ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(2日目)

2018年05月15日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
平成30年5月15日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第1回(2日目)は、二川宿(JR二川駅)~吉田宿(JR豊橋駅)である。
時間に余裕があればもう少し先まで歩くことにしたい。

2日目の朝6時45分、ホテル1Fロビーの食堂「和み」へ。
朝食レストラン専用(6:30-9:00)の部屋である。


何名かの宿泊者が食事をしていた。
既に朝食を済ませた人もかなりいた。
皆さん朝が早い。


自分も好みの品を皿に盛り、いただいた。
最近、朝はパン食が多い。


7時40分、豊橋駅に向かい、東海道線上り電車に乗車。


豊橋から一駅目の二川駅には、7時53分に到着した。
この日の出発地である。


7時56分、二川駅前を出発!


駅前の通りを西に向かって進む。


400mほど進むと県道3号の火打坂交差点があり、


交差点を横断してやや急な坂道(火打坂?)を進む。


火打坂交差点から800mほど進むとガーデン・ガーデンという園芸店があり、
その先に信号がある。


旧東海道の道標に従って三叉路を左折する。


この辺りの旧街道は、今時の住宅が続き、昔の面影は全く感じられない。


道路左側には松の木が植えられていた。
それほどの年数は経っていない松である。


松の並木が終わる辺りに旧東海道のクロマツ跡の碑があった。


碑には、高さ11m、幹周2.34m、枝張り17×16m、樹齢約150年と刻まれていた。
裏面には、この地区には、昭和40年代には100本を超える松が残っていたが、
松喰虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松喰虫の被害に遭い、
平成19年2月28日に伐採された、との説明も。


8時34分、豊橋岩屋郵便局前を通過


旧そうな家も見掛けたが、周りは普通の住宅が立ち並ぶ。


右手にマクドナルドが見える手前の殿田橋を渡ると、


8時53分、国道1号に合流した。
(飯村一里塚跡碑を見落としてしまった)


飯村町と三ノ輪町の境に架かる山中橋を渡り、


9時ちょうど、山中橋バス停を通過
この頃になると気温がかなり高くなって、額に汗が滲んで来た。
国道1号沿いは日陰がなく、街路樹なども見当たらない。
直射日光を直接浴びるので、暑い!


豊橋市三ノ輪町の横断陸橋に差し掛かり、


横断陸橋の下が日陰になっていたので、そこで一休み。


9時20分、円六橋バス停を通過。


瓦町交差点手前で変わった形の寺の門と三重塔が見えた。
鶴松山寿泉禅寺という臨済宗妙心寺派の寺院だった。


左側の門柱に子育安産 延命地蔵尊と刻まれている。
門を潜って中に入ってみる。


門を潜って直ぐ右側に3体の石仏が並んでいた。
門柱にあった延命地蔵尊か?


寿泉禅寺本堂
立派な建物である。


本堂の正面に建つ寿泉禅寺三重塔
立看板には、次のように書かれている。
薬師瑠璃光如来 延寿薬効・除病退悪・宇宙和順・国家安康を祈願して、
檀信安穏なることを奉する。


国道1号東八町交差点の横断陸橋の右側を通り、


県道4号(多米街道)と路面電車の線路を横断すると、


大きな秋葉山常夜灯が建っていた。


常夜灯の説明には次のように記されている。
この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東総門前に建てられたものである。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ
市民に親しまれてきたが、三河地震(1944年)による倒壊とそれに続く
戦火にあって放置されてきた。
この状況を憂えた常夜灯保存委員会により、昭和55年豊橋公園内に
復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の
節目の年でもあり、江戸時代に建てられていたこの付近に
再復元したものである。
(豊橋市常夜灯保存委員会)


今度は横断陸橋(東八町歩道橋)を利用して道路の反対側へ。


中央分離帯があるケヤキ並木があり、


その植え込みの中に「吉田宿」の碑があった。
裏面に江戸 七十四里とある。


吉田宿碑の近くに東海道の標識が。


標識に従って旧街道と思われる道を進むが、
他には何も道しるべのない住宅街のため、道に迷ってしまった。
近くにいた人に道を尋ねて確認することも度々あったが、
案外あまりよく知らない人が多かった。
吉田宿の宿場は道を何度も曲がって進まなければならないので、
街道歩き泣かせだ。
もう少し標識や地図が欲しいと思ったのが正直なところである。


持参の地図も参考にしながら道を折れて、進み、引き返し、また折れて、


東海道の道しるべが現れる、ということを繰り返した。


東海道の標識に従って進むと、吉田宿問屋場跡と書かれた石柱があった。
何とか目的地に辿り着けて一安心、といったところ。
吉田宿の問屋場は大動脈である東海道の宿駅として人足100人、
馬100疋の常備を定められていた。


広い国道259号(田原街道)を横断する。


ちょうど路面電車が通り過ぎるところだった。
路面電車の走る街にはなんとなくノスタルジーを感じる。


国道259号を横断して直ぐのところに吉田宿本陣跡碑が。


その少し先の鰻料理の店先にも吉田宿本陣跡の碑があった。


享和二年(1802)の書上によると、吉田宿には清須屋与右衛門と
江戸屋新右衛門の2軒の本陣と、脇本陣1軒、旅籠65軒があり、
札木町辺りは宿の中心部として最も賑った場所であった、と記されている。


きく宗は、江戸時代より約200年変わらぬ味の郷土料理『菜めし田楽』の
老舗である。
創業は、文政年間(1804~30)の江戸時代末期の頃、とのこと。
ここで少しの間だけ吉田城見学のため、引き返すことにした。


国道1号西八町交差点の横断陸橋を渡り、吉田城へ向かう。


豊橋市役所前、


豊橋市公会堂前を通り、


10時32分、吉田城(豊橋公園)に到着した。
吉田城は、旧東海道からは少し外れており、時間もそれほどないので、
駆け足で城内を見学することにする。


吉田城跡
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白により築城された。
東三河の戦略拠点の1つとして、争奪戦を繰り返し城主が次々と入れ替わった後、
天正十八年(1590)に池田輝政が15万2千石の城主となり、城下町の改築や
整備などが行われた。


江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。
別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、
明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。


吉田城二の丸広場を本丸跡の鉄櫓(くろがねやぐら)へ。


着到櫓(ちゃくとうやぐら)跡
城内に集まった兵士たちを観察・点検するための櫓


冠木門跡から本丸入口の南御多門方面を見たところ。


吉田城櫓配置図
本丸手前の南御多門の左に千貫櫓、右に辰巳櫓が。
また、本丸奥の中央部分豊川に面して北御門、左に鉄櫓、
右に入道櫓が描かれている。


南御多門の千貫櫓跡の石垣


南御多門跡を通り抜けると、


本丸跡の広場に出た。
本丸の中央には、本丸御殿があった、とのこと。


本丸跡から見た鉄櫓(くろがねやぐら)
昭和29年に復元されたもの、だそうだ。


なんと、鉄櫓の扉は閉じられており、”本日は終了しました”の表示が。
月・火は休館日とある。 あ~っ残念無念!


豊川に面した石垣上の武具所跡から豊川上流を望む。


豊川下流(国道1号吉田大橋方面)を望む。


武具所跡から見た鉄櫓


鉄櫓から本丸跡を見たところ。


裏御門跡の石垣


裏御門跡から見た鉄櫓


11時1分、国道1号へ戻り、西八町交差点の横断陸橋を渡る。


右は国道1号吉田大橋方面で、


左は国道259号(田原街道)方面である。


真っ直ぐ国道1号から分離した国道23号を進むと、


吉田宿の西惣門の復元模型があった。
吉田宿西惣門は、江戸時代には東海道筋の坂下町と上伝馬の間にあった。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、
四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪があった。


この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にして作られたもので、
その惣門は吉田城大手門を延宝二年(1674)に移築した、とのこと。


西惣門先の交差点を右に折れ、豊川方面に向かって進み、


豊川から50mほど手前の信号を左折して旧街道を進む。


豊川堤防に出てみようと細い路地を右に曲がると、湊町公園があった。


公園内を進んで行くと、池中に湊築嶋辨天社の赤い幟が。


湊築嶋辨天社境内の池畔に、
芭蕉が、貞享四年(1687)11月10日、芳野紀行の途次越人を伴い、
保美(渥美町)に杜国を訪れる際に吉田に泊り、
その夜の感慨を詠んだ句碑「旅寝塚」がある。
寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき


湊築嶋辨天社の創建は、戦国時代に琵琶湖にある竹生島に鎮座する
弁財天の分霊を勧請したのが始まりとされる。
山田宗徧が造ったという池中の築島に立つ湊築嶋辨天社の社殿は、
国の登録文化財に指定されている。


湊神明神社の鳥居


湊神明神社
祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
白鳳元年(672)創建と伝えられる伝統のある神社で、
かっては吉田城下最大の祭りと云われた、元和年間(1615~24)に始まり、
伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている、とのこと。


旧街道は、県道496号船町交差点を右に曲り、豊川方面へ。


豊橋は幕府直轄の五大橋のひとつとされ、
現在の位置の73m下流に架けられていた。


豊川を渡る。
海が近いためか、川幅は広い。


国道1号吉田大橋の向こうに吉田城の鉄櫓が見える。


豊川を渡り終えて、しばらく堤防の上を進む。


11時37分、聖眼寺(しょうげんじ)に到着


門の前に、境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和六年(1769)の再建松葉塚、
宝暦四年(1754)建立の古碑松葉塚標石があり、文学史研究上資料的価値が
高いもの、と書かれている。


聖眼寺の門を潜って中に入る。


聖眼寺本堂


境内には芭蕉句碑が二つ並んで建っている。
左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保四年(1744)、
芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。


右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和六年(1769)に建てられたもの。
貞享四年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して
渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄り
詠んだものと云われている。
松葉(ご)を焚て 手拭あふる 寒さ哉 芭蕉翁」という句が刻まれていて、
「松葉塚」名称の由来を示している。


旧街道を進む。


旧い趣のある大きな家を過ぎ、


さらに旧街道(県道496号)を進むと、


瓜郷遺跡を示す標識が。
復元遺跡まで120mとあったので行ってみることに。


12時12分、瓜郷遺跡(うりごういせき)に到着


瓜郷遺跡は、低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する弥生時代中期から
古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落の跡である。
昭和22年(1947)11月に発見され、昭和27年10月まで、5回にわたり、
発掘調査が実施された。


瓜郷遺跡は、唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに
弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なもので、
出土品は 豊橋市美術博物館に収蔵されている、とのこと。


旧街道(県道496号)に戻って進む。


12時25分、豊橋魚市場前を通過すると、


12時26分、豊川市に入った。


豊川放水路に架かる高橋を渡る。
随分大きな放水路である。まるで川のようだ。
歩道がないので、注意が必要だ。


左にJR飯田線の鉄橋、


右には国道1号の小坂井大橋が見える。


高橋を渡り終えて道なりに旧街道を進む。


善光寺川と書かれた運河のような小さな川を渡る。


子だが橋碑の説明板には、
「子断が橋」とも云われ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭初日に
この街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった、
と伝えられている。


ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と
父母に逢う楽しさを胸に秘めて暁の街道を足早に通りかかり、
橋の上まで来た。見れば我が子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに
「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋のことを「子だが橋」と呼ぶようになったという。
(豊川市教育委員会)


国道247号の才ノ木南交差点、続いて県道385号の才ノ木交差点を横断。


菟足(うたり)神社前を通過
菟足神社には、次回あらためて参拝することにしよう。


旧い家の前を過ぎると、


JR飯田線の踏切があり、


左に小坂井駅が見えた。


12時46分、小坂井駅に到着
この日のゴールは、JR飯田線小坂井駅ということにした。


12時56分発の豊橋行で豊橋駅へ。


お昼がまだだったので豊橋駅で駅弁を買い、新幹線乗り場へ。


助六寿司を食べながら「こだま」号を待った。


「こだま」号で浜松駅まで行き、浜松駅で「ひかり」号に乗り換え、
帰路に就いた。


第Ⅲステージ第1回(2日目)は、予定では二川宿(JR二川駅)から吉田宿(JR豊橋駅)
までだったが、少しでも先へ進んで距離を稼いでおきたいとの考えから、
JR小坂井駅までを歩いた。
また、予定にはなかった吉田城を見学したが、シンボルとも言える鉄櫓が、
あいにくの休館日で中に入れなかったのは、誠に残念だった。
これから本格的な夏を迎えるため、体調には万全の注意を払いながら歩きたい。

この日の万歩計は、25,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(1日目)

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