ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(2日目)

2017年04月17日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年4月17日(月)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十一回(1日目)は、黒野田宿(JR笹子駅)から
駒飼宿までの約11Kmを歩いた。
2日目のこの日は、鶴瀬宿から石和宿(JR石和温泉駅)までの約9Kmを歩いた。

2日目の朝、8時からの朝食までには少し時間があるので、
近くを散歩してみようということに。
女性陣は、一足先に出かけたようだ。
「甲斐の国自然学校」の入口にあるカブトムシの模型
『よく出来てるねぇ』


女性陣は、景徳院方面へ行ったようだが、
我々は日川の上流へ行ってみよう。


「甲斐の国自然学校」から5分ほどの所に「大和福祉センター」があった。
入浴施設「田野の湯」は一般の入浴も大歓迎、とある。
『デイサービスも兼ているみたいだねっ』


「甲斐の国自然学校」から15分ほどで日川渓谷竜門峡入口に到着した。
昨日訪れた「土屋惣藏千人切の碑」は、ここから800mほど先になる。


竜門峡の景観地図
竜門橋から竜門峡天目地区入口の栖雲寺までの約2.4Kmに亘り、
ハイキングコース(竜門遊歩道)が続いている。
『そのうち一度歩いてみたいねっ』


とりあえず竜門橋を渡ってみよう。


対岸から竜門橋を見たところ。
赤いアーチ橋である。


竜門橋から渓谷沿いに進んだ所にキャンプ場跡があった。
今は廃れていて使われていないようだ。


8時からの朝食に合わせるため、竜門橋で引き返すことにした。


朝食の様子


この日の朝食メニュー
しっかりと食べてこの日の街道歩きに備えよう。
宿泊料金は、朝夕2食付で4,860円、それにごみ処理代として
全員で108円が必要。
布団の上げ下げや部屋の掃除などを自分たちでやることになるが、
子供以外にも武田家ゆかりの地巡り・竜門峡散策・大菩薩峠ハイキング
などで宿泊する人も多いらしい。
もう一度訪れてもいいかなと思う。


昨日迎えに来てもらった大和橋西詰のガソリンスタンドまで
送ってもらった。
『どうもありがとうございましたぁ』
『気を付けて行ってらっしゃいっ』


9時11分、石和温泉駅目指して出発!


日川に架かる立会橋を渡る。


金岡自画地蔵尊碑
平安時代、巨勢金岡という大和絵の祖が岩に地蔵尊を描いた。
江戸時代には線が細くなり普段は見えなくなってしまったが、
水をかけると浮かび上がったという。
明治40年の洪水で像は流失したが、地蔵岩を示す碑が残っている。


鶴瀬関所跡
史跡甲州道中「鶴瀬関所跡」と書かれた標柱がある。
甲州十二関所のひとつで、「鶴瀬の口留番所」と言われた。
この関は甲州道中の小仏関に次ぐ口留番所として、上り男手形不要、
女上下とも改めで、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出
「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われている。
参勤交代の際に利用した藩は、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩だった。


鶴瀬宿碑
江戸より31宿、江戸へ30里27丁、甲府へ5里1丁と書かれた標柱と、
「鶴瀬地区」と書かれた石碑がある。
鶴瀬宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠4軒と小さな宿であった。
問屋継立業務は、毎月1日~20日迄は鶴瀬宿で、21日~末日迄を
駒飼宿が勤めた。


常夜燈
鶴瀬の常夜燈がある。


甲州鞍馬石に刻まれた達磨大師像
「甲州鞍馬石」は、山梨県北東部の山中から産出され、
酸化鉄を含む茶褐色の花崗閃縁岩の転石です。
この石が京都の鞍馬石と同じように庭石材に適していることから、
「甲州鞍馬石」の名称で開発され、灯籠や飛石・水鉢・橋石・
沓脱石等に加工され人気を呼んでいます。
(山梨県石材建設事業協同組合)


直ぐ左に中央高速を見ながら進む。


鶴瀬歩道橋を渡る。


女性陣は今日も元気で笑顔が絶えない。


甲州街道(国道20号)を進む。


曹洞宗鶴瀬山真竜寺を過ぎたところに古跡「血洗澤」と
書かれた標柱が立っていた。
武田勝頼が落ち延びる際、家臣の跡部大炊介が逃亡。
土屋惣蔵が追尾してこれを討取り、この沢で血痕を洗い流したと
云われている。
『土屋惣藏は、頼もしい家来だったんだねぇ』


隧道の入口手前右側に階段があった。
しかし、標識などなにもない。
『甲州街道はここを上るのかねぇ』


階段を上ると直ぐの所に観世音菩薩碑があった。


さらに階段が続いており、旧甲州街道かと思って上ってみると・・・


赤い屋根の聖観音堂があった。
説明によると、
本尊は、聖観世音菩薩で京都清水より移したものと云われており、
養蚕の守護神としての信仰があります、とある。


聖観音堂からの見晴らしはなかなかのものである。
この先に道はなくここで行き止りだった。


隧道入口まで引き返し、隧道(トンネル)を進むことに。


トンネルは、いくつか連なっていた。
交通量は多い。


トンネル出口に架かる観音橋を渡り、


その少し先の信号を左に進む。


トンネルを抜けて進むと・・・


遠くに雪を被った山々が見えてきた。
『あの一番高いのが甲斐駒ケ岳じゃないっ?』


柏尾橋の袂に近藤勇像が建てられている。
明治元年、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる新政府軍の先鋒隊が
戦った地である。


石像の台座に柏尾の戦い(甲州勝沼の戦い)概要が書かれていた。
明治元年(慶応四年)3月6日、近藤勇率いるかつての新選組、
会津潘兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と板垣退助らが率いる新政府軍
(因幡・土佐・諏訪潘兵からなる官軍)との間でこの地で戦った。
戦いは新政府軍の勝利で僅か1日で決着、近藤らは敢え無く敗走した。


柏尾戦争を描いた錦絵
中央に近藤勇、右側奥に大善寺の山門が描かれている。


勝沼村の柏尾山麓に布陣した近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、
正面の甲州街道、南の岩崎山、そして北の菱山の三方から
新政府軍の攻撃を受け、甲州街道を八王子方面へ敗走した。
現在の菱山は、南側斜面に太陽光パネルを建設中だった。


柏尾坂の馬頭観音
明治36年(1903)中央本線が開通するまで、
甲州街道の物流を担っていたのは馬である。
しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、
供養のために馬頭観音が数多く建立された。


近藤勇像の前で休憩


『幕府軍と官軍じゃあ最初から兵力に差があったんだろうねっ』
歴史を偲ぶひとときである。


柏尾橋を渡ると勝沼町だ。
明治13年(1880)、明治天皇御皇巡幸に際し、柏尾橋は
長さ19間(約34.5m)、幅3間(約5.4m)の欄干付きの板橋に
架け替えられた。


大善寺の入口?を入って行くと・・・


山門と楽堂の中間地点に出た。
左が山門である。


右側の本堂への石段を上り、


楼門のような楽堂の下を潜る。


楽堂
延宝五年(1677)再建立
大祭藤切り祭や縁日の日には楽堂で音楽を奏で、稚児堂で舞をまい、
参拝者をもてなしたと云われている。
拝観券のある人は中に入れる。


大善寺本堂
柏尾山大善寺は、真言宗智山派の寺院で、
寺伝では養老二年(718)に行基によって開創された。
弘安九年(1286)頃に建てられ、築730年以上にもなる。
山梨県では一番古い建物である。
本堂の中に、本尊の薬師如来座像と脇侍の日光・月光菩薩立像を
安置しているので「薬師堂」とも呼ばれる。
また、「ぶどう寺」とも呼ばれている。
薬師堂は国宝に指定されている。


『いやぁ 素晴らしい眺めだなぁ』


勝沼の盆地が一望できる。


境内には、芭蕉句碑、
『勝沼や 馬さは葡萄を 喰いながら』


正徳四年(1714)の石塔、


稚児堂などがある。
稚児堂は、大祭藤切り祭の稚児舞の舞台として使用される。
縁日の日には楽堂で音楽を奏で、稚児堂で舞をまい、
参拝者を楽しませたと云われている。


山門を潜って大善寺を後にした。


Kさんが、大善寺境内に地図を置き忘れて来てしまい、
それを取りに戻っている間、国道20号脇で一休み。


旧甲州街道は、国道20号から分かれて県道38号へと続く。


国見坂の碑


緩やかな国見坂を下る。


上行寺の碑には、日蓮上人投宿之地と刻まれている。


振り返ると小高い丘陵の上行寺が一望だ。


勝沼宿脇本陣跡と書かれた標柱があった。
この辺りが勝沼宿の中心だったと思われる。


本陣槍懸松
勝沼宿本陣に大名・公家などが泊ると、その目印に槍を立て掛けた老松。
勝沼は甲州道中の宿として元和四年(1618)に新設された宿である。
宿並は東西12町と長く、甲府盆地の東端に位置し、
物資集積の地として栄えた。


『いやだ~っ なんだか気持ち悪~い』
蛇の胴体を連想させるのだとか。
そう言われれば分かる気がする。


勝沼は甲州道中の宿として、元和四年(1843)には、
本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠23軒であった。


勝沼宿仲松屋住宅
江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした
西屋敷の二軒分の商家建築から成る。(以下略)


地下一階、地上三階建ての土蔵
明治二十年頃の大火の後、自己所有の山林の木材で作った、そうだ。
勝沼町で保存予定とのこと。
『いやぁ 随分荒れてるねぇ』
『早く修理しないと全壊しちゃいそうだねっ』


旧田中銀行社屋
明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承を持つ
入母屋造り・瓦葺・二階屋の建物で、大正9年より昭和7年ごろまで
山梨田中銀行の社屋として利用された。
国登録有形文化財に指定されている。


ようあん坂碑
勝沼宿内で最も急な坂、とのこと。
その名は、”用有”と呼び止めたからとも、天野養庵の家が近くにあったため
とも伝えられる、とある。
その隣に山梨県庁より16.027粁、海抜400米と刻まれた石碑が。


勝沼学校跡
勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、
明治十三年の明治天皇御巡幸の折、行在所となった。


甲州街道(県道34号)を進む。


『きれいなチューリップだねっ』


11時53分、諏訪神社に到着
等々力の産土神で、建御名方神と事代主命を祭神とする。


本殿
境内にはこの他、天神・稲荷・石尊・痘瘡・白山・太神・蚕影・
秋葉・道祖神などの諸社が祀られている。


ほうとうの看板を見つけた。
この日の昼食は、ほうとうを食べようと決めている。


皆吉(みなき
『随分立派な構えだねっ』
ちょっと高そうな感じもするが、他にほうとうの店は見当たらないので
この店に決めた。


注文してから30分は待つことになると書かれていた。
全員「野菜ほうとう」(1,200円税別)を注文して待つことに。


待っている間に庭を拝見
『庭も立派だし、元々は何屋さんなんだろうねっ?』


ちょうど30分後、注文した品が出て来た。
『いただきま~すっ』


野菜たっぷりで美味しかった。
カボチャももちろん入っている。


皆吉の直ぐ近くに文政の常夜灯が立っていた。


常夜灯の傍には変わった形の石が。
道祖神だろうか・・・


杉御坊と書かれた石碑も。
この近くにある万福寺を別名「杉御坊」と呼ぶそうだ。


旧甲州街道の道標
等々力を過ぎた辺りから、国道411号になっている。


この時期に勝沼まで来たからには桃の花を見よう、
とある小さな神社の裏手に行ってみた。


神社の裏には桃畑が広がっており、桃の花が咲いていた。
既に摘花が始まっていたが、これからという木も見られた。
『桃の花見ることができて良かったわね~っ』


桃畑のパノラマ写真


栗原宿の碑
栗原宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20軒の小さな宿であった。


大戸屋のでっかい看板が目に入った。
大戸屋グループ創業者三森久実生誕の地とある。
『ここで生まれたんだぁ』


13時56分、大宮御所大神参道入口に到着


大宮御所大神本殿
明和・安政年間の江戸絵師による浮世絵風芝居の絵馬が奉納されており、
全国でも貴重な民俗遺品として山梨市の民俗文化財に指定されている。


本殿再建のときクロマツを植えたと記されている、とのこと。
現在市指定の天然記念物となっている。
枝垂れ・樹形が大変良好で、樹勢も旺盛とのこと。
根廻り3.25m、目通り2.83m、樹高12m、
枝張り東4.5m、西3.0m、南5.2m、北3.7m
『ほんと盆栽みたいに良い形をしてるねっ』


甲州街道道標
道が分からなくなったとき、このような道標が現れると、ほっとする。


この先国道411号は特に見所がないため、ほぼ平行して流れている
日川の堤防を歩くことにして、左に曲がって堤防へ。


日川の対岸に広がる桃の花が美しい。
『桃源郷のようだねっ』
『こっちにして正解だったわねっ』


パノラマ写真


日川の堤防を進む。
吹き抜ける風が心地良い。


日川に架かる日川橋を渡る。


日川橋から日川を望む。


右手に新緑の大樹に覆われた白山神社が。


14時33分、白山神社に到着
白山神社の創建や由緒などは不明である。


甲州街道をいったん外れて日川の堤防へ。


『堤防を歩く方が気持ちが良いねっ』


甲州桃太郎街道の標識が。
桃の里に相応しい名前だと思う。
この辺りはちょうど、日川と重川(おもかわ)、笛吹川の3つが合流して
笛吹川になる所だ。


甲州桃太郎街道を石和温泉駅を目指す。


『石和温泉駅までそんなにないんじゃないっ?』
目見当で4Kmちょっとと思われる。


右折して笛吹橋を渡る。


笛吹橋から笛吹川上流を望む。


笛吹橋を渡って左折すると、松並木が現れた。
『ちょっと東海道を想い出させる景色だねっ』


堤防の上は車が多いので、並行している堤防下の道を
松並木を見上げながら進む。


15時14分、松並木が終わる所に笛吹権三郎之像があった。
笛の上手な権三郎の母が、石和川の氾濫で流されてしまった。
権三郎は、母の好きな曲を吹きながら探したが、自らも川に落ちて
死んでしまった。
夜になると川の中から美しい笛の音が響き、いつしかこの川は
笛吹川と呼ばれるようになった。


笛吹権三郎之像の前で最後の休憩を摂る。
ちょっとばかり疲れた様子。
自分も少しでも早く石和温泉駅へ到着したい一心である。


『石和温泉駅まであと3Kmくらいかしらっ?』


石和温泉駅を目指すのみだ。


道が二つに分かれていた。
少しでも近い方が良いだろうと云うことで、右へ進路をとった。


水路にはたくさんの鯉が泳いでいた。


石和温泉駅への標識があった。
近道をしたために、石和宿本陣跡を見落としてしまったが、
次回最初に訪れることにして、ここは石和温泉駅へ直行だ。


石和橋の上にも笛吹権三郎像があった。
笛吹権三郎像は、石和の観光スポットなのだろう。


権三郎の母親が流されたのはこの石和川?


石和駅周辺には大きな旅館やホテルが立ち並ぶ。
石和宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒であった。
石和は武田氏の故地である。
新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、
以降武田と名乗った。
五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に
甲府の躑蠋ヶ崎に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
宿の北東大蔵寺山麓に温泉が僅かに湧いていたが、
昭和36年1月石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した、
そうである。


正面に石和温泉駅が見えてきた。


15時56分、石和温泉駅に到着


普通列車は時間がかかるため、特急かいじに乗ることにした。
特急券は、全員大人の休日倶楽部会員なので、
通常1,340円のところ3割引きの930円となり、得した気分。


ゆっくりと座って帰ることができた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第十一回1日目(黒野田宿~駒飼宿)、
および2日目(駒飼宿~石和宿)約21Kmを歩き終えた。

1日目は武田勝頼公の終焉の地を訪れ、その家臣土屋惣藏昌恒が、
常陸土浦藩と深い縁があったということを知った。
2日目のこの日は幕末新選組の英雄近藤勇が新政府軍と激突した
「柏尾の戦い」の歴史に触れ、当時に思いを馳せた旅となった。

当初予定していた2月末を延期して、桃の花咲く勝沼を訪れる
という目的は果たせたし、本場のほうとうも堪能できた。
今回は、記憶に残る街道歩きの旅だったと思う。

次は、どんなハプニングが待っているのか、
今から次回の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

旧甲州街道を歩く 第十一回 黒野田宿から石和宿(1日目)

この日の万歩計は、30.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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