念なリハーサルを仕込んでいるに間違いないので、たまたまダリル・ジョーンズだけがカメラに映る位置にいなかったとは考えられない。
観客席から見ていると、それとは逆に、意識的に、4人のオリジナルメンバー達からは一歩下がった位置にいるように見えた。

レギュラーメンバーとは呼び難いほどオリジナルメンバー達との距離を保ち、サポートメンバーとは呼び難いほどオリジナルメンバーの近くにいる、という状態に思える。
これでは、どう呼べばいいのだろうか?
準メンバー、、、、、、、という事なのか?

それはともかく、ケイコ・リーのバックバンドや自身の演奏活動やアレンジャーとしての活動で売れっ子のギタリスト、吉田次郎がダリル・ジョーンズと友人らしい。
吉田次郎がダリル・ジョーンズから聞いた話をさらにグッチ祐三に伝え、そのグッチ祐三がFMラジオで話しているのを聞いた。
言わば、海を越えた伝言ゲームなので、その真偽の程は保証しかねるが。

その話の中身とは

ダリル・ジョーンズがローリングストーンズと契約している年俸とは、いったい、HOW MUCH  という話題で、

1年間に2ヶ月間のツアーに出る契約で、その他の時間はもちろんレコーディングやリハーサルなど、いつお呼びがかかっても出て行けるように待機しているのだそうで、
そのギャランティーは、、、、、、、
なんと、日本円で年間1億5千万円なのだそうだ

という事は、4人のオリジナルメンバー達は、もっともっとたくさんの収入があるという事だろう。

あのぉ~、、、、、、
ここで、ストーンズの皆様にお伺いを立ててみたくなった。
プレイヤーとしては使い物にはなりませぬが、ワタクシもメンバー入りできないでしょうか?
例えばブログ担当として、、、、、、、、いかがなものでしょうか?
精一杯、更新しますので。
はたまた、コンパクトデジカメ担当としては?
ワタクシの写真は、たま~に手ブレしたりしますが、それもまた味わいがあるというものです。
年間360日の契約でも、結構です。
今すぐに、とは申しません。
いつか、ストーンズのエージェントからのスカウトの手が伸びる事を夢見ながら、せいぜい小まめに更新するために努力してみようか





『スタートレック』最新作製作か?

2006年04月21日 21時24分52秒 | 映画とかTV

日本でもアメリカでも、『スタートレック・シリーズ』はいまだに根強い人気を継続している。
関西TVでは、永らく火曜日深夜に『スタートレック』TVドラマシリーズが放映されていたのだが、いつの間にか消えてしまったのが、かえすがえす残念でたまらない。
BSやCSやケーブルTVの受信環境に無い我が家では、地上波だけが頼りなのだ。

悔しさに唇を噛み締めていたワタクシにとって、とても明るいニュースが飛び込んできた。
どうか、このニュースが事実でありますように


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「スタートレック」劇場版最新作、2008年公開へ

人気SFシリーズ「スタートレック」の劇場版最新作が、2008年公開を目指して制作されることが分かった。21日版のデイリー・バラエティーが報じた。タイトルは未定。
同映画は1979年の1作目から数えてシリーズ11作目となる。監督は「LOST」や「エイリアス/2重スパイの女」などの人気テレビシリーズや映画「ミッション・インポッシブル3」を手掛けたJ・J・エイブラムス氏。脚本、制作にも携わるという。
ストーリーにはカーク提督とミスター・スポックが最初に出会うシーンも含まれる予定だという。

以上 4月20日ロイター配信


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2000.10 鈴鹿

2006年04月20日 23時42分25秒 | F1

一体、本当にそれで良かったのかどうか、
良かったのだろう、
少なくとも共倒れは避けられたから。
こうして、2000年4月から母親が老人保健施設に入所した。
母親自身は、当然、施設での生活に慣れるまでに随分と時間がかかったようだが、ワタクシ自身も自分の生活ペースを取り戻すのには、少々時間が必要だった。

1年間の介護休職の期限が切れ、同年7月から仕事に復帰した。
元々、さほどの愛情を持って業務についていたわけではなかったが、ほとんどの時間を家の中に閉じこもっていた時期を経験した後では、外の空気を吸いながら仕事ができるという事がとても新鮮に感じられた。

その上、例えば、食材の買出しのためにスーパーへ行ったとしよう。
食料品売り場のレジを出てからも、テナントの書店で立ち読みしたり、衣料品売り場をうろついてみたり、あるいは家電品売り場でミニコンポを物色してみたり、、、、、、、、
家に帰らなければならない時間を気にする必要も無く、こんな事ができるなんて、ついこの間までは考えられない事だった。

幸い、母親の体の方の健康状態は良好だったので、旅行というか遠出したくなってきた。
イマドキの世の中、ケータイさえ持っていれば、何事か起こったとしてもすぐに連絡がつく、、、、、という言い訳を用意して。

仕事仲間に、毎年、F1レースを観戦するために鈴鹿サーキットへ出かけているコンビがいる。
彼らについては、かねてから
「わざわざ人ごみの中へ出かけていって、渋滞にまぎれて夜中に帰って来るなんぞ、アホちゃいまっか?」
と思い込んでいたのだが、、、、、
たまたま、その二人が話している現場を通りがかった時に、軽い冗談のつもりで、
「今年の鈴鹿のF1のチケット、余ってないん?」
と聞いてみたら、
一緒に行くはずの人が行けなくなって、マジで1枚余っていたのには驚いた。
レース中にアイルトン・セナが死んでからは、F1のTV中継を観る機会も減っていたのだが、せっかくのチャンスなので余っているチケットを買い取り、10月、彼らのF1観戦ツアーに紛れ込む事にした。

ワイワイガヤガヤ言いながら、ちょっとした遠乗りをするのもなかなか面白い。

鈴鹿サーキットへ行ってまず驚いたのが、各チームのF1マシンのカラーリングが、テレビ画面で観るよりも、ず~~~~っと色鮮やかだった事。
特に、フェラーリの赤の鮮やかさ。

そして、観客のマナーの良さ。

どこやらの在阪セリーグ球団のファンのように、ゲーム展開などお構いなし、自分達のひいきチームはホメ倒し、対戦相手のチームはヤジり倒すなどという輩はほとんどいない。
例え自分が応援するチーム・ドライバーではなくても、スリップストリームを抜けて鮮やかに追い越したり、コーナー入り口でブレーキングをギリギリまで我慢してタイヤから白煙を上げながら先行車スレスレにパスしていくバトルシーンでは、追い越していったドライバーにも追い越されてしまったドライバーにも、惜しみない拍手を送る

観客席のあちこちに設置されたスピーカーからも、また、FMラジオでもレースの実況中継が放送されているのだが、轟音をとどろかせて目の前をF1マシンが走っていると、場内実況のアナウンスの声もラジオの声も全く聴こえなくなってしまう。
予選はともかく、決勝レースがスタートした直後には、速いマシンから順番にコースを走っているのだが、給油やタイヤ交換のために各マシンがピットインする頃には、見た目の順番が必ずしもレース中の順位とは関係なくなってしまい、初めて観ると、そのあたりが全くわからない。
それに加えて、マシンのエンジン音に遮られて、場内の実況放送が途切れ途切れにしか聴こえてこないので、余計に順位などはわかりっこない。

その状態でも、手馴れた観客達は、今どのドライバーが何番手を走っていて、ライバルのドライバーとの位置関係がどうなっているのか? をしっかり把握していて、心からレースを楽しんでいる人が多いのにも驚かされた。

1回くらいはF1レースを観ておこうか、と突発的に考えて、その時1回限りの観戦のつもりだったのだが、結局、あれ以来、毎年鈴鹿サーキットへ行っている。
今年も10月に行くつもりで、既に先行チケットを確保している。
ただし、何度行っても、いまだに
どのドライバーがどのチームのマシンに乗っているのか?
レース中に、サーキットのいったいどのあたりをを注目していれば良いのか?
という、肝心のポイントがわかっていないのはどうしてだろう?

あっ、言わないでいただきたい、決してキャンギャル撮影が目当てなのだろう、、、、、、
とは。


(2000年10月の鈴鹿F1GP この頃はデジカメを所持していなかったために、写ルンですパノラマで撮影したものをスキャン合成)

そのF1日本GPだが、来年2007年からはフジスピードウェイでの開催が正式決定された。
フジでの開催は決まったが、鈴鹿でのレースが無くなると決まったわけではない。
個人的な都合で言わせてもらえば、フジよりも鈴鹿の方が距離的に近いのだ。

日本でもF1レースを年間2回開催する、という可能性が全く無いわけではないのだから。




AERA in FOLK

2006年04月18日 21時45分46秒 | 音楽

最近、探している角川文庫の本がある。
ブラッド・ピットが主演して、10年かそれ以上前に映画になった外国作家の本。
書店で取り寄せれば簡単に手に入るのだが、なかなか取り寄せしようとはしない。
どうせならば、偶然、ふと入った書店の片隅でその本に直接出くわしたい、、、、、、、
まるで、その本が、ワタクシに読んで欲しいと訴えかけるように書棚の隅っこに並んでいる情景を想像しながら、取り寄せ発注をせずに、すでに3ヶ月ほど過ぎてしまった。
早い話が、発注するのがメンドクサイだけなのだが。

先日、ライヴの開場まで時間があったため、ホールと同じビル内の書店をうろついてみた。
件の、ワタクシがここ最近探している本は置いていなかったのだが、雑誌コーナーでこんな本を発見した。




表紙に踊る活字が目に留まって、思わず手に取った段階で、既にワタクシの負けであった。
さらに、パラパラと目次を読んでしまった段階で、あっさりとゲームセット。
旅行中でもあり、荷物を増やしたくなかったのだが、気がつくと、この AERA別冊 AERA in Folk という雑誌を手にレジに向かっていた。
その目次を、一気にずら~~っと書き写してみると、

●真説 1971年中津川フォークジャンボリー
●日本初のインディーズ 音楽舎・URCレコードの軌跡
●「春一番1970」嵐の前夜物語
●松山猛と行くイムジン河
●こんなにあった放送禁止の歌
●名物ヤング番組 東西対決
●なぎら健壱の「私的フォーク黎明期」
●ロングインタビュー 吉田拓郎全てを語る
●75年伝説の生みの親・後藤由多加が語る裏舞台
●小室等が語るフォーライフ設立秘話
●井上陽水 「氷の世界」永遠のマジック
●伊勢正三が追い求めた風
●「ミッドナイトブルートレイン」浜田省吾
●谷川俊太郎が語る フォーク詩の世界
●フォークと現代思想 未知の二人称複数形を求めて
●the Scene ディラン、ぐゎらん堂、京大西部講堂、ロフト
●「20世紀少年」対談 遠藤賢司×浦沢直樹
●昔の名前ぢゃ出ちゃいねえって 加川良、三上寛、りりぃ、エンケン
●泉麻人が語るフォークの残り香
●サンボマスター 岡林信康を大いに語る
●あのミュージシャンの憧れ全調査
●松任谷由美・中島みゆきの時代
●”ガイジン” Jロックオタク対談
●坂崎幸之助が選ぶ名盤とギター
●団塊世代の熱いフォーク魂
●ロック・フォーク大人脈図
●ニッポンロック発展史
●僕らの音はこう作った エンジニア吉野金次
●ミカバンド 「黒船」が来た
●消えたカリスマ音楽家の伝説
●フォークの肖像 高田渡 心優しき頑固者      etc,
                             

AERAという雑誌は、病院の待合室などで何度も読んだ事があり、面白くも何とも無いと感じていたのだが、この別冊は、なかなかのスグレモノだ。

こう見えても、ワタクシは中津川フォークジャンボリーにも初期の春一番コンサートにも乗り遅れた世代だ。
ギターを手にした中・高校生の頃は、ハッキリ言って、何がフォークで何がフォークではないのか? が、さっぱりわからなかった。
友達に
「フォークって何や?」
と聞かれても、自分自身を納得させられる説明すら出来なかった。
フォーク全集とタイトルされた楽譜本を買ってみると、なるほど、岡林信康の曲も高石友也の曲も載っているが、南沙織や天地真理の曲も同列に収録されていた事があった。

だが、このトシになってようやく流れを理解できるようになったようだ。
この雑誌に書かれている1本1本の記事は、それぞれの対象を接写しながら、1冊の雑誌としてはトータルこの時代を俯瞰するように製作されている。
フォークニュー・フォークニュー・ミュージック
レコードを売る側が勝手に付けたジャンル分けではあるが、こういった流れが生まれていった事に必然性があったような気がしてきた。
いまだに、ニュー・ミュージックという呼び方は、大嫌いだが。
このセンスの無さは、許せないものがある。
他に呼び方がなかったのだろうか?

いくらなんでもこの本の中身をバラしてしまうわけにはいかないのだが、
坂崎幸之助が暴露してしまった、ガロのヒット曲「学生街の喫茶店」誕生秘話や、伊勢正三がインタビュー記事で答えている、レコーディングされたオリジナル曲をアレンジャー(おそらく石川鷹彦)の演奏をコピーするところから始めなければならなかったという悲劇など、知らなかった事だらけだった。
何よりも、陽水の項目で、アルバム「氷の世界」からシングルカットする曲を選曲するときに、陽水と担当プロデューサーの間で意見が分かれた後、プロデューサー側の意向でシングルカット曲を「心もよう」に決定した、、、、、、、
というくだりが、何やらスリリングであった。

AERA別冊のバックナンバーを調べてみると、今年2月にAERA in Rockというのが発行されている。
朝日新聞のサイトで目次をチェックしてみたが、こちらのロック特集の方にはイマイチ興味が向かない。


悲しき当選

2006年04月16日 23時31分56秒 | 映画とかTV

去年、とあるプロバイダーのサイトの懸賞で映画のタダ券や試写会招待券をゲットした話は、すでにアップした。
映画の無料招待券2枚セットが2回と、試写会のペア招待券が1回。

今年になっても怒涛のような勢いは止まらず、すでに『PROMISE』のペアチケットをゲットしている。
この映画は地元で上映しなかったのだが、遠出したついでに無理やり滋賀県内で鑑賞した。
さらにこのたび、大沢たかお主演の映画、『陽気なギャングが地球を回す』 の試写会ペア招待券をゲットした。

だが、ワタクシは、試写会の会場まで行く事ができない。
とても悲しい。
関西方面では、この映画の試写会は無いかもしれない、という懸念を感じながら応募したのだが、まさか当選するとは思いもよらず、、、、
当選してみてはじめてハッキリした事は、この映画の試写会会場は、なんと、東京都千代田区の劇場のみ、、、、、、、、、、
しかも試写会は、今月末の1回限り、、、、、、、

元はといえば、他の懸賞に応募するついでに、ついついクリックしてしまったのだから、今さらクレームの付けようも無いのは納得済み。
試写会だけのために飛行機に乗る事もできず、ワタクシ自身が試写会に参加するのは、当選通知があった時点でとっくにあきらめている。
だが、ムダにするのももったいない気もするので、どなたかにお譲りすべきかと悩んだ。

メールで手当たり次第に問いかけてみるという手も考えたが、つい最近の事例を参考にするにつけ、相手の人となりについては良く考えなければならない。
厳しすぎるくらい厳しく考えた方が良いだろう。
『ヒヒヒヒヒ』などという、何百年経ってもハラワタが煮えくりかえるような、そんな愚劣極まりない書き込みをされてはたまらない。

こうして、

1.東京在住で

2.平日の試写会に行く事が可能な人物

という2つの条件を満たす人を探してみたらば、、、、、、、、、、
アッ、いた、いた
ついこの間、ストーンズ東京ドームライヴの後の飲み会というか部屋飲み会に召集した中にいた。
こうして、週末に、そヤツに郵送しておいて旅に出た。
カミさんを連れて本人が行くのも良し、はたまたアヤシイ関係にある部下のOLさんとコソコソと出かけるのもよし、後の処理は、そヤツに任せよう。


しかし、どうして、
地元では上映しない映画や、
上映期間が短い映画や、
たった1回しかやらない試写会のチケットばかり当たるのだろうか?
同じ1回限りならば、キャリーオーバー発生時のロト6の1等賞を希望してやまないのだが




こいつは永久保存版やね!

2006年04月10日 21時37分50秒 | 音楽

自分で地上波放送情報を告知したからには、しっかりと留守録しておいた、木村充揮30周年ライヴの模様を、昨日と今日、2回に分けて鑑賞した。

さすがNHKやねぇ、2日間で合計9時間近くに渡って繰り広げられたライヴを、出演者へのインタビューも含めて、たったの2時間にまとめて編集してしまうとは
予想したように、演奏場面は、それぞれのゲストと木村充揮がジョイントしているところをセレクトして放映していた。
初日には、実際にNHKホールにいたワタクシなのだが、なんせ1階の後ろから2番目の席だったもので、TVカメラでステージの様子をアップで映されると、
「へぇ~え、ステージ上はこんなになっていたのか~
と再確認できた。
ステージ上にたくさんのミュージシャンが現れて一斉に演奏する場面では、一生懸命に双眼鏡で覗いたところで、いったい誰が何をやっているのかがさっぱりわからなかったのだ。
ワタクシの席からは、、、、、

木村充揮と近藤房之助が10$LOVEを演奏している時、近藤房之介が黒いギブソンのアコギと膝の間に歌詞カードをはさんで、それを見ながら演奏していたとは知らなかった。
近藤房之助は、ピックを使わずに指弾きしていたのね~、それなのにあの強烈なアタックは、すんばらしいの一言に尽きる。

一部で塗装が剥がれた、鮎川誠のレスポールの年季の入りようにも驚いたし、木村が押尾コータローと一緒に演奏したゲゲゲの鬼太郎のテーマ曲の作詞が水木しげるだという事は知っていたが、作曲がいずみたくだった事は、今まで知らなかったし。

2日目に聴きに行って、先ごろBSで放映された時に
「自分が2秒間ほどTV映っていた!」
と、友人が自慢していたのだが、確かに彼の姿が映っていた。
2秒ほど。
しかし、見慣れないスーツ姿だったんで見落としかけたけど、、、、、
なんでスーツを着て行ったんだろう?
彼は?

一番すごかったのが、TVでも一番最後に流れていたが、初日のアンコール最終曲ケ・サラ
ステージにバンドメンバーが並び、一段高くその後ろにストリングス・セクションがずら~~~~~っと並んでいて、一番盛り上がってきた最後のコーラス場面で、ステージの奥の幕が左右に開いて、そこから大西ユカリが指揮する女性コーラス隊にライトが当たる場面は、も~~う、最高
実際のライヴを目にしておきながら、こうしてTVで見ていても泣きそうになってきた

このビデオは、永久保存版やね~



1999~2003 さくら

2006年04月09日 12時59分28秒 | On My Side
今年も三角公園の桜が咲いている。

          

1999年2月、当時76歳だった母親が脳出血を患った。
国立病院で開頭手術を受け、入院した。
左の後ろ側の脳出血だったが、幸いな事に、全身あるいは半身麻痺などの重篤な症状ではなかった。

実際に体験してみるまでわからなかったのだが、今の医療では、長期の入院を拒む傾向にある。
最初に入院した国立病院では、当初は3ヶ月の入院治療を要するという治療計画だったのだが、ほんの1ヶ月ほど経った時点で「脳神経科的に言うと、治療は終わっているので退院して下さい。」と、主治医に言われた。
その時点では、日常生活ができる所まで回復していない状態だったのに、「医学的には治療は終わっている。」と言われたのを、なんとか2ヶ月の入院まで引き伸ばした。
後遺症が改善されるまで入院治療を受けられると思っていたので、いきなり退院してくれと言われても自宅では受け入れ態勢も整っていない。
別の街で医者をしている同級生のコネを使い、言語療法というリハビリを目的に隣町の病院に転院した。
周囲からは、特養ホームなどの老人施設に入所を、という事も言われたのだが、老人施設に入所する必要があるほどの重い後遺症には思えなかった。
この頃の母親の状態は、右目の視野狭窄、右手足が少し動きにくい事、そして「読む、書く」が思うようにできなくなる言語障害、、、、、、、、
一見すると普通に話せるのだが、本人が意図した単語とは違う言葉が口から発せられる事が多く、何を言いたいのかがわかる時とわからない時があった。
自身あるいは家族に脳出血や脳梗塞を患った方もおいでだろうが、脳のどの部分にダメージを受けたかによって、その人その人によって現れる症状は違ってくる。
ここで詳細に説明してみても簡単にはわかってもらえないだろうが、色んな事が自分では出来ない状態だった。

このように、一人で日常生活が出来る状態ではないが、時間の経過により改善される希望もありそうに感じられた。
実際、転院した隣町の病院の中では、同じ部屋で入院している他の重い症状の患者さんの世話をするところまで体の動きは回復していた。
自宅で生活するという事もリハビリにつながり、少しでも自分でできる事が増えてくれれば、と考えて、隣町の病院を退院したのが6月末。
最小人員の家族構成のため、ワタクシが介護休職を取って1年間仕事を休み、言語療法などのリハビリに通院しながら、自宅で生活しながら様子を見ることにした。

こうして、1999年7月から1年間の介護休職生活に入った。
介護休職すると、給与・賞与は全く無く、厚生年金、健康保険、雇用保険の本人負担分と同額の「介護休職手当」という手当が出るが、これは支給と同時に給与から引き去られる物なので、毎月の手取り額は全くのゼロとなる。
ローンなど抱えている人には、支払い義務だけがのしかかってくる。
介護休職で仕事を休んだ、と言うと、決まって周囲からは「親孝行な良い人だ」という反応があるが、実際の所、いつまでも入院し続ける事ができないうえに老人施設への入所をなど考えていなかったため、休職する事しか方法は残っていなかったのだ。
このあたりの事情もまた、他人には理解してもらえないかも知れない。

1回につき30分程度、週に4回、隣町の病院での言語療法や作業療法のリハビリを受けるためにクルマで通院した。
この他に、家でワタクシがやっていた事というと、食事や入浴の時に世話をする、、、、、というよりも、見守る事が主な仕事だった。だから、決して介護したとは思っていない、介護の真似事をしただけなのだ。
隣に住む叔母の手伝いも受けた。
病気の老人と一緒に、ほとんどの時間、家の中に閉じこもるという事は、予想以上にストレスが溜まるものだった。
そこからきたのだろう、肩こり、頭痛にも悩まされた。
リハビリに通院するための外出が、自分にとっても良い気分転換になった。

自宅に戻った当初は、不自由な事もありながらも、少し手伝ってあげると意外と色んな事がこなせる様子で穏やかに過ごしていた。
相変わらず、読む、書く事、あるいは料理したりといったいわゆる「知的作業」は出来なかったが、脳出血という大病を患った後だ、病気になる前の状態に戻れるなどとは期待していなかった。周囲の見守りがあれば生活できる状態に回復できればなぁ、、、、、、と思っていた。

          

が、11月頃から、時々、夜中に起き出してはワケのわからない事を言い出だす事が多くなってきた。
母親にしか見えない誰かが、何やら母親に話しかけているようだった。
こうなってくると、脳出血の後遺症というよりも、認知症(当時は痴呆と呼んだが)による妄想と考えられた。
精神科の投薬治療を受けても妄想はおさまらず、夜、昼を問わずにワケのわからない事を大声で口にしては、今にも暴れだしそうな勢いを見せるようになった。
といっても毎日ではなく、機嫌のよい時は、ごく普通に穏やかにしていた。
年を越して翌2000年になっても、母親に妄想が現れる頻度は徐々に高くなり、その頃から立ち上がったり歩いたりという動作も思うように出来なくなってきたために、ワタクシ自身は、ほとんど眠らせてもらえない日が多くなった。
このままでは、共倒れになってしまう。
新聞に目をやると、介護疲れによる心中事件の見出しが、イヤでも目に付くようになってきた。

介護休職の期限が6月いっぱいまであるとはいっても、その後の生活の見通しは全くつかない。
体の方は健康そのもので、どこかの病院に再度入院できる見通しも無い。
入院できたとしても、それは解決策ではなく、再び3ヶ月ほどすると退院を迫られるのは目に見えていた。

こうなってくると、老人介護施設への入所を考えざるを得ないようになった。
入所を希望した所で、半年あるいはそれ以上の入所待ちしなければならないのは目に見えていたが、申し込んでおかなければいつまで経っても入所できない。
3月になって、4箇所ほどの老人介護施設の入所申し込み手続きをした。
どの老人介護施設で尋ねたところで、いつ入所できるのかがわかるはずも無く、待つしかなかった。
最低でも半年、あるいはそれ以上の自宅待機が予想された。
介護休職期限が切れる7月になると、仕事に復帰しなければならない。

7月以後、どうすれば良いのか、、、、、、?
考えられる事は3通りしかなかった。

24時間体制で、家政婦さんに来てもらう。
その年から新たに始まる介護保険を使って、老人施設のショートステイを利用し、足りない日数分を実費でショートステイする。
仕事を辞めて、自宅で介護の真似事を続ける。

果たして、24時間体制で来てもらえる家政婦さんっているのだろうか?
どの方法を取っても、経済的には大変な事態になる。
が、他に方法がなければそうせざるをえない。

あれこれ考えていても結論は出ないまま、4月になった。
初旬に、ある老人保健施設から「空き部屋ができたので、入所できますよ。」と、電話があった。
この年の4月から始まる介護保険について、当初は、行政側、施設側、利用者側、それぞれにとまどいがあったようだ。
介護保険制度が開始すると入所費用が高くなる、と考えた方が退所したので空き部屋が出来たという事情のようだった。
この老人保健施設に申し込んでから、なんと2週間ほどで入所する事ができた。
これは、まさしく奇跡的なタイミングだった。

母親が老人保健施設に入所した後、(こう言っては申し訳ないが)これで熟睡できると思った。
しかし、30分ほど眠ってはすぐに目が覚め、1時間ほど寝付けずに、さらにウトウトと20分ほど眠ってはすぐに目が覚め、、、、、、
母親が家に居た時に、夜中に何度も起こされて、ほんの少ししか眠らせてもらえなかった事が体にしみついてしまったのだろう。
睡眠障害にかかっていた。
自分の生活リズムが戻るまでには、半月ほどかかった。

母親の方はと言うと、老人保健施設で生活するという環境の変化に慣れるまでは1ヶ月ほどかかったようだったが、それ以降は落ち着いていた。
しかし、2002年頃から、再び、母親にしか見えない誰かが現れるようになり、職員さんを煩わせる事が多くなった。
認知症に対応できる体制にある、という別の特養ホームに転所する事になった。

最初の老人保健施設にいた時も、特養ホームにいた時も、必ず、週に最低でも2回は面会に行った。
「見捨てられた。」と思わせないように。

特養ホームに転所した後、『慢性閉塞性肺塞栓』という肺機能が低下する病気で5日間入院した。
退院後、再びホームに戻った頃には、ほとんど自力で歩いたり立ち上がったりはできなくなっていた。
2003年11月に、再び体調がすぐれなくなり、2度目の入院となった。
いつの間にか脳梗塞が進行し、意識がない状態に陥っていた。
11月20日の夜、「呼吸が停止した。」と、病院から電話があった。
原付スクーターで病院に向かう途中、国道を横切る交差点の信号は赤信号だった。
夜間で交通量も少ないのに、急がなければならないのに、信号を無視して行けば良いのに、、、、、、、
だが、青信号に変わるのを待っていた。
気分が重かった。
5分ほどで病院に着いて、ほどなく心停止が宣告された。

結局、1度も家に帰らせる事もできなかったが、自分に出来うる事は、全てやりつくしたと思っている。



2000年4月、老人保健施設に入所した頃、この公園の桜が満開だった。
母親が施設の生活に慣れるまでは、と、当初は毎日のように面会に行った行き帰りにこの公園の前を通り、せめて桜が咲くまで家に居させてあげれば良かったのか、と考えながら眺めたものだ。
この年は、天候も良かったのだろう、その前年1999年に脳出血で入院して隣町の病院に転院した頃も、この公園の桜は咲いていたはずだが、そちらは記憶に無い。

(2006年4月7日撮影)


新兵器

2006年04月07日 22時29分28秒 | 無駄話

手持ちのぴあマップ文庫東京横浜版が古くなってきたので、2006年版のぴあマップ文庫を探していたらば、まだ書店に並んでいなかった。
小ぶりの地図で、何かそれに替わる物がないか、と書棚を眺め回していると、あったあった
その名もでか字マップ
その名の通り、地図に書かれている文字がでかい。



A4やB5サイズのでかい地図帳を持ち回ればいいのだろうが、それではかさばって仕方がない。
かといって、ぴあマップ文庫の地図に書かれている文字が読み辛くなってきた我が身には、世間体などかまってはいられない。
まだまだ老眼鏡(キャリアグラスという呼び名もあるらしいが)は必要なくて、近眼のメガネを外して裸眼なら読めるという段階なのだが、メガネを外したりかけたりするのがめんどくさい事この上ない。
いっその事、遠近両用メガネを作ればいいのだが、近眼のメガネだけでも用途によって度の違う3本を使い分けている状態で、これ以上メガネを増やすのもややこしい事この上ない。
なんとなく気に入ってしまい、後日、大阪版のでか字マップも買い揃えた。

基本的な縮尺は、15,000分の1で、主要部は5,000分の1から2,800分の1。
やや縦に長くて幅が狭いが、ほぼ文庫本のサイズ。
梅田や心斎橋など、いちばん詳細な縮尺2,800分の1の都市部の地図の場合、見開き左右ページの幅が実寸では560mほどなので、この地図を見ながら歩くとすると、しょっちゅう次のページをめくりながら歩かなければならないが、、、、、

 

かつて、梅田に降り立って、とある方と待ち合わせをした時、
「大阪ブルーノートの方向へ歩いていきますんで、その途中でお会いできると思います。」
と言って歩き出したのだが、いつまで経っても大阪ブルーノートにはたどり着けず、大阪フェスティバルホールが見えてきた事があった。
わかる人にはわかるだろうが、方角にして、およそ90度ちがう方向へ歩いていたのだ。
あの時は、先方に大変ご迷惑をおかけした上に、大笑いされてしまった、、、、
ある程度、梅田近辺の地理がわかってきたつもりになっていた、かすかな自身が崩れ去った日だった。

つまり、
使いやすい地図を手にしても、方角さえ間違えなければ万全なのだが、、、、、



つづいてBS放送情報

2006年04月06日 13時02分27秒 | 音楽
5月の話だが、ローリングストーンズのライヴのTV放送予定をキャッチ。
4月2日 埼玉スーパーアリーナのライヴの模様を放送
5月27日 WOWOWにて
放送時間は22:00~24:10

BSレジスタンス活動展開中のワタクシにとっては、WOWOWでの放送というのは痛し痒し、、、、、
この日ばかりはBSレジスタンスの旗を懐に隠して、どなたかWOWOW視聴可能な方に録画をお願いしようかと思っている。

ちなみに、今回のストーンズ日本公演のうち、ワタクシが観戦した3月22日の東京ドームと、WOWOWで放送される4月2日埼玉スーパーアリーナのセットリスト(演奏曲目)を、某サイトからこっそりとかっぱらってきたので、コピペしておこう。

☆3月22日 東京ドーム
Jumpin' Jack Flash
Let's Spend The Night Together
She's So Cold
Oh No, Not You Again
Sway
As Tears Go By
Tumblin' Dice
Rain Fall Down
Night Time Is The Right Time
This Place Is Empty (リードヴォーカル・・キース)
Happy (リードヴォーカル・・キース)
Miss You
Rough Justice
Get off of My Cloud
Honky Tonk Women
Sympathy For The Devil
Paint It, Black
Start Me Up
Brown Sugar
アンコール
You Can't Always Get What You Want
Satisfaction


☆4月2日 埼玉スーパーアリーナ
Jumpin' Jack Flash
It's Only Rock'n Roll (But I Like It)
Let's Spend The Night Together
Oh No, Not You Again
Sway
Wild Horses
Rain Fall Down
Midnight Rambler
Tumblin' Dice
This Place Is Empty (リードヴォーカル・・キース)
Happy (リードヴォーカル・・キース)
Miss You
Rough Justice
Start Me Up
Honky Tonk Women
Sympathy For The Devil
Paint It, Black
Brown Sugar
アンコール
You Can't Always Get What You Want
Satisfaction


Wild Horsesも、ナマで聴きたかったぞ。






Leavin' on a Jetplane

2006年04月03日 17時40分06秒 | 風景光景

まさか、、、、、と思ったが、ついに飛行機に乗るはめになってしまった。


しかも、このところ話題満載のJAL
JALしか飛んでいないので、航空会社を選択する余地は全く無い。
ローカル空港のはかなさ、悲しさを一心に感じた。

機内は、予想していたよりも、ず~~~~っと狭苦しかった。
通路は、人1人通るのがやっとという感じだし、座席も左右の幅に余裕が少なく、背もたれが高いために前方の見通しも悪かった。
まあ、見通しが良かったとして何が見える訳ではないだろうが。
窓も小さくて、見晴らしも良さそうではなかった。



ローカル路線のローカルジェット機とはいえ、何しろ、生まれて始めて乗る飛行機である。

離陸の時には、少々、とまどった。
どえらい加速で滑走を始めたかと思ったとたん、いきなり機体が浮かび上がった。
当然の話だが、体感速度は新幹線よりも速かった。
浮かび上がっただけならば、何も問題は無かった。
浮かび上がるとすぐに、機首を上げたままの体制で旋回を始めた。
窓の外を見ると、足元に海があった。
いつも見慣れた海だったならば、なんて事はなかった。
旋回していたために、足元に見えた海は斜めに傾いていた。
ワタクシのような初心者のささやかな希望を言わせていただけば、
上昇するか、
旋回するか、
どちらかに専念して欲しかった。

見なければ良かったのに、機首を上げた姿勢のままで傾いた海を眺めてしまった。
斜めになって雲の間から足元に広がる太平洋を目にしたとたん、ほっぺたの内側の遠くの奥の方に、酸っぱい物の存在を感じた。
まだまだ切羽詰った状況ではないが、何十年ぶりかに乗り物酔いの予感がしてきた。

その日から翌日にかけての天気予報は下り坂で、乱れた気流の中を飛行してた。
機体は、時々、小さく上下動をみせて、まるでサラ金の取立て電話のように(借りた事は無いが)ワタクシにフェイントをかけてきた。

離陸した後も、シートベルト着用のサインが消えては点き消えては点き、、、、、、
こういう事態を予想していなかったため、気分転換用のガムやキャンディーの類を持ち合わせていなかった。
電車の中のように、走り回るガキどももいなかった。
ただ、エンジン音なのか風を切る音なのか、機内は、ず~っとくぐもった騒音が満ちていた。
ほとんどがビジネス利用の乗客達は、皆、平然としていた。

「機内食は、フレンチか?和食か?」
だとか
「名古屋あたりで駅弁でも買おうか」
とか、
ボケをかましている余裕も無かった、、、、、、

小っちゃい窓のブラインドを閉めて、目を閉じておく事にした。
運ばれてきた冷たいお茶を飲んで深呼吸すると、ようやく気分が落ち着いた。
悪い予感を振り払う事に成功した頃、隣の座席に目をやると、引率者の友人は、手馴れた様子で黙々と機内誌を読んでいた。
その後の時間、気を取り直して、隣の友人と話をしているとすぐに羽田空港に着陸してしまった。
飛行時間は、わずか50分ほどだった。

地上に降り立てば、こちらのもの。
引率者の友人が立ち寄る先への乗り継ぎをテキパキと指示し(随分と予習したのだが 笑)、品川から東京大丸、そして水道橋のホテルまでたどりついた。
ま、そんなに自慢する事でもないが、、、、、



一度学習してしまうと、帰路は平気だった。
羽田は雨だった。
引率者の仕事の都合もあり、朝9時過ぎ発の便だったため少々睡眠不足だったが、ノープロブレム

離陸する時、小っちゃい窓のブラインドを降ろして足元を見ないようにしていたが、羽田では、離陸直後に旋回する事がなかった。
そのかわり、滑走路に出るまでに、低速で右へ左へとターンを繰り返していた。

少し経って、ふとブラインドを開けた時、主翼の左側に、でべそのように雲の上にニョッキリと顔を出した富士山が見えていた。

のぞみ号で行くと、新大阪~東京が約2時間半か、、、、、、
もう、新幹線には乗れない体質になってしまったのかも知れない。