ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第2回 吉原宿~興津宿(2日目)

2016年10月11日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年10月11日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージの2回目は、吉原宿~興津宿を2日間かけて歩く。
2日目は、蒲原宿(JR蒲原駅)~興津宿(JR興津駅)を歩いた。

ホテルの食堂は、6時30分から開くことになっている。
7時10分ほど前に食堂へ。
けっこう食堂を利用する人は多かった。


朝食は、バイキング方式で、みそ汁に野菜・卵・ロールパン・コーヒーで済ませた。
これで、一泊朝食付きで7,000円ちょうど(税込)だった。


ホテルから3分とかからずに、沼津駅に到着。
改札口の直ぐ傍で、駅弁を売っていたのでアジ寿司(760円)を購入し、
東海道線下りホームへ。
この時、時計は7時46分を指していた。


上手い具合に7時48分発の浜松行電車があった。


電車の窓から富士山が薄らと見えた。
電車は通勤・通学の人でほぼ満席状態だった。
そんな状況の中、進行方向の左側の席から右手に見える富士山を撮るのは、
なかなか難しい。
この姿が何時までもつのか、さった峠までもってくれればいいのだが・・・


8時24分、2日目の出発地蒲原駅に到着した。
昨日のゴール地点である。
自販機で、お茶などを買い、


8時36分、蒲原駅前を出発。


蒲原宿は過ぎてはいるが、それでも蒲原駅の近くには、古い家もちらほら見える。


格子が美しい。


東名高速道の下を通り、


神沢川(かんざわがわ)橋を渡ると、


8時51分、由比宿に入った。


神沢川酒造場の煙突には、正雪の文字が見える。
由井正雪の生家があることから、「正雪」という銘柄が生まれた。
なお、仕込み水から名前を取って「神沢川」という社名にしたそうだ。


由比一里塚跡
江戸日本橋から39番目の一里塚。


東木戸
当初の由比宿の東木戸で、桝型道路の形状を留めている。
志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、家の佇まいも昔の商家の面影を残している。


お七里役所跡


紀州徳川家が、幕府の動向をいち早く知るために、
七里(28Km)ごとの宿場(23箇所)に設置した連絡所で、
業務に従事したお七里衆が配置されていた。


由比本陣跡
今は由比本陣公園になっており、「東海道由比宿交流館」になっている。


由比本陣跡
あいにくこの日は休館日となっており、扉は閉まっていた。
残念ながらこの中にある「広重美術館」には、入れなかった。


馬の水呑み場
馬に水を呑ませる他、体を洗ったりするのにも利用されたと言われている。


亀がのんびりと甲羅干しをしていた。
人慣れしていて、近づいても逃げないでじっとしていた。


由比本陣跡の真向いに正雪紺屋がある。
江戸時代初期から400年続いている染物屋である。
正雪紺屋は慶安事件の由比正雪(1605~51)の生家といわれ、
今でも裏庭の祠には、正雪を祀ったといわれる五輪塔がある、そうだ。


脇本陣温飩屋(うんどんや)
由比宿には脇本陣を交代で務めた家が3軒あり、そのうち江戸時代後期から
幕末にいたるまで務めたのが、この温飩屋である。


明治の郵便局舎
江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治四年、郵便制度の創設により飛脚屋は郵便取扱役所となり、
さらに明治八年郵便局と改称された。


由比宿おもしろ宿場館


宿場町・本陣・由比正雪が楽しくわかる。
おみやげ処「弥次喜多屋」もある、とのことだったが、あいにくこの日は休館日だった。


清水銀行由比支店
元庚子(かのえね)銀行の本店社屋として建てられ,後に合併を経て現在に至る。
立面は4本のイオニア式柱頭を持つ柱を立て,古典様式の基本に則っている。
イオニア式とは古代ギリシャ神殿の建築様式の一つで優雅さが特色。
内部は吹抜けの広い空間を持つ。
小規模ながら洗練された様式を持つ、大正期の地方における銀行建築の好例である。
国の登録有形文化財に指定されている。
(現地説明板参考)


由比川橋
由比川の河口部に架設した県道橋で、旧橋が老朽化したため、
99年に架け替え工事に着手。


由比川橋から河口部を望む。
東海道線と国道1号富士由比BPが走っている。
天保十二年(1841)頃には、由比宿の街並みは東西五町半(約600m)ほどあった。
その宿場の西の木戸が、由比川を渡った先にあった、とのこと。


9時20分、由比駅まで1.5Km地点を通過


由比名物の桜えびやしらすを売っている店が多い。


通りの名前も「由比桜えび通り」である。


せがい造り
軒先を永く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし、
たるきを置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多くみられる。


下り懸魚(げぎょ)
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、
花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。
(由比町教育委員会)


共進橋を渡る。


由比宿の街並みを歩いていると、せがい造りの家をあちこちに見ることができる。


由比漁港へ通じるトンネルを潜ると、


由比漁港があった。
漁船が多数停泊していた。


一艘の漁船が漁から帰ってきた。
獲物は桜えび? それともしらす?


左前方に由比駅が見えてきた。


由比今宿


「由比桜えび通り」のアーチを潜ると、


9時55分、由比駅に到着。


駅前の観光案内には、薩埵峠から見た雪を被った富士山の写真が。
このような富士山を見るには、寒い時期で、
空気が澄んでいる時でなければならないのだ。


時期的には早すぎるが、ここまで来たからには薩埵峠を目指すしかない。
今宿の宿場町を進む。


東海道(県道396号)への合流点では、薩埵峠へは、
横断陸橋を渡るように案内されている。


案内どおりに横断陸橋を渡る。


横断陸橋から東海道(国道396号から国道1号富士由比BP方面)を望む。


横断陸橋で振り向くと、富士山が見えた。
薩埵峠でこの姿が見られることを祈りながら3.3Km先の薩埵峠を目指した。


今宿の宿場町が続く。


中の沢二号橋を渡る。


讃徳寺(さんとくじ)
日蓮宗の寺院


伊佐布安隠寺から移されたと伝えられる像高34cmの七面天女木像が安置されている。
正徳六年(1716)近隣の村々に悪疫が流行した時、堂を建立し、祭祀したと伝えられている。
建物は現代的である。


何故か時計のある掲示板が。
10時11分、時間は合っている。


小池邸
小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾の名主を代々務めていた。
名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、
村役人の中でももっとも重要な役割を担っていた。
この建物は明治時代の建立だが、大戸・くぐり戸、なまこ壁、石垣等に
江戸時代の名主宅の面影を残しており、
平成10年に国の登録有形文化財に登録された。(静岡市)
由比宿を散策する人のために、休憩場所として開放されている、そうだが、
この日は、扉は閉まっていた。どうやら休館日らしい。


あかりの博物館
日本の古今のあかりに関する展示がされており、
菜種油、蝋燭、石油等のあかりも点灯展示されている。
あいにくこの日は休館日だった。


宿場町を進む。


10時17分、いよいよ薩埵峠への上り道か?
薩埵峠まで2.3Km、55分とある。


左手には、東名高速道と国道1号線が走っている。


振り向くと、富士山は先ほどよりかなり霞んできた。


10時24分、八坂神社前を通過


続いて10時27分、鞍佐里(くらさり)神社前を通過
「日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、
自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。
依って鞍去の名あり」と伝えられている。


宿場町を進む。
落ち着いた感じのする家並みである。


間の宿本陣
ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当る「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があって、
旅人はここでお茶を飲み、疲れを癒し、駿河湾の風景を賞で旅立っていった。
ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間の凡そ230年間代々川島官兵衛を名乗り、
間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、
西倉沢村名主も務めた旧家である。(由比町教育委員会)


明治天皇御小休所跡 間の宿脇本陣柏屋
江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
明治15,6年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、
倉沢の気候風土が郷里の九州に似ているところから、
田中びわの種子を取寄せ栽培を奨め、当地に田中びわが普及するところとなった。
(由比町教育委員会)


10時32分、いよいよ薩埵峠への坂道が始まった。
かなりの急こう配である。


上り口に薩埵峠まで1.3Kmの標識と、


倉沢の一里塚跡があった。
江戸日本橋から40番目の一里塚である。


間の宿望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋
薩埵峠への東口の麓にある望嶽亭藤屋は、
その昔、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった。
明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われた際に、
望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装して階段より脱出したが、
当時最新式仏製十連発のピストルを残して行ったと云われている。
当時と変わらぬ佇まいが、歴史を物語っている。


薩埵峠へ向けて出発!


左手は東名高速道と国道1号富士由比BPが並行して走っている。


道が急に狭くなった。
道の両側の斜面には蜜柑畑とビワ畑が目立って多くなって来た。
静岡県令大迫貞清が取寄せた九州の田中びわだろうか?


東名高速道由比PA


山の傾斜面の崩落防止のための工事を行っていた。


工事場所の真前に薩埵峠の標識が立っていた。
10時55分、薩埵峠に到着したようだ。
漁師の網にかかって引き上げられた地蔵菩薩像(薩埵の地蔵)を
山上に祀ったことからその名が付いたと言われる薩埵峠。


歌川広重が描いた当時とほぼ同じ風景が望めるのは、
五十三次の中でもここだけと言われる名勝であるが・・・
この日の薩埵峠からの富士山眺望は、ご覧のとおりである。


薩埵峠から少し行くと、駐車場があった。


10時59分、薩埵峠駐車場に到着
かつてこの場所は、薩埵峠山之神「鞍佐里神社」が祀られていた。


隣の幸田文文学碑には、
有名な随筆「崩れ」の中の一節が刻まれている。
『由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、
佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。
草木のあるなんでもない山なのだ。 だが、そこを見ていると、
なにかは知らず、土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた』


無人販売所の横が薩埵峠からの下り口になっている。


薩埵峠からの下り道。


途中には薩埵峠の道標や説明板が頻繁に現れる。
興津駅まで4Kmとある。


薩埵峠の説明


薩埵峠から伊豆半島土肥方面の眺望


少し先には、薩埵峠の歴史や


薩埵山の合戦の説明もあった。


急階段を下り、


さらに樹木のトンネル抜けると、


前方の視界が開け、墓地に出た。
墓地の入口には御手洗・休憩所もあったが、


そのまま急坂の舗装道路を下った。


急坂の道を下り切った所を右に曲がると、中の道になる。
興津駅まで3Km、55分とある。


中の道を興津駅へ向かう。


しばらく進むと興津東町の集落があった。
この辺りで、標識を見失ってしまい、地図と感を頼りに進む。


集落の中を進んで行くと、


興津駅2.1Km、49分の標識があった。


おきつ川通りを国道1号富士由比BP方面へ向かう。


興津東町公園に川越(かわごし)遺跡の説明板が。
ここは、東海道興津川「川越し」の跡で、
旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、連台または人足の肩ぐるまで川を越した。
「越し札」は、その日の水深によって値が違い、連台越しの場合は札四枚を要した。
深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」になった。
定(天和三年)
太股川(42Cm)十二文  はさみ川(70Cm)十五文  横帯川(106Cm)二十四文
若骨川(120Cm)三十二文  脇水川(150Cm)四十二文
但し、冬季(十月下旬から三月五日まで)は、假橋が架かり無賃で渡れた。
川越し人足は、興津側で36人が常備されており、大通行があると、
250人以上が動員された。(興津地区まちづくり推進委員会)


東海道線を潜ると、


国道1号富士由比BPの手前にもう一つ別の橋があった。


興津川を渡る。
ちょうど東海道線の電車が走って行くところだった。


橋から国道1号富士由比BPを見たところ。


12時3分、興津駅1.0Km地点を通過。


ゴールの興津駅を目指す。


興津の町に入り、興津郵便局の先に身延山道道標があった。
江戸時代の身延道追分で、完原四里 萬沢三里 南部三里 身延三里と刻まれている。
現在の身延街道は、興津郵便局の前が起点となっている。
身延道は、ここから日蓮宗総本山の身延山久遠寺を結ぶ街で、
鎌倉時代、既に駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。


少し先に一里塚跡が。
江戸日本橋から41番目の一里塚である。


間もなく興津駅だ


12時20分、ゴールの興津駅に到着した。


直ぐに静岡方面行の電車が来たので、それに乗り、
12時40分、静岡駅に到着。


新幹線乗場
12時52分発こだま648号で、東京に向かった。


この日のお昼は、沼津駅で買ったアジ寿司弁当である。
薩埵峠辺りで、と思っていたのだが、興津駅まで来てしまった。
昨日に比べて距離が少し短かったのと、やはり、
今朝少しだけ早く出発できた結果である。
お腹が空いていたこともあって、美味かった。


この日は、東海道五十三次の中でも随一の眺望という薩埵峠越えだったが、
予想はしていたものの、残念ながら富士山の雄姿は全く見ることが出来なかった。

由比宿では、殆どの建物が休館日ということで見学出来なかった。
これは、全く予想外だった。

薩埵峠からの富士山眺望は、機会があれば是非見たいと思っている。
次は、これまで一緒に街道を歩いた仲間に声を掛けようかなと思う。
その時は、由比名物の桜えび丼を味わってみたい。

この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ(第2回)吉原宿~興津宿(1日目)

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