12日から3泊4日の道央行脚。荒天に遭いながらも、2号は日程を全うしてきた。
積丹の海の幸やラムしゃぶ、スープカレー、ラーメンサラダ、山中牧場のソフトなど
故郷の味を久々に満喫した様子である。唯一の心残りは、
15日に那覇から帰札した赤黒の一行と、新千歳ですれ違いになったことらしい。
思えば、北海道が「遠きにありて」という地になったのは、下に記す99年が始まりだった。
99年と言えば、J2元年が10クラブで開幕(注1)。
あの岡田武史氏が札幌の監督に就いて、再昇格の機運が高まった年である。
しかし、現実は甘くなく、ノブリン大分と対戦した開幕戦では、俺王様の一発でウノゼロ負け。
後にノブリンも俺王様も札幌にやってくるのは、いま思うと不思議な縁である
歯がゆい序盤戦にやきもきして迎えた年度初めに、ワタシに道外行きの辞令が舞い降りた。
行き先は群馬県太田市・・・「どこだ??」というのが、夫婦の率直な第一印象だった。
そして、GW明けの離道を控えた厚別連戦。
5月2日の甲府戦(6対0で圧勝。リカルジーニョまで決めた一戦)と
5日の大宮戦(終了5分前に関が決勝点)の連勝は、良いはなむけをもらったと感謝している。
一方で、道外に出たということは、アウエー戦に行きやすくなったということでもある。
「新潟は雪国だが、夏はおそろしく暑い」と実感した8月の新潟戦@新潟市陸
ツウット&ティンガ抜きの純国産布陣に完敗を喫した9月の川崎戦@等々力などに足を運んだ。
中でも思い出に残っているのは、10月のFC東京戦@江戸川陸上
東京サポの古いチャントで「ラ・エドガワ」と歌われた地(注2)でウノゼロ勝ち。
そして、赤黒の吉原宏太のラストゴールをおがめた一戦だった。
ちなみに、上記の3戦には3号も帯同。
つまり、この年は3号がスタジアム・デビューを果たした年にもなった。
また、関東暮らしを始めたことで、JリーグとJFLしか知らなかった我が家が、
地域リーグ(注3)やユース年代(注4)に目を向ける年にもなった。
サッカー観が大きく広がる契機になった年とも言える。
残念ながら、札幌はJ2で5位に終わり、一年でのJ1再昇格はかなわず。
しかし、明くる年に「怪物」を迎え入れた札幌は、関東の地に歓喜をもたらすことになる。
(第5話に続く)
注1:この「オリジナル10」のうち、今季もJ2にいるのは大宮と大分・・・そして札幌
注2:その競技場を抱える区に、まさか十余年後に住むことになるとは・・・
注3:98年限りで札幌を契約満了になり、故郷の前橋に戻った鳥居塚伸人選手の影響が大きい。
99年には群馬の成年男子チームを熊本国体に、00年には所属する図南SCを関東リーグに導いた。
注4:全国高校選手権の準決勝「市立船橋×前橋育英」を国立で生観戦する幸運に恵まれた。
GK黒河(新潟)DF羽田(引退・元神戸)中澤(C大阪)MF本橋(引退・元栃木)
永井(引退・元柏)FW原(引退・元湘南)を擁し、無失点Vを遂げることになる市船に対して、
GK岩丸(引退・元群馬)DF青木(鹿島)MF松下(群馬)茂原(いろいろあって解雇・元柏)
FW佐藤(引退・元群馬)と、育英も豪華布陣で臨み、スコアレスながら見応えある熱戦になった。
ちなみに、育英のベンチには後に札幌に入る相川進也(当時1年生)もいた。