ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十三回 韮崎宿から教来石宿(1日目)

2017年09月24日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年9月24日(日)

昨年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十三回目は、韮崎宿(JR韮崎駅)から
教来石宿(JR小淵沢駅)までの約33Kmを歩いた。
1日目(日)は、韮崎駅から日野春駅までの約17Kmを歩いた。

この日は、新宿から特急で韮崎まで行くことにした。
新宿駅7時ちょうど発「スーパーあずさ1号」の自由席は、満席だった。


車内放送によると、指定席とグリーン席も満席とのこと。
女性2名は通路にビニールシートを敷いて腰を下ろして一安堵だ。


甲府駅まではずっと立ちっ放しだった。
座れたのは甲府駅からたったの1駅で10分ほどである。
8時37分、韮崎駅に到着。


『いやぁ 今日は歩く前から疲れちゃったよっ』
『次からは指定席だねっ』
この日の参加者はお馴染のメンバー6名(自分も含む)だ。


9時3分、韮崎駅を出発!
この日のゴール日野春駅を目指す。


韮崎駅前通り商店街に「ほさか」と云う小さなおにぎり屋があった。
途中コンビニ弁当でもと思ったが、あまり期待は出来ない。


昼食弁当にと、めいめいお好みのおにぎり(1個110円)を買い求めた。


韮崎駅前通り商店街を進む。


県道17号本町交差点を右に曲がり、小淵沢方面へ。


9時31分、国道20号との合流点、一ツ谷交差点に到達。
交差点の右側には、中央道韮崎ICへ至る七里岩トンネルが見える。


一ツ谷交差点を過ぎて少し進むと、


十六石と書かれた標石があった。
武田信玄が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信と云われた天文12-3年頃、
年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎市)を守るため、今の一ツ谷に
治水工事を行なった。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって
今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり、韮崎は宿場町として栄えるようになった、
と云われている。


15mほど離れた所に直径1.5mほどの石があったが、
これがその石(十六石)なのだろうか?


十六石を過ぎてしばらく進むと、国道20号から分岐して下祖母石の旧道に入る。
分岐点に水難供養塔が建てられていた。
昭和34年(1959)8月14日の台風7号の豪雨により釜無川が氾濫、
これによる犠牲者を供養したもの、だそうだ。


9時53分、韮崎駅を出発して50分、日陰があったので、ここで休憩していこう。


旧道の右手には七里岩の断崖が聳える。
七里岩は太古の昔に富士山程の高さがあった八ケ岳が大噴火し、
八ケ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積した。
これを釜無川が浸食して出来上がったもの、なのだそうだ。
この崖はおよそ七里(約28㎞)にも及んでいるので,古くから七里岩と呼ばれている。


旧道を進む。
白壁の土蔵などの旧い建物が昔を偲ばせる。


美味しそうないちじく
『ちょうど食べごろだねっ』


『見事な松の木だことっ』


威厳のある茅葺の武家門
当家は武田家に仕えた名家、とのこと。


10時14分、下祖母石(しもうばいし)の神明宮に到着。
享保九年(1724)この地に遷座し、旧祖母石村・旧西岩下村の鎮守だそうだ。


狛犬が立派で綺麗な神社だ。


神明宮に旅の安全を祈願


拝殿の先にあるのは、観音堂とのこと。


中には、きれいに飾られた観音堂が鎮座していた。


神明宮の前に南無阿弥陀仏と刻まれた石があった。
赤い色をしているところから、地元では赤地蔵と呼ばれている、そうだ。


なまこ壁の土蔵を左手に見ながら進むと・・・


国道20号との合流点手前に、九頭竜大神の石塔や道祖神の石塔があった。
左から蚕神・石尊神・道祖神・和氣大神・九頭竜大神の碑が並んでいる。
昭和34年の水害で流失したものを復元したもの、だそうだ。


和氣大神・九頭竜大神の碑


九頭竜大神の碑から200mほど引き返し、桐沢橋を渡る。


釜無川
釜無川は甲斐と信濃の國堺に位置する鋸岳に源を発し、
八ケ岳を源流とする立場川を吸収し、流末は笛吹川と落ち合い、富士川となる。
川名は、「水量が豊富で流れが速い為、釜を洗う際、流されて無くなる」とか、
絶え間なく流れる様子を表した”隈無”(くまなし)に由来している、とのこと。


釜無川を渡り、振り返ると七里岩の崖の上に新府城跡と思える小高い森が見える。
新府城は、武田勝頼が築城し、甲斐武田氏の城郭技術の集大成と評価される崖端城。
七里岩の要害に真田昌幸が普請し、甲府の府中に対して「新府」と呼ばれた。
名門甲斐武田氏の最期の城となった。
『あの辺が新府城跡なのかなぁ?』


小桐橋を渡ると、


左手に男女双体道祖神がある。
道祖神は村境等に置かれ、悪霊の侵入を阻止している。
夫婦仲が良ければ悪霊の付け入る余地が無いことを意味している、そうだ。


『美味しそうだわねっ』


百観音と刻まれた碑が建てられていた。
その横には馬頭観世音碑も。


旧道を進む。


入戸野入口と書かれた所を左に曲がると・・・


宝蔵寺の参道脇には数多くの石仏石塔が並んでいる。


11時18分、宝蔵寺に到着。
宝蔵寺の山号は延命山
本尊は地蔵菩薩、脇に等身大の守護菩薩「虚空蔵菩薩立像」がある、とのことだが、
あいにく中は見ることが出来なかった。


本堂の前に腰を下して一休みしよう。
『今日は意外と暑いねぇ』 最高気温は29度くらいはあるだろう。


11時41分、宝蔵寺を後にして旧道を進む。


徳島堰に沿って進む。
徳島堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰)中随一と云われている、とのこと。


旧入戸野村(にっとのむら)の火の見櫓を見ながら進む。


火の見櫓の横に石仏二体と石祠が祀られていた。


名称松(くろまつ)碑と書かれた松の木があった。
昭和拾参年七月弐拾六日建立の碑には「當地方ノ一銘木ナリ」と刻まれている。
今は小振りな二代目が植栽されている。


徳島堰に沿って進む。
『いやぁ これは凄い流れだねっ』
『落ちたら助からないよねっ』


水車のような羽が水しぶきを上げて勢いよく回っている。


徳島堰入戸野第一発電所とある。
ただ今の発電量8KWの表示が見える。


その先に第二発電所があった。


こちらは、発電量12KWと表示されている。


第三発電所
水車の回り方が遅くて重そう。
ゴミが絡んでいるようだ。
発電量は0KWと表示されていた。


円井逆断層の案内に沿って進んでみることに。


徳島堰が続いていた。


円井逆断層は、どこまで行けば良いのだろう?
砂利道になり、この先まだ望めそうにないので、
円井逆断層を観るのは諦めた。


戸沢川を徒歩渡りして、


徳島堰を左手に見ながら進むと、


旧道に戻った。


少し進むと、下円井地区多目的集会所があった。
時計は12時13分を差していた。
『お腹空いたわねっ』


コミュニティ広場もある。
集会所の日陰に腰を下して、ここで弁当にしよう。


弁当は、韮崎市内で買ったおにぎり2個である。
塩かげんが程よく効いていて美味しかった。


12時45分、再び旧道へ。
旧道脇にコスモスや


ケイトウ


蕎麦などの花が咲いていた。


旧道を進むと、目の前に田んぼが広がっていた。
『素晴らしい景色だなぁ』


「かかしの里」モニュメントが建っていた。


ここでは毎年カーニバル実行委員会による、かかしイベントが行われる、とある。
写真では、稲刈りが終わった頃のようにも見えるが・・・
この後行われるのだろうか?


徳島堰の由来についての説明板があった。


寺沢川の手前に徳島堰古沢サイホンがあった。
徳島堰を横切る沢があると、堰は沢の手前で一旦沢の下に潜り込み、
沢を超えた所で再び浮かび上がる、という造りである。
『へぇ~っ 上手く出来てるもんだね~っ』


徳島堰に沿って進む。
旧道の前方に七里岩が聳える。


国道20号手前を下り、


円野横断地下道を潜って国道20号を横断。


国道20号を潜った先に真っ赤な彼岸花が咲いていた。
『いやぁ 見事だねぇ』


旧道を進む。


右手に堂々としたなまこ壁の長屋門が。


敷地内を覗くと、庭に明治天皇圓野御小休所碑があった。
明治天皇は 明治十三年(1880)巡行の際に、ここ内藤家で休息した、とのこと。
『自分ちの庭に明治天皇巡御小休所碑があるって凄いんじゃねっ』


旧道は国道20号に合流。


13時37分、国道20号を少し進むと、左にコンビニがあった。
『冷たいものでも飲んで行こうっ!』


コンビニの前で一休みだ。


『アイスキャンディが冷たくて美味しいっ』


国道20号を進む。


小武川に架かる小武川橋を渡る。


小武川は、この先で釜無川に合流している。
小武川橋を渡ると、北杜市だ。


黒沢川を渡り、


旧道を進むと、


旧甲州街道一里塚碑があった。
”甲府ヨリ六里ナノデ、六里塚トモ云ウ”とある。


旧道の右手には七里岩の断崖が聳える。
『ここの断崖はきれいに見えるねっ』


国道20号を進み、再び旧道へ。


武川町牧原辺りには、白壁の塀に囲まれた大きな構えの家が続く。


国道20号から分岐したり、合流したりを繰り返す。


国道20号牧原交差点手前で何度目かの分岐をし、


左に国道20号牧原交差点を見て、右に曲がり、
県道612号を日野春駅を目指す。


釜無川橋を渡る。


釜無川


河原には鮎釣りを楽しむ人の姿が。


釜無川橋を渡って少し行った所に、日野春駅方面近道「野猿返し」
と書かれた標識があった。


「野猿返し」の山道は、思ったほど険しい山道ではなかった。


いったん県道612号の道路に出た。


道路の反対側にさらに「野猿返し」の山道は続いていた。
『ここまで来たら行くしかないねっ』


「野猿返し」の山道を上ること15分、


再び県道612号に出た。
ここから先は「野猿返し」の近道はなかった。


日野春駅を目指して県道612号を進む。


日野春駅へ0.2Kmの案内標識が現れた。
少しでも近道出来るのはありがたい。


標識に従って住宅地の坂道を上って行くと、


15時1分、日野春駅に到着した。
次の上り電車は15時25分だ。


日野春駅のホームで待つことにした。


待つことしばし。


上り電車が到着した。


15時38分、韮崎駅に到着。
平和観音像が迎えてくれた。


韮崎駅前通りを窟観音へ。
今朝韮崎を出発した際、本町交差点付近からちらっと見えたのが気になって
一度見ておこうということに。


15時52分、窟観音碑前に到着


七里岩の崖下に曹洞宗仏窟山雲岸寺がある。
雲岸寺は、寛正五年(1464)霊場窟観音を守るべく創建された寺である。


懸崖造りの窟観音は雲岸寺の裏にあった。


窟観音の下に洞窟があり、地蔵と弘法大師・成田不動明と刻まれた石碑と
像2体が祀られていた。


石段を上り、窟観音堂へ。


手前の窟室内には寛文七年(1667)に千体仏(千体地蔵尊)が安置された、とある。


千体仏(千体地蔵尊)と弘法大師像
当時より、必ず一体は参詣祈願者と目が合う千体仏があると信仰されてきた。


中央の窟室内には天長五年(828)弘法大師作の御尊像が安置されている。


奥の窟室は窟観音本殿で、天長五年(828)弘法大師作の
本尊聖観世音菩薩像が安置されている。


窟観音堂の手前にも洞窟があり、平和観音への近道とある。


洞窟を抜けると、


平和観音像が目の前に現れた。
『ここからで充分だよねっ』


振り返ると富士山が薄らとその雄姿を見せてくれている。
『富士山も見ることが出来て良かったよねっ』


窟観音を後にして、この日の宿泊先「清水家旅館」へ。
韮崎駅前通り商店街を進む。


16時13分、「清水家旅館」に到着。


「清水家旅館」で寛ぎ、大相撲千秋楽の日馬富士優勝を見届け、
一風呂浴びて汗を流した。


汗を流した後は夕食である。
先ずは、この日無事歩き終えたお互いの健闘を称え、
『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』 
『また明日も頑張りましょうっ!』


この日の夕食
お腹が空いていたこともあり、生ビールともども美味しかった。


「旧甲州街道を歩く」第十三回 韮崎宿~教来石宿(1日目)を歩き終えた。
特急「スーパーあずさ1号」では甲府まで立ちっ放しだったので、
出発時点からやや疲れ気味だったが、何とか無事歩き終えて一安心。

国道20号牧原交差点から日野春駅へは「野猿返し」の山道を歩いたこともあり、
最後はやはり少々疲れたというのが、正直なところである。

この日は、特に変わった事はなかったが、明日はどんなハプニングが
待っているのか、明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみでもある。

旧甲州街道を歩く 韮崎宿から教来石宿(2日目)

この日の万歩計は、26,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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