ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

火刑都市30年⑥浅草

2016年07月22日 | 火刑都市30年

中村刑事は次のように推理した。

渡辺由紀子の婚約披露に乱入した若い男は、連続放火の主犯だろう。

由紀子とこの男には深い関係があったに違いない。

布袋屋の若旦那に見初められた由紀子は、同棲相手のガードマンを

始末するため、この男の連続放火計画を利用した。

一方で、この男は自分と由紀子の関係を知る井比敦子を口封じに殺した・・・

中村刑事は、由紀子が上京後にこの男と知り合ったと考えて、

由紀子が都内で住んだ五つの場所を巡って聞きこみを始める。

最初は足立区千住、続いて台東区浅草・・・


島田荘司氏の作品では、よく浅草が舞台になる。

御手洗潔シリーズでは短編「ギリシアの犬」(注1)や

「山高帽のイカロス」「舞踏病」(注2)などが知られる。

ファンによる「聖地巡礼」では、横浜・馬車道に続いて浅草に足を運び、

御手洗・石岡コンビが立ち寄った「神谷バー」で電気ブランをたしなむのがお約束だ。

吉敷竹史シリーズの「奇想、天を動かす」でも、冒頭の殺人事件が浅草で起きる。

また、島田氏が得意とする江戸論や都市論でも、浅草は重要な地である。

「死」(小塚原の刑場)と「性」(吉原の遊郭)と隣り合わせに発展した

大歓楽街・浅草が江戸文化を発信し、大正・昭和の世も「遅れてきた江戸人」である

江戸川乱歩の作品世界にそれは息づいていた・・・と説いている(注3)。

浅草のシンボル「金龍山浅草寺」。雷門がとび抜けて有名なので、たまには本堂でも

さて「火刑都市」では、由紀子がかつて勤めていた映画館「東京クラブ」に

聞きこみに来た中村刑事が、その経営者に脱線気味の質問をぶつけている。

雷門通りの突き当たりの仁丹塔。「浅草十二階はあそこにあったんですか?」(注4)。

「東京クラブ」「仁丹塔」「浅草十二階」も、現在は全て「失われた風景」である。

「東京クラブ」は1913(大正2)年に現在の台東区浅草1丁目に開業。

「火刑都市」の言及の通り、1931(昭和6)年に改築された。

「火刑都市」では現役の映画館だったが、1991(平成3)年に廃業・解体されている。

その独特の外観は、「火刑都市」では巻き貝やメガフォンに例えられている。

個人的には「ナウシカ」の王蟲に似ている気が・・・「東京クラブ 浅草」で

画像検索すると、往時の写真がいろいろ出てくるので、目を通してほしい。

続いて、順番が前後するが「浅草十二階」 正式名称は「凌雲閣」

1890(明治23)年に完成した高層ランドマーク建築のはしりで、

東京タワーや東京スカイツリーの「先輩」と言える。

高さ52メートル・地上12階建ての構造から「浅草十二階」と呼ばれた。

1923(大正12)年9月1日の関東大震災で半壊。同23日に爆破解体された。

乱歩「押絵と旅する男」の舞台としても知られ、

探偵小説・幻想小説好きは、憧憬や郷愁を込めて、この建物を語ることが多い。

両国・江戸東京博物館が常設展示している「浅草十二階」のミニチュア

「仁丹塔」は1932(昭和7)年に森下仁丹が建てた広告塔。

戦時の金属供出を経て、1954(昭和29)年に再建。この時に「浅草十二階」を模した。

「火刑都市」では現役の広告塔だったが、こちらも1986(昭和61)年に解体された。

仁丹塔の土台のビルには現在ファミマがあり、その壁面に仁丹塔を紹介するプレートがある

なお、松山巌氏の評論「乱歩と東京」(84年の日本推理作家協会賞受賞)には、

「東京クラブ」「仁丹塔」の往時の写真が載っている。この名著も機会があればぜひ一読を。


聞きこみの結果、由紀子と関係があった男が浮かび上がった。

だが、「イシヤマ」という名字以外に、身元の特定につながる

有力な手がかりを得られぬままに時は過ぎ、

7月1日の夜、都内3カ所で一斉に火の手が上がった。

虎ノ門の貸ビル。新橋のホテル。有楽町の劇場。

現場となった資材置き場や大道具部屋はまたも全て密室だった。

連続放火犯が東に動いたと考えた中村刑事は、築地の国立がんセンターに張り込む。

しかし、1カ月後の8月1日の夜、中央区銀座の数寄屋橋の雑居ビルで火災発生。

連続放火犯はなぜか北に進路を変えた。(つづく)


注1:「御手洗潔の挨拶」(講談社文庫)収録

注2:2編とも「御手洗潔のダンス」(講談社文庫)収録

注3:「江戸人乱歩の解読」<江戸川乱歩ワンダーランド(89年沖積社刊)収録

注4:火刑都市「第七章・聞きこみ」270P


火刑都市30年⑤水天宮

2016年06月15日 | 火刑都市30年

第三の火災から3日後の1月25日、中村刑事は妻から水天宮参りに誘われる(注1)。

目的は姪の安産祈願(中村夫妻に子どもはいない)。これに応じて、仕事帰りに

妻と参拝を済ませた帰路、中村刑事の前に、あの「東亰」の文字が現れた・・・


水天宮は東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目にある久留米水天宮の分社である。

総本宮の久留米水天宮と区別するため、「東京水天宮」とも呼ばれる。

1818(文政元)年に久留米藩9代藩主の有馬頼徳が三田の上屋敷に分霊を勧請し、

毎月5日に一般の参拝を許したのが始まり。1872(明治5)年に現在地に移った。

江戸鎮座200年記念事業として、今年4月に完成したばかりの新社殿

水天宮は水と子どもの神様であり、水難除けや子宝・安産にご利益ありとして、

古くから農民・漁民・船乗り、そして多くの女性の信仰を集めている

2012(平成24)年3月撮影の旧社殿

前年3月11日の東日本大震災の夜には、左下の派出所に道を尋ねる人々が群がった

2014(平成26)年3月、建て替え工事中の社殿

2013(平成25)年3月から今年4月まで使われた仮宮

日本橋浜町の明治座そばに設けられていた

中村刑事が水天宮に参拝して、連続放火事件の捜査のヒントを得たのは暗示的である。

水天宮は妊婦の神様だが、火災は妊婦の忌み事だからだ

古くは、イザナミが火の神カグツチを産み、大やけどで死んだ古事記のエピソードがある。

探偵小説好きならば、横溝正史「悪魔の手毬歌」の舞台の鬼首村の

「妊婦が火の気に近づくと、生まれる子に赤あざが付く」という言い伝えを思い起こすだろう。

鬼首村は架空の村だが、似たような言い伝えは実際に国内外に残っているらしい。

考えてみれば、あまり身動きがとれない妊婦が火事場に近づくのはそもそも危険だし、

やけどや怪我を負わないにしても、火災の破壊的な光景がもたらす精神的ショックが

母体やお腹の子どもに良いワケがない。ある意味、理にかなった因習と言える。

中村刑事が「東亰」の文字に出会った東亰陶磁器会館

会館ビルは日本橋蛎殻町1丁目にあり、1979(昭和54)年1月に竣工

ビル1階の軒下にはめ込まれた紺のタイルに、白いペンキの毛筆の文字

小説中の描写と同じ看板がなお健在。「火刑都市」の聖地と言ってもよいだろう

中村夫妻は水天宮への参拝後、地下鉄東西線・日比谷線の茅場町駅まで歩こうとして、

会館ビルに出くわす。地下鉄で飯田橋駅から有楽町線に乗り換えれば、帰宅の便が良く、

日本橋界隈で降りれば、夫婦で食事ができる、と考えたからである(注2)。

しかし、実際に現地に立つと、やや違和感を覚える。

水天宮から会館ビルの前を通り、茅場町駅に向かうルートは「裏路地」だからだ。

普通は「表通り」に当たる新大橋通りを歩いて、会館ビルをスルーするのでは・・・

やはり「情け有馬の水天宮」(注3)のお導きがあった、と考えたくなる。

上の写真に見える地下鉄半蔵門線の水天宮前駅も気になった。

「日本橋方面に向かうならば、わざわざ茅場町駅まで歩かなくても」

と思ったのである。しかし、コレにはちゃんとした理由があった。

半蔵門線の水天宮前~三越前が開業したのは1990(平成2)年

中村夫妻が参拝した1983(昭和58)年当時、この区間はまだ無かったのである。

犯行があと7、8年遅かったら、この連続放火事件は違った結末を迎えたかもしれない。


「東亰」の文字を目にした中村刑事は、陶磁器協同組合からのつてで、

東京都教育庁の文化財調査研究室に話を聞きに行く。

そこで「東亰」が誤字ではなく、かつて実際に使われた東京の呼称だったこと、

その呼称を明治政府に反発する旧幕臣・旧水戸藩系の人々が殊更に使っていたこと、

その呼称には封建都市・江戸が近代都市・東京になる過程のわずかな時期に現れた

「理想郷の田園都市」への憧憬が込められていること、などを知った。

一方で、1月27日夜、渡辺由紀子の数少ない友人で、アリバイの証人でもあった

井比敦子が、中村刑事と会う約束をした直後、自宅で何者かに絞殺される。

その捜査の過程で、中村刑事は渡辺由紀子が布袋屋の若旦那と婚約したと知る。

さらに、その婚約披露パーティーでは、若い男が乱入騒ぎを起こしていた。

ガードマンの焼死、連続放火事件、渡辺由紀子の失踪と新しい恋人との婚約、

婚約披露パーティーに現れた暴漢、そして渡辺由紀子の友人の絞殺・・・

一連の出来事が一本の鎖でつながりつつあった(つづく)。


注1&注2:火刑都市「第五章・幻の都市」202P&203P

注3:久留米藩上屋敷の水天宮が一般に開放されて人気を呼んだ時、

江戸っ子たちは、こんな地口(洒落言葉)を編み出し、その恩情を称えたという。


火刑都市30年④赤坂

2016年05月10日 | 火刑都市30年

第二の火災は1983(昭和58)年1月3日夜、赤坂見附の「ホテル新東京」で起きた。

火災警報装置の不備や安全基準不適合の内装材使用といった

ずさんな防火態勢も重なり、死者9人を出す惨事になった。

奇妙なことに、火元となった地下の資材置き場は密室だった。

さらに「東亰」という見慣れない文字が記された貼り紙が焼け残っていた。

四谷の火災現場にも、すべて焼失していたが、似た貼り紙があったという・・・


「火刑都市」はむろん架空の犯罪小説だが、実際の事件も二つほど下敷きにしている。

ひとつは、後に語る昭和40年代後半~50年代前半の「飯田堀埋め立て闘争」

もうひとつは、上に記した第二の火災のモデルになったと思われる

1982(昭和57)年の「ホテルニュージャパン火災」である。

2月8日未明に千代田区永田町の地上10階・地下2階建てホテルの9階から出火。

宿泊客の寝タバコの不始末から起きた火が、9時間に渡って

ホテルの7~10階に燃え広がり、死者33人・負傷者34人の大火災になった。

死者のうち、13人は炎と煙に耐えかねた「飛び降り死」とされている。

この大火災を招いた横井英樹オーナー社長の安全軽視・拝金経営は当時、社会問題になった。

さらに、翌9日には日航機羽田沖墜落事故も発生<死者24人・負傷者149人

こちらは精神分裂病を患っていた機長の異常操縦が原因だった。

都心の有名ホテルと羽田~福岡のドル箱空路で相次いで起きた「ダブル人災」に、

まだ中1だったワタシも「世の中、大丈夫か?」と不安に思った記憶がある。


ホテルニュージャパンは火災後、東京都から営業禁止処分を受けて廃業。

敷地・建物は横井英樹に多額の貸付をしていた千代田生命が競売に掛けるが、

この「ケタ外れの事故物件」は買い手が付かず、千代田生命が自ら落札することに。

その後も長く廃墟のままで放置されて、周辺では怪異譚が絶えなかったという。

1996(平成8)年にやっと解体&再開発が始まるが、

2000(平成12)年に今度は千代田生命が経営破たんという「負の連鎖」が起きた。

ちなみに、ホテルニュージャパン敷地の地下にあったナイトクラブが

1963(昭和38)年12月に力道山が刺された「ニューラテンクォーター」である。

現在のホテルニュージャパン跡地。千代田生命の破たん後は

プルデンシャル生命が買い取り、プルデンシャルタワー(本社ビル)を建てて現在に至る

<2002(平成14)年竣工。地上38階・地下3階建て

ホテルニュージャパン火災を現在に伝える芝増上寺の慰霊の観音像

死者33人の仮通夜が行われたこの寺に、火災の5年後に横井英樹が建立した

有名な三解脱門から入ってすぐ左手の分かりやすい場所にあるが、

手を合わせる人は、この火災を覚えている年輩者がほとんど

「火刑都市」を読んだ、読み返した人にお参りしてほしい場所である


「火刑都市」に話を戻す。第二の火災からひと月も経たぬ1月22日夜、

虎ノ門のビル内部で放火騒ぎが起きた。ぼやで済んだが、今回はビル自体が密室状態にあった。

そして、火元には「東亰万歳」と記された貼り紙が燃えずに残っていた・・・(つづく)


火刑都市30年③四谷

2016年04月14日 | 火刑都市30年

「火刑都市」の物語は、1982(昭和57)年12月1日の火災から始まる。

東京都新宿区四谷2丁目の雑居ビルで、ガードマンの若い男性が焼死。

1階の詰め所にいながら、地下からの火災に逃げも通報もせず、という変死から、

警視庁一課殺人班の中村吉造刑事に声がかかる・・・


第一の火災の現場となった新宿区四谷2丁目の界隈は、

JR総武線・中央線&東京メトロ丸の内線の四ツ谷駅を抱える都心の交通の要所である。

四ツ谷駅の近くには、かつての江戸城の四谷門の石組みが少し残っている

四谷堀の跡地の北側は現在、四ツ谷駅の敷地となり、JR総武線・中央線が走る

四谷堀は終戦直後、大量に生じた瓦礫の埋め立て地となり、その費用は上智大が負担した

このため、四谷堀の跡地の南側は現在、上智大の「真田堀グラウンド」になっている

東京都が所有・管理し、上智大が借りる格好をとっている(休日のみ一般開放)

「真田掘」の別名が出たが、これは今年のNHK大河「真田丸」で話題の真田家に由来する。

ただ、開削ではなく、堀浚(ほりざらい)、つまりメンテナンスを担ったことが理由らしい。

四ツ谷駅近くの東京メトロ南北線・市ケ谷駅のミニ博物館「江戸歴史散歩コーナー」は、

外堀が築かれた10年後の1645(正保2)年の堀浚の分担図を展示しており、

真田信之(信州松代藩初代藩主・真田丸では大泉洋が演じる)や

信利(信之の孫・実名は信直)・信政(信之の次男)・信重(信之の三男)の名が見られる。

一族郎党を挙げた「お手伝い」だった様子がうかがえる。

幕府はこの「お手伝い」をなぜ真田家に命じたのか?

それは、この四谷門や堀が甲州街道につながる甲信地方への交通の要所だったから、

と推察される。甲州街道は有事の際に幕府軍が甲府城に向かう退路の役割を担ったが、

同時に、真田家が信州から江戸城に攻め入ると仮定した場合の要路でもあった。

その「最終防衛ライン」のメンテ。断れば謀反の疑いをかけられただろう(注1)。

まして、信之の父や弟がさんざん徳川家に煮え湯を飲ませた真田家である。

堀浚を拒み、幕府への忠誠心を示さなければ、取り潰しのおそれもあったと思われる。

また、「仮想敵国の手を借りての城郭整備」という点で、徳川に建てさせた上田城で

徳川軍を撃退した二度の上田合戦の「意趣返し」だったのかもしれない。

ちなみに、「人間五十年」の時代に、この堀浚を引き受けた信之、すでに79歳

老いた身での「お手伝い」は、家臣任せにせよ、さぞ骨が折れたと察する。

さらに、この堀浚の前後に起きた真田家の出来事を年表にすると、気の毒になるばかり。

  • 1620(元和6)年:信之正室の小松姫死去<2代将軍・秀忠の治世
  • 1622(元和8)年:信州上田藩から松代藩に加増移封(事実上の幕府の嫌がらせ)
  • 1634(寛永11)年:嫡男の信吉死去<3代将軍・家光の治世
  • 1638(寛永15)年:信吉の長男熊之助がわずか7歳で死去(信利は熊之助の弟)
  • 1645(正保2)年:四谷堀の堀浚を担当
  • 1648(慶安元)年:信重死去
  • 1656(明暦2)年:信之隠居。松代藩は信政が継ぐ<4代将軍・家綱の治世
  • 1658(万治元)年:2月に信政死去。松代藩で跡目争い(注2)。10月に信之死去

信之は享年93。現代人から見ても、かなりの長生きと言える天寿を全うした。

松代藩が明治維新まで存続し、幕末の奇才・佐久間象山を世に送る土台を築いた名将だった。

だが、その後半生は、妻子や孫に先立たれ、幕府から難題を押し付けられ、

死去の直前に身内で争い・・・と苦労続きである。その心中を推し量ると、以下のような感じか。

大泉洋信之兄さん、壊れる」

冗談はさておき、「真田丸」でもかなりの苦労人に描かれている信之。

今は姿を消した都心の堀にたたずみ、その後半生の苦労に思いを馳せるのも一興と考える。


「火刑都市」に話を戻す。焼死したガードマンは若い女性と同棲していたが、

その女性は身元を示すような手がかりを丁寧に処分し、姿を消していた。

しかし、中村刑事は苦労の果てに、女性の正体を突き止める。

飯田橋の呉服問屋「布袋屋」に勤める渡辺由紀子。しかし、火災があった時間帯には

由紀子には完璧なアリバイがあり、中村刑事の捜査は行き詰まる。

ほどなく年が明けた。1983(昭和58)年の年頭に、第二の火災が起きる。(つづく)


注1:後に語るが、幕府は江戸城の東北の守りを堅固にするため、

同様の趣旨で「東北の仮想敵国」仙台藩の伊達政宗に外堀の開削を命じている。

後に「伊達堀」「仙台堀」とも呼ばれる、飯田橋付近から東の神田川である。

注2・信政の六男幸道が松代藩主を継ぐことに、嫡男筋の信利が異議。

幸道の後継で決着したが、まだ幼少だったため、信之が短期間ながら後見を務めるハメに。


火刑都市30年②墨田・江東の水路/後編

2016年03月10日 | 火刑都市30年

菱山少年が遊んだ横十間川は、南で江東区を東西に流れる小名木川と交差する。

横十間川と小名木川の合流地点。上にはX型の「クローバー橋」が架かる

小名木川は徳川家康ゆかりの墨田・江東の最古の水路である。

1590(天正18)年に江戸入りした家康は、

江戸の治水・物流の両面から、利根川ほかの関東一円の河川改修に着手する。

同時に、兵糧としての塩を確保するため、下総国の行徳塩田

(現在の千葉県市川市行徳&浦安市の一帯)に着目した。

当時の東京湾の北部は遠浅や砂州が続き、海上運搬は座礁の危険が高かったので、

行徳―中川間に新川(船堀川)を、中川―隅田川間に小名木川を水路として開いた。

幕末の安政年間に描かれた「中川口」(歌川広重・名所江戸百景)

手前の小名木川、奥の新川、左右に流れる旧中川が交差する

旧中川を行き交う筏は、関東一円の河川が水路に整備されて、

山あいの林産地から木材が流通するようになった様子を表している

現在の中川口を同じ構図で眺める

1930(昭和5)年の荒川放水路の完成に伴い、新川とは交差しなくなった

このように「軍用水路」として生まれた小名木川だったが、

やがて関東一円の年貢米や特産品を、大消費地・江戸に運ぶ「産業水路」になる(注1)。

また、成田参詣が流行すると、船旅のルートにもなっていく。

幕府も1661(寛文元)年に小名木川の入り口に「中川番所」(注2)を開設した。

モノ・ヒト両面の小名木川の水運を監視する「川の関所」である。

現在の中川番所跡。番所を模した観光スポットの「川の駅」(手前)や

江東区中川船番所資料館(奥)が置かれ、江戸の水運と中川番所の歴史を現在に伝えている

なお、今月12・13日には毎年恒例の「リバーフェスタ江東」が催され、

資料館が無料開放になるので、興味がある方は足を運んでは<最寄り駅は都営新宿線東大島駅

東京スカイツリーや亀戸一帯を周遊する水陸両用観光バス

「スカイダック」は、この「川の駅」から着水し、旧中川を回遊する

資料館の久染健夫・副館長によると、小名木川は

「家康の時代に開かれ、両端が完全に残っている東京唯一の水路」らしい(注3)。

ここで話を「火刑都市」に戻す。菱山少年が長じてその消滅に憤慨した江戸城の外堀。

それに比べて、小名木川をはじめとする墨田・江東の水路は実にしぶとい。

この「生命力」の理由は何か? 私見だが、二つの理由があると思う。

一つは、この一帯が長い間「帝都」の行政の範囲外にあったことだ。

1889(明治22)年に15区からなる東京市が成立したが、

亀戸・大島・砂の3村(後に町制に移行)を含む一帯は「東京府南葛飾郡」とされた。

「城東区」として東京市に編入されるのは1932(昭和7)年のことである(注4)。

そして、もう一つは、これが最大の理由と考えるが、

明治以降も墨田・江東の水路は「産業水路」として現役だったことだ。

水路沿いに工場群が形成され、セメント・製糖・機械製粉などの近代産業が興り、

内国通運株式会社(現在の日通)の外輪蒸気船「通運丸」が貨物輸送を担った。

大島1丁目の都立科学技術高校近くにある釜屋堀公園

化学肥料製造の創業記念碑とその偉業を称える「尊農」の碑がある

1887(明治20)年に創業した日本初の化学肥料製造会社

「東京人造肥料会社」(現・日産化学工業)のあらましを記している

高峰譲吉博士(消化薬タカジアスターゼの発明者)が社長・技師長を務め、

発起人には渋沢栄一や益田孝といった大実業家が名前を連ねた

亀戸2丁目の横十間川沿いにある日清紡績(現・日清紡HD)の創業記念碑

「深キョンとワンちゃんがいろいろやっているグループ」は江東区から起きた

碑文は、関東大震災の災禍のみならず、明治・大正・昭和と3回にわたって

横十間川の氾濫に遭ったにもかかわらず、この地の本社工場を守り続けた歴史を記している

墨田・江東の水路は、関東大震災や東京大空襲を経ても、

近代の工場群の「動脈」であり続けたと言える(注5)。

その役割は、高度成長期を経て、水質汚濁や悪臭、地盤沈下といった

公害が社会問題化した時代にようやく終わった。

そして、役割を終えた水路には、「水辺の散策路」として再評価されて、

改修・浄化を経て生き残ったものも今なお多い・・・と考えている。


次回からは隅田川を西に渡り、菱山源一の連続放火の足跡を追う。

まずは最初の放火現場から。この地は今年話題の戦国大名と深い縁があった。(つづく)


注1:「亀戸大根」「小松菜」といった地場野菜が栽培され、

小名木川周辺でいわゆる「近郊農業」が盛んになった点も見逃せない。

この一帯は野菜を江戸に運ぶ一方で、江戸の庶民が排出した「下肥」を回収した。

また、砂村の篤農家・松本久四郎は江戸から回収した生ごみを発酵させた「温床」で

野菜の促成栽培に取り組んだ。江東の先人のリサイクルには、現代も学ぶ部分は多い。

注2:当初は深川の隅田川口にあった番所を移転した。

注3:「東京人」(都市出版刊)15年8月号63P

注4:深川区と合わせて現在の江東区になったのは、戦後の1947(昭和22)年だった。

注5:西村京太郎氏の初長編「四つの終止符」(1964・昭和39年刊)の中に、

亀戸・大島の工場群の描写が見られる。