2016年10月10日(月)
「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。
第Ⅱステージの2回目は、吉原宿~興津宿を2日間かけて歩く予定である。
1日目は、吉原宿(JR吉原駅)~蒲原宿(JR蒲原駅)を歩いた。
暑い夏も終わり、久しぶりに天気の良い日が続くとの予報があったので、出かけた。
三島駅で新幹線こだま635号から東海道線浜松行普通電車に乗り換え、
スタート地の吉原駅には8時55分に到着した。
吉原駅からは薄らとだが、富士山の山頂が見えた。
「左富士」では富士山が見えるかも・・・
沼川に架かる河合橋を渡る。
吉原駅前の県道171号には、東海道の表示が。
県道171号は直ぐに国道139号に合流した。
東海道新幹線と国道1号線富士由比BPの高架の下を潜り、
和田川に架かる依田橋を渡る。
広い道路(国道139号)が続く。
しかし、「左富士」が近いにもかかわらず、富士山は一向に左手に変わる気配がない。
どうやら道を間違ってしまったようだ。
富士山は麓の方から雲に覆われ始め、山頂の一部しか見えなくなっている。
そのうち雲に隠れて全く見えなくなるのは時間の問題だ。
急いで先ほど潜った東海道新幹線と国道1号線富士由比BPの高架まで戻ると、
正規の旧東海道があった。
吉原駅からは、高架を潜って右方向へ行くべきところを、
道路の左側を歩いていたため、そのまま国道139号を進んでしまったのだ。
地図を確認しないで進んでしまうという単純なミスが原因だ。
東海道新幹線の高架から旧東海道を5分ほど行くと、「左富士神社」があった。
「左富士神社」の創建は寛政八年(1796)で、社名は古くは、「悪王子社」だった。
後に「悪王子神社」と称していたが、明治41年(1908〉に現在の「左富士神社」と改めた。
「左富士神社」の境内に依田橋村一里塚があった。
日本橋より34番目の一里塚である。
「左富士神社」から数分先に、「左富士」の碑があった。
東海道を江戸から京に上るときは、富士山はいつも進行右側に見えるが、
この地では街道が逆行するような形になって左側に見えるので、
「左富士」と云われている。
とても珍しいために街道の名勝となっている。
しかし、周囲の工場の建物に遮られて富士山は全く見えなかった。
この地以外では茅ヶ崎の「南湖の左富士」が有名。
当時この辺一帯は松並木だったが、 現在残っているのは松一本のみである。
「左富士」碑の少し先の和田川の袂に「平家越」の碑があった。
平家越
この辺り一帯は、治承四年(1180)、富士川の戦いで平家軍が陣を構えたところである。
源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立ち、敗走したと云われている。
この故事に因み、和田川の辺に、大正13年(1924)に平家越の碑が建てられた。
平家越え橋を渡り、真っ直ぐ進むと岳南鉄道の踏切がある。
踏切の直ぐ左が吉原本町駅になる。
吉原本町通り商店街
まだ時間が早い、と言っても10時は過ぎていたが、
店の多くは閉まっており、人影は少ない。
軒先にスポンサ-名入りの提灯が下げられている。
夜はきれいで華やかなのだろう。
吉原本町通りの中ほどに吉原宿の木柱道標があった。
蒲原宿(新蒲原駅)までまだ三里(12Km)もある。
この日のゴール蒲原駅は、さらにその先である。
木柱道標の表示に従って、商店街を左へ折れる。
突き当たりの妙祥寺参道入口を右へ進むと、
国道139号錦町北交差点に合流した。
富士市役所北の錦町交差点を斜め向いへ進むと、
新吉原宿・西木戸跡の案内標柱があった。
この辺りが新吉原宿の京方出入口だった所だ。
さらに植え込みの脇に京方面間宿本市場の案内標柱が。
富士市役所の斜め向いになる。
案内標柱に従って、旧東海道を進む。
表通りから一つ入った道は、車も少ないので静かだ。
民家の塀の脇に道祖神と刻まれた碑がひっそりと置かれていた。
高島交差点を右折した所でまたも道を間違い、東海道(県道396号)を進むべきところを
広い港大通り(県道353号)を進んでしまった。
200mほど進んだところで直ぐに気がついて、左に折れて市立中央病院の方へ。
市立中央病院を過ぎると、潤井川(うるいがわ)の堤防に出た。
左手(下流)を見ると、渡るべき橋が架かっているのが見えた。
堤防の上の歩道には、万葉歌人のものと思われる歌が並んでいた。
潤井川に架かる富安橋を渡る。
旧東海道の本来の橋は、もう一つ先の下流にあったようだが、
この時は全く気が付かなかった。
富士市蓼原(たではら)地区の道を進む。
”一万歩「加島旧東海道」コース”という標識を見掛けた。
旧東海道には、各地にいろんなコースがあるようだ。
道端に単体道祖神があった。
別名袂の道祖神(さえの神さま)と言われているそうで、
ちょっと変わった帽子を被っている。
富士見大通り塔の木交差点を横断し、富士総合庁舎を通り過ぎたところに、
”旧東海道間宿本市場”の案内を見つけた。
広重の”東海道五十三次”には、富士山を眺めながら白酒売りの茶屋で憩う旅人が描かれている。
”旧東海道間宿本市場”の少し先の民家の真前に鶴芝の碑が建っていた。
鶴の茶屋があったことを残す碑である。
ここから眺めた冬の富士が、鶴が富士の中腹で舞っているように見えたことから
この名を付けたとされている。
あれれっ 旧東海道が中央分離帯で行き止りになっている。
中央分離帯には旧東海道跡地の碑が・・・
近くに迂回を示す案内板があった。
面倒なので、車が途切れるのを待って中央分離帯を横切った。
中央分離帯には、かなりの人が通ったと思われる跡があった。
小さな花壇があり、
その一角に一里塚の碑があった。
日本橋から35番目に当たる本市場の一里塚である。
小さな碑なので危く見落とすところだった。
用水路に沿って進み、富士第一小学校前を通過
11時30分、金正禅寺に立ち寄って一休み。
金正禅寺から歩くこと8分、道路左脇に平垣「札の辻」跡の碑があり、
”札の辻橋 大正五年三月竣工”と刻まれていた。
左の石には「猿田彦大神」と刻まれていた。
旧東海道は、柚木駅手前で県道396号に合流する。
合流点には間宿本市場の道標が立っている。
身延線の高架が見えてきた。
11時51分、身延線柚木(ゆのき)駅を通過
”加島の旧東海道コース”の標識に芭蕉の句碑の文字が。
しかし、標識に距離は表示されていない。
直ぐ近くだろう、と思って矢印の方へ行ってみたが・・・
200mほど行くと、道は二手に分かれていた。
どっちだろう? どこにも案内などは見当たらない。
結局、両方の道を突き当りまで(それぞれ150mほど)進んだが、
結局芭蕉の句碑を見つけることは出来なかった。
(最初の案内標識に距離を表示してくれれば良いのにと強く思った)
芭蕉の句碑の標識があった交差点まで引き返し、静岡方面へ。
少し進むと、また道が二手に分れていた。
分岐点に秋葉山常夜灯と道標があり、左東海道と刻まれていた。
道標に従って、右の道を進む。
450mほどで、先ほど分岐した県道396号に戻り、再び旧東海道を進む。
富士川の東岸に松岡水神社があった。
鳥居横の柱には、指定村社水神社とある。
富士川の堤防工事の成就記念に創建されたもので、
渡航の安全を祈願する人々が多く訪れた、そうだ。
水神社境内には、いろいろな石碑が建立されている。
富士川渡船場跡の碑は、東海道400年祭記念事業として、平成13年に建立された。
江戸時代、水神社西側で渡船が行われた。
上、中、下の渡し場があり、川の状況により船の発着場が変えられた。
当時の名残として「舟場」という地名が残っている、そうだ。
富士山道の道標
富士山禅定(登山)を目指す道者のための道しるべである。
西国から来た道者は、富士川を渡った後、水神社の東方で東海道を左に折れ、
富士山本宮浅間大社や村山浅間神社に向かったと云われる。
以前、この碑は、その分岐点にあったと云われる、とある。
不盡河歸郷堤之碑(ふじかわききょうづつみの碑)
この碑は、安政六年(1859)頃に建立された。
富士川の大水で、水神下の堤防が決壊し、人々は離散した。
復旧工事を命じられた幕府勘定奉行土岐摂津守は、賢明に取り組み、
短期間で堤防を完成させた。
人々は、郷里へ帰ることが出来たのは、土岐氏のおかげであるとし、
感謝のため、「帰郷」と土岐氏の家紋「桔梗」をかけて、
「ききょう堤」と名付けたという。
水神社は、古郡孫太夫が堤防工事の完成を願い、社殿を造営した。
しかし、その由来は火災のため社伝の古記録等が焼失し、詳細は不明である。
水害や水難を防ぎ、岳南鎮護の神社として崇敬を集めている、とのこと。
水神社へ参拝を済ませ、
富士川を渡る。
富士川の上流
水量が多い。
富士川の下流
東海道本線の鉄橋が見える。
振り返ると、富士山が雲の上にちょっぴり頭を出していた。
500m以上はあると思える富士川の橋を渡り切り、旧東海道の道を探したが、
何の案内もなく付近をうろうろするばかり。
旧東海道の案内標識を見つけることはできなかったが、
手作りの地図と感を頼りに坂道を上ることにした。
左手に今渡ってきた富士川を見ながら進むと、
次の一里塚まで0.68Kmを案内する標識があった。
この案内標識があるということは、この道は旧東海道に違いない。
さらに先へ進むと秋葉山常夜灯があった。
吉原宿から間宿本市場では、常夜灯をいくつも見掛けた。
これもそのうちの一つであり、この道は旧東海道だと確信。
岩淵宿本陣跡の表門には、「西條少将小休」と宿札が懸かっている。
岩淵宿本陣は、渡船名主の常盤弥兵衛が務めていたもので、
建物は安政元年(1854)の大地震の後に建て直されたものという。
吉原宿と蒲原宿の間には間宿として本市場と岩淵があった。
ここ岩淵は、東海道五十三次の指定された宿場町ではないため、
表向き宿泊はできない。
川渡しの前後に休憩する宿場町であった。
一休本陣常盤家から8分ほど進むと、直角に曲がる角に岩淵一里塚があった。
東側の榎は、虫害のため、昭和42年に枯死してしまったが、
昭和45年に二代目が植えられている。
岩淵一里塚は、江戸日本橋から37番目の一里塚である。
保存状態が良く、当時の状況を良く残した貴重な一里塚ということで、
県の史跡指定を受けている。
(写真は西側の一里塚)
蒲原宿への道案内
案内に従って右折する。
正面の家の角にはもう一つの道案内があった。
東名高速道のガード手前に中之郷と書かれた標識があった。
この辺りは中之郷という地名になっている。
中之郷標識の直ぐ先の東名高速道ガードを潜って左折し、
東名高速道に沿って進む。
小池橋を渡った袂に、
小さな空地があり、何故か椅子が3つ並んでいた。
時計は13時15分を過ぎており、お腹も空いていたので、ここで弁当を食べることにした。
途中、小さな公園でもとキョロキョロ探していたので、ちょうど良かった。
東京駅で買った奈良の「心」という駅弁(1,000円)である。
惣菜はいろいろと入っていたが、味の方はもう一つといったところ。
昼食後、中之郷地区を進んで行くと、道が二つに分れていた。
右は”行き止り”、左は”蒲原”と表示されていた。
左の道は、東海道新幹線を潜っていた。
途中に案内標識などはないため、地図と感を頼りに進むしかない。
民家の前に明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之跡碑があった。
ということは、この道は旧東海道に違いない。
しばらく進むと、広い道路が直ぐ左を走っていた。
東名高速道だ。
道は東名高速道を跨いで静岡市へと続いていた。
東名高速道を跨ぐ。
(写真は、富士市方面を望む)
蒲原一町目の急な坂道を下って行くと、
突き当りの三叉路に案内標識があった。
北条新三郎の墓3分、蒲原宿東木戸4分、とある。
標識に従い、右に進むと、蒲原一里塚跡の標柱があった。
江戸日本橋から38番目の一里塚である。
最初の蒲原一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流失して、
宿の移転にともなって、ここに移されたものだが、当時の面影はない。
北条新三郎の墓の案内があった。
の北条新三郎とは? ちょっと気になったので、石段を上ってみることにした。
石段を上ること約200m、薄暗い雑木林の大きな木の根元にその墓があった。
”北条新三郎の碑”案内板には次のように説明されている。
永禄十二年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城。
城主北条新三郎は、城から抜け出し、常楽寺まで逃れたが、
寺に火を付け自刃したと伝えられている。
その後、供養のためにここに碑を作った。
碑には、「常楽寺殿衝天良月大居士」の戒名が記されている。
常楽寺については、現在裏付ける資料は残っていないが、
「奥の院ここより五丁」という道標や、常楽寺の奥の院と考えられる
観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察される。
(静岡市)
街道へ戻り、諏訪神社前を通り過ぎ、
少し進むと、東木戸跡があった。
東木戸は、わずかながら桝形になっている。
また、東木戸にある常夜灯には「宿内安全」という文字が刻まれており、
宿の入口を照らしていた。
文政十三年(1831)のものと考えられている。(静岡市)
14時26分、日本軽金属蒲原工場の富士川第二発電所の巨大なパイプを通過
蒲原製造所の工場群を動かす電力の大部分は、自家用水力発電所から供給されている。
富士川第二発電所は、49,500KWの発電能力がある、とのこと。
諏訪橋を渡ると、渡邊家土蔵(三階文庫)があった。
三階建ての土蔵はあまり例がない。
渡邉家は、江戸末期に問屋職を代々務めた旧家で、材木を商っていたことから、
「木屋」という屋号でよばれていた。
「渡邉家土蔵」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる
「四方具」という耐震性に優れた技法で建築されている。
棟札から天保九年(1838)に上棟したことが分かり、
土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されていた。
平成13年、市指定有形文化財に指定されている。(静岡市)
竜雲寺の入口
山号を「岩戸山」と称する臨済宗妙心寺派の寺院である。
承応二年(1653)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸への途中、
薩摩藩大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、
薩摩藩との乱闘で70人近くを倒した。
しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまった。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。
甚太夫の槍の穂先は、寺宝として保存されている。
東漸寺(とうぜんじ)
元弘元年(1331)開祖の日蓮宗の古刹である。
元は御殿屋敷付近にあったが、三代将軍家光上洛時増改築のため、
現在地に移転した。
本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となった。
東漸寺のイヌマキ
東漸寺は、寛永九年(1632)「蒲原御殿」大改修のため、現在地へ移転したが、
その際、境内の七面堂へ向かう参道の脇にこの木を植えたと伝えられている。
幹周りは胸高2.6m、根周りは6.3m、樹高17mと計測される。
推定樹齢は、400年。(平成20年1月 かんばら巨樹の会)
なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)
元「佐野屋」の佐藤家は、壁は塗り壁の「塗り家造り」と言う。
商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)
吉田家は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家だった。
玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく、広々とした
「店の間」造りになっていて、商家らしい雰囲気が残っている。(静岡市)
かつての問屋場跡には、今ではご覧のような民家が建っている。
”夜之雪 蒲原宿”の記念碑
昭和三十五年、「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になり、
これを記念して、広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に
記念碑が建てられた。
「蒲原夜之雪」
歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は、
「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物”と称され、なかでも最高傑作と
云われている。(静岡市)
平岡本陣跡
ここは、蒲原宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、
かつてはここより100mほど東に東本陣(多芸本陣)もあった。
当時のままの土蔵や、大名駕籠を降ろしたお駕籠石が残っている。
黒々とした塀が、歴史を感じさせる。
鈴木家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠だった。
天保年間(1830~44年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。
弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数六・一」とあり、
現在は鈴木家(左)四・一間、お休み処(右)二間の二軒に仕切られている。
(静岡市)
お休み処でコーヒー(300円)を注文してひと息入れ、
女将から蒲原御殿の話などを伺った。
手作りガラスと総欅の家(磯部家)
明治四十二年(1909)に建築された磯部家は、素材の美しさから近世以降、
寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至る全てが欅造り。
二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手作りのガラスである。(静岡市)
高札場跡
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のこと。辻札ともいわれた。
宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていた。
また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられた。(静岡市)
旧五十嵐歯科医院
五十嵐準氏が地元蒲原に歯科を開業するにあたり大正三年(1914)に建てた病院併用住宅。
町屋を洋風に増改築した偽洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風という
ユニークな建物である。
平成12年に国登録有形文化財に登録されている。(静岡市)
玄関を入って中を見ると、畳の部屋になっている。
旧五十嵐歯科医院の裏庭
裏庭から旧五十嵐歯科医院を見たところ
蔀戸(しとみど)のある家(志田家住宅主屋)
志田家は、ヤマロクという屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家だった。
蔀戸とは、日光や風雨などを遮る戸のこと。
上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せに止め、
全部開放する時には、下のものは取り外せる。
昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下して戸締りの役を果たした。
美しい格子戸の家(増田家)
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つ。
蒲原宿西木戸
蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれていた。
元々宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていたが、
元禄十二年(1699)の大津波で壊滅的な被害を受け、
蒲原御殿があったとされる地に移動した。
この西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こった。
(竜雲寺の項参照)
蒲原駅を目指す。
16時10分前、陽が大分傾いてきた。
北向不動尊一乗院を過ぎ、
16時5分、この日のゴール蒲原駅に到着。
蒲原駅から沼津駅へ戻り、予約していたホテルへ向かう。
沼津仲見世商店街入口
沼津仲見世商店街
予約していたホテルは、直ぐ近くにあった。
1階は、コンビニになっている。
ホテルの入口
ホテルの部屋から駅方面を見たところ。
シャワーを浴びて疲れをとって、明日も頑張って歩こう!
「旧東海道を歩く」第Ⅱステージ2回目(吉原宿~興津宿)の初日を歩き終えた。
吉原駅では、薄らとだが富士山が見えたが、「左富士」に着いた時には、
全く見ることができなかったのは残念だった。
蒲原宿は、旧家や歴史的建物が多かった。
全てを観て回ることは出来なかった。
また訪れる機会があれば、ゆっくりと観て回りたいものである。
明日は東海道五十三次の中でも絶景と言われる「薩埵峠」を越えることにしている。
果して富士山は、その雄姿を見せてくれるのだろうか?
この日の万歩計は、32,000歩を超えていた。
旧東海道を歩く 第Ⅱステージ(第2回)吉原宿~興津宿(2日目)へ
ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。
「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。
第Ⅱステージの2回目は、吉原宿~興津宿を2日間かけて歩く予定である。
1日目は、吉原宿(JR吉原駅)~蒲原宿(JR蒲原駅)を歩いた。
暑い夏も終わり、久しぶりに天気の良い日が続くとの予報があったので、出かけた。
三島駅で新幹線こだま635号から東海道線浜松行普通電車に乗り換え、
スタート地の吉原駅には8時55分に到着した。
吉原駅からは薄らとだが、富士山の山頂が見えた。
「左富士」では富士山が見えるかも・・・
沼川に架かる河合橋を渡る。
吉原駅前の県道171号には、東海道の表示が。
県道171号は直ぐに国道139号に合流した。
東海道新幹線と国道1号線富士由比BPの高架の下を潜り、
和田川に架かる依田橋を渡る。
広い道路(国道139号)が続く。
しかし、「左富士」が近いにもかかわらず、富士山は一向に左手に変わる気配がない。
どうやら道を間違ってしまったようだ。
富士山は麓の方から雲に覆われ始め、山頂の一部しか見えなくなっている。
そのうち雲に隠れて全く見えなくなるのは時間の問題だ。
急いで先ほど潜った東海道新幹線と国道1号線富士由比BPの高架まで戻ると、
正規の旧東海道があった。
吉原駅からは、高架を潜って右方向へ行くべきところを、
道路の左側を歩いていたため、そのまま国道139号を進んでしまったのだ。
地図を確認しないで進んでしまうという単純なミスが原因だ。
東海道新幹線の高架から旧東海道を5分ほど行くと、「左富士神社」があった。
「左富士神社」の創建は寛政八年(1796)で、社名は古くは、「悪王子社」だった。
後に「悪王子神社」と称していたが、明治41年(1908〉に現在の「左富士神社」と改めた。
「左富士神社」の境内に依田橋村一里塚があった。
日本橋より34番目の一里塚である。
「左富士神社」から数分先に、「左富士」の碑があった。
東海道を江戸から京に上るときは、富士山はいつも進行右側に見えるが、
この地では街道が逆行するような形になって左側に見えるので、
「左富士」と云われている。
とても珍しいために街道の名勝となっている。
しかし、周囲の工場の建物に遮られて富士山は全く見えなかった。
この地以外では茅ヶ崎の「南湖の左富士」が有名。
当時この辺一帯は松並木だったが、 現在残っているのは松一本のみである。
「左富士」碑の少し先の和田川の袂に「平家越」の碑があった。
平家越
この辺り一帯は、治承四年(1180)、富士川の戦いで平家軍が陣を構えたところである。
源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立ち、敗走したと云われている。
この故事に因み、和田川の辺に、大正13年(1924)に平家越の碑が建てられた。
平家越え橋を渡り、真っ直ぐ進むと岳南鉄道の踏切がある。
踏切の直ぐ左が吉原本町駅になる。
吉原本町通り商店街
まだ時間が早い、と言っても10時は過ぎていたが、
店の多くは閉まっており、人影は少ない。
軒先にスポンサ-名入りの提灯が下げられている。
夜はきれいで華やかなのだろう。
吉原本町通りの中ほどに吉原宿の木柱道標があった。
蒲原宿(新蒲原駅)までまだ三里(12Km)もある。
この日のゴール蒲原駅は、さらにその先である。
木柱道標の表示に従って、商店街を左へ折れる。
突き当たりの妙祥寺参道入口を右へ進むと、
国道139号錦町北交差点に合流した。
富士市役所北の錦町交差点を斜め向いへ進むと、
新吉原宿・西木戸跡の案内標柱があった。
この辺りが新吉原宿の京方出入口だった所だ。
さらに植え込みの脇に京方面間宿本市場の案内標柱が。
富士市役所の斜め向いになる。
案内標柱に従って、旧東海道を進む。
表通りから一つ入った道は、車も少ないので静かだ。
民家の塀の脇に道祖神と刻まれた碑がひっそりと置かれていた。
高島交差点を右折した所でまたも道を間違い、東海道(県道396号)を進むべきところを
広い港大通り(県道353号)を進んでしまった。
200mほど進んだところで直ぐに気がついて、左に折れて市立中央病院の方へ。
市立中央病院を過ぎると、潤井川(うるいがわ)の堤防に出た。
左手(下流)を見ると、渡るべき橋が架かっているのが見えた。
堤防の上の歩道には、万葉歌人のものと思われる歌が並んでいた。
潤井川に架かる富安橋を渡る。
旧東海道の本来の橋は、もう一つ先の下流にあったようだが、
この時は全く気が付かなかった。
富士市蓼原(たではら)地区の道を進む。
”一万歩「加島旧東海道」コース”という標識を見掛けた。
旧東海道には、各地にいろんなコースがあるようだ。
道端に単体道祖神があった。
別名袂の道祖神(さえの神さま)と言われているそうで、
ちょっと変わった帽子を被っている。
富士見大通り塔の木交差点を横断し、富士総合庁舎を通り過ぎたところに、
”旧東海道間宿本市場”の案内を見つけた。
広重の”東海道五十三次”には、富士山を眺めながら白酒売りの茶屋で憩う旅人が描かれている。
”旧東海道間宿本市場”の少し先の民家の真前に鶴芝の碑が建っていた。
鶴の茶屋があったことを残す碑である。
ここから眺めた冬の富士が、鶴が富士の中腹で舞っているように見えたことから
この名を付けたとされている。
あれれっ 旧東海道が中央分離帯で行き止りになっている。
中央分離帯には旧東海道跡地の碑が・・・
近くに迂回を示す案内板があった。
面倒なので、車が途切れるのを待って中央分離帯を横切った。
中央分離帯には、かなりの人が通ったと思われる跡があった。
小さな花壇があり、
その一角に一里塚の碑があった。
日本橋から35番目に当たる本市場の一里塚である。
小さな碑なので危く見落とすところだった。
用水路に沿って進み、富士第一小学校前を通過
11時30分、金正禅寺に立ち寄って一休み。
金正禅寺から歩くこと8分、道路左脇に平垣「札の辻」跡の碑があり、
”札の辻橋 大正五年三月竣工”と刻まれていた。
左の石には「猿田彦大神」と刻まれていた。
旧東海道は、柚木駅手前で県道396号に合流する。
合流点には間宿本市場の道標が立っている。
身延線の高架が見えてきた。
11時51分、身延線柚木(ゆのき)駅を通過
”加島の旧東海道コース”の標識に芭蕉の句碑の文字が。
しかし、標識に距離は表示されていない。
直ぐ近くだろう、と思って矢印の方へ行ってみたが・・・
200mほど行くと、道は二手に分かれていた。
どっちだろう? どこにも案内などは見当たらない。
結局、両方の道を突き当りまで(それぞれ150mほど)進んだが、
結局芭蕉の句碑を見つけることは出来なかった。
(最初の案内標識に距離を表示してくれれば良いのにと強く思った)
芭蕉の句碑の標識があった交差点まで引き返し、静岡方面へ。
少し進むと、また道が二手に分れていた。
分岐点に秋葉山常夜灯と道標があり、左東海道と刻まれていた。
道標に従って、右の道を進む。
450mほどで、先ほど分岐した県道396号に戻り、再び旧東海道を進む。
富士川の東岸に松岡水神社があった。
鳥居横の柱には、指定村社水神社とある。
富士川の堤防工事の成就記念に創建されたもので、
渡航の安全を祈願する人々が多く訪れた、そうだ。
水神社境内には、いろいろな石碑が建立されている。
富士川渡船場跡の碑は、東海道400年祭記念事業として、平成13年に建立された。
江戸時代、水神社西側で渡船が行われた。
上、中、下の渡し場があり、川の状況により船の発着場が変えられた。
当時の名残として「舟場」という地名が残っている、そうだ。
富士山道の道標
富士山禅定(登山)を目指す道者のための道しるべである。
西国から来た道者は、富士川を渡った後、水神社の東方で東海道を左に折れ、
富士山本宮浅間大社や村山浅間神社に向かったと云われる。
以前、この碑は、その分岐点にあったと云われる、とある。
不盡河歸郷堤之碑(ふじかわききょうづつみの碑)
この碑は、安政六年(1859)頃に建立された。
富士川の大水で、水神下の堤防が決壊し、人々は離散した。
復旧工事を命じられた幕府勘定奉行土岐摂津守は、賢明に取り組み、
短期間で堤防を完成させた。
人々は、郷里へ帰ることが出来たのは、土岐氏のおかげであるとし、
感謝のため、「帰郷」と土岐氏の家紋「桔梗」をかけて、
「ききょう堤」と名付けたという。
水神社は、古郡孫太夫が堤防工事の完成を願い、社殿を造営した。
しかし、その由来は火災のため社伝の古記録等が焼失し、詳細は不明である。
水害や水難を防ぎ、岳南鎮護の神社として崇敬を集めている、とのこと。
水神社へ参拝を済ませ、
富士川を渡る。
富士川の上流
水量が多い。
富士川の下流
東海道本線の鉄橋が見える。
振り返ると、富士山が雲の上にちょっぴり頭を出していた。
500m以上はあると思える富士川の橋を渡り切り、旧東海道の道を探したが、
何の案内もなく付近をうろうろするばかり。
旧東海道の案内標識を見つけることはできなかったが、
手作りの地図と感を頼りに坂道を上ることにした。
左手に今渡ってきた富士川を見ながら進むと、
次の一里塚まで0.68Kmを案内する標識があった。
この案内標識があるということは、この道は旧東海道に違いない。
さらに先へ進むと秋葉山常夜灯があった。
吉原宿から間宿本市場では、常夜灯をいくつも見掛けた。
これもそのうちの一つであり、この道は旧東海道だと確信。
岩淵宿本陣跡の表門には、「西條少将小休」と宿札が懸かっている。
岩淵宿本陣は、渡船名主の常盤弥兵衛が務めていたもので、
建物は安政元年(1854)の大地震の後に建て直されたものという。
吉原宿と蒲原宿の間には間宿として本市場と岩淵があった。
ここ岩淵は、東海道五十三次の指定された宿場町ではないため、
表向き宿泊はできない。
川渡しの前後に休憩する宿場町であった。
一休本陣常盤家から8分ほど進むと、直角に曲がる角に岩淵一里塚があった。
東側の榎は、虫害のため、昭和42年に枯死してしまったが、
昭和45年に二代目が植えられている。
岩淵一里塚は、江戸日本橋から37番目の一里塚である。
保存状態が良く、当時の状況を良く残した貴重な一里塚ということで、
県の史跡指定を受けている。
(写真は西側の一里塚)
蒲原宿への道案内
案内に従って右折する。
正面の家の角にはもう一つの道案内があった。
東名高速道のガード手前に中之郷と書かれた標識があった。
この辺りは中之郷という地名になっている。
中之郷標識の直ぐ先の東名高速道ガードを潜って左折し、
東名高速道に沿って進む。
小池橋を渡った袂に、
小さな空地があり、何故か椅子が3つ並んでいた。
時計は13時15分を過ぎており、お腹も空いていたので、ここで弁当を食べることにした。
途中、小さな公園でもとキョロキョロ探していたので、ちょうど良かった。
東京駅で買った奈良の「心」という駅弁(1,000円)である。
惣菜はいろいろと入っていたが、味の方はもう一つといったところ。
昼食後、中之郷地区を進んで行くと、道が二つに分れていた。
右は”行き止り”、左は”蒲原”と表示されていた。
左の道は、東海道新幹線を潜っていた。
途中に案内標識などはないため、地図と感を頼りに進むしかない。
民家の前に明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之跡碑があった。
ということは、この道は旧東海道に違いない。
しばらく進むと、広い道路が直ぐ左を走っていた。
東名高速道だ。
道は東名高速道を跨いで静岡市へと続いていた。
東名高速道を跨ぐ。
(写真は、富士市方面を望む)
蒲原一町目の急な坂道を下って行くと、
突き当りの三叉路に案内標識があった。
北条新三郎の墓3分、蒲原宿東木戸4分、とある。
標識に従い、右に進むと、蒲原一里塚跡の標柱があった。
江戸日本橋から38番目の一里塚である。
最初の蒲原一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流失して、
宿の移転にともなって、ここに移されたものだが、当時の面影はない。
北条新三郎の墓の案内があった。
の北条新三郎とは? ちょっと気になったので、石段を上ってみることにした。
石段を上ること約200m、薄暗い雑木林の大きな木の根元にその墓があった。
”北条新三郎の碑”案内板には次のように説明されている。
永禄十二年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城。
城主北条新三郎は、城から抜け出し、常楽寺まで逃れたが、
寺に火を付け自刃したと伝えられている。
その後、供養のためにここに碑を作った。
碑には、「常楽寺殿衝天良月大居士」の戒名が記されている。
常楽寺については、現在裏付ける資料は残っていないが、
「奥の院ここより五丁」という道標や、常楽寺の奥の院と考えられる
観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察される。
(静岡市)
街道へ戻り、諏訪神社前を通り過ぎ、
少し進むと、東木戸跡があった。
東木戸は、わずかながら桝形になっている。
また、東木戸にある常夜灯には「宿内安全」という文字が刻まれており、
宿の入口を照らしていた。
文政十三年(1831)のものと考えられている。(静岡市)
14時26分、日本軽金属蒲原工場の富士川第二発電所の巨大なパイプを通過
蒲原製造所の工場群を動かす電力の大部分は、自家用水力発電所から供給されている。
富士川第二発電所は、49,500KWの発電能力がある、とのこと。
諏訪橋を渡ると、渡邊家土蔵(三階文庫)があった。
三階建ての土蔵はあまり例がない。
渡邉家は、江戸末期に問屋職を代々務めた旧家で、材木を商っていたことから、
「木屋」という屋号でよばれていた。
「渡邉家土蔵」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる
「四方具」という耐震性に優れた技法で建築されている。
棟札から天保九年(1838)に上棟したことが分かり、
土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されていた。
平成13年、市指定有形文化財に指定されている。(静岡市)
竜雲寺の入口
山号を「岩戸山」と称する臨済宗妙心寺派の寺院である。
承応二年(1653)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸への途中、
薩摩藩大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、
薩摩藩との乱闘で70人近くを倒した。
しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまった。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。
甚太夫の槍の穂先は、寺宝として保存されている。
東漸寺(とうぜんじ)
元弘元年(1331)開祖の日蓮宗の古刹である。
元は御殿屋敷付近にあったが、三代将軍家光上洛時増改築のため、
現在地に移転した。
本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となった。
東漸寺のイヌマキ
東漸寺は、寛永九年(1632)「蒲原御殿」大改修のため、現在地へ移転したが、
その際、境内の七面堂へ向かう参道の脇にこの木を植えたと伝えられている。
幹周りは胸高2.6m、根周りは6.3m、樹高17mと計測される。
推定樹齢は、400年。(平成20年1月 かんばら巨樹の会)
なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)
元「佐野屋」の佐藤家は、壁は塗り壁の「塗り家造り」と言う。
商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)
吉田家は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家だった。
玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく、広々とした
「店の間」造りになっていて、商家らしい雰囲気が残っている。(静岡市)
かつての問屋場跡には、今ではご覧のような民家が建っている。
”夜之雪 蒲原宿”の記念碑
昭和三十五年、「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になり、
これを記念して、広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に
記念碑が建てられた。
「蒲原夜之雪」
歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は、
「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物”と称され、なかでも最高傑作と
云われている。(静岡市)
平岡本陣跡
ここは、蒲原宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、
かつてはここより100mほど東に東本陣(多芸本陣)もあった。
当時のままの土蔵や、大名駕籠を降ろしたお駕籠石が残っている。
黒々とした塀が、歴史を感じさせる。
鈴木家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠だった。
天保年間(1830~44年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。
弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数六・一」とあり、
現在は鈴木家(左)四・一間、お休み処(右)二間の二軒に仕切られている。
(静岡市)
お休み処でコーヒー(300円)を注文してひと息入れ、
女将から蒲原御殿の話などを伺った。
手作りガラスと総欅の家(磯部家)
明治四十二年(1909)に建築された磯部家は、素材の美しさから近世以降、
寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至る全てが欅造り。
二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手作りのガラスである。(静岡市)
高札場跡
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のこと。辻札ともいわれた。
宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていた。
また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられた。(静岡市)
旧五十嵐歯科医院
五十嵐準氏が地元蒲原に歯科を開業するにあたり大正三年(1914)に建てた病院併用住宅。
町屋を洋風に増改築した偽洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風という
ユニークな建物である。
平成12年に国登録有形文化財に登録されている。(静岡市)
玄関を入って中を見ると、畳の部屋になっている。
旧五十嵐歯科医院の裏庭
裏庭から旧五十嵐歯科医院を見たところ
蔀戸(しとみど)のある家(志田家住宅主屋)
志田家は、ヤマロクという屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家だった。
蔀戸とは、日光や風雨などを遮る戸のこと。
上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せに止め、
全部開放する時には、下のものは取り外せる。
昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下して戸締りの役を果たした。
美しい格子戸の家(増田家)
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つ。
蒲原宿西木戸
蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれていた。
元々宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていたが、
元禄十二年(1699)の大津波で壊滅的な被害を受け、
蒲原御殿があったとされる地に移動した。
この西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こった。
(竜雲寺の項参照)
蒲原駅を目指す。
16時10分前、陽が大分傾いてきた。
北向不動尊一乗院を過ぎ、
16時5分、この日のゴール蒲原駅に到着。
蒲原駅から沼津駅へ戻り、予約していたホテルへ向かう。
沼津仲見世商店街入口
沼津仲見世商店街
予約していたホテルは、直ぐ近くにあった。
1階は、コンビニになっている。
ホテルの入口
ホテルの部屋から駅方面を見たところ。
シャワーを浴びて疲れをとって、明日も頑張って歩こう!
「旧東海道を歩く」第Ⅱステージ2回目(吉原宿~興津宿)の初日を歩き終えた。
吉原駅では、薄らとだが富士山が見えたが、「左富士」に着いた時には、
全く見ることができなかったのは残念だった。
蒲原宿は、旧家や歴史的建物が多かった。
全てを観て回ることは出来なかった。
また訪れる機会があれば、ゆっくりと観て回りたいものである。
明日は東海道五十三次の中でも絶景と言われる「薩埵峠」を越えることにしている。
果して富士山は、その雄姿を見せてくれるのだろうか?
この日の万歩計は、32,000歩を超えていた。
旧東海道を歩く 第Ⅱステージ(第2回)吉原宿~興津宿(2日目)へ
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