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だらだらぼちぼち

1999~2003 さくら

2006年04月09日 12時59分28秒 | On My Side
今年も三角公園の桜が咲いている。

          

1999年2月、当時76歳だった母親が脳出血を患った。
国立病院で開頭手術を受け、入院した。
左の後ろ側の脳出血だったが、幸いな事に、全身あるいは半身麻痺などの重篤な症状ではなかった。

実際に体験してみるまでわからなかったのだが、今の医療では、長期の入院を拒む傾向にある。
最初に入院した国立病院では、当初は3ヶ月の入院治療を要するという治療計画だったのだが、ほんの1ヶ月ほど経った時点で「脳神経科的に言うと、治療は終わっているので退院して下さい。」と、主治医に言われた。
その時点では、日常生活ができる所まで回復していない状態だったのに、「医学的には治療は終わっている。」と言われたのを、なんとか2ヶ月の入院まで引き伸ばした。
後遺症が改善されるまで入院治療を受けられると思っていたので、いきなり退院してくれと言われても自宅では受け入れ態勢も整っていない。
別の街で医者をしている同級生のコネを使い、言語療法というリハビリを目的に隣町の病院に転院した。
周囲からは、特養ホームなどの老人施設に入所を、という事も言われたのだが、老人施設に入所する必要があるほどの重い後遺症には思えなかった。
この頃の母親の状態は、右目の視野狭窄、右手足が少し動きにくい事、そして「読む、書く」が思うようにできなくなる言語障害、、、、、、、、
一見すると普通に話せるのだが、本人が意図した単語とは違う言葉が口から発せられる事が多く、何を言いたいのかがわかる時とわからない時があった。
自身あるいは家族に脳出血や脳梗塞を患った方もおいでだろうが、脳のどの部分にダメージを受けたかによって、その人その人によって現れる症状は違ってくる。
ここで詳細に説明してみても簡単にはわかってもらえないだろうが、色んな事が自分では出来ない状態だった。

このように、一人で日常生活が出来る状態ではないが、時間の経過により改善される希望もありそうに感じられた。
実際、転院した隣町の病院の中では、同じ部屋で入院している他の重い症状の患者さんの世話をするところまで体の動きは回復していた。
自宅で生活するという事もリハビリにつながり、少しでも自分でできる事が増えてくれれば、と考えて、隣町の病院を退院したのが6月末。
最小人員の家族構成のため、ワタクシが介護休職を取って1年間仕事を休み、言語療法などのリハビリに通院しながら、自宅で生活しながら様子を見ることにした。

こうして、1999年7月から1年間の介護休職生活に入った。
介護休職すると、給与・賞与は全く無く、厚生年金、健康保険、雇用保険の本人負担分と同額の「介護休職手当」という手当が出るが、これは支給と同時に給与から引き去られる物なので、毎月の手取り額は全くのゼロとなる。
ローンなど抱えている人には、支払い義務だけがのしかかってくる。
介護休職で仕事を休んだ、と言うと、決まって周囲からは「親孝行な良い人だ」という反応があるが、実際の所、いつまでも入院し続ける事ができないうえに老人施設への入所をなど考えていなかったため、休職する事しか方法は残っていなかったのだ。
このあたりの事情もまた、他人には理解してもらえないかも知れない。

1回につき30分程度、週に4回、隣町の病院での言語療法や作業療法のリハビリを受けるためにクルマで通院した。
この他に、家でワタクシがやっていた事というと、食事や入浴の時に世話をする、、、、、というよりも、見守る事が主な仕事だった。だから、決して介護したとは思っていない、介護の真似事をしただけなのだ。
隣に住む叔母の手伝いも受けた。
病気の老人と一緒に、ほとんどの時間、家の中に閉じこもるという事は、予想以上にストレスが溜まるものだった。
そこからきたのだろう、肩こり、頭痛にも悩まされた。
リハビリに通院するための外出が、自分にとっても良い気分転換になった。

自宅に戻った当初は、不自由な事もありながらも、少し手伝ってあげると意外と色んな事がこなせる様子で穏やかに過ごしていた。
相変わらず、読む、書く事、あるいは料理したりといったいわゆる「知的作業」は出来なかったが、脳出血という大病を患った後だ、病気になる前の状態に戻れるなどとは期待していなかった。周囲の見守りがあれば生活できる状態に回復できればなぁ、、、、、、と思っていた。

          

が、11月頃から、時々、夜中に起き出してはワケのわからない事を言い出だす事が多くなってきた。
母親にしか見えない誰かが、何やら母親に話しかけているようだった。
こうなってくると、脳出血の後遺症というよりも、認知症(当時は痴呆と呼んだが)による妄想と考えられた。
精神科の投薬治療を受けても妄想はおさまらず、夜、昼を問わずにワケのわからない事を大声で口にしては、今にも暴れだしそうな勢いを見せるようになった。
といっても毎日ではなく、機嫌のよい時は、ごく普通に穏やかにしていた。
年を越して翌2000年になっても、母親に妄想が現れる頻度は徐々に高くなり、その頃から立ち上がったり歩いたりという動作も思うように出来なくなってきたために、ワタクシ自身は、ほとんど眠らせてもらえない日が多くなった。
このままでは、共倒れになってしまう。
新聞に目をやると、介護疲れによる心中事件の見出しが、イヤでも目に付くようになってきた。

介護休職の期限が6月いっぱいまであるとはいっても、その後の生活の見通しは全くつかない。
体の方は健康そのもので、どこかの病院に再度入院できる見通しも無い。
入院できたとしても、それは解決策ではなく、再び3ヶ月ほどすると退院を迫られるのは目に見えていた。

こうなってくると、老人介護施設への入所を考えざるを得ないようになった。
入所を希望した所で、半年あるいはそれ以上の入所待ちしなければならないのは目に見えていたが、申し込んでおかなければいつまで経っても入所できない。
3月になって、4箇所ほどの老人介護施設の入所申し込み手続きをした。
どの老人介護施設で尋ねたところで、いつ入所できるのかがわかるはずも無く、待つしかなかった。
最低でも半年、あるいはそれ以上の自宅待機が予想された。
介護休職期限が切れる7月になると、仕事に復帰しなければならない。

7月以後、どうすれば良いのか、、、、、、?
考えられる事は3通りしかなかった。

24時間体制で、家政婦さんに来てもらう。
その年から新たに始まる介護保険を使って、老人施設のショートステイを利用し、足りない日数分を実費でショートステイする。
仕事を辞めて、自宅で介護の真似事を続ける。

果たして、24時間体制で来てもらえる家政婦さんっているのだろうか?
どの方法を取っても、経済的には大変な事態になる。
が、他に方法がなければそうせざるをえない。

あれこれ考えていても結論は出ないまま、4月になった。
初旬に、ある老人保健施設から「空き部屋ができたので、入所できますよ。」と、電話があった。
この年の4月から始まる介護保険について、当初は、行政側、施設側、利用者側、それぞれにとまどいがあったようだ。
介護保険制度が開始すると入所費用が高くなる、と考えた方が退所したので空き部屋が出来たという事情のようだった。
この老人保健施設に申し込んでから、なんと2週間ほどで入所する事ができた。
これは、まさしく奇跡的なタイミングだった。

母親が老人保健施設に入所した後、(こう言っては申し訳ないが)これで熟睡できると思った。
しかし、30分ほど眠ってはすぐに目が覚め、1時間ほど寝付けずに、さらにウトウトと20分ほど眠ってはすぐに目が覚め、、、、、、
母親が家に居た時に、夜中に何度も起こされて、ほんの少ししか眠らせてもらえなかった事が体にしみついてしまったのだろう。
睡眠障害にかかっていた。
自分の生活リズムが戻るまでには、半月ほどかかった。

母親の方はと言うと、老人保健施設で生活するという環境の変化に慣れるまでは1ヶ月ほどかかったようだったが、それ以降は落ち着いていた。
しかし、2002年頃から、再び、母親にしか見えない誰かが現れるようになり、職員さんを煩わせる事が多くなった。
認知症に対応できる体制にある、という別の特養ホームに転所する事になった。

最初の老人保健施設にいた時も、特養ホームにいた時も、必ず、週に最低でも2回は面会に行った。
「見捨てられた。」と思わせないように。

特養ホームに転所した後、『慢性閉塞性肺塞栓』という肺機能が低下する病気で5日間入院した。
退院後、再びホームに戻った頃には、ほとんど自力で歩いたり立ち上がったりはできなくなっていた。
2003年11月に、再び体調がすぐれなくなり、2度目の入院となった。
いつの間にか脳梗塞が進行し、意識がない状態に陥っていた。
11月20日の夜、「呼吸が停止した。」と、病院から電話があった。
原付スクーターで病院に向かう途中、国道を横切る交差点の信号は赤信号だった。
夜間で交通量も少ないのに、急がなければならないのに、信号を無視して行けば良いのに、、、、、、、
だが、青信号に変わるのを待っていた。
気分が重かった。
5分ほどで病院に着いて、ほどなく心停止が宣告された。

結局、1度も家に帰らせる事もできなかったが、自分に出来うる事は、全てやりつくしたと思っている。



2000年4月、老人保健施設に入所した頃、この公園の桜が満開だった。
母親が施設の生活に慣れるまでは、と、当初は毎日のように面会に行った行き帰りにこの公園の前を通り、せめて桜が咲くまで家に居させてあげれば良かったのか、と考えながら眺めたものだ。
この年は、天候も良かったのだろう、その前年1999年に脳出血で入院して隣町の病院に転院した頃も、この公園の桜は咲いていたはずだが、そちらは記憶に無い。

(2006年4月7日撮影)