ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(2日目)

2017年09月25日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年9月25日(月)

「甲州街道を歩く」第十三回2日目は、日野春駅から教来石宿までの約16Kmを歩いた。

2日目の朝、しっかりと朝食を摂り、


7時58分、韮崎駅に向けて出発!


韮崎駅前通り商店街を韮崎駅へ。


昨日おにぎりを買った「ほさか」は、まだ開店していなかった。
今日はコンビニ弁当または道の駅で昼食を摂ることにしよう。


8時6分、韮崎駅に到着


韮崎駅8時29分発の下り電車がやってきた。


新府駅から新府城跡と思しき森が見えた。
『あの森が新府城跡かも知れないねっ』


8時44分、日野春駅に到着


8時58分、日野春駅を出発!


コンビニを求めて富岡三差路へ向かったが、コンビニが見当たらなかったため、
県道612号を釜無川への近道「野猿返し」へ向かう。


9時11分、武川町牧原方面近道「野猿返し」入口に到着


「野猿返し」の坂道を下る。


「野猿返し」の坂道を下る。


いったん県道612号に出て、


さらに「野猿返し」の坂道を下ると、


釜無川橋の袂に出た。


釜無川を渡った所に”むかわ”の看板が。


9時31分、国道20号牧原交差点に到達


大武川橋を渡る。


大武川


大武川を渡って少し進み、下三吹バス停を左に曲がる。


左手の旧道を進む。
緩やかな坂道になっている。


下三吹の集落を進む。


『甘柿なのかしらっ?』
鈴生りである。


下三吹の集落を進む。


集落を進むと正面に田圃が広がり、その手前に「供養塔」がある。
昭和34年8月、台風七号による土石流が村を襲い、下流では被害者が出たが、
この一石塔のおかげで土石流は迂回したという。


田んぼの中に真っ直ぐに道が伸びていた。
水車小屋が見える。その右手に公園らしい広場と東屋があった。
ちょっと一休みしていくことにしよう。


右手を見ると国道20号(右)と舞鶴松(左)の分岐点になっている。


小さな公園があり、東屋があったので立寄ってみると、
中には2人の女性が、休憩していた。(リュックの女性は我々の仲間)
実家の栗拾いに来ていて、一休みしているところとのこと。


女性たちが持参したぶどう(シャイン・マスカットとピオーネ)や
栗の渋皮煮を奨められ、恐縮しながらも戴いた。
『ごちそうさまっ』 『いやぁ このぶどうは甘くて美味しいねぇ』


田んぼの中を伸びる道が白州方面へ通じる道だと教えてもらった。
女性たちに厚く礼を言い、東屋を後にした。


周りが田んぼの農道を進む。


稲刈りの真っ最中だった。


蓮の花が咲いていた。
『きれいだねっ』


周りが田んぼの道を進むと・・・


行き止りになっていた。
有害獣被害防止用電気柵の金網で閉じられていた。


鍵はかかってなくて、手で開けることは出来た。
(この時点ではまだ道が間違っているとは認識していなかった。
東屋での女性たちが教えてくれたことを信じて疑わなかった)


さらに進んだ所で、どうやら道が間違っていることにようやく気が付いた。
このまま進んでも白州へ行けるような様子はない。
『なんだか間違ってるようだねっ』


急いで引き返すことにした。
電気柵の金網の扉を抜け、


来た道を引き返した。


国道20号(右)と舞鶴松(左)の分岐点まで戻り、舞鶴松(左)方面へ。
『白州方面はこの道しか考えられないよねっ』


坂道を上って行くと、萬休院の門が建っていた。


坂道を上って行くと、萬休院の観音像が建っていた。


10時43分、萬休院に到着した。
萬休院入口の地図で白州方面へ通じる道を確認する。
『最初からこっちの道を進んでたら良かったんだぁ』
約30分ほど時間をロスしたことになる。


萬休院に来たからには一応お参りしていこう。


萬休院本堂にお参りを済ませた。


舞鶴松は、平成18年(2006)松くい虫の被害により枯死し、
平成20年(2008)、供養祭の後に伐採されてしまった、とのこと。
かつての松の株が展示されていた。
樹齢約450年と云われている古木だった。


かつて舞鶴松が生えていた場所には、何もなかった。


平成17年(2005年)11月に訪問した当時の舞鶴松は、こんな状態だった。
名称の由来は、傘状の枝が階段状になり、全体の樹形が優美で、
ちょうど鶴が舞う姿に似ているところからきている。
樹齢450年の赤松で国天然記念物指定だった。
その見事な枝振りは、もう二度と見ることは出来ないのだ。


萬休院を後にして、白州方面を目指して坂道を下る。


坂道を下った萬休院の西口に、南無阿弥陀仏名号碑・甲子塔・地蔵尊・
一石六地蔵・馬頭観音像等が安置されている。


西口石塔群を過ぎて進む。


上三吹交差点を渡り、三吹の集落へ。


武川町三吹集落の松


村外れの右手に浄土宗無量院(廃寺)跡があった。


境内の一角に供養塔・庚申塔・安永六年(1777)造立の地蔵尊等が。


境内奥には神明社ともう一社が祀られている。


浄土宗無量院跡を過ぎると、


国道20号の手前右手に旧甲州街道一里塚跡碑があった。
碑には「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と刻まれている。


国道20号の尾白川橋で尾白川を渡ると、


道路の反対側に甲州街道古道入口 はらぢみち と刻まれた道標が目に入った。


横断歩道のない道路を渡り、国道20号を右手に見ながら・・・


草叢の道を進む。


道標を兼ねた馬頭観音が三体祀られていた。
横山の道標と呼ばれ、古府中より穴山、日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、
後に「はらじみち」とも云われていた借日の主要道路である。
甲州街道の開設により台ヶ原村への入口でもあったので、江戸時代には
交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた。
馬頭観世音の側面に道標として「右かうふみち」「左はらぢ通」と記されている
台ヶ原宿に現存する唯一の道標である。


無名の巨塔入口と記された碑があったが、ここは素通りして、


古道を進む。


古道の案内碑に従って進む。


草で覆われた古道を進む。
左手には尾白川が流れる。


逆方向から古道を歩いて来た人とすれ違った。


古道の台ヶ原宿側入口に到着。
ここで古道は終わりになっていた。


石仏石塔群
馬頭観世音碑や庚申塔が並んでいる。


台ヶ原下交差点で国道20号を横断すると、”甲州街道台ヶ原宿”の
標識が目に入った。ここから台ヶ原宿だ。
台ヶ原宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠14軒であった。
この地は高く平らで台盤のようであったため、台ヶ原という地名になった。
宿並は、建設省(1986)「日本の道百選」に選ばれている。


台ヶ原宿に入ると、左手に石祠道祖神が祀られている。
道祖神は、村の境や辻などにあって悪疫を防ぎ、旅人の安全を守り、
縁結びや子宝祈願の民間信仰の神である。
文化三年の記録によれば、1月14日の道祖神祭の際には
「虎頭の舞」が奉納されており、同年間の「甲州道中文間延絵図」に
図示されている3ヵ所のうちのひとつがここである。


中宿に入ると右手に杉玉(酒林)を吊り下げた酒店がある。


右手に本陣跡碑と秋葉常夜燈があった。
御本陣小松屋伝右衛門跡で、天明二年(1782)の記録によると、
敷地は間口18間、奥行19間の351坪で、建坪は92坪だった。
甲州道中の参勤交代の大名は、高島藩・高遠藩・飯田藩の3藩に
限られていた。


台ヶ原宿の見取り図


大きな杉玉(酒林)が吊り下る山梨銘醸(北原家)は、寛延二年(1749)の創業。
銘酒七賢の蔵元である。
当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治十三年(1880)
には明治天皇巡幸の際には行在所になった。


天保六年(1835)建替えの際、高遠城主より竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領し、
以来銘酒を七賢と称した。
七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら
政談を行った七人の賢人のこと、だそうである。


山梨銘醸の隣に明治天皇菅原行在所碑が建てられている。


問屋場跡
天明六年(1786)の記録によると、敷地は間口7間、奥行き28間の196坪、
建坪は56坪あった。


七賢の向いには明治35年(1902)創業の元祖信玄餅の老舗金精軒がある。
建物は宿場時代の旅籠、とのこと。


右手の一段高い所にお茶壺道中所縁の田中神社がある。
お茶壺道中は江戸幕府三代将軍家光の寛永十年(1633)から毎年四月中旬、
京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、
江戸城へ運んだ行列のこと。


宿並の左手に旧甲州街道一里塚跡碑があった。
台ケ原の一里塚跡である。
江戸日本橋より数えて四十三里目の一里塚だ。


少し先の左手に元旅籠「津留や諸国旅人御宿鶴屋」がある。
往時の佇まいをそのまま残している。


建物前には講札が三枚掲げられている。


新築された現在のつるや旅館


12時22分、道の駅「はくしゅう」に到着。


あまりお腹は空いていなかったこともあり、
もり蕎麦(600円)を注文した。


『この蕎麦けっこう黒いねぇ』


『まあまあ美味しかったわねっ』


道の駅「はくしゅう」に、タクシー乗り場があった。
しかし、タクシーは常駐はしていない。
タクシー会社の電話番号が書いてあり、呼べば来るというシステムなのだろう。
旧道から小淵沢駅までタクシーを利用することも考えられるため、
一応番号を控えて、道の駅を後にした。


国道20号に並行している旧道を進む。


間もなく稲刈りの時期を向える頃だ。
『きれいな風景だねっ』


『いやぁ 美味しそうなぶどうだよねっ』
『ちょっと小粒だけど、何という品種なんだろうねっ?』
『ワイン用なのかもねっ?』
手を伸ばせば届く距離である。


13時6分、前沢ちびっ子広場を通過。


旧道を教来石宿を目指して進む。
小淵沢駅14時36分発の特急に乗るためには、教来石宿辺りまで
タクシーに来て貰わないと間に合わない。


『今どの辺なのかなぁ?』
教来石宿までどのくらいの距離なのかが気になる。


13時22分、前沢上交差点で国道20号に合流し、


神宮川を通過。


SUNTORY白州醸造所まで1Kmの標識が現れた。


国道20号を分岐すると、


北杜市の白州スポーツ公園の総合グラウンドがあった。


さらに進むと、


13時39分、般若堂と書かれた小さな建物があった。
ここからは、凡そ20分ほどで教来石宿に着くことだろう。
ここで、タクシー会社に電話をして、教来石宿まで迎えに来てもらうことにした。
タクシーもおよそ20分ほどかかる、とのこと。


教来石宿を目指す。


松山沢川橋を渡る。


蕎麦畑の景色が広がる。


流川橋を渡る。


橋の上流には国道20号が走っているのが見えた。


14時ちょうど、国道20号に合流した。


国道を歩いていればタクシーが通れば分かるだろう。


明治天皇御小休所址碑を過ぎると


駐在所があり、向いには郵便局がある。
ここなら分かり易いのではないだろうかと思い、
タクシー会社には駐在所前でタクシーを待つことを連絡したが、
なかなかタクシーは、現れない。


14時20分くらいになってやっとタクシー2台が到着した。
運転手の話では、小淵沢駅まで約10分ほどらしいが、
小淵沢14時36分発の特急「あずさ20号」には、ぎりぎりである。
果して間に合うのか・・・
この電車に乗り遅れたら、次の新宿行特急は、16時5分なのだ。
14時31分、小淵沢駅に到着し、駅のホームへと走った。
(タクシーが遅れたため、電車のことで頭がいっぱいになり、
この間の様子を撮り忘れてしまったのは、残念で仕方がない)

ホームへ急いだ結果、何とか間に合った。
14時36分、定刻通り特急「あずさ20号」が到着した。


電車は日曜日ということもあってか、ほぼ満席状態だったが、
何とか座れて一安心。
別々の車両に分かれて座ることになったが、これは仕方がない。
新宿まで、ひと眠りすることにしよう。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ~っ』


「旧甲州街道を歩く」第十三回 韮崎宿~教来石宿(2日目)約16Kmを歩き終えた。
萬休院手前で道を間違えて、30分以上時間をロスするというハプニングには、がっくり。
また、教来石宿からタクシーで小淵沢駅に向かおうとした際に、
呼んだタクシーがなかなか来ず、目的の電車に間に合わないのではないかと、
はらはらどきどき、さすがに焦った。

次回はどんなハプニングが待っているのか、次回の「旧甲州街道を歩く」が
今から楽しみではある。

旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(1日目)

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。


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