lizardbrain

だらだらぼちぼち

慷月調

2018年02月02日 12時18分27秒 | On My Side

戦争映画を、あるいはTVドラマを観ている時、戦場での戦闘場面が出てくるたびに、ついつい思ってしまう事がある。
例え、その映像が現実以上にリアルなCGを駆使した臨場感あふれる物であろうと、それとも、いかにも安っぽいハリボテのセットで撮影された物であろうと、ついつい思ってしまう事がある。
「自分は、決して、こんな所で死にたくない!」と。

まずワタクシの父親の兄弟の構成を説明しておく。

長男A伯父・・・・・・・・・・大正4年生まれ
次男B(ワタクシの父親)・・・・大正8年生まれ
三男C叔父・・・・・・・・・・大正11年生まれ
長女D叔母・・・・・・・・・・大正12年生まれ

このうち、
長男A伯父、次男であるワタクシの父親、三男のC叔父は既にこの世を去り、今や昔の記憶をしっかりと語れるのは末っ子のD叔母一人である。

この話の発端は2005年だった。
その年7月に神戸市に住むA伯父が亡くなった。
ワタクシの父親である次男Bは随分前に亡くなっていたが、その時点ではC叔父は健在だった。
仕事の段取りがつかず、通夜、告別式から10日ほど遅れて8月初旬のお参りとなった。
その日も、A伯父の娘さん(つまりワタクシの従姉妹)が、待ち合わせ場所の三ノ宮駅からA叔父宅まで案内してくれた。
A伯父の連れ合いである伯母は、その当時はまだ元気に一人暮らしをしていた。

A叔父宅で、従姉妹が、祭壇に供えられていた何枚かの写真を見せてくれた。
ほとんどの写真は、近年入院がちだったA伯父の病院やホスピスで見舞いの孫達に囲まれたスナップ写真だったが、その中から1枚だけ古いモノクロ写真が出てきた。
その写真では、A伯父が、幅の広い白いたすきをかけていた。
たすきには、A伯父の名前が大きく書かれていた。
戦争を扱った新聞記事や映画やTVドラマなどで、よく似たシーンを見た事がある。
A伯父が出征する時の写真だった。
写っているのは5人。
A伯父の隣に日本髪で着物姿の伯母が、そしてA伯父の弟妹。
だから、若かりし頃のワタクシの父親も写っていた。
という事は、前列でセーラー服を着た女学生は末っ子のD叔母だろう。
全員の表情が硬い。
特に、D叔母の表情は、あきらかに不機嫌に見えた。

従姉妹は、この写真をこの時初めて見たらしく、そばにいた伯母(A叔父の妻)に
「どこにあった写真なのか?」
と訊ねたが、記憶力が衰えてきたようでよくわからないようだった。
ワタクシは、デジカメを持っていた事をすっかり忘れていた。
A伯父宅を辞した後、この出征写真をデジカメで撮っておけば、父親の弟妹達に見せる事ができたかも、、、、、と少し後悔した。

ところが、その後、同じ年の10月の事だ。
翌月に母親の三回忌をひかえていたため、散らかっている拙宅の中を少しでも片付けておこうかとボンヤリ考えている時、居間の箪笥の上に置かれた古いアルバムが何冊か、埃をかぶっているのが目に留まった。
いつからそこにあったアルバムなのか?
たぶん随分と長い間その場所に置かれていたために、居間の風景の一部になってしまっていたのだ。
過去に何度か中身を見た事があるが、さほど大事な写真があったようには記憶していない。
ただ古いだけ、なんという事もない父親のアルバムだが、こんな所に放り出しておかないで、本箱の引き出しの中にでもしまっておこう、、、、、、

掃除機で軽く埃を吸い取って、引き出しの中にしまうためにアルバムを持ち上げた時、、、、、、アルバムの中から、ハラハラと3枚の写真が、剥がれてしまったのか、畳の上に落ちた。
そのうちの2枚は、どこで撮ったのかよくわからない古い風景写真だった。
だが、あとの1枚には、A伯父が大きく自分の名前が書かれた幅広の白いたすきをかけて、一人で写っていた。
間違いなく、8月にA伯父宅で見せてもらった写真と同じ時に撮られた物だ。
アルバムを開いてみた。
剥がれた写真があったページには、何と、8月に神戸のA伯父の祭壇の前で見せてもらったのと同じ写真が、、、、、、、
A伯父夫妻とその弟妹達が写っている出征時の写真があった。
そのページの台紙には、見慣れた父親の筆跡による、こういう書き込みがあった。

昭和15年 兄A 大君に召され鹿児島へ

他にも、同じ時に撮られただろう写真が何枚か貼られていた。
A伯父の弟妹ではない人物が、一緒に隣に写っている写真も何枚かあった。
ワタクシの知らない親戚か、それともA伯父の友人だろうか?
その前後のページには、ワタクシの父親やA伯父の兄弟達の若い頃、いや、幼児を抱いた祖母と一緒の幼い頃の姿もあった。
さらに、A伯父と同じ時期ではないと思うが、末弟のC叔父が出征する時の写真も。
ちなみに、ワタクシの父親は、徴兵されなかったので兵士としての戦争経験は無い。
子供の時に聞かされた話では、父親はどこか体力的に劣っていたようで、徴兵検査に合格しなかったのだと言う。

そこで、この写真の件を電話でD叔母に話してみたところ、ぜひ見たいと言った。
D叔母が嫁ぐ以前に暮らしていた神戸の祖父の家は、昔、火災に遭ったため、自分の若い頃の写真はほとんど手元に残っていないのだと言う。

父親から聞いていた若い頃の話や、今回のD叔母の断片的な話を総合してみると、父方の祖父は、神戸で金物(鍋、薬缶、食器類の事か?)の卸問屋を営んでいたらしい。
祖父は、時に、商談のため北海道あたりにまで足を伸ばしていたそうで、なかなか手広い商売をしていた様子だ。
もしも、そのまんま継続して手広く商売を続けてくれていたらば、ワタクシももう少し贅沢に暮らしているのかもしれない。
(いや、そうなると、ワタクシはこの世に存在すらしていない可能性のほうが大きいのだが)だがある日、紙問屋を営む隣家から出火した火事で祖父宅も類焼したらしい。

その火事で、経済的なダメージを受けたのだろう。
それをきっかけに金物の卸問屋をやめて、同じく金物を扱うのだが小売業の方に専念する事にしたらしい。
それまでは、A伯父、ワタクシの父親、C叔父の男兄弟3人も祖父を手伝いながら卸問屋をしていたのが、小売業の方は祖父と長男のA伯父が引き受け、父親とC叔父は別の職業に就いたようだ。
この時の火事のせいで、D叔母の手元には若い頃の写真がほとんど残っていないのだと言う。

では、どうしてワタクシの父親の手元に昔の写真が残っていたのか?
おそらく、祖父宅が火事に遭う前に、父親は神戸の実家を出て独立して住んでいたのだろう。
火事に遭ったという事情であるならば、A伯父やC叔父達の手元にも、昔の写真はさほど残っていないはずだ。
父親が一人で写る物を除いて、その兄弟達が写っている写真を、写っている本人である伯父・伯母達の元に返すべきだと思った。

丁度、ワタクシの従兄弟であるD叔母の次男と会う機会があったので、この従兄弟にA伯父やC叔父やD叔母達が写っている写真を手渡しておいた。
とりあえずD叔母に写真を見てもらって、近いうちにいずれ機会を作ってA伯父宅とC叔父宅へ行くつもりだと言っていたので、その時に写真に写っている本人達に返してもらう事にした。
それで、この話は一区切りつくはずだった。

だが、さらにその後日、
同じ頃の、別の写真に遭遇した。

前述した、居間の箪笥の上に置いてあったアルバムは1冊だけではなく、全部で4冊あった。
A伯父出征の写真が貼られていた父親のアルバムには、最初のページから最後のページまでびっしりと写真が貼られてあった。
それに比して、残りのアルバムに貼られている写真の枚数は少なかった。
新しいアルバムを使い出したものの、その途中で、父親の手持ちの写真が尽きたのかもしれない。
それとも、写真を整理すると言う行為を放棄したのだろうか?
その気持ちはわかる、何事であろうと整理すると言う事は面倒くさい物だ。
さすが、血は争えない。

さらに、残りのアルバムにも目を通してみた。
1冊につき3~5ページくらいしか写真は貼られていなかったが、その中の1枚にA伯父の姿があった。

ここはいったい、どこなのだろうか?
雑草が繁った草地に、墓標が立っている。
墓石ではなく、墓標。
墓標に書かれた文字も、はっきり読み取れる。
その前に片膝をついている兵士が2人。
一人はA伯父。
A伯父は、墓前で尺八を演奏している。




上の写真が、それ。
縦68mm、横97mmの小さなモノクロ写真。
A伯父達の背景にボンヤリと、柱のような物がずらりと写っている。
鉄条網が張り巡らされた柵の杭なのか?
それとも、A伯父達の後方に立っているこれらもまた、墓標なのか?




この写真をアルバムから剥がしてみると、裏面には、A伯父の筆によるらしい文がある。
A伯父は、写真の裏にこう書いている。

○月○日 ○○に於いて
大陸に永遠に骨を埋める戦友よ
君の勲は俺たちが引き継いで逝くぞ
無駄にしないぞ
君が好きであった
慷月調のしらべを聴いてくれ

A伯父は、若い頃から尺八の演奏が趣味、いや、趣味の域を超えた実力を持っていたようで、和歌山県下津町にある、虚無僧寺として有名なお寺へも何度も訪れていたようだ。
自分の娘達や、弟妹達の子供達(A伯父にとっての甥、姪達)の結婚式には、必ず尺八の演奏で祝福したようだ。
「慷月調のしらべを聴いてくれ」とある慷月調とは、尺八で演奏される曲の名前のようだ。
慷月調の「慷」は、見慣れない文字だが「りっしんべん」に健康の「康」と書く。
だから、「慷月調」は「こうげつちょう」と読むのだろう。
この写真に一緒に写るA伯父達二人と、若くして命を落とし墓標に眠る戦友、、、、、、、、、、
親密な友人だったのだろう。
よほど気が合う永年の親友だったのか、もしかすると、A伯父と尺八の趣味も共有する友人同士だったのかもしれない。
「○月○日 ○○に於いて」と、年月日と場所を伏字にしているが、軍による検閲のため日時と場所は書けなかったのだろう。
いつだったか、第2次大戦時の明治神宮における学徒動員の出陣式の模様をラジオで実況した録音をTV放送で聞いた事があるが、その時も「○月○日、場所○○、天候○○、、、、、」とアナウンサーが実況していた。
天候まで伏字にするわけは、敵軍(アメリカ軍)にラジオ中継を傍受されると、現地の天候が知られてしまい、空爆のきっかけにつながりかねないからだという。

では、いつの写真なのかというと、この写真が貼られているアルバムの台紙に、父親の文字で昭和15年とある。前述した、A伯父の出征時に5人が写った写真の横にも、父親の書き込みがあった。
これも、昭和15年だった。
A伯父が出征したのも、亡き戦友の墓前で、尺八で「慷月調」という曲を演奏したのも、どちらも昭和15年、、、、、、、、、時期的に、どちらが先なのだろうか?
この時、A伯父は25歳。
昭和15年、、、、、、、この頃、どういう戦況だったのだろう?

その程度の事は、小学校か中学校の社会科で習ったはずなのだが、、、、、
真珠湾攻撃により、日本が太平洋戦争に突入したのは昭和16年12月8日。

では、この写真はどこで撮った物なのだろう?
「大陸に永遠に骨を埋める」
とあるので、この「大陸」とは満州か?それとも中国か?
撮影されたのは日本のどこかの日本軍の基地、A叔父が出征し最初に赴いたらしき鹿児島なのだろうか?
どこだ、、、、、、?

ここまで書いてきて、根本的な疑問が沸いてきた。
この写真を撮ったのは、いったい誰なんだろうか?
父親のアルバムには、父親が一人で尺八を吹いている姿も残されている。
だが、父親の遺品には、尺八あるいはそれに関するものは全く残っていなかった。
その昔、兄であるA伯父の手ほどきで尺八を習ったものの、身に付かなかった、、、、その可能性が高い。
身に付かない、、、、、、ワタクシにとってのギターと同じか?
さすが、血は争えない。
父親の遺品といえば、かなり古い型のカメラがあったはずなのだが、いったいどこへ行ってしまったのだろう、あの蛇腹型のボディのカメラは?
そうそう、きっと父親には多少なりともカメラの知識があったのだ。
もしや、父親は、この墓標に眠るA伯父の戦友とも、A伯父を通じて面識があったのかもしれない。
A伯父と一緒に写るもう一人の人とも、面識があったのかもしれない。
ワタクシの父親がA伯父達に同行して、この写真を撮影した可能性もある。
今となっては、それを確かめるすべも無い。




墓標の前の写真が貼られていた近くに、台紙に書かれた、父親の筆跡による一文がある。

慷月調
君が墓標に
奏するも
我が瞼には

消えぬおもかげ


親友を亡くして、悲嘆にくれている兄の心情を想ったのだろうか、、、、、



A伯父。
都山流尺八奏者、鋭山。
1915年(大正4年)  生。
2005年(平成17年) 没。
穏やかな人だった。
お酒が好きで、1日の終わりには少しの晩酌を欠かさない人だった。
酔うといつもにこやかで、良い酒を飲む人のようだった。
たとえ酔った時でも、家族の前では戦争の時の話は一切しなかったそうだ。

2005年当時、最初にこの記事をアップした時にコメントを寄せて下さった方がいた。

心からお礼を申し上げたい。
偶然にも生前のA伯父と面識があった方のようだが、そのコメントはうっかりと消えてしまった。


そのコメントによると、『慷月調』とは、都山流本曲で「冴え渡る秋の月を仰ぎ、胸中の嘆きを感情の赴くままに表現した曲」だという。



2000.11 神戸 (1) 

2007年02月19日 14時52分59秒 | On My Side

1999年2月、
母親が脳出血を患った。

この頃の事を話したくて、ストーンズのナンバーからタイトルをパクったTIME IS ON MY SIDEというカテゴリーを立ち上げた。

この頃の事は、時にはあまり口に出して言いたくなかったり、また逆に、時には山ほど言いたい事が浮かんでくるものの、どこから話し始めればいいのかというきっかけがわからない。
どこから始めればいいのかがわからないので、どこで終わればいいのかもわからない。
とりあえず、このカテゴリーについては、今回のエントリーで一応のピリオドを打とうと思う。



今回のテーマは、
ワタクシが、現在のようにコンサートあるいはライヴ観戦に熱を入れるようになったきっかけを与えてくれたのであろうジャズシンガーについて。
というのも、幸か不幸か、このジャズシンガーの生演奏を聴いてしまった事が、ワタクシの行動パターンがすっかり変わってしまうきっかけになってしまったのだ。



あれは、1996年だったか、97年だったか、98年だったか、、、、、、、?

深夜のドキュメンタリー番組が、大阪・神戸方面のライヴハウスで唄っている女性ジャズシンガーを追跡していたのを、偶然にも観てしまった

そのドキュメンタリー番組の内容について、ワタクシの記憶にある事柄を記そうと思うのだが、いかんせん、あれから8年ほどの月日が経過している。
これから書く事が番組の中で伝えられていた事なのか、あるいは、その後に、ライヴでのMCや紙媒体のインタビュー記事などで知った事なのか、そのあたりの区別が判然としない点もあるが、記憶違いをしていたらばお許しいただくとして。

TVカメラが追っていたのは、決して若い女性シンガーではなかった。
アメリカに渡り、アメリカ人と結婚し、長男を出産した後に日本に帰ってきたアグレッシブなシングルマザーだった。
神戸に戻り、パートタイムの仕事や、ジャズヴォーカル教室で指導しながら、ライヴハウスで唄っているシンガーだった。
年齢的には、ワタクシより1歳年上で、乳癌の手術を受けた後の抗がん剤治療の副作用が喉に現れたために、一時は声が出なくなってしまったのだという。
そのドキュメンタリー番組の収録時点では、喉の方は回復して、唄えるようになっていたようだったが、定期的な検診は欠かせず、いつまた声が出なくなるかわからないという状態だったらしい。
声が出なくなってしまうと、唄う事は出来ない。
日々、シンガーにとって、一番起きて欲しくない不安と戦っているのに違いないのだが、TV画面の中のジャズシンガーの表情は、決して暗くはなかった。
そして、そのジャズシンガーが発する言葉も常にポジティブで、
「声が出なくなったらどないしよう、って考えてみてもしゃあない。そん時は、今やってる給食のオバサンでも、ピアニストでも生きていけるやんか。」
と言う趣旨の発言をしていた。

世の中では、何かにつけてポジティブ・シンキングポジティブ・シンキングと取りざたされているが、ワタクシ自身は、何事かの不安がある時にポジティブ・シンキングが出来ない人間である。
あくまでも個人的な経験則として、その逆に、ネガティブ・シンキングをした方が事態が楽に進む事の方が多いのだ。
例えば、自分の健康状態に何かしら気になる事があるとする。
「な~に、大した事では無いさ。」
と楽天的に考えた時よりも、
「もしや、悪い病気ではないだろうか? 悪い病気では無かったとしても、長引く病気ではなかろうか?」
と眠れないほど心配した時の方が、検査を受けた後の診断結果は、大した心配をする症状ではない事の方が多い。
最悪、あるいは、最悪に近い事態を想定しておいた方が、現れる結果は悪くは無いように感じられるのだ。
ワタクシの場合、ポジティブに楽天的に考えていて、悪い結果が出た時の気分的な落差は大きいと思う。
そういう性質の人間から見ると、彼女の思考法は驚きだった。

声が出なくなると言う不安だけでも充分に大きな物だろうが、その原因となった病気に対する不安とも戦いながら、こういった思考法を取れるという人物のパワフルさにも驚いたが、そのシンガーがピアノを弾きながら唄う、ライヴハウスでの演奏シーンにはさらに驚いた。
何や、このオバサン 
こんなにも唄える人が、なんでパートの仕事をしながら小さなライヴハウスで唄ってるんや 
日本にも、メジャーではないのに、こんなどエラいシンガーがおったんか

という感想を持った。

おそらく彼女の自宅でやっていたのだろう、ジャズヴォーカル教室のレッスンシーンでは、生徒に対する指導は厳しくて、
「アンタが今唄ってる、『I LOVE YOU』っていう言葉は、いったいどこの誰に向かって伝えたいんや? 今目の前におる人に向かって『I LOVE YOU』って言いたいんか? ここやのうて大阪におる人に向かって『I LOVE YOU』って言うてるんか? 東京におる人に向かって『I LOVE YOU』って言うてるんか? ニューヨークにおる人に向かって『I LOVE YOU』って言うてるんか? それを浮かべながら唄うてるんか? 
今のアンタが唄った『I LOVE YOU』は、この部屋の壁にも届いてへんで!」

このレッスンのシーンを観たワタクシからすれば、
「教わる方は当然アマチュアで、教える方も、お世辞にもシンガーとしての確固たる実績を経ているとは思えないわけで、何もそこまで厳しくボロクソに言わんでもエエのに、、、、、、、、
レッスン料による収入も生活の糧にせんといかんのに、そんなに厳しい指導してたら生徒なんか集まらんのとちゃうやろか?」
と思ってしまった。
今から考えるに、この時にレッスンを受けていた女性には、これだけの厳しい指導をしてもそれを消化して、尚伸びて行くくらいに深い将来性が見込まれていたのだろうが。
そして、そのレッスンの最中に彼女が唄った唄は、確かにその部屋の壁を越えて、目の前にはいない誰かに向かって『I LOVE YOU』の気持ちを届けているように聴こえた。

このドキュメンタリー番組は、彼女が自主制作した(2枚目だったか、3枚目だったか?)CDが完成して、それを持ち込んでライヴハウスで唄っているシーンで終わっていたような記憶がある。

いつまた声が出なくなるかもという抗がん剤の副作用の事も、その症状を引き起こした元凶である乳癌という病気の事もあり、相対的な印象としては、彼女の将来にあまり明るい見通しを感じさせないイメージを通奏低音として暗示させながら作られていた番組のように、ワタクシは感じていた。
ドキュメンタリー番組のテーマは、『癌と戦うジャズシンガー』として扱われていた。
もちろん、彼女が持つ音楽性とは全く関係がない、『癌と戦う、、、、云々』というテーマについては、番組の作り手サイドが付けた物であって、決して、彼女自身がそう扱って欲しいと望んだわけでは無いだろう。

今と比べると、当時のワタクシは、コンサートホールあるいはライヴハウスなどの現場に出向いて音楽を聴くという習慣を持っていなかった。
その上、(そのジャンルはともかく)メジャーレーベルからアルバムを出していなくて、小さいスペースでこつこつと音楽活動を続けているミュージシャンに関する情報など知る術もなかったので、その女性シンガーの事は、そのドキュメンタリー番組を観て初めて知ったのだった。

だが、彼女の事も、彼女の名前すらもすぐに忘れてしまった。
それどころではない事態が、ワタクシを待っていたのだ。


しばらくの後、
そう、99年の2月。
最初に触れたように、母親が脳出血を患った。
手術を受け、療養生活に入り、やがて、その介護のためにワタクシ自身が1年間仕事を休む事になった。
色んな経過があって、母親が老人保健施設に入所し、ワタクシの負担が軽くなったのが、2000年の4月。

こう言っては母親に悪いが、
母親がいる老人保健施設への面会は欠かさないようにしながらも、外の世界を出歩く事ができた。
それまでの、家の中に閉じこもり気味で、娯楽と呼べるのはTVくらいで、書店やCDショップを冷やかして歩く事など夢のまた夢の状態の生活から、抜け出す事が出来た。
何につけても、久しぶりに時間を気にせずに寄り道して、一人で自由に外に出られる事が新鮮だった。

ある日、
書店で音楽雑誌をパラパラめくっていると、『40歳を過ぎてデビューして、たちまち大人気となった女性ジャズシンガー』の記事が目に留まった。
ある時、
家でFM放送のジャズ番組を聴いていると、これまた『40歳を過ぎてデビューして、たちまち大人気となった女性ジャズシンガー』という要旨で紹介されているシンガーがいた。
そして、またある日、
レンタルビデオ・CDショップを散策していると、狭っ苦しいジャズコーナーに、目を惹くポップ広告をディスプレイして、聞いた事があるような無いような名前のシンガーのアルバムが並べられていた。

驚いた事に、

そのシンガーが、

以前に、深夜のドキュメンタリー番組に出ていたジャズシンガー、綾戸智恵だったのだ





1999~2003 さくら

2006年04月09日 12時59分28秒 | On My Side
今年も三角公園の桜が咲いている。

          

1999年2月、当時76歳だった母親が脳出血を患った。
国立病院で開頭手術を受け、入院した。
左の後ろ側の脳出血だったが、幸いな事に、全身あるいは半身麻痺などの重篤な症状ではなかった。

実際に体験してみるまでわからなかったのだが、今の医療では、長期の入院を拒む傾向にある。
最初に入院した国立病院では、当初は3ヶ月の入院治療を要するという治療計画だったのだが、ほんの1ヶ月ほど経った時点で「脳神経科的に言うと、治療は終わっているので退院して下さい。」と、主治医に言われた。
その時点では、日常生活ができる所まで回復していない状態だったのに、「医学的には治療は終わっている。」と言われたのを、なんとか2ヶ月の入院まで引き伸ばした。
後遺症が改善されるまで入院治療を受けられると思っていたので、いきなり退院してくれと言われても自宅では受け入れ態勢も整っていない。
別の街で医者をしている同級生のコネを使い、言語療法というリハビリを目的に隣町の病院に転院した。
周囲からは、特養ホームなどの老人施設に入所を、という事も言われたのだが、老人施設に入所する必要があるほどの重い後遺症には思えなかった。
この頃の母親の状態は、右目の視野狭窄、右手足が少し動きにくい事、そして「読む、書く」が思うようにできなくなる言語障害、、、、、、、、
一見すると普通に話せるのだが、本人が意図した単語とは違う言葉が口から発せられる事が多く、何を言いたいのかがわかる時とわからない時があった。
自身あるいは家族に脳出血や脳梗塞を患った方もおいでだろうが、脳のどの部分にダメージを受けたかによって、その人その人によって現れる症状は違ってくる。
ここで詳細に説明してみても簡単にはわかってもらえないだろうが、色んな事が自分では出来ない状態だった。

このように、一人で日常生活が出来る状態ではないが、時間の経過により改善される希望もありそうに感じられた。
実際、転院した隣町の病院の中では、同じ部屋で入院している他の重い症状の患者さんの世話をするところまで体の動きは回復していた。
自宅で生活するという事もリハビリにつながり、少しでも自分でできる事が増えてくれれば、と考えて、隣町の病院を退院したのが6月末。
最小人員の家族構成のため、ワタクシが介護休職を取って1年間仕事を休み、言語療法などのリハビリに通院しながら、自宅で生活しながら様子を見ることにした。

こうして、1999年7月から1年間の介護休職生活に入った。
介護休職すると、給与・賞与は全く無く、厚生年金、健康保険、雇用保険の本人負担分と同額の「介護休職手当」という手当が出るが、これは支給と同時に給与から引き去られる物なので、毎月の手取り額は全くのゼロとなる。
ローンなど抱えている人には、支払い義務だけがのしかかってくる。
介護休職で仕事を休んだ、と言うと、決まって周囲からは「親孝行な良い人だ」という反応があるが、実際の所、いつまでも入院し続ける事ができないうえに老人施設への入所をなど考えていなかったため、休職する事しか方法は残っていなかったのだ。
このあたりの事情もまた、他人には理解してもらえないかも知れない。

1回につき30分程度、週に4回、隣町の病院での言語療法や作業療法のリハビリを受けるためにクルマで通院した。
この他に、家でワタクシがやっていた事というと、食事や入浴の時に世話をする、、、、、というよりも、見守る事が主な仕事だった。だから、決して介護したとは思っていない、介護の真似事をしただけなのだ。
隣に住む叔母の手伝いも受けた。
病気の老人と一緒に、ほとんどの時間、家の中に閉じこもるという事は、予想以上にストレスが溜まるものだった。
そこからきたのだろう、肩こり、頭痛にも悩まされた。
リハビリに通院するための外出が、自分にとっても良い気分転換になった。

自宅に戻った当初は、不自由な事もありながらも、少し手伝ってあげると意外と色んな事がこなせる様子で穏やかに過ごしていた。
相変わらず、読む、書く事、あるいは料理したりといったいわゆる「知的作業」は出来なかったが、脳出血という大病を患った後だ、病気になる前の状態に戻れるなどとは期待していなかった。周囲の見守りがあれば生活できる状態に回復できればなぁ、、、、、、と思っていた。

          

が、11月頃から、時々、夜中に起き出してはワケのわからない事を言い出だす事が多くなってきた。
母親にしか見えない誰かが、何やら母親に話しかけているようだった。
こうなってくると、脳出血の後遺症というよりも、認知症(当時は痴呆と呼んだが)による妄想と考えられた。
精神科の投薬治療を受けても妄想はおさまらず、夜、昼を問わずにワケのわからない事を大声で口にしては、今にも暴れだしそうな勢いを見せるようになった。
といっても毎日ではなく、機嫌のよい時は、ごく普通に穏やかにしていた。
年を越して翌2000年になっても、母親に妄想が現れる頻度は徐々に高くなり、その頃から立ち上がったり歩いたりという動作も思うように出来なくなってきたために、ワタクシ自身は、ほとんど眠らせてもらえない日が多くなった。
このままでは、共倒れになってしまう。
新聞に目をやると、介護疲れによる心中事件の見出しが、イヤでも目に付くようになってきた。

介護休職の期限が6月いっぱいまであるとはいっても、その後の生活の見通しは全くつかない。
体の方は健康そのもので、どこかの病院に再度入院できる見通しも無い。
入院できたとしても、それは解決策ではなく、再び3ヶ月ほどすると退院を迫られるのは目に見えていた。

こうなってくると、老人介護施設への入所を考えざるを得ないようになった。
入所を希望した所で、半年あるいはそれ以上の入所待ちしなければならないのは目に見えていたが、申し込んでおかなければいつまで経っても入所できない。
3月になって、4箇所ほどの老人介護施設の入所申し込み手続きをした。
どの老人介護施設で尋ねたところで、いつ入所できるのかがわかるはずも無く、待つしかなかった。
最低でも半年、あるいはそれ以上の自宅待機が予想された。
介護休職期限が切れる7月になると、仕事に復帰しなければならない。

7月以後、どうすれば良いのか、、、、、、?
考えられる事は3通りしかなかった。

24時間体制で、家政婦さんに来てもらう。
その年から新たに始まる介護保険を使って、老人施設のショートステイを利用し、足りない日数分を実費でショートステイする。
仕事を辞めて、自宅で介護の真似事を続ける。

果たして、24時間体制で来てもらえる家政婦さんっているのだろうか?
どの方法を取っても、経済的には大変な事態になる。
が、他に方法がなければそうせざるをえない。

あれこれ考えていても結論は出ないまま、4月になった。
初旬に、ある老人保健施設から「空き部屋ができたので、入所できますよ。」と、電話があった。
この年の4月から始まる介護保険について、当初は、行政側、施設側、利用者側、それぞれにとまどいがあったようだ。
介護保険制度が開始すると入所費用が高くなる、と考えた方が退所したので空き部屋が出来たという事情のようだった。
この老人保健施設に申し込んでから、なんと2週間ほどで入所する事ができた。
これは、まさしく奇跡的なタイミングだった。

母親が老人保健施設に入所した後、(こう言っては申し訳ないが)これで熟睡できると思った。
しかし、30分ほど眠ってはすぐに目が覚め、1時間ほど寝付けずに、さらにウトウトと20分ほど眠ってはすぐに目が覚め、、、、、、
母親が家に居た時に、夜中に何度も起こされて、ほんの少ししか眠らせてもらえなかった事が体にしみついてしまったのだろう。
睡眠障害にかかっていた。
自分の生活リズムが戻るまでには、半月ほどかかった。

母親の方はと言うと、老人保健施設で生活するという環境の変化に慣れるまでは1ヶ月ほどかかったようだったが、それ以降は落ち着いていた。
しかし、2002年頃から、再び、母親にしか見えない誰かが現れるようになり、職員さんを煩わせる事が多くなった。
認知症に対応できる体制にある、という別の特養ホームに転所する事になった。

最初の老人保健施設にいた時も、特養ホームにいた時も、必ず、週に最低でも2回は面会に行った。
「見捨てられた。」と思わせないように。

特養ホームに転所した後、『慢性閉塞性肺塞栓』という肺機能が低下する病気で5日間入院した。
退院後、再びホームに戻った頃には、ほとんど自力で歩いたり立ち上がったりはできなくなっていた。
2003年11月に、再び体調がすぐれなくなり、2度目の入院となった。
いつの間にか脳梗塞が進行し、意識がない状態に陥っていた。
11月20日の夜、「呼吸が停止した。」と、病院から電話があった。
原付スクーターで病院に向かう途中、国道を横切る交差点の信号は赤信号だった。
夜間で交通量も少ないのに、急がなければならないのに、信号を無視して行けば良いのに、、、、、、、
だが、青信号に変わるのを待っていた。
気分が重かった。
5分ほどで病院に着いて、ほどなく心停止が宣告された。

結局、1度も家に帰らせる事もできなかったが、自分に出来うる事は、全てやりつくしたと思っている。



2000年4月、老人保健施設に入所した頃、この公園の桜が満開だった。
母親が施設の生活に慣れるまでは、と、当初は毎日のように面会に行った行き帰りにこの公園の前を通り、せめて桜が咲くまで家に居させてあげれば良かったのか、と考えながら眺めたものだ。
この年は、天候も良かったのだろう、その前年1999年に脳出血で入院して隣町の病院に転院した頃も、この公園の桜は咲いていたはずだが、そちらは記憶に無い。

(2006年4月7日撮影)