lizardbrain

だらだらぼちぼち

Customer or Claimer?

2006年11月29日 22時22分39秒 | 無駄話

今年の9月下旬、某社のウォーキングシューズを買った。

ウォーキングシューズと言っても、ナマイキな事に革靴で、
革靴と言っても、ピッグスキン、つまりブタ皮のシューズだ
ピッグスキンというと安物のように思われそうだが、それでも¥16,000もした。
仕事の時は安物のビジネスシューズ、オフタイムには安物のスニーカーで過ごしているワタクシにとって、¥10,000を超えるシューズなどめったな事で買ったりはしないが、店頭で見かけて、試しに履いてみた時点でワタクシの負けだった。
気が付けば、このシューズを手にしてレジに並んでいた。
以来、お出かけ用に大事に使っていた。

先日のあらふねライヴに出かけた時にも、このシューズを履いて行ったのだが、ライヴ会場で開演を待っている間に妙な違和感を感じた。
足元をチェックしてみると、、、、、、、
なんと言う事だ


お気に入りのシューズのかかとの部分が破れているではないか

特に荒っぽく扱ったわけでもなく、どっか鋭利な物にひっかけてしまった記憶も無いので、勝手に破れてしまったとしか考えられない。

困った、、、、、、

このシューズを買って、既に40日ほどが経過していた。
これがまだしも、買ってから2~3日後の出来事だったならば、買った店に持ち込んで
すぐに破れてしまった。不良品だから交換して欲しい!
と、クレームをつけて迫る事も出来るかも知れない。

だが、これだけの日数が経ってしまうと、そうはいくまい、、、、、、、
買った時からあまりにも時間が経っていたので、いくらなんでも買った店にクレームをつける事はできない。
このまま、かかとが破れたままで履き続けるしかない
適当な接着剤を買ってきて、破れた所を自分で貼り合わせてみよう。
破れ目の中には、白いウレタン状の物が見えているが、揮発成分を含んだ接着剤で大丈夫だろうか?
とりあえず、ホームセンターへ行って、このシューズに使えそうな接着剤を買って来よう。

と、一度は、そう考えた。

そう考えたものの、やはり、腑に落ちない。

確かに買ってから40日以上経ってはいたが、だからといってこのシューズを毎日履いていたわけではない。
ちょっとしたお出かけの時、いわゆるよそ行きとして使っていたので、このシューズを履いて出かけたトータルの日数はというと、ほんの3~4日分でしかない。
ほんの3~4日履いただけで破れてしまうとは、やはり不良品をつかまされたのではないか?

このシューズを製造した某社のホームページを開いてみた。
Contact Us』というコンテンツをクリックしてみると、
『カスタマーサービス向上のために、当社製品に対するお客様からのご意見、ご質問、ご提案などをお待ちしております。』
という文章の後に、某社のメールアドレスが表示されていた。

破れ目を貼り合わせる前に、苦情は苦情として、製造販売元であるこの会社に現状をメールで連絡してみる事にした。
そして、
有償でもいいから修理していただけないか?
もしも素人でも修理できるのならば、修理方法を教えていただけないか?

とも書き添えておいた。
メールには、破れたシューズの写真を添付しておいた。

ワタクシとしては、某社に向かってクレームをつけたつもりは全く無かった。
例えワタクシが、実際の使用日数が3~4日だったと言い張ってみても、購入して40日以上経ったシューズが破れたと言ってクレームをつけるような客に対して、会社側はどういう反応をするだろうか?
何でもない事に難癖をつける、クレーマーとして扱われる可能性が極めて高い。
自分を製造メーカーの担当者の立場に置いて考えてみると、おそらく相手にしないであろうと思ったので、あくまでも修理方法を問い合わせてみたのだ。

返事が来る事には、ほとんど期待していなかったし、もっともらしく『お客様からのご意見をお待ちしています。』などいっても、そんな物に目を通しているのかどうかさえ疑っていた。

2日後、某社の営業部から返信メールがあった。
返事が来た事さえ意外だったのだが、返信メールの中身にはもっと意外な事が書かれていた。

返事には、まず

「この製品に使用しているレザーの部位によって、レザーの強度にバラツキが見られようです。」

と、自社製品の製造過程での不具合を認めた上で

「添付された画像を拝見した限り、修理する事は不可能です。
交換あるいは返金させていただきますので、お手数ですが、お客様のご都合の良い時に購入店舗にご持参下さい。」

さらに

「この度は、弊社商品でお客様に多大なるご迷惑をおかけいたしましたことを心よりお詫び申し上げます。
今後、このような商品が発生しないように商品開発に努めていきたいと思います。」

と、締めくくられていた。

先方の気が変わらないうちに、再度、こちらからメールで、購入店に持って行けそうな日付を知らせておいた。
その上で、買ったお店に持ち込んで、少しだけデザインが違うシューズと交換してもらった。

破れたかかとの部分の画像を添付した事が、大いに役立ったのだと思う。
デジカメを持っていてホントに良かった、と感じられる数少ない機会だった。
まさか、新品に交換してもらえるとは思いもよらなかったが、苦情メールを送信した事に、ちょっと後味の悪さも感じている。

ワタクシが送信した苦情のメールには、当然、ワタクシは本名と現住所を名乗っている。
いったい、ワタクシの名前は、某社営業部のCustomerファイルに収められているのか?
それとも、Claimerファイルに収められているのか?
なんとなく気になってしまうのが、小心者の悲しい性である


ドイツ館

2006年11月28日 20時25分22秒 | 風景光景


BANDOロケ村内を一周して、もう少し時間があったので、すぐ近くのドイツ館へ足を伸ばした。

坂東俘虜収容所に収容されていたドイツ軍俘虜達のうち、日本に残った人達(元々日本で暮らしていて志願したドイツ兵も少なからずいたらしい)を除くと、ほとんどは母国ドイツへ帰還した。
帰ってみると故郷は焼け野原、敗戦による巨額の戦争賠償金を背負い込んだドイツ経済はドン底に陥っていた、、、、、、、、、、
勇躍、故郷に戻った彼らの前途は、さほど明るい物ではなかったらしい。

昭和30年代だったか40年代だったか(展示資料を読んだつもりだったが、あいまいな記憶しかない)坂東俘虜収容所に収容されていた元ドイツ兵から、
「坂東の町の様子はいかがですか?」
という手紙が届いたのをきっかけにして、この地とドイツの交流が始まり、現在につながっているのだという。
地元の人が、坂東俘虜収容所で亡くなった俘虜達の墓地の管理をしていたという事には、ドイツ側も感激したのに違いない。

                    

この坂東俘虜収容所に収容されていたドイツ人俘虜達は、帰国後もBANDOの名を冠した親睦組織を作り連絡を取り合っていというが、現在においては既に全員がこの世を去っている。

ところで、捕虜俘虜の違いがよくわからない。
広辞苑で調べてみると同意語として扱われているが、ワタクシにとっては捕虜という言葉の方になじんでいて、俘虜といわれてもピンと来ない。
ググってみたが、ほとんどの場合、同義語として扱われているのでさほど気にする事ではないのかもしれないが、国際条約上、第二次世界大戦以前は俘虜が正式な呼び方だったという違いがあるらしい。

外国においては、俘虜あるいは捕虜とは、全ての精力を戦闘に投入した結果として投降した勇気ある者達として扱われているのに対して、日本では敵に命乞いをした弱虫、というさげすんだ見方をされていたようだ。

それだけに、映画で描かれたようなこの坂東俘虜収容所での処遇は、当時の日本人の考え方からは少し異質な物だったらしいが、収容所の松江所長(実在の人物)の人柄と信念があったからこそだと思う。

ドイツ館の展示資料にも、
屋外作業の帰路に、「海に入って足を洗ってもよろしい。」という許可を出して、俘虜達を海で泳がせてあげた。
という記述もあった。
海水浴などさせて、逃亡や脱走の恐れさえも感じないほど、俘虜側とそれを管理する側の間に信頼関係を築いていたのだろう。

           

ドイツ館に展示されていた収容所の模型を見た限り、実際の坂東俘虜収容所は映画のオープンセットとは比べ物にならない広さだったらしい。
ドイツ館の近くに坂東俘虜収容所の跡地があり、そちらへも行ってみようかと思ったのだが、帰りのフェリーの時間が迫っていたので徳島港へと向かわなければならなかった。



(徳島港16時35分発のフェリーから)


BANDOロケ村を訪問

2006年11月27日 23時11分53秒 | 風景光景

讃岐うどんと瀬戸内の夕日を求めて徳島に渡った時映画『バルトの楽園(がくえん)』のロケ地だったオープンセットが、そのまんまBANDOロケ村として保存されている事を知ったのは、全くの偶然だった。
オープンセットが保存されているといっても、期限付きなのでいつまでも徳島に存在しているわけではない。
ついでというにはかなりの遠回りになったが、所用で西宮に立ち寄ったついでに、明石海峡大橋を渡って徳島県鳴門市まで足を伸ばしたのは、2006年11月14日だった。



          



映画のオープンセットという物を目にするのは、これが始めて。
建物を含めたセットそのものよりも、俘虜収容所のあちこちにさりげなくセットされていた、良く出来た小道具達の方に目が行ってしまった。

          

          


上の所長室でも、たくさんのリアルな小道具が使用されている。
これらは、全て映像の中に写っているのだろう。

          
 
製パン所では、まだ小麦粉の香りが充満していたし、材料の大豆油や鯨油の一斗缶もあり、いつでもパンが焼けそうなほどにリアルだった。
広いロケ村を一回りしてみよう。

          

          

           

             

          

          

          

                    

          


ん? ヒポポ大王? / あらふねライヴ(3)

2006年11月24日 14時35分55秒 | 音楽



あらふねでのライヴ中のトークで判明したのだが、茶木みやこは、30ン年以前に古座町で演奏した事があるのだそうだ。

女性2人組のフォークデュオピンクピクルスの頃に、古座高校の文化祭に招聘されたのだという。
当時、イナカの高校の文化祭にピンクピクルスを招聘したという生徒側(あるいは学校側?)の実行力にはちょっと驚くが、それに続いてもう少し驚いた事が、その文化祭の時、ピンクピクルスの控え室に自分のギターを持ち込み、そのギターにサインして欲しいとお願いに来た生徒がいたので、サインしてあげたのだそうだ。
その時の高校生が、その後、あの高名な『ヒポポタマスの遊び人』、通称『ヒポポ』を取り仕切る『ヒポポ大王』にと成長したのだという。

ここで、ワタクシが『ヒポポ』だの『ヒポポ大王』だのと、軽々しく、かつ気安く呼んでいるが、実は一度も『ヒポポ』に行った事など無い上に、当然、一度も『ヒポポ大王』にお会いした事も無いと言う事を自白しておかなければならない。
行った事は無いのだが、ある時、ヒポポのHP(Hなページの略ではない、ホームページの略である)にたどり着いてしまい、以来、このHP(Hなパパさんの略ではない、ホームページの略である)をブックマークしているのだ幸か不幸か、かつて有山じゅんじのHP(Hなピアニストの略ではない、ギター弾きでシンガーである)のリンクからたどりついたのだ。

この際だから、前々からブックマークしていた『ヒポポタマスの遊び人』のサイトをちょっとだけ探索してみた。
ヒポポは、自称ショットバーらしいが、ワタクシにとってはライヴハウスとして有名な店である。
いつか行って見たいと思いながら、交通アクセスを調べてみたが、電話番号は載っているがサイトのどこにも店の住所が掲載されていない。
何度チェックしてみても店の住所が載っていないが、マンガみたいな地図によると安治川口駅を降りるとたどり着くらしいから、此花区にあるのかな?
こんな風にして、30ン年前に茶木みやこヒポポ大王との出会いがあったために、この日のライヴの開催につながったのだそうだ。
当時のヒポポ大王の同級生達が、裏方として全面的に強力したらしい。
と言う事は、ヒポポに行った事が無いワタクシも、知らない間に当日のライヴ会場でヒポポ大王にお目にかかった可能性もあるわけか、、、、、、?


茶木みやこ & 桑名正博 / あらふねライヴ(2)

2006年11月23日 20時57分56秒 | 音楽



終演後、帰路を急ぐあまりにオープニングアクトで演奏した代田幸子のCDを買いそびれてしまった事を、やや反省中

その後、この日のメインの二人、茶木みやこと桑名正博が登場。

茶木みやこはは、女性フォークデュオ、ピンクピクルスの元メンバー。
結婚して子育て・主婦業に専念していたようだが、最近音楽活動を再開した模様。
ピンクピクルスと言えば、何よりもワタクシにとって衝撃的だったのが、『一人の道』と言う曲だった。
東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った悲劇のランナー、故・円谷幸吉を唄った曲で、始めて聴いたのは、ワタクシが中学生の時。
ラジオから流れてきたこの曲は、東京オリンピックのマラソン中継の音声から始まっていた。
最後の国立競技場のトラック勝負、42.195キロのマラソン競技もいよいよクライマックス、2位で国立競技場に入ってきた円谷幸吉のすぐ後ろに、3位のランナーが迫っているという緊迫した場面のNHKアナウンサーの実況中継に続いて歌が始まるという構成(これはシングル盤だけの演出だったのかもしれないが)も子供心に意外だったが、その後、円谷幸吉が自らの命を絶っていたという事も知っていただけに、さらに強烈な印象を与えてくれた曲だった。

円谷幸吉メモリアルホールのオープニングセレモニーでは、茶木みやこが一人の道を唄ったのだそうだ。

休憩をはさんで、桑名正博の登場。
ガットギターとスティール弦ギターを使い分けながらの弾き語り。
ファニーカンパニーの時は、カッコ良かったし、ギターも唄も上手かったなぁ。
今でも唄は上手いけど、ヴォーカルの節回しに独特のイントネーションと言うかクセがあって、そのあたりはあまり変わっていないかも。

しかし、ふた昔ほど前、芸能レポーターに追い掛け回されてはキレまくっていたというイメージが未だにワタクシの頭から抜けない。
まずい事に、桑名正博の演奏中にちょっとしたPAトラブルが発生して、桑名正博がいつキレまくるのかとハラハラしたのだが、終始、温和な笑顔を浮かべながら落ち着いていたので安心、安心。
茶木みやこと桑名正博とのパッケージングでのライヴ活動の機会も多いようで、第2部の終盤には、再び茶木みやこも登場してのデュオ演奏となった。
この日は、桑名正博の次男が同行していて、途中でこの次男が1曲唄った。
さらにアンコールのセクシャル・バイオレット・ナンバー・ワンの途中からも、再度、桑名次男がワイヤレスマイクを手に、唄いながら客席を回っていくと言う、なんというか高嶋ファミリー勢ぞろいディナーショーを連想させるような演出もあり、ちょっと親バカぶりが目に付いたが、まあ、アコギ弾き語りの月の明かりを聴けただけでも大満足だった

ところで、この夜、茶木みやこのライヴ中のトークから、ワタクシにとってはちょっと意外な真実が語られていたので、その件は次回に


オープニング・アクトにブッ飛ばされた夜 / あらふねライヴ(1)

2006年11月19日 22時44分51秒 | 音楽



いやぁ~、参った、参った。

なんといっても、オープニングアクトで3曲だけ唄った代田幸子(だいたさちこ)。
失礼ながらワタクシにとっては名前すら聞いた事もなかったシンガーで、この苗字をいったいどう読むのかさえも知らなかった。
オープニングアクトというから、てっきり地元のアマチュアが出てくるんだろうと思い込んでいたのだ。
代田と書いてだいた、、、、、、そう、そう、だいたひかるとかいうピン芸人がいたなあ。
あの人の本名も代田だった。

しかし、最近、TVのお笑いシーンではピン芸人とやらが売れているそうだが、ヤツらの一体どこが面白いのかがワタクシにはサッパリわからない。
ヒロシは認めよう、ともかく。
ヒロシはともかくとして、あの一世を風靡した感のあったギター侍のどこが面白かったんだ?
当時は、渡辺美里までもが、ライヴ中のMCで、「ギター侍に斬られてみたい」などとのたまっていたというのに、何処へ行っちゃったんだろうか?
今は?
ギター侍ったって、ギター下手クソだったし、、、、、、、
あんなの一人くらい消えてしまったって、大勢には影響が無い。
あっ、ギター侍よ、すまん。まだ生き残っているんなら、笑って許してくれ。
その上、陣内ってのもサッパリわからん。
なんで、ヤツが藤原紀香となのだ
もっとも、ワタクシは藤原紀香になんぞ興味はないがね、、、、、、、、
ともかく、ヒロシは、別だ、ヒロシは。例えどんな風に姿形を変えてでも、なんとしてでも第一線で生き残って欲しいものだ。

かように、ピン芸人の芸風にはなじめないワタクシだが、代田幸子この人の唄には、ホントに参った、、、、、、
危うい所で、オープニングアクトの3曲目で、ボロボロに泣かされてしまう寸前だった
1曲目にYou've Got A Friendを唄っている間は、「この日本語の歌詞は、この人が書いたんやろうか?」「やはり、女の子は、JTじゃなくてキャロル・キングの You've Got A Friend から入るんやろうねぇ。」「そうか、そうか、キャロル・キングの方がオリジナルだったんや。」などと、聴いているワタクシにもまだ心の余裕があった。
2曲目は、間奏でピアノを弾きながらカズーを吹いていたちょっと軽快な唄。
そして、問題の3曲目がおばあちゃんの唄。「近くの老人福祉施設で暮らしている、私のお婆ちゃんの事を唄った唄です。」と、前置きがあって唄いだしたこの唄の内容はというと、

ウチ(関西の女性が自分の事を指す時の一人称)の髪の毛が、どうして(流行の)茶色や赤い色にならないのかという訳を、少しだけお話します。
ウチのお婆ちゃんは、ウチの名前もわかりません。
だから、髪の毛の色が変えてしまってウチが変わってしまったら、お婆ちゃんには、余計にウチの事がわからなくなります。
ウチが会いに行っても、この子どこの子やろ?っていう顔でウチを見ています。
でも、時々、ウチを見て笑ってくれます。
ずっとずっと長生きして下さい。
ずっとずっとそばにいて下さい。
ずっとずっとここにいます。
ずっとずっとそばにいて下さい。

著作権問題に気をまわしたわけではないが、しょせん、ワタクシの記憶力などこんな物だ、今となっては正確な歌詞を再現できない。
もっと本格的な大阪弁の歌詞だったが、だいたいこういった意味の唄だった。
もちろん、静かなバラードだ。
2コーラス目は、ウチがどうしてあまりお化粧をしないのか、少しだけお話します。
という表現で始まり、やはりお化粧をしてウチが変わってしまったら、お婆ちゃんには、余計にウチの事がわからなくなります。
というふうにつながっていく。
なんという事だ、1コーラス目のサビの部分あたりで、グッときてしまった。
ワタクシの周囲の客席でも、誰かが泣いている気配がしていた。
その気配につられまいと、我慢した。
2コーラス目のサビをリフレインする頃には、ワタクシは、一生懸命に天井を見上げて、ひたすら泣かないようにうんとうんと我慢しなければならなかった。
2コーラスとサビのリフレインから成る曲だったが、もしもこの曲に3コーラス目があったとしたら、もしもあと1分20秒くらい長く唄われていたとしたら、完璧にボロボロにされていた事だろう。
前置きのトークで、
「お婆ちゃんと離れて暮らすようになってからの方が、家族なんだなぁというつながりを感じるようになった。」
と言っていた理由がわかるなぁ、、、、、、、
この人の場合は、孫とお婆ちゃんの関係だが、ワタクシの経験からも。
ピン芸人とオープニングアクトに文字数を費やしてしまったので、茶木みやこと桑名正博、メインのお二人については、次回に


ULTRA TRIO

2006年11月04日 10時43分01秒 | 音楽


リキヤ(東原力哉)のドラムセット


リキヤ(東原力哉)のドラムスとシミやん(清水興)のベースのコンビネーションを聴きに行ったっちゅうのに

どこのどなたかは存じませんが、
アンコール1曲目に出てきた兄ちゃん、
アンタのダラダラした唄を聴かされるような時間があるんなら、あと1曲ウルトラトリオの演奏を聴けたはずなんやけど