ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.8 仙台城

2015年07月28日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2015年7月28日(火)

この日、懸案の一つだった仙台城に登城した。
実は、2010年8月13日に一度登城しようとしたのだが、駐車場が満車だったために、
駐車場へ辿り着く事が出来ず、仙台城を目前にして引き返し、多賀城へ向かったのである。
後日仙台市役所に電話で事状を説明したところ、後日スタンプが押された紙が送られてきた。
スタンプ帳に貼っていたが、何ともすっきりしない。
やはり自分の目で見て、歩いてみないと実感が伴わない。
スタンプだけで到底登城した気分にはなれない。
そこで、今回あらためて登城した、という次第。

仙台城は、鎌倉時代創築と伝えられる千代城があった青葉山に、
伊達政宗が慶長五年(1600)から2年あまりで築城した。


青葉山の山頂に位置することから「青葉城」とも呼ばれる仙台城は、
城の三方を広瀬川の断崖と瀧ノ口の渓谷が囲む、天然の要害に守られた山城である。
本丸は仙台藩62万石に相応しい大規模なもので、東西245m、南北267mと日本最大級である。


本丸跡から仙台市街地が一望できる。


仙台市街地を望む。


動画


本丸跡から巽櫓跡へ向かう。


巽櫓跡
巽櫓は仙台城本丸の南東に位置し、築城期(17世紀前半)から存在した四基の三重櫓の一つと考えられている。
正保三年(1646)4月の地震で倒壊し、以後再建されなかったと考えられている。


巽櫓跡からの眺望


巽櫓跡からいったん本丸へ引き返す。


土井晩翠像と「荒城の月」歌碑


土井晩翠は、本名を林吉といい、明治四年(1871)仙台市北鍛治町の質商土井七郎兵衛の長男として生まれた。
明治三十年、東京帝国大学英文科を卒業、明治三十三年、母校二高の教授として帰仙した。
不朽の名作「荒城の月」は明治三十一年に作詞発表された。
歌碑からは、「荒城の月」の歌が流れていた。


本丸跡の仙台城見聞館前に本丸御殿の正面図があった。


天守は築かれなかったものの、本丸には豪華な本丸御殿が建ち並び、
初代藩主の伊達政宗もこの御殿で暮らしていたとされ、
跡地からは多くの華麗な調度品が出土している。


崖に張り出した懸造の御殿も造営されていた。


天守は築かれなかったものの、本丸は62万石の大名に相応しく、
桃山文化の集大成ともいうべき本丸御殿の建物が建ち並び、
その内部は数多くの美術品で飾られていた。
松島町所蔵「鳳凰図屏風」を一部加工して再現した、上段の間の床障壁画


本丸大広間は、本丸御殿の中心となる建物で、その広さから「千畳敷」とも称されたと言われている。
上段の間(36畳)は、歴代藩主が座していた。


「上段の間」をはじめ「孔雀の間」「鷹の間」「鶴の間」など多くの部屋が配置され、
各間は豪華な障壁画や飾金具で装飾されていた。


「上段の間」の隣り「上々段の間」(6畳)は将軍・天皇が着座する間である。


仙台城見聞館の傍に、石垣モデルが置かれている。
本丸北側の石垣モデル
仙台市は、老朽化した仙台城本丸跡の石垣を丸6年の歳月をかけて、全面的に解体・修理した。


築城期の石垣モデル
本丸北側石垣の全面的な解体工事により、伊達政宗が仙台城を築城した時期の石垣が発見された。


城内には「大手門跡ルート」と「巽門跡ルート」の2つの散策ルートが設けられている。
本丸から両ルートを回ってみることにした。


現在地の本丸御殿から鳥瞰図に従って歩き始める。


本丸跡を進むと、先ずは詰門跡がある。
仙台城本丸は、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山、
南側を竜ノ口峡谷が囲むという天然の要害となっている。
この北側には石垣が築かれ、登城口が設けられていた。


詰門は、この入口に建てられた門で、正保の城絵図(1645年)によると、
二階建・瓦葺で、棟の両端に鯱がのっていた。
左右の石垣間の距離は19.5m(65尺)で、大手門と同じ大きさを持つ。
門の左右には三重の脇櫓(東脇櫓・西脇櫓)が築かれていた。
詰門跡から護国神社の鳥居を見たところ。


護国神社の鳥居を右に曲ると、修復整備が完成した本丸跡北側の高石垣が現れる。


平成になって本丸跡の調査が進み、本丸を囲む石垣は長い年月によって劣化が進んでいたが、
平成9年から7年をかけて補強、修復された。


本丸北面で最も高い17mの高石垣


本丸跡北側の高石垣は、切込接による実に見事なものである。
特に隅部の算木積は、「江戸切り」と呼ばれる手法で、
石の角に丁寧な加工を施して稜線を際立たせている。


修復された本丸跡北側の石垣


高石垣をいったん後にして、坂道を下って行くと・・・


沢門跡があった。
現在は、石灯籠が建てられている。


仙台城には、門や曲輪が複雑に設けられていた。
沢曲輪と中曲輪をつなぐ現在地には沢門があった。
沢門は平屋建てで、屋根は切妻、瓦葺であった。
本丸跡から沢門までは、大手門跡ルートと巽門跡ルートは共通している。


ここで大手門跡ルートと分かれ、右に曲って巽門跡ルートを進む。
巽門跡ルートの薄暗い坂道を下る。


緩やかな坂道を三の丸方面へ向かう。


仙台藩御用酒発祥の地碑があった。次のように説明されている。
仙台藩祖伊達政宗公は、慶長十三年(1608)柳生但馬守宗矩の仲介により、大和国の又右衛門を仙台に召下し、
榧森(かやのもり)の姓と、切米10両、10人扶持を給し、清水門の南側御太鼓部屋下に自ら地を相し、縦16間、横5間の
酒蔵を建て御城御用御酒屋と称した。
酒造用水にはこの付近の清泉が使われた。
榧森家は、初代又右衛門より12代孝蔵に至るまで仙台城御酒御用を務め、その醸造する酒は夏氷酒・忍冬酒・桑酒・
葡萄酒・印籠酒など20余種にも及び、仙台領内の酒類醸造に多くの影響を与えた。
以来仙台藩に於てはいわゆる町酒屋と御用御酒屋とが競い合い、酒類醸造技術の向上と藩の経済に大いに貢献した。
御酒蔵跡と名水の湧出する地は宮城県産清酒の源流の地である。


清水門跡
三の丸から沢門に至る登城路の途中に設けられた門で、入母屋造り二階建て二重問となっていた。
清水門の名は、門付近に仙台藩の御用酒造りに利用された湧水があったことにちなむ。
清水門跡石垣は、平成15年に復旧されている。


酒造屋敷跡
この地は、慶長十三年(1608)に伊達政宗公が大和国から招いた又右衛門が、酒蔵と屋敷を与えられ、
酒造りを行った場所と伝えられる。
又右衛門は、藩用の酒の醸造を行い、出身地にちなんだ榧森(かやのもり)の苗字を与えられ、
帯刀も許されていたという。
この場所には、江戸時代を通じて酒蔵が置かれていた。
城内に酒造屋敷がある例は、極めて珍しいものである。


巽門跡は、三の丸の南東側の門である。
巽門は、大手門や脇櫓とともに仙台空襲(1945)前まで残っていた数少ない建造物の一つである。


昭和59年に実施された発掘調査で建物の礎石14個や雨落溝などが検出され、翌年その成果をもとに
門跡の復元整備が行われた。


巽門跡を三の丸方面へ進むと、正面に仙台博物館がある。
三の丸は、江戸時代の城下絵図には、「蔵屋敷」「御米蔵」「東丸」などど記載され、
藩に納められた年貢米などを貯蔵する場所として用いられたと考えられる。
その規模は東西約144m、南北約117mで、周囲は大規模な土塁と堀で囲まれていた。


仙台博物館に向かって右手に残月亭がある。
残月亭入口


残月亭
この茶室は四畳半の屋敷の茶室を中心に、水屋・縁が付き、屋根は寄棟造り柿葺きとなっている。


初代の仙台区長の松倉恂により建てられ、その後、姉歯家所有となり、2度移築されている。
保存状態良好な明治中期の書院風茶室として貴重である。


三の丸跡東側土塁
三の丸の地は、堀と土塁とで堅固に囲まれていた。
土塁は正保の城下絵図(1645年)では、「岸」「土手」などと記されている。
博物館建設の整地によって見た目は低くなっているが、江戸時代には高さが2間(約3.6m)あったと
伝えられている。


土塁の高さは場所によって異なり、南の巽門脇は高さ5間(約9.0m)、
北の子門脇では7間半(約13.5m)もの高さがあった。


三の丸の北側から見た子門跡
仙台市博物館敷地内入口となっているこの場所には、木造二階建・瓦葺の門が建っていた。
正保の城下絵図(1645年)では、「子ノ方門」と記されいる。


三の丸跡側から見た子門跡
現在も石垣が左右に残っており、往時を偲ばせるが、昭和時代に修復されたものである。


子門跡を過ぎると、右手に三の丸東側の長沼へ通じる堀がある。


左側には、五色沼がある。
明治中期、外国人たちがこの場所でスケートを始め、明治42年(1909)頃に第二高等学校生が
ドイツ語教師ウィルヘルムからフィギュアスケートの指導を受けたという。


後に彼等や後輩たちが全国各地で普及に努めたことから、五色沼(堀跡)は、
日本フィギュアスケートの発祥の地と言われている。


三の丸東側の長沼
長沼は巽門跡まで続いている。


仙台城
築城された当時は、まだ戦乱が収まっていなかったことから、当初、本丸に至る大手筋(登城路)は、
巽門から清水門、沢門に向かう急峻な道であったという説が有力になっている。
その後、世の中が収まり、仙台城の整備が進む中で大手門が築造されると、
大橋から坂を上って大手門に入り、中門から本丸へ向かうルートが、正式な登城路として
整備されたと考えられる。


仙台城入口の前に仙台国際センターが建っている。
水沢伊達氏、登米伊達氏の屋敷跡だったところである。


大手門跡への道
後方は広瀬川大橋方面。


大手門跡への道
左は三の丸堀跡付近


さらに進むと大手門北側土塀が見えて来た。
政宗の死後、2代藩主・忠宗により、本丸よりも一段低い山麓部に二の丸が造営され、藩政の中心となった。
しかし、こうした建物群も明治時代に破却され、さらに昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまった。
この土塀は、空襲で焼け残ったもので、仙台城内に現存する唯一の建築物である。


大手門北側土塀下の扇坂
扇坂の先は、宮城県美術館・仙台第二高へ通じている。


大手門跡正面の二の丸跡には支倉常長の銅像が建てられていた。
支倉常長は、政宗公の命を受け渡欧した「慶長遺欧使節」の日本人のリーダーであった。
サンファンバウティスタ号で、石巻市・月浦を出帆。
日本人として初めて太平洋・大西洋を越え、メキシコ・スペイン・ローマを訪れた。


二の丸跡正面の大手門には、付属の脇櫓があった。
かつて仙台城の大手には肥前名護屋城から移築したと云われていた、
桃山様式の豪壮華麗な大手門と脇櫓があったが、昭和20年の空襲により焼失した。
現在は、大手門脇櫓のみが再建されている。


焼失前の大手門(右)と付属の脇櫓(左)


再建された脇櫓


二の丸跡に建てられた、東北大学百周年記念会館。
コンサートホールおよび 会議室等からなる複合施設である。愛称は「川内萩ホール」
現在は、東北大学川内南キャンパスになっている。


二の丸跡の東北大学川内キャンパス


東北大学植物園への入口


大手門跡から本丸跡を目指す。
ここ大手門跡から本丸跡へは「大手門跡ルート」「巽門跡ルート」になっている。


しばらく進むと、中門跡が見えて来る。


中門跡
中門は、大手門から本丸に至る道の途中に設けられていた二階門で、「寅門」とも称された。
江戸時代に作られた姿絵図には、切妻造で桁行6間、梁間3間に描かれている。
門を挟んで両側には石垣が築かれている。


中門跡から大手門方面を望む。


中門跡から沢門方面を望む。


中門跡から大手門方面へ進むと、沢門跡の石灯籠が見えて来た。


さらに進むと、北側石垣が現れた。


護国神社の鳥居に到着した。
一通り城内を見て回ったことになる。
最後は護国神社へ参拝して帰ることにしよう。


護国神社


護国神社へ参拝
神社内には、「軍艦マーチ」が流れていた。


この後、土産物店で土産物を買い、仙台城を後にした。
この日の仙台城で、登城した城は、90城になった。
残り10城、何とか頑張って全100城の登城を目指したい。

この日のお城巡りではかなり歩いたと思ったが、意外にも万歩計は、8,000歩ほどだった。


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