ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第九回 (青梅街道)新宿追分~荻窪宿

2016年01月24日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年1月24日(日)

昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで、歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、街道の中から選んだ宿間を歩くものである。

「旧街道を歩く」第九回は、青梅街道の新宿追分~荻窪宿間約9Kmを歩いた。

この日のスタート地は、新宿追分なので、新宿駅南口から東口へ向かうことにした。
参加者は自分も入れて6名である。


9時11分、追分に向けて出発!


『久しぶりだねっ』
新宿南口は、昨年(2015年)3月22日に甲州街道(日本橋~新宿)を歩いて以来なので記憶に新しい。


高島屋の前を通り、新宿南口から東口へ。


新宿四丁目の明治通りを横断。
マルイの先を左折して、


新宿二丁目交差点に到着。
この日のスタート地点である。


9時22分、新宿通りを新宿駅東口に向けて、出発!


新宿追分にある団子の老舗「追分だんご本舗」
串1本から買える、そうだがまだ開店していない。


新宿通りと目地通りの交差点のシンボルと言えば、やはり「伊勢丹」だろう。


「伊勢丹」の斜め向かいに新宿元標があった。
ここが、甲州街道と青梅街道の追分(分岐点)だったところだ。


新宿通り(旧青梅街道)を新宿駅東口方面へ。


ところどころに2日ほど前に降った雪が残っていた。
この日も寒いのでこのまま融けないかもしれない。


新宿駅東口方面へ。


近くにあった地図で最初の目的地、馬水槽を探す。
地図によると、直ぐ近くである。


新宿駅東口周辺を手分けして探すこと数分・・・


ようやく馬水槽を見つけた。
赤大理石製、前面の上部が馬用、下部が犬猫用の水飲み場になっている。
東京上水道の育ての親と云われる中嶋鋭司博士が明治34年に欧米諸国を視察した際に、
ロンドン水槽協会から東京市に寄付されたもの、である。


裏側が人のための水飲み場になっている。


新宿駅西口へ抜ける地下通路の入口に青梅街道の道標がある。


東口と西口を結ぶ通路の入口に旧青梅街道の案内がある。
旧青梅街道の歴史
そのむかし、徳川家康が江戸城普請の際に多摩郡から石灰を運ぶ為に開かれた「成木街道」が
その後に「青梅街道」になった、と案内されている。


また、ここが旧青梅街道の起点となる場所にあたる、とのこと。
新宿追分(新宿三丁目交差点)で甲州街道と分岐し、再度合流する山梨県甲府市山崎交差点が終点となる。
全長およそ167Km、と案内されている。


東口から西口への通路


『青梅街道の宿場名が並んでるよっ』


トンネルを抜けて西口に出ると、


思い出横丁が・・・
かつてはションベン横丁と呼ばれていた飲み屋街だったところだ。
何度か同僚と飲みに行ったことがある。


旧青梅街道の道標に従って進むと・・・


新宿駅西口に出た。
左手には小田急デパート・京王デパートが並んでいる。


旧青梅街道は道路を渡って真っ直ぐだ。


道路を渡って旧青梅街道を進む。


高層ビル街の道路は横断陸橋で渡る。


横断陸橋から見た高層ビル群


次の目的地「策の井跡」(むちのいあと)が、新宿Lタワービルの植栽にあるとあったので
新宿Lタワービル駐車場入り口辺りを探してみる。


10時ちょうど、新宿Lタワービルの植栽の中に策の井跡を見つけた。
この地は、尾張摂津下屋敷があった所で、東照公(徳川家康)が鷹狩りの帰途、
汚れた策を洗ったという伝承による。
現在は枯れてしまったが、江戸時代より名井として知られた、とのこと。


高層ビル群の谷間を青梅街道へ。


新宿警察署前を通過すると、


青梅街道に出た。
次の目的地である常円寺(日蓮宗)を探して路地を進んで行くと・・・


古ぼけたアパートのような建物があった。
既に廃屋となっている。


「ときわ荘」とあるが・・・


『これがあの有名な「ときわ荘」なのかしらねぇ?』
(後で調べたら、有名漫画家が住んでいたという「トキワ荘」とは全く別物だった)


常円寺は、通り過ぎてしまったようなので、「ときわ荘」近くの路地を進んで行くと、
次の目的地成子天神社が目の前に現れた。
少し近道をした感じである。
『路地を歩いて正解だったねっ』


成子天神社山門を潜ると、


菅原道真公ゆかりの牛の像が。
『何となく可愛らしい顔をしてるわねっ』


境内の神輿庫には立派な神輿が保管されていた。


成子天神社拝殿にお参りを済ませる。
学問の神様菅原道真公が祀られている。


山門を潜って参道を進むと鳥居がある。


鳥居の横に鳴子ウリ(マクワウリ)の案内板が・・・
成子天神社周辺は、御用畑としてマクワウリを栽培していて、明治に至るまで特産地として栄えていた。
この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれた。(概略)


長い参道を通って成子天神社の門を出ると、


新宿の高層ビル群が目の前に聳える。


旧青梅街道を進む。


淀橋交差点付近を通過


10時42分、淀橋に到着した。
「淀橋」の名は三代将軍徳川家光が名付けたと云われている。
古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「暇乞いの橋」と云われていた、そうだ。
この辺りで中野長者と云われていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、
他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだ。
九郎と橋を渡る時には見えた人が、帰る時には姿が見えなかったことから
その名が付いたと云われている。


江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた徳川家光は、この話を聞き、
『不吉な話でよくない。景色が淀川を想い出させるので、淀橋と改めるよう』に命じ、
これ以降、この名が定まったそうである。
流れているのは、神田川だ。


10時49分、東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅を通過


続いて山手通り交差点を横断


11時4分、明王山宝仙寺に到着。
宝仙寺は、平安後期の寛治年間(1087~94)、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰郷の途中の源義家が、
陣中に護持していた不動明王像を安置するために創建した、と伝わる。


宝仙寺境内


三重塔
寛永十三年に建立された塔が塔の山公園にあったが、戦災で焼失した。
平成4年に再建された三重塔は高さ約20m、飛鳥様式の純木造建築で、心柱は基檀まで貫通している。
塔内には大日如来を中心とした胎蔵界五佛が安置されている。(案内板より)


石臼塚
中野区と新宿区の境を流れる神田川には、江戸時代から水車が設けられ、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ、製粉の一大拠点となり、
中野から東京中のそば店に供給されたため、「中野そば」とまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は、道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て、宝仙寺住職が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、
境内に「石臼塚」を立てて供養した。(案内板より)


中野町役場跡碑
『中野区区役所の前身がここにあったんだねっ』


宝仙寺本堂


御影堂(みえどう)
弘法大師の御影、すなわちお姿を安置してある堂のこと。
安置されている弘法大師像は、座像で後背まで入れて高さ3mある、そうだ。


11時23分、中野消防署前を通過


11時25分、福王山慈眼寺(じげんじ)に到着
真言宗豊山派の寺院で、天文十三年(1544)の創建と伝えられる。
鐘楼がタイ風なのが印象的である。


鐘も小さい。


六地蔵
お地蔵さまは、私たちが六道輪廻の因縁によって地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の
いずれの道にあっても、それぞれに姿を変えて現れ、苦を取り除き幸福へと導いてくれる、というもの。


仏舎利塔
タイ国王立一級寺院ワットスラケットより請来された仏舎利が納められており、
在京のタイ人には、”東京で最初のタイ風仏舎利塔”と呼ばれ信仰を集めているそうだ。
慈眼寺の修補住職は、タイ国バンコク市にある国王立一級寺院ワットスラケットに法縁を得て
上座部仏教の戒律を授かり修行を続けてきた。
やがてワットスラケット寺院より仏舎利を託され、この仏舎利塔を建立した、とのこと。
以来、慈眼寺の法燈を受け継ぐ僧侶は真言宗の受戒・修行はもちろんのこと、合わせて
上座部仏教の受戒・修行を行うことが特色となっている、とのこと。


氷川堂
昔、慈眼寺は旧中野村氷川神社の別当職を兼ねていたが、明治政府の神仏分離令により、神社を政府に返還。
この江戸幕府から明治政府に移る揺籃の時代に、慈眼寺第十五代住職覺順和尚は「氷川坊さん」と呼ばれ、
皆からの信望も厚く、慕われていた。


お堂には、「氷川坊さん」として知られる、慈眼寺第十五代住職覺順法師が奉られている。


時計は11時30分をちょっと回ったところ。
少しばかりお腹が空いたので、茶菓子で凌ごう。


青梅街道鍋屋横丁辺り


鍋屋横丁
人通りはまあまあだが・・・


シャッターが閉まったままの店も多い。
『どこもそんなに楽じゃないんだねっ』


11時45分、中野通りを横断。


『古い家だねぇ』


こちらも古そうな家だが・・・


自動販売機が目障りである。
もう少し離れた場所に設置する配慮が欲しかった。


11時52分、北野神社(西町天神)に到着


北野神社拝殿
祭神は、菅原道真公とのこと。


西町天神公孫樹(銀杏)の大木
この大公孫樹は、江戸時代より聳え立つ大木であり、その威容は、東は追分・鍋屋横丁、
西は高円寺押出・金灯篭周辺から天空高く望見出来た。
また、近在農家の江戸稼業往還の目安、一般休息の場ともなっていた。
しかし、昭和54年10月の台風20号の被害を受け、根株もろとも倒伏した。
蘇生策として躯幹の大部分を切断せざるを得なかったが、地域の人々の努力と熱心な手当てにより、
今では銀杏の実が付くようになった。。(案内板より)


”昭和七年”の和の字が逆に彫られている。
野木偏のノもおかしい。
これはわざと彫ったものだと思われるが、その意図は???


道路反対側に「蚕糸の森記念公園」があったので、立寄ってみることにした。


蚕糸の森公園周辺地図で確認し、


蚕糸の森公園内へ。
明治44年に設置された農林水産省の蚕糸試験場が、昭和54年筑波に移転した跡地に造られた。


滝も造られている。


スズカケ(プラタナス)の大木
『プラタナスもこんな大木になっちゃうんだねっ』


旧守衛所が今は事務所として修復・保存されている。


蚕糸の森公園の正門
青梅街道に面した旧正門の門柱は、歴史を感じさせる。


これは普通の公園総合案内図だが・・・


何やら覗き込んでいるのは・・・


目の不自由な人のための点字の案内図である。
このような案内図を見たのは初めてだ。
さすが杉並区だと感心した。


蚕糸の森公園外れに一対の大きな青銅製の燈籠(常夜灯)が建てられていた。
妙法寺参道入口に建てられたもので、ここを左に入っていくと(600mほど先)妙法寺がある、
そうだが、立寄る時間はない。


12時17分、高円寺陸橋(環状七号線)を通過。


お腹が空いてきた
食べ物屋の看板がやたら目に付きだした。


今は一番混む時間帯なので、ここは我慢してパスしよう。


ここもパスだ。


12時25分、地下鉄新高円寺駅手前にある五日市街道追分(分岐点)を通過。
五日市街道は、ここから玉川上水沿いに五日市に通じる青梅街道の脇街道で、
五日市(現あきる野市)や檜村から江戸に木材や炭などを運ぶために整備された。


12時30分、清見寺(せいけんじ)に到着。


清見寺入口の地蔵菩薩堂にはお地蔵さんが安置されている。
馬橋村・阿佐ヶ谷村の村民が奉納した地蔵石像とのこと。


清見寺本堂
中野区成願寺の末寺で、江戸時代初期に開かれた曹洞宗の寺。
清見寺は、寛永初年(1624)に成願寺6世鉄叟雄鷟和尚が創建したと云われる。
明治末期頃から住職が鍼灸治療としていたと云われ、地元では「馬橋の灸寺」として知られる。


本堂前の3体の大きな石像が印象的である。


12時をかなり過ぎて(12時36分)しまった。
予定では、ゴールの荻窪駅周辺で昼食をと考えていたのだが、
このペースでは、荻窪駅まではもう少し時間がかかりそうなので、
適当な店があれば入ることにした。
とたんに適当な店がなかなか見つからなくなった。


12時56分、杉並郵便局前を通過


12時59分、杉並区役所の向いにお馴染の「大勝軒」があった。
『ここにしようっ!』


野菜ラーメン(700円)を注文。
野菜と言ってももやしだけだが、ボリュームはたっぷりである。


13時37分、昼食も終わり、後はゴールの荻窪駅を目指すだけである。


13時39分、杉並消防署前を通過


道路脇にはあちこちに雪が残っている。
新宿で見たものよりも多い感じだ。


天沼陸橋交差点で青梅街道とも分れ、荻窪駅へ向かう。


荻窪駅を目ざす。


荻窪駅が見えて来た。


13時56分、この日のゴール荻窪駅に到着した。
『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


青梅街道の新宿追分~荻窪宿間約9Kmを歩き終わった。
見どころもそこそこにあり、楽しめた。
「ときわ荘」を見つけた時は、大いに喜んだが、有名漫画家が住んでいたと云われる「トキワ荘」とは
全く別物と分かり、がっかりした。
よく考えれば、朽ちたとは言え、当時のアパートが今でも残っているはずがないのだ。

この日の万歩計は、19,000歩を越えていた。

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1 コメント

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Unknown (荻野正之)
2017-05-10 13:06:40
荻窪の橋を渡らない道が旧道です。鍋屋横丁には驚くほど安いパン屋さんがあります。成子坂の裏側には銭湯がありました。安いアパートにたくさんの人がいましたが、防災を理由に立ち退かされました。新宿村スタジオ周辺もすっかりきれいになりました。









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