ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第7回 浜松宿~新居宿

2018年04月18日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年4月16日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージの7回目は、浜松宿(JR浜松駅)~新居宿(JR新居町駅)を歩いた。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には余裕の6時35分に到着。
やはり品川行は便利で早い。
東京駅7時3分発岡山行の「ひかり461号」に乗車。
出発時、自由席はけっこう空いていたが、新横浜ではそこそこに埋ってきた。


出発地の浜松駅には、定刻通り8時30分に到着。


8時45分、浜松駅を後にして、新居宿(JR新居町駅)に向けて出発!


駅前の広小路通りを旧東海道(国道152号)へ。


板屋町交差点を左折し、


旧東海道(国道152号)を西へ進む。
前方に見える高架は、遠州鉄道(えんてつ)のようだ。


国道152号沿いの「ゆりの木通り」商店街を進み、


連尺交差点を左折し、豊橋・舞阪方面へ。
ここから国道278号になる。


連尺交差点を左折した処に浜松宿の標柱があった。
舞阪宿境まで3里(11.7Km)とある。


連尺交差点から100mほどの所に佐藤本陣の説明板が。
本陣は、大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館である。
浜松宿には本陣が6ヶ所あった。
佐藤本陣の建坪はおよそ225坪(745㎡)あった。


国道の反対側に杉浦本陣跡の説明板が。
杉浦本陣は、浜松宿の本陣6ヶ所のうちで最も古い。
建坪はおよそ272坪(900㎡)あった。


川口本陣跡の説明板は地下横断道入口にあった。
浜松宿の本陣6ヶ所のうちで最も新しいのが川口本陣だ。
建坪はおよそ163坪(540㎡)あった。
これらの本陣は、全て戦災で消失してしまった、とのこと。


地下横断道を通り抜けて旧街道を進む。
舞阪まで13Kmとある。
新居町駅まではさらに4-5Kmはあるだろう。


成子交差点手前に、浜松名物「浜納豆」の看板がある古い店があった。
「浜納豆」は乾燥している納豆で、ネバネバしておらず、塩味が効いて、
味噌に似た味でおつまみ、お茶漬けにすると美味いらしい。
家康公も滋養があり保存がきき携帯できると好んだという。
店は既に閉店している感じだ。


成子交差点を右折し、雄踏街道を進み、
9時23分、成子坂バス停前を通過。


浜松商工会議所会館の次の信号を左折し、


9時48分、えんてつストア前を通過。
道を間違ったため、ここまで来るのに少し時間を要した。


道なりに進んで東海道本線下の地下通路を通り抜け、


続いて東海道新幹線下を潜って直進すると、国道257号の森田交差点に出た。


森田交差点を右に曲がって旧東海道(国道257号)を進む。


10時3分、鎧橋(よろいばし)を通過。
平安時代末期、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、
鴨江寺側の軍兵は、辺り一帯の水田に水を張り、鎧を着て、
この橋の守りを固めて戦ったことから、その後「鎧橋」と称したという。


その後、和食めん処「サガミ」や、


うなぎの「大嶋」といった看板を過ぎると、


10時8分、道を隔てて北と南に向かい合った二つのお堂があった。
二つ御堂である。
奥州平泉の藤原秀衡公(ひでひらこう)とその愛妾によって天治年間(1125年頃)に
創建されたと伝えられている。
京に出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、
ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提を弔うために
北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。


現在の北堂は、昭和三十年(1955)に改築され、阿弥陀如来の他に地蔵菩薩、


宝冠に馬頭をいただき、憤怒の顔をした三面八臂の観世音菩薩が祀られている。
交通運搬・農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して江戸時代の
庶民の信仰を集めた。(可美地区自治会連合会)


一方、京の秀衡公は病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、
愛妾への感謝の気持ちを込めて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。
道路反対側に二つ御堂の南堂がある。


南堂は昭和十二年(1937)改築され、薬師如来、不動明王、
大日如来が祀られている。


北堂の西隣に「秀衡の松」の標識が。


以下の説明が。
二つ御堂の西に周囲二丈余(約6m)の「秀衡の松」と呼ばれる古い松があり、
”秀衡の側室の亡骸を埋めた所に、秀衡が植えた松である”と伝えられている。
明治十五年(1882)頃までは老木となって残っていた、とのこと。
現在の松は何代目かになるのだろう。


北堂の裏手を見ると、木々が茂っている場所があった。
鎮守の森といった感じである。


村社八幡神社とあった。


八幡神社の祭神は、品陀和気命(ホンダワケノミコト)(応神天皇)
創建年代不詳、当社は山城國(京都府)石清水八幡宮より奉迎す、とある。


樟の由来
此の樟は元、東若林の西南に忠魂碑があり、其処に植えられてあったものです。
此の忠魂碑が時代の要請により大正七年当時の可美尋常高等小学校に移転されました。
敷地内にあった此の樟を東若林青年会が特に願って貰いうけ、
青年会の記念事業の一端として、同年十月八幡神社前の現在地に移植したものです。
移植当時の幹の太さは、43Cm程でしたが、65年の年月を経た現在(昭和58年10月)
2本共165Cmに立派に成長しました。(説明板より)


10時21分、旧街道に戻り、新居宿を目指す。


夫婦と思しき二人が追い越して行った。
『東海道ですか?』と問われ、『新居宿まで行くつもりです』と答えると、
『これから、豊橋まで行きます』とのこと。
古寺社などには特に立ち寄らず、ただひたすら豊橋を目指すそうだ。


道路標識には豊橋まで37Kmとある。
かつての旅人は、1日10里(約40Km)を歩くのが普通だったそうだが、
今の自分にとってはとても無理な距離である。
二人ともかなりの速足で、その差はどんどんと広がっていった。


ところどころに松並木跡らしい松の木が残っている。
東海道らしい景色ではある。
二人の姿は松並木に遮られて見えなくなった。


10時35分、コンビニ前を通過


道路右手にある村社諏訪神社前を通過


続けて村社熊野神社前を通過


先を行っているとばかり思っていた二人が、再び後ろから追い越して行った。
『???』
どうやら、先ほど通過したコンビニに立ち寄っていたらしい。


10時57分、郷社熊野神社の赤い鳥居を通過


道路が二手に分かれている。
二人は、左の豊橋方面(国道257号)の方へ歩いて行った。
二人とはそれきり会うことはなかった。


道路の分岐点に浜松市篠原と書かれた標柱が立っている。


自分は右側の旧東海道(県道316号)方面へと進んだ。


大きな家(立場本陣)の前に立て札があった。


立場跡
ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。
明治元年(1868)に明治天皇が御小休されたという記録「御東幸御小休帳」や
文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。(中略)
現在、この辺りの字名は「立場」といいます。
(篠原地区自治会連合会)


11時13分、神明宮に到着
建暦二年(1212)浜名湖中における小島神明島に鎮祀せられたるもので、
永徳年間当地に移転し、徳川幕府により御朱印五石を拝受する。


境内の末社には大黒主命・津島神社・榛名神社・若宮八幡宮・東照宮を奉斉する。
神明造り、棟の上の甲板の上に鰹木を並べ、社殿は昭和7年10月に再建された。


神明宮拝殿に参拝し、神明宮を後にした。


旧街道(県道316号)を進むと、一里塚の立て札が。
江戸日本橋より六十七里の一里塚である。
東海道宿村大概帳に、「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されている。
左側とは南、右側とは北を指す。
当時の旅人は、一日十里(約40Km)を歩くのが普通であったと云われていた。
(篠原地区自治会連合会)


高札場跡
藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または
目立つ場所に高札場を設けた。
高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものと
キリシタンや徒党の禁止などがあった。
高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。
明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。
高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。
(篠原地区自治会連合会)


道路脇に小さな社が。
(この後も同じような社をいくつか見掛けた)


11時52分、篠原小学校前を通過


長里橋を渡り、


旧街道を進む。


道路脇に小さな祠が。
先ほど見かけたのと大きさや形がよく似ている。


11時57分、愛宕神社に到着
祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)
創立は文禄元壬辰年(1592)、坪井郷新田村開発当時に、
氏神として京都愛宕神社から御分霊を奉斎


愛宕神社拝殿
慶長六年(1601)二月、徳川家康公が鷹狩りの折、御祈願をしたとの
古老の言い伝えがあり、武将の崇敬が厚かった坪井郷の内、
新田の氏神として崇敬され、由緒不詳ながら、神社宝物として棟札八枚が現存する。
(愛宕神社説明板より)


愛宕神社から800mほどの所に稲荷神社があった。
由緒の概要には、
永享十二年(1440)伏見稲荷より勧請したと言われる。
天正十六年(1588)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると
言い伝えられている。


稲荷神社の石造りの鳥居には、
”文化十三年丙子年十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎”
と刻まれている。


稲荷神社拝殿
現在の拝殿は大正11年に建てられ、境内の森の木が建築材として利用された。
村内の大工数名が建築に携わり、


境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。


境内には、立灯籠が左右にあり、文化年間と刻まれている。


狛犬は稲荷神社らしく、狐だ。


道路脇の小さな社の前に立て札が。


坪井村高札場跡とある。
(説明内容は前述と同じなのでその部分は省略)
近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が長年保存されていました。
(篠原地区自治会連合会)

(この頃からいつの間にかカメラの絞りが変わってしまっており、
画面が暗くなり過ぎていたので、東本徳寺・西本徳寺等の写真は割愛する)

12時49分、春日神社に到着。
(ここで、初めて絞りが変わっているのに気が付き、設定を元に戻した)


春日神社境内には普通の神社にあるような「狛犬」ではなく、
春日神の使いである、雌雄二頭の「白鹿」が立っている。
左は雌鹿で、


右は雄鹿である。


奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿が印象的だ。


旧東海道を進む。
お腹が空いてきたが、旧街道筋には全く飲食店がない。
舞阪駅前へ行けば何かあるだろうと考え、舞阪駅方面へ。


しかし、舞阪駅前には飲食店の1軒も見当らなかった。
仕方がない、とりあえず舞阪本陣辺りまで行くしかなさそうだ。
一応リュックには、おにぎり1個と菓子パンが入っているが・・・


13時3分、旧東海道へ戻ると、松並木が続いていた。
「舞阪の松並木」と呼ばれている。
約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っている、そうだ。
右手には干支で時刻を表す石像が続き、


左手には東海道五十三次の宿場の碑が続く。
平塚宿碑


掛川宿碑


松並木は続く。


舞阪宿碑


荒井宿碑
(今は新居宿と称しているが、かつては荒井宿だった?)


京都
このペースでは、いつになったら京都に辿り着けるのだろうか。
少々不安が募る。


今歩いてきた松並木を振り返る。


波小僧像
むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていた。
魚が取れない日が続いたある日真っ黒な小僧が網にかかった。
猟師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む波小僧です。
命だけはお助けください。
その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり風が強くなったりする時は、
海の底で太鼓をたたいてお知らせします。」と言うので、海にもどしてやった。
それ以来、天気の変わるとき、波の音がするようになったと伝えられている。


松並木の先に国道301号新町交差点がある。
右側が国道301号(現東海道)である。


旧東海道は、新町交差点を横断し、真っ直ぐに進む。


13時22分、見付石垣が現れた。
この石垣は、舞坂宿の東の外れに位置している。
石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(1709)の古地図には
既に存在している、とのこと。


見付は見張所にあたり、大名が通行する際には、ここに六尺棒を持った番人が立ち、
人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持に当たったという。
(舞阪町教育委員会)


舞阪一里塚跡碑
江戸日本橋から68里目(約267Km)の一里塚
天保年間の宿村大概帳には、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれているが、
古老の話では大正時代まで一抱え半もある榎が枝を四方に繁らせていたという。


舞阪一里塚跡碑の横に新町常夜灯が。
舞阪には往還道沿いに3基の常夜灯がある。
江戸時代の舞阪はよく火災に見舞われ、文化六年(1809)には
宿場の大半を焼く大火があり、復興に難儀をした。
当時火防の山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜燈が建立された。
その世話は現在も地域の人達に引き継がれている、という。


舞阪宿に入ると、のりやしらす、鰹節などを売っている店が多い。
近くに漁港があるのだろう。


由比宿で見掛けた”せがい造り”の家も見られた。
(軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし、
棰(たるき)を置いたもので、民家建築に美観を添えたもの)


宝珠院前に立つ仲町常夜灯
文化六年(1809)に舞阪宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をした。
火防の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、4年後の文化十年五月吉日に
この常夜灯が建立された。


宝珠院の山門


工事中の宝珠院
明治六年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所である。


脇本陣まで200mの表示が。


13時40分、本陣跡の碑前に到着。
舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で、公家・大名・幕府役人などが
旅の道中ここで宿泊・休憩した。


本陣跡碑のすぐ前に舞阪脇本陣跡の建物がある。
脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、
普段は一般の旅籠屋として使われた。
現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として
貴重な建物である。
(舞阪町教育委員会)


13時50分、脇本陣のすぐ近くにレストラン「晴美」があったので迷わずに入った。
ここで遅い昼食を摂ることにしよう。
腹が減っては戦はできない。


注文したのはエビフライ定食(1,080円)だ。
お腹が空いていたこともあり美味かった。


レストラン「晴美」のすぐ近くに舞阪宿の標柱が。


西町常夜灯
往還道沿いにある3基の常夜灯の一つで、文化十年に建立されたもの。


14時19分、本雁木跡に到着
舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり、舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)と言った。
舞坂宿には3ヶ所の渡船場があった。
南側は主に荷物の積み降ろし、真中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で、
本雁木と呼ばれた。
雁木とは階段状になっている船着場のことを言う。
新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、
夕方の最終船は午後4時であった。


本雁木跡から舞阪魚港を望む。


本雁木跡から弁天橋方面を望む。


本雁木跡に戻り、旧東海道を進むと、


北雁木がある。


北雁木
舞坂宿の3ヶ所の渡船場の一番北にあるのが北雁木である。


北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用した。
大きく平たい石畳で造られている。


北雁木の先端は海に続いている。


旧東海道を進む。
弁天橋の袂に常夜灯が立っている。


14時26分、弁天橋を渡る。


国道1号浜名BPが走る浜名大橋が見える。


”表浜名湖”の「いかり瀬」に立つシンボルの赤い鳥居が印象的である。


弁天島を進んで行くと、


14時31分、弁天神社があった。


弁天神社
昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、
白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。
そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。
村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いした。
ところが、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。


それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、
州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。
その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、
江戸時代の宝永六年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。
人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。
御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと」といい、
海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。


境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規の句碑
天の川 濱名の橋の 十文字
この句は、明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓から
浜名湖を眺めて詠んだ作品とされている。


松島十湖の文学碑などがある。
月や風や夏 しら波の海と湖
松島十湖は、浜松市出身の県西部地方の明治・大正期を代表する俳人の一人で、
報徳運動家・政治家でもあった。
この句は明治41年(1908)夏の作。


13時50分、弁天島駅を通過


駅前にはホテルやリゾートマンションが立ち並ぶ。


ホテル THE OCEAN


日商岩井浜名湖リゾートマンション


14時43分、中浜名橋を渡る。


広くて立派な歩道が整備されている。


中浜名橋を渡ると、


新弁天島神社がぽつんと建っていた。


14時57分、中浜名橋の次の西浜名橋を渡る。
1Km近くはありそうだ。


右手を東海道新幹線が猛スピードでひっきりなしに走る。


東海道線も走るが本数は新幹線に比べると圧倒的に少ない。


長い西浜名橋を渡り終えると、


釣り船・釣宿や


釣り餌・釣り具の看板が多くなった。


クロダイの魚拓
50Cm、1.75Kgという立派な魚体だ。
釣れたのは平成28年2月8日となっている。今から2年前だ。
浜名湖の入口である”表浜名湖”には浜名湖における好釣り場の多くが集中している、
とのこと。
一度訪れてみたい釣場ではある。


15時25分、湖西警察署前を通過し、


15時33分、この日のゴールJR新居町駅に到着した。
浜松駅を出発してから7時間近く歩いたことになる。
少々疲れた。


15時43分発の上り浜松行に乗車し、浜松駅へ。


浜松駅16時11分発の東海道新幹線「ひかり472号」に乗車
平日だったためか、浜松からは楽に座る(自由席)ことが出来た。


疲れた体に缶ビールが美味かった。


この日は、浜松宿から新居宿までの約16Kmを歩いた。
途中道を間違ったり、確認のため街道を逸れたりしたので、
実際にはそれ以上歩いたと思う。
これでようやく、旧東海道の第Ⅱステージを歩き終えたことになる。
前回見付宿から浜松宿を歩いたのが平成29年2月7日のことなので、
1年2か月ぶりの旧東海道第Ⅱステージである。
また、第Ⅱステージとして三島宿をスタートしたのは平成28年5月22日なので、
既に2年近く経過したことになる。

この後、第Ⅲステージとして新居宿から京都三条までが残っているが、
具体的なスケジュールはまだ立てていない。
他のスケジュールと調整を取りながら、気が向けば京都を目指すこにしたい。
という訳で、何時京都に辿り着けるのかは、全く不明である。

この日の万歩計は、35,000歩余を計測していた。

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする