平成30年5月15日(火)
「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。
第Ⅲステージ第1回(2日目)は、二川宿(JR二川駅)~吉田宿(JR豊橋駅)である。
時間に余裕があればもう少し先まで歩くことにしたい。
2日目の朝6時45分、ホテル1Fロビーの食堂「和み」へ。
朝食レストラン専用(6:30-9:00)の部屋である。
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何名かの宿泊者が食事をしていた。
既に朝食を済ませた人もかなりいた。
皆さん朝が早い。
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自分も好みの品を皿に盛り、いただいた。
最近、朝はパン食が多い。
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7時40分、豊橋駅に向かい、東海道線上り電車に乗車。
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豊橋から一駅目の二川駅には、7時53分に到着した。
この日の出発地である。
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7時56分、二川駅前を出発!
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駅前の通りを西に向かって進む。
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400mほど進むと県道3号の火打坂交差点があり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/5d/428ac923b56b48231a007e1a04f53929.jpg)
交差点を横断してやや急な坂道(火打坂?)を進む。
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火打坂交差点から800mほど進むとガーデン・ガーデンという園芸店があり、
その先に信号がある。
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旧東海道の道標に従って三叉路を左折する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4c/11a8c2dcbdbe572cd20336730c48b1c5.jpg)
この辺りの旧街道は、今時の住宅が続き、昔の面影は全く感じられない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/3f/ce0569709fa76c3b9676aaa969e5f52d.jpg)
道路左側には松の木が植えられていた。
それほどの年数は経っていない松である。
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松の並木が終わる辺りに旧東海道のクロマツ跡の碑があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/e4/1e39a27f36f29155233cfb33a65a03a4.jpg)
碑には、高さ11m、幹周2.34m、枝張り17×16m、樹齢約150年と刻まれていた。
裏面には、この地区には、昭和40年代には100本を超える松が残っていたが、
松喰虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松喰虫の被害に遭い、
平成19年2月28日に伐採された、との説明も。
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8時34分、豊橋岩屋郵便局前を通過
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/d6/36d016428023ac79f277abb74bf54a8c.jpg)
旧そうな家も見掛けたが、周りは普通の住宅が立ち並ぶ。
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右手にマクドナルドが見える手前の殿田橋を渡ると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/58/d49ba612a5a03b3555e75868724ac22e.jpg)
8時53分、国道1号に合流した。
(飯村一里塚跡碑を見落としてしまった)
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飯村町と三ノ輪町の境に架かる山中橋を渡り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/2a/e482d330f350a8bfef2755cb46b61ac1.jpg)
9時ちょうど、山中橋バス停を通過
この頃になると気温がかなり高くなって、額に汗が滲んで来た。
国道1号沿いは日陰がなく、街路樹なども見当たらない。
直射日光を直接浴びるので、暑い!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/1c/5bc3b8762e8d0d4ef9a6a2bbe5878a8c.jpg)
豊橋市三ノ輪町の横断陸橋に差し掛かり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/99/a1a6c2c68fad8feb74629b582dae85aa.jpg)
横断陸橋の下が日陰になっていたので、そこで一休み。
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9時20分、円六橋バス停を通過。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/eb/deaf901442252ab2f88683210228267f.jpg)
瓦町交差点手前で変わった形の寺の門と三重塔が見えた。
鶴松山寿泉禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院だった。
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左側の門柱に子育安産 延命地蔵尊と刻まれている。
門を潜って中に入ってみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/95/81b9f8cf547d40bf72df844c4a527b04.jpg)
門を潜って直ぐ右側に3体の石仏が並んでいた。
門柱にあった延命地蔵尊か?
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寿泉禅寺本堂
立派な建物である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/3c/5650c96d694825f060295c4a1b3ca5b7.jpg)
本堂の正面に建つ寿泉禅寺三重塔
立看板には、次のように書かれている。
薬師瑠璃光如来 延寿薬効・除病退悪・宇宙和順・国家安康を祈願して、
檀信安穏なることを奉する。
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国道1号東八町交差点の横断陸橋の右側を通り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/95/f62f92c2f4a334322769534ebd90d4e0.jpg)
県道4号(多米街道)と路面電車の線路を横断すると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/74/bc2b992410b4b5877f5141d092f8b5f7.jpg)
大きな秋葉山常夜灯が建っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/1c/1f27dbf47377b9d67ff628101c57aa2b.jpg)
常夜灯の説明には次のように記されている。
この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東総門前に建てられたものである。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ
市民に親しまれてきたが、三河地震(1944年)による倒壊とそれに続く
戦火にあって放置されてきた。
この状況を憂えた常夜灯保存委員会により、昭和55年豊橋公園内に
復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の
節目の年でもあり、江戸時代に建てられていたこの付近に
再復元したものである。
(豊橋市常夜灯保存委員会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/36/055162dd22d5b502177d27c532f264e5.jpg)
今度は横断陸橋(東八町歩道橋)を利用して道路の反対側へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/d3/040f8921f76d51a1a06489aba5d65c3e.jpg)
中央分離帯があるケヤキ並木があり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/c1/2db73c4a924d52cd5e0f88bb5245f301.jpg)
その植え込みの中に「吉田宿」の碑があった。
裏面に江戸 七十四里とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/c5/8e663c7b809525efc5b084c992b196a9.jpg)
吉田宿碑の近くに東海道の標識が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/e8/ddbb7c533119b6002927b56528ae5028.jpg)
標識に従って旧街道と思われる道を進むが、
他には何も道しるべのない住宅街のため、道に迷ってしまった。
近くにいた人に道を尋ねて確認することも度々あったが、
案外あまりよく知らない人が多かった。
吉田宿の宿場は道を何度も曲がって進まなければならないので、
街道歩き泣かせだ。
もう少し標識や地図が欲しいと思ったのが正直なところである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/5d/69c5a1264d14b550e3698cd906f947fb.jpg)
持参の地図も参考にしながら道を折れて、進み、引き返し、また折れて、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/6b/2ea88c9f51c21d1a3b8c1931fa68b1ba.jpg)
東海道の道しるべが現れる、ということを繰り返した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ce/87c82a267f316c3eb9b44de78522514d.jpg)
東海道の標識に従って進むと、吉田宿問屋場跡と書かれた石柱があった。
何とか目的地に辿り着けて一安心、といったところ。
吉田宿の問屋場は大動脈である東海道の宿駅として人足100人、
馬100疋の常備を定められていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/f5/4132d1dac783def87b8b47e990655732.jpg)
広い国道259号(田原街道)を横断する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/35/210cec15c3a6051f0180bdd6efc919a0.jpg)
ちょうど路面電車が通り過ぎるところだった。
路面電車の走る街にはなんとなくノスタルジーを感じる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6c/b46f4d9c5875b2c9805f7be61b51420e.jpg)
国道259号を横断して直ぐのところに吉田宿本陣跡碑が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/b6/30f0f2e1e14d2f9ccd18936e979da4e3.jpg)
その少し先の鰻料理の店先にも吉田宿本陣跡の碑があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/c9/fad1a6e2f96b9aff50e5a22d6cf908ee.jpg)
享和二年(1802)の書上によると、吉田宿には清須屋与右衛門と
江戸屋新右衛門の2軒の本陣と、脇本陣1軒、旅籠65軒があり、
札木町辺りは宿の中心部として最も賑った場所であった、と記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/9a/5798f777b995d54adaad82cfcb490853.jpg)
きく宗は、江戸時代より約200年変わらぬ味の郷土料理『菜めし田楽』の
老舗である。
創業は、文政年間(1804~30)の江戸時代末期の頃、とのこと。
ここで少しの間だけ吉田城見学のため、引き返すことにした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/40/5ed4f153b811783beec36844a372f4fe.jpg)
国道1号西八町交差点の横断陸橋を渡り、吉田城へ向かう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/6f/c20abed09e179b3e81871a410c7a4ab2.jpg)
豊橋市役所前、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/de/dbad8df94622b7af04fd8dcbf17ac501.jpg)
豊橋市公会堂前を通り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/46/aae7ab8d23173cb3806e2d0fb2324f82.jpg)
10時32分、吉田城(豊橋公園)に到着した。
吉田城は、旧東海道からは少し外れており、時間もそれほどないので、
駆け足で城内を見学することにする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/80/a7dcea0982e9c9e0e8fdf1fafbd029e1.jpg)
吉田城跡
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白により築城された。
東三河の戦略拠点の1つとして、争奪戦を繰り返し城主が次々と入れ替わった後、
天正十八年(1590)に池田輝政が15万2千石の城主となり、城下町の改築や
整備などが行われた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/21/2762526475527fedb489bd21ab0cac85.jpg)
江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。
別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、
明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。
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吉田城二の丸広場を本丸跡の鉄櫓(くろがねやぐら)へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/59/77c28aef074839fe10167e17f354a965.jpg)
着到櫓(ちゃくとうやぐら)跡
城内に集まった兵士たちを観察・点検するための櫓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/26/783b30df8c23a6526b4606f5cee948f6.jpg)
冠木門跡から本丸入口の南御多門方面を見たところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/16/b9c5ee9d2ed297f5147b59ef13a04cbd.jpg)
吉田城櫓配置図
本丸手前の南御多門の左に千貫櫓、右に辰巳櫓が。
また、本丸奥の中央部分豊川に面して北御門、左に鉄櫓、
右に入道櫓が描かれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/9b/8307fb388fbff78f6a04cdeb952389a7.jpg)
南御多門の千貫櫓跡の石垣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/95/b00bbf0338ae2f7471b5e0fa30c4a4a2.jpg)
南御多門跡を通り抜けると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/43/81f977e770f29b46ba29d1c62f2c3a44.jpg)
本丸跡の広場に出た。
本丸の中央には、本丸御殿があった、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/bf/1302b061b106aec3f345ebd0bb81a804.jpg)
本丸跡から見た鉄櫓(くろがねやぐら)
昭和29年に復元されたもの、だそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/80/ca67454ac6f7c466f95a9efbb0c21dcd.jpg)
なんと、鉄櫓の扉は閉じられており、”本日は終了しました”の表示が。
月・火は休館日とある。 あ~っ残念無念!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/c4/171c13af103dd514d127a344c7ce35f9.jpg)
豊川に面した石垣上の武具所跡から豊川上流を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/c0/a09f271762cc3d21d5e88bd2ec6c4e33.jpg)
豊川下流(国道1号吉田大橋方面)を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/80/246d10a98f75dd4b178e7a14a221361f.jpg)
武具所跡から見た鉄櫓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/50/f23028d5bdbe5d4c609ceea56297552a.jpg)
鉄櫓から本丸跡を見たところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/3e/3b43a9b1d48a3e7250d2dc67650e84ac.jpg)
裏御門跡の石垣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ba/16c1b9b1af66a2906688b9c560938597.jpg)
裏御門跡から見た鉄櫓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/10/dc9fa83def5422c5f870c66fbcb845fd.jpg)
11時1分、国道1号へ戻り、西八町交差点の横断陸橋を渡る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/89/9e24461013eed940c45a164a4a732ff8.jpg)
右は国道1号吉田大橋方面で、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/ab/b08d88d246b49107ff8659c903dbce27.jpg)
左は国道259号(田原街道)方面である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/cb/70bd7e1f7f04619bd91eee36c234fc4d.jpg)
真っ直ぐ国道1号から分離した国道23号を進むと、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/1a/8b809fe02bff30fc49e534a37add2e27.jpg)
吉田宿の西惣門の復元模型があった。
吉田宿西惣門は、江戸時代には東海道筋の坂下町と上伝馬の間にあった。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、
四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/04/f1ef72098b0139669d5b08e0167e077f.jpg)
この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にして作られたもので、
その惣門は吉田城大手門を延宝二年(1674)に移築した、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/d8/3ca09cd05750fec997a02d39e4ace2d7.jpg)
西惣門先の交差点を右に折れ、豊川方面に向かって進み、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/3d/24502cd803336dc0bc37b6258c1c9d11.jpg)
豊川から50mほど手前の信号を左折して旧街道を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/25/de8d755f196e9d85757a04801df9bd66.jpg)
豊川堤防に出てみようと細い路地を右に曲がると、湊町公園があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/e5/d54dab575e047b47573db7da2c8f1989.jpg)
公園内を進んで行くと、池中に湊築嶋辨天社の赤い幟が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/22/9c9a66b6d2d4ff4e7613f247116e9296.jpg)
湊築嶋辨天社境内の池畔に、
芭蕉が、貞享四年(1687)11月10日、芳野紀行の途次越人を伴い、
保美(渥美町)に杜国を訪れる際に吉田に泊り、
その夜の感慨を詠んだ句碑「旅寝塚」がある。
「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/41/9900084c711d9c60308b1d8d280fd091.jpg)
湊築嶋辨天社の創建は、戦国時代に琵琶湖にある竹生島に鎮座する
弁財天の分霊を勧請したのが始まりとされる。
山田宗徧が造ったという池中の築島に立つ湊築嶋辨天社の社殿は、
国の登録文化財に指定されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/19/bd6224df86b8116b078763c9620dc45e.jpg)
湊神明神社の鳥居
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/ff/7421f4b279e254e41d42d4b413b2fd09.jpg)
湊神明神社
祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
白鳳元年(672)創建と伝えられる伝統のある神社で、
かっては吉田城下最大の祭りと云われた、元和年間(1615~24)に始まり、
伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/41/ae1a617e26b5d855b7eb3de3901e1dbe.jpg)
旧街道は、県道496号船町交差点を右に曲り、豊川方面へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/b3/4d4bf11d92b57be809c21bc3ae16ee76.jpg)
豊橋は幕府直轄の五大橋のひとつとされ、
現在の位置の73m下流に架けられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/3a/754678f23a6050246d58a29496ba1322.jpg)
豊川を渡る。
海が近いためか、川幅は広い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e5/dac827e66a29c0e1afbdf7ef2d659e9b.jpg)
国道1号吉田大橋の向こうに吉田城の鉄櫓が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/fd/fce597cb104d8ea0d8babf940d690a7b.jpg)
豊川を渡り終えて、しばらく堤防の上を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/17/76eb971f7ec25e80cac8d02e039f99e8.jpg)
11時37分、聖眼寺(しょうげんじ)に到着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/a5/6353d7150f42bf435aa94224db0d9a4c.jpg)
門の前に、境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和六年(1769)の再建松葉塚、
宝暦四年(1754)建立の古碑松葉塚標石があり、文学史研究上資料的価値が
高いもの、と書かれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/02/baf086415b162fb2a455a971d3ad492f.jpg)
聖眼寺の門を潜って中に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/39/120be18d7ab1c955fb4d1a266dd91592.jpg)
聖眼寺本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/de/70c8c6b7bc93f51c8308e29059c34eb0.jpg)
境内には芭蕉句碑が二つ並んで建っている。
左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保四年(1744)、
芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/40/deaea5578643e7b77c210568761b0646.jpg)
右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和六年(1769)に建てられたもの。
貞享四年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して
渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄り
詠んだものと云われている。
「松葉(ご)を焚て 手拭あふる 寒さ哉 芭蕉翁」という句が刻まれていて、
「松葉塚」名称の由来を示している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/fe/32cca1671f548a2a9b05b4e40cd6312b.jpg)
旧街道を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/45/5be14f6001051e555848b733aeef7c82.jpg)
旧い趣のある大きな家を過ぎ、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/68/d5022b60dd5d048fed8b76ef5c858f55.jpg)
さらに旧街道(県道496号)を進むと、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/16/56dfe5f02b3b5f3cbe964993deb811b9.jpg)
瓜郷遺跡を示す標識が。
復元遺跡まで120mとあったので行ってみることに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/21/15d5ac9be8a27b146ae0ea7667bb9556.jpg)
12時12分、瓜郷遺跡(うりごういせき)に到着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/6d/14ce6d2471f17575fe4d2ebf68968196.jpg)
瓜郷遺跡は、低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する弥生時代中期から
古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落の跡である。
昭和22年(1947)11月に発見され、昭和27年10月まで、5回にわたり、
発掘調査が実施された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/98/7357d737ba0043453241310ed65d255f.jpg)
瓜郷遺跡は、唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに
弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なもので、
出土品は 豊橋市美術博物館に収蔵されている、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/fb/a3cb2103885a4cb70e319812057deeb6.jpg)
旧街道(県道496号)に戻って進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/26/cdec57754c1254ffe7977ab23237b206.jpg)
12時25分、豊橋魚市場前を通過すると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/70/3676ca6f5fac91c43d8b2259942b5b91.jpg)
12時26分、豊川市に入った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/37/edd58f654f68d7c490db2b3015d05056.jpg)
豊川放水路に架かる高橋を渡る。
随分大きな放水路である。まるで川のようだ。
歩道がないので、注意が必要だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/03/b1126fcba9595adfb5e7a7e0feebbfe8.jpg)
左にJR飯田線の鉄橋、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/8d/e6a75314f5c8dbb2e13c9b4caa1c2260.jpg)
右には国道1号の小坂井大橋が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/d4/5e408a183c2d9cc5eca4f0462e50aaac.jpg)
高橋を渡り終えて道なりに旧街道を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/30/1bd2c57ce1da453a07c02470525f43b5.jpg)
善光寺川と書かれた運河のような小さな川を渡る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/a3/feb734f1e625ad5bd68728cf96e47927.jpg)
子だが橋碑の説明板には、
「子断が橋」とも云われ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭初日に
この街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった、
と伝えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/15/3b2f7b64c2dd0f53b3e3b031acfaf2b1.jpg)
ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と
父母に逢う楽しさを胸に秘めて暁の街道を足早に通りかかり、
橋の上まで来た。見れば我が子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに
「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。
(豊川市教育委員会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/00/56e49f075a9a457548af130ea59b7aec.jpg)
国道247号の才ノ木南交差点、続いて県道385号の才ノ木交差点を横断。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/60/e58eb1f3d446534dfc13f234de77f2f0.jpg)
菟足(うたり)神社前を通過
菟足神社には、次回あらためて参拝することにしよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4b/6300ea894c9eacbd70d7efd98e7acbc3.jpg)
旧い家の前を過ぎると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/4f/9199f85677efcc99a6ce8d5c871485af.jpg)
JR飯田線の踏切があり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b4/5eac90f01bec0d8e86c7b9174db580c0.jpg)
左に小坂井駅が見えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/a2/cba78c0310c62c5365f41cd4a9644944.jpg)
12時46分、小坂井駅に到着
この日のゴールは、JR飯田線小坂井駅ということにした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e3/797ce89ab6c5d66b73b533ef135a2c23.jpg)
12時56分発の豊橋行で豊橋駅へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/5a/0b546dabe9695aff251c90c15f2dc596.jpg)
お昼がまだだったので豊橋駅で駅弁を買い、新幹線乗り場へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/2a/623a0fac0f4f5dae72664d51d3b79907.jpg)
助六寿司を食べながら「こだま」号を待った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/9b/0cef993f9d8e5faaaee6f2175c71e725.jpg)
「こだま」号で浜松駅まで行き、浜松駅で「ひかり」号に乗り換え、
帰路に就いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/7f/4ee8c581b6988601e213058513276965.jpg)
第Ⅲステージ第1回(2日目)は、予定では二川宿(JR二川駅)から吉田宿(JR豊橋駅)
までだったが、少しでも先へ進んで距離を稼いでおきたいとの考えから、
JR小坂井駅までを歩いた。
また、予定にはなかった吉田城を見学したが、シンボルとも言える鉄櫓が、
あいにくの休館日で中に入れなかったのは、誠に残念だった。
これから本格的な夏を迎えるため、体調には万全の注意を払いながら歩きたい。
この日の万歩計は、25,000歩余を計測していた。
旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(1日目)へ
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「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。
第Ⅲステージ第1回(2日目)は、二川宿(JR二川駅)~吉田宿(JR豊橋駅)である。
時間に余裕があればもう少し先まで歩くことにしたい。
2日目の朝6時45分、ホテル1Fロビーの食堂「和み」へ。
朝食レストラン専用(6:30-9:00)の部屋である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/07/680731a4c675acf0f49e2ae67eeaf763.jpg)
何名かの宿泊者が食事をしていた。
既に朝食を済ませた人もかなりいた。
皆さん朝が早い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/53/264d438a3f07a31ae3502c69733593cf.jpg)
自分も好みの品を皿に盛り、いただいた。
最近、朝はパン食が多い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/30/1f03be171c6925abd3c99cf8b64b568b.jpg)
7時40分、豊橋駅に向かい、東海道線上り電車に乗車。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/72/bf01b8060dc45aa0f045e8b7f9ae60fc.jpg)
豊橋から一駅目の二川駅には、7時53分に到着した。
この日の出発地である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/b5/3811155d57e60fda198c0ccc4928ce84.jpg)
7時56分、二川駅前を出発!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/5a/d40acdd44a93603a5dd42bb9fa4025fb.jpg)
駅前の通りを西に向かって進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/4e/255cf363fd9b6f88a872e3eba598a7a5.jpg)
400mほど進むと県道3号の火打坂交差点があり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/5d/428ac923b56b48231a007e1a04f53929.jpg)
交差点を横断してやや急な坂道(火打坂?)を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/8f/0d86e64aa845ef07c7d643289a728b7b.jpg)
火打坂交差点から800mほど進むとガーデン・ガーデンという園芸店があり、
その先に信号がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/95/16fdb7ebcb34018a5e24be71122be9b4.jpg)
旧東海道の道標に従って三叉路を左折する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4c/11a8c2dcbdbe572cd20336730c48b1c5.jpg)
この辺りの旧街道は、今時の住宅が続き、昔の面影は全く感じられない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/3f/ce0569709fa76c3b9676aaa969e5f52d.jpg)
道路左側には松の木が植えられていた。
それほどの年数は経っていない松である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/12/a28837b75737fa2660a0ca1994b43f74.jpg)
松の並木が終わる辺りに旧東海道のクロマツ跡の碑があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/e4/1e39a27f36f29155233cfb33a65a03a4.jpg)
碑には、高さ11m、幹周2.34m、枝張り17×16m、樹齢約150年と刻まれていた。
裏面には、この地区には、昭和40年代には100本を超える松が残っていたが、
松喰虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松喰虫の被害に遭い、
平成19年2月28日に伐採された、との説明も。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/54/47266a162855415d1fbc0a0f653587f3.jpg)
8時34分、豊橋岩屋郵便局前を通過
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/d6/36d016428023ac79f277abb74bf54a8c.jpg)
旧そうな家も見掛けたが、周りは普通の住宅が立ち並ぶ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/09/691616b81e587a3bd9614e0895699bbb.jpg)
右手にマクドナルドが見える手前の殿田橋を渡ると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/58/d49ba612a5a03b3555e75868724ac22e.jpg)
8時53分、国道1号に合流した。
(飯村一里塚跡碑を見落としてしまった)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/88/05646bc9de19156d4aa7c12a6402d84a.jpg)
飯村町と三ノ輪町の境に架かる山中橋を渡り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/2a/e482d330f350a8bfef2755cb46b61ac1.jpg)
9時ちょうど、山中橋バス停を通過
この頃になると気温がかなり高くなって、額に汗が滲んで来た。
国道1号沿いは日陰がなく、街路樹なども見当たらない。
直射日光を直接浴びるので、暑い!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/1c/5bc3b8762e8d0d4ef9a6a2bbe5878a8c.jpg)
豊橋市三ノ輪町の横断陸橋に差し掛かり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/99/a1a6c2c68fad8feb74629b582dae85aa.jpg)
横断陸橋の下が日陰になっていたので、そこで一休み。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/f4/6ddc08480636d8e423ed6514fe06d750.jpg)
9時20分、円六橋バス停を通過。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/eb/deaf901442252ab2f88683210228267f.jpg)
瓦町交差点手前で変わった形の寺の門と三重塔が見えた。
鶴松山寿泉禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/17/b089375685962a94b6f4ce94e931bee3.jpg)
左側の門柱に子育安産 延命地蔵尊と刻まれている。
門を潜って中に入ってみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/95/81b9f8cf547d40bf72df844c4a527b04.jpg)
門を潜って直ぐ右側に3体の石仏が並んでいた。
門柱にあった延命地蔵尊か?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/d5/4def3b08365f08a8566b2b61ceb034ac.jpg)
寿泉禅寺本堂
立派な建物である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/3c/5650c96d694825f060295c4a1b3ca5b7.jpg)
本堂の正面に建つ寿泉禅寺三重塔
立看板には、次のように書かれている。
薬師瑠璃光如来 延寿薬効・除病退悪・宇宙和順・国家安康を祈願して、
檀信安穏なることを奉する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e4/6200c3449c993af8e8482c48c2a89d04.jpg)
国道1号東八町交差点の横断陸橋の右側を通り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/95/f62f92c2f4a334322769534ebd90d4e0.jpg)
県道4号(多米街道)と路面電車の線路を横断すると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/74/bc2b992410b4b5877f5141d092f8b5f7.jpg)
大きな秋葉山常夜灯が建っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/1c/1f27dbf47377b9d67ff628101c57aa2b.jpg)
常夜灯の説明には次のように記されている。
この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東総門前に建てられたものである。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ
市民に親しまれてきたが、三河地震(1944年)による倒壊とそれに続く
戦火にあって放置されてきた。
この状況を憂えた常夜灯保存委員会により、昭和55年豊橋公園内に
復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の
節目の年でもあり、江戸時代に建てられていたこの付近に
再復元したものである。
(豊橋市常夜灯保存委員会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/36/055162dd22d5b502177d27c532f264e5.jpg)
今度は横断陸橋(東八町歩道橋)を利用して道路の反対側へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/d3/040f8921f76d51a1a06489aba5d65c3e.jpg)
中央分離帯があるケヤキ並木があり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/c1/2db73c4a924d52cd5e0f88bb5245f301.jpg)
その植え込みの中に「吉田宿」の碑があった。
裏面に江戸 七十四里とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/c5/8e663c7b809525efc5b084c992b196a9.jpg)
吉田宿碑の近くに東海道の標識が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/e8/ddbb7c533119b6002927b56528ae5028.jpg)
標識に従って旧街道と思われる道を進むが、
他には何も道しるべのない住宅街のため、道に迷ってしまった。
近くにいた人に道を尋ねて確認することも度々あったが、
案外あまりよく知らない人が多かった。
吉田宿の宿場は道を何度も曲がって進まなければならないので、
街道歩き泣かせだ。
もう少し標識や地図が欲しいと思ったのが正直なところである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/5d/69c5a1264d14b550e3698cd906f947fb.jpg)
持参の地図も参考にしながら道を折れて、進み、引き返し、また折れて、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/6b/2ea88c9f51c21d1a3b8c1931fa68b1ba.jpg)
東海道の道しるべが現れる、ということを繰り返した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ce/87c82a267f316c3eb9b44de78522514d.jpg)
東海道の標識に従って進むと、吉田宿問屋場跡と書かれた石柱があった。
何とか目的地に辿り着けて一安心、といったところ。
吉田宿の問屋場は大動脈である東海道の宿駅として人足100人、
馬100疋の常備を定められていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/f5/4132d1dac783def87b8b47e990655732.jpg)
広い国道259号(田原街道)を横断する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/35/210cec15c3a6051f0180bdd6efc919a0.jpg)
ちょうど路面電車が通り過ぎるところだった。
路面電車の走る街にはなんとなくノスタルジーを感じる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6c/b46f4d9c5875b2c9805f7be61b51420e.jpg)
国道259号を横断して直ぐのところに吉田宿本陣跡碑が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/b6/30f0f2e1e14d2f9ccd18936e979da4e3.jpg)
その少し先の鰻料理の店先にも吉田宿本陣跡の碑があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/c9/fad1a6e2f96b9aff50e5a22d6cf908ee.jpg)
享和二年(1802)の書上によると、吉田宿には清須屋与右衛門と
江戸屋新右衛門の2軒の本陣と、脇本陣1軒、旅籠65軒があり、
札木町辺りは宿の中心部として最も賑った場所であった、と記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/9a/5798f777b995d54adaad82cfcb490853.jpg)
きく宗は、江戸時代より約200年変わらぬ味の郷土料理『菜めし田楽』の
老舗である。
創業は、文政年間(1804~30)の江戸時代末期の頃、とのこと。
ここで少しの間だけ吉田城見学のため、引き返すことにした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/40/5ed4f153b811783beec36844a372f4fe.jpg)
国道1号西八町交差点の横断陸橋を渡り、吉田城へ向かう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/6f/c20abed09e179b3e81871a410c7a4ab2.jpg)
豊橋市役所前、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/de/dbad8df94622b7af04fd8dcbf17ac501.jpg)
豊橋市公会堂前を通り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/46/aae7ab8d23173cb3806e2d0fb2324f82.jpg)
10時32分、吉田城(豊橋公園)に到着した。
吉田城は、旧東海道からは少し外れており、時間もそれほどないので、
駆け足で城内を見学することにする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/80/a7dcea0982e9c9e0e8fdf1fafbd029e1.jpg)
吉田城跡
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白により築城された。
東三河の戦略拠点の1つとして、争奪戦を繰り返し城主が次々と入れ替わった後、
天正十八年(1590)に池田輝政が15万2千石の城主となり、城下町の改築や
整備などが行われた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/21/2762526475527fedb489bd21ab0cac85.jpg)
江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。
別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、
明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。
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吉田城二の丸広場を本丸跡の鉄櫓(くろがねやぐら)へ。
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着到櫓(ちゃくとうやぐら)跡
城内に集まった兵士たちを観察・点検するための櫓
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冠木門跡から本丸入口の南御多門方面を見たところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/16/b9c5ee9d2ed297f5147b59ef13a04cbd.jpg)
吉田城櫓配置図
本丸手前の南御多門の左に千貫櫓、右に辰巳櫓が。
また、本丸奥の中央部分豊川に面して北御門、左に鉄櫓、
右に入道櫓が描かれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/9b/8307fb388fbff78f6a04cdeb952389a7.jpg)
南御多門の千貫櫓跡の石垣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/95/b00bbf0338ae2f7471b5e0fa30c4a4a2.jpg)
南御多門跡を通り抜けると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/43/81f977e770f29b46ba29d1c62f2c3a44.jpg)
本丸跡の広場に出た。
本丸の中央には、本丸御殿があった、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/bf/1302b061b106aec3f345ebd0bb81a804.jpg)
本丸跡から見た鉄櫓(くろがねやぐら)
昭和29年に復元されたもの、だそうだ。
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なんと、鉄櫓の扉は閉じられており、”本日は終了しました”の表示が。
月・火は休館日とある。 あ~っ残念無念!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/c4/171c13af103dd514d127a344c7ce35f9.jpg)
豊川に面した石垣上の武具所跡から豊川上流を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/c0/a09f271762cc3d21d5e88bd2ec6c4e33.jpg)
豊川下流(国道1号吉田大橋方面)を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/80/246d10a98f75dd4b178e7a14a221361f.jpg)
武具所跡から見た鉄櫓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/50/f23028d5bdbe5d4c609ceea56297552a.jpg)
鉄櫓から本丸跡を見たところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/3e/3b43a9b1d48a3e7250d2dc67650e84ac.jpg)
裏御門跡の石垣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ba/16c1b9b1af66a2906688b9c560938597.jpg)
裏御門跡から見た鉄櫓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/10/dc9fa83def5422c5f870c66fbcb845fd.jpg)
11時1分、国道1号へ戻り、西八町交差点の横断陸橋を渡る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/89/9e24461013eed940c45a164a4a732ff8.jpg)
右は国道1号吉田大橋方面で、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/ab/b08d88d246b49107ff8659c903dbce27.jpg)
左は国道259号(田原街道)方面である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/cb/70bd7e1f7f04619bd91eee36c234fc4d.jpg)
真っ直ぐ国道1号から分離した国道23号を進むと、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/1a/8b809fe02bff30fc49e534a37add2e27.jpg)
吉田宿の西惣門の復元模型があった。
吉田宿西惣門は、江戸時代には東海道筋の坂下町と上伝馬の間にあった。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、
四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪があった。
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この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にして作られたもので、
その惣門は吉田城大手門を延宝二年(1674)に移築した、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/d8/3ca09cd05750fec997a02d39e4ace2d7.jpg)
西惣門先の交差点を右に折れ、豊川方面に向かって進み、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/3d/24502cd803336dc0bc37b6258c1c9d11.jpg)
豊川から50mほど手前の信号を左折して旧街道を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/25/de8d755f196e9d85757a04801df9bd66.jpg)
豊川堤防に出てみようと細い路地を右に曲がると、湊町公園があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/e5/d54dab575e047b47573db7da2c8f1989.jpg)
公園内を進んで行くと、池中に湊築嶋辨天社の赤い幟が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/22/9c9a66b6d2d4ff4e7613f247116e9296.jpg)
湊築嶋辨天社境内の池畔に、
芭蕉が、貞享四年(1687)11月10日、芳野紀行の途次越人を伴い、
保美(渥美町)に杜国を訪れる際に吉田に泊り、
その夜の感慨を詠んだ句碑「旅寝塚」がある。
「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/41/9900084c711d9c60308b1d8d280fd091.jpg)
湊築嶋辨天社の創建は、戦国時代に琵琶湖にある竹生島に鎮座する
弁財天の分霊を勧請したのが始まりとされる。
山田宗徧が造ったという池中の築島に立つ湊築嶋辨天社の社殿は、
国の登録文化財に指定されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/19/bd6224df86b8116b078763c9620dc45e.jpg)
湊神明神社の鳥居
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/ff/7421f4b279e254e41d42d4b413b2fd09.jpg)
湊神明神社
祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
白鳳元年(672)創建と伝えられる伝統のある神社で、
かっては吉田城下最大の祭りと云われた、元和年間(1615~24)に始まり、
伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/41/ae1a617e26b5d855b7eb3de3901e1dbe.jpg)
旧街道は、県道496号船町交差点を右に曲り、豊川方面へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/b3/4d4bf11d92b57be809c21bc3ae16ee76.jpg)
豊橋は幕府直轄の五大橋のひとつとされ、
現在の位置の73m下流に架けられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/3a/754678f23a6050246d58a29496ba1322.jpg)
豊川を渡る。
海が近いためか、川幅は広い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e5/dac827e66a29c0e1afbdf7ef2d659e9b.jpg)
国道1号吉田大橋の向こうに吉田城の鉄櫓が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/fd/fce597cb104d8ea0d8babf940d690a7b.jpg)
豊川を渡り終えて、しばらく堤防の上を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/17/76eb971f7ec25e80cac8d02e039f99e8.jpg)
11時37分、聖眼寺(しょうげんじ)に到着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/a5/6353d7150f42bf435aa94224db0d9a4c.jpg)
門の前に、境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和六年(1769)の再建松葉塚、
宝暦四年(1754)建立の古碑松葉塚標石があり、文学史研究上資料的価値が
高いもの、と書かれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/02/baf086415b162fb2a455a971d3ad492f.jpg)
聖眼寺の門を潜って中に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/39/120be18d7ab1c955fb4d1a266dd91592.jpg)
聖眼寺本堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/de/70c8c6b7bc93f51c8308e29059c34eb0.jpg)
境内には芭蕉句碑が二つ並んで建っている。
左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保四年(1744)、
芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/40/deaea5578643e7b77c210568761b0646.jpg)
右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和六年(1769)に建てられたもの。
貞享四年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して
渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄り
詠んだものと云われている。
「松葉(ご)を焚て 手拭あふる 寒さ哉 芭蕉翁」という句が刻まれていて、
「松葉塚」名称の由来を示している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/fe/32cca1671f548a2a9b05b4e40cd6312b.jpg)
旧街道を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/45/5be14f6001051e555848b733aeef7c82.jpg)
旧い趣のある大きな家を過ぎ、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/68/d5022b60dd5d048fed8b76ef5c858f55.jpg)
さらに旧街道(県道496号)を進むと、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/16/56dfe5f02b3b5f3cbe964993deb811b9.jpg)
瓜郷遺跡を示す標識が。
復元遺跡まで120mとあったので行ってみることに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/21/15d5ac9be8a27b146ae0ea7667bb9556.jpg)
12時12分、瓜郷遺跡(うりごういせき)に到着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/6d/14ce6d2471f17575fe4d2ebf68968196.jpg)
瓜郷遺跡は、低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する弥生時代中期から
古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落の跡である。
昭和22年(1947)11月に発見され、昭和27年10月まで、5回にわたり、
発掘調査が実施された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/98/7357d737ba0043453241310ed65d255f.jpg)
瓜郷遺跡は、唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに
弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なもので、
出土品は 豊橋市美術博物館に収蔵されている、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/fb/a3cb2103885a4cb70e319812057deeb6.jpg)
旧街道(県道496号)に戻って進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/26/cdec57754c1254ffe7977ab23237b206.jpg)
12時25分、豊橋魚市場前を通過すると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/70/3676ca6f5fac91c43d8b2259942b5b91.jpg)
12時26分、豊川市に入った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/37/edd58f654f68d7c490db2b3015d05056.jpg)
豊川放水路に架かる高橋を渡る。
随分大きな放水路である。まるで川のようだ。
歩道がないので、注意が必要だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/03/b1126fcba9595adfb5e7a7e0feebbfe8.jpg)
左にJR飯田線の鉄橋、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/8d/e6a75314f5c8dbb2e13c9b4caa1c2260.jpg)
右には国道1号の小坂井大橋が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/d4/5e408a183c2d9cc5eca4f0462e50aaac.jpg)
高橋を渡り終えて道なりに旧街道を進む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/30/1bd2c57ce1da453a07c02470525f43b5.jpg)
善光寺川と書かれた運河のような小さな川を渡る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/a3/feb734f1e625ad5bd68728cf96e47927.jpg)
子だが橋碑の説明板には、
「子断が橋」とも云われ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭初日に
この街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった、
と伝えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/15/3b2f7b64c2dd0f53b3e3b031acfaf2b1.jpg)
ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と
父母に逢う楽しさを胸に秘めて暁の街道を足早に通りかかり、
橋の上まで来た。見れば我が子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに
「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。
(豊川市教育委員会)
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国道247号の才ノ木南交差点、続いて県道385号の才ノ木交差点を横断。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/60/e58eb1f3d446534dfc13f234de77f2f0.jpg)
菟足(うたり)神社前を通過
菟足神社には、次回あらためて参拝することにしよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4b/6300ea894c9eacbd70d7efd98e7acbc3.jpg)
旧い家の前を過ぎると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/4f/9199f85677efcc99a6ce8d5c871485af.jpg)
JR飯田線の踏切があり、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b4/5eac90f01bec0d8e86c7b9174db580c0.jpg)
左に小坂井駅が見えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/a2/cba78c0310c62c5365f41cd4a9644944.jpg)
12時46分、小坂井駅に到着
この日のゴールは、JR飯田線小坂井駅ということにした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e3/797ce89ab6c5d66b73b533ef135a2c23.jpg)
12時56分発の豊橋行で豊橋駅へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/5a/0b546dabe9695aff251c90c15f2dc596.jpg)
お昼がまだだったので豊橋駅で駅弁を買い、新幹線乗り場へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/2a/623a0fac0f4f5dae72664d51d3b79907.jpg)
助六寿司を食べながら「こだま」号を待った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/9b/0cef993f9d8e5faaaee6f2175c71e725.jpg)
「こだま」号で浜松駅まで行き、浜松駅で「ひかり」号に乗り換え、
帰路に就いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/7f/4ee8c581b6988601e213058513276965.jpg)
第Ⅲステージ第1回(2日目)は、予定では二川宿(JR二川駅)から吉田宿(JR豊橋駅)
までだったが、少しでも先へ進んで距離を稼いでおきたいとの考えから、
JR小坂井駅までを歩いた。
また、予定にはなかった吉田城を見学したが、シンボルとも言える鉄櫓が、
あいにくの休館日で中に入れなかったのは、誠に残念だった。
これから本格的な夏を迎えるため、体調には万全の注意を払いながら歩きたい。
この日の万歩計は、25,000歩余を計測していた。
旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(1日目)へ
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