ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

正平忌にミシャを思う

2021年01月31日 | プロレス・格闘技
きのうのTM千葉戦(45分3本)は1対0という結果に。
ウノゼロはもの足りないが、新戦力の青木のゴールを喜ぶ。

さて、きょう1月31日はジャイアント馬場の祥月命日
今年が23回忌となる<2月4日に後楽園で追善大会
その馬場さんは、実は現役生活の晩年に、
ミシャと同じ「左大腿骨の骨折」という大怪我に見舞われている。
きょうは戦力分析をお休みし、馬場さんの復活劇を振り返ることで、
ミシャの復帰をあれこれ考える。

馬場さんが骨折したのは、1990年11月30日の全日本帯広大会。
世界最強タッグリーグ戦の馬場・アンドレ組対ドリー・テリー組。
「大巨人コンビ」「ザ・ファンクス」というベテラン組対決だったが、
試合中に馬場さんとドリーがロープ際でもつれ、リング外に転落。
馬場さんはそのまま全く動けなくなった<試合結果は両者リングアウト
馬場さんを運べる大きな担架がなく、本部席の長机にのせて搬送した
エピソードが残る。

ちなみに、馬場さんは懐かしの札幌中島体育センターが苦手(注)
とよく評されていたが、帯広市総合体育館との相性もひどく、
82年10月のPWFヘビー戦では、
ハーリー・レイスのダイビング・ヘッドバッドに屈してベルトを失い、
渡米してセントルイスでリマッチに臨むハメになった。
注:BI砲最後のタイトル戦でファンクスに苦杯。ブロディや天龍に3カウントを許す。などなど・・・

復帰戦は翌91年6月1日の武道館大会。
ラッシャー・渕と組み、ブッチャー&キマラⅠ・Ⅱとの6人タッグ戦。
驚きの新技「ジャイアントDDT」でキマラⅡを仕留めた。
「俺は兄貴といる時が一番幸せなんだ」「死ぬまで兄貴を離さないぞ」
という試合後のラッシャーのマイクが懐かしい。

負傷当時の馬場さんは52歳。ほぼ半年後に復帰した計算だ。
ミシャの63歳という年齢を考えると、
完全復活には馬場さん以上に時間がかかるかもしれない。
むろん車椅子などの補助があれば、リハビリをしつつ、
ピッチ上で指揮を執ることは可能だろう。
ただ、今季のJ1は例年より2クラブ多く、日程も過密になっている。
短い間隔で繰り返される飛行機移動が、ミシャの回復の妨げになる
おそれも否定できない。来日できるにせよ、できないにせよ、
7、8月の五輪ブレイクまでリハビリ専念も一考してよいのでは。

  • ベルギーリーグ
OHルーベン0対1ベールスホット
敵地でウノゼロ勝ち。11勝目を挙げて再び白星先行。
ただ、スタメンの武蔵が後半に交代した直後に決勝点とは皮肉だ。
  • 新日本名古屋大会
メーンのNEVER戦は35分超の激闘の末に、
棚橋がハイフライ・フローで鷹木からベルト奪取。
しかし、試合後にO・カーンが棚橋を襲い、次の挑戦をアピール。
そのO・カーンは天山との「敗者モンゴリアン封印戦」を制した。
オスプレイも小島とのノーDQ戦に敗れ、テンコジには悪夢の一夜に。
・・・まあ、天山はモンゴリアンを適当に改名するのでは。
文句を言われたら「小指の角度が違うんだよ」とか言えばよいwww

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。