2015年7月19日(日)
昨年(2014年)は、旧東海道第一ステージとして、日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも歴史的に見所が多い区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも大変なためである。
第六回は、中山道(塩尻宿~下諏訪宿)を2日かけて歩いた。
見所・立寄り先などは、「浅田次郎と歩く中山道」(中央公論新社)を参考にした。
新宿駅7時0分発の「あずさ1号」は、自由席は長蛇の列でとても座って行けそうになかったため、
7時30分発の「あずさ3号」に乗ることにした。
30分待つのは大したことではないし、列も短い、と気楽に構えて列に並んでいると、
場内放送で「あずさ3号」は千葉駅始発と分かり、『え~っ新宿発じゃないんだぁ』とがっくり。
「あずさ」号は、全て新宿発だとばかり思い込んでいたのが間違いだった。
空席があることを祈りながら「あずさ3号」の到着を待った。
7時28分頃に到着した「あずさ3号」の自由席車内は、案の定満席状態だった。
台風一過の連休で、夏休みが始まったばかりとあって、混雑するのは当然か。
しかし、この日参加したメンバー7人のうち、運良く5人が座れた。
座れなかった2人は、通路にシートを敷いて腰を下ろした。
時々客や車掌が通ることもあるが、何とか邪魔にはならずに済みそうだ。
甲府辺りで全員座れて一安心。
10時14分、塩尻駅に到着。
改札口横の駅コンビニで弁当を購入。
体調を整えて、
10時33分、塩尻駅を出発。
先ずは大門通りへ向かう。
大門通り
大門通りを進む。
10時50分、大門神社に到着
大門神社
塩尻宿の京側の境に位置し、境内からは銅鐸が出土しており、10世紀頃の創建と推定されている。
武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所といわれている耳塚神社が隣接している。
旅の無事安全を祈願していこう。
大門神社の境内では、奉納相撲の土俵作りが行われていた。
土俵の大きさは、直径4m55Cmで、子供用も学生相撲・大相撲でも変わらないそうだ。
大門神社辺りから旧中山道に合流し、田川の塩尻橋を渡る。
大小屋交差点の分岐点には、庚申塔や秋葉大神などの石碑が5基建っている。
旧中山道は、ここを左に進む。
11時11分、堀内家住宅に到着。
文化年間に下西条村から移築したと伝えられる堀内家の建物は、県内で最も美しいと云われる築200年の本棟造り。
板葺きの大屋根と雀おどりの庇(ひさし)棟飾りに特色のある民家形式である。
国指定重要文化財となっている。
塩尻宿の碑
阿礼神社
平安朝時代の醍醐天皇の延長五年(927)に撰進された。
阿礼神社拝殿
延喜格式神名帳登載の由緒ある古社である。
旧中山道は鉤の手跡で左へ大きく曲り、国道153号に合流する。
塩尻陣屋跡近くに造り酒屋武井酒造店がある。
酒造家のシンボルである立派な杉玉(酒林ともいう)が目を引く。
塩尻宿西の脇本陣跡の碑
本陣・西の脇本陣ともに明治15年に焼失、現在は碑があるのみ。
木曽街道塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望
塩尻嶺(峠)から諏訪湖を眺めた渓斎英泉の浮世絵。
湖水は氷結している。左手は八ヶ岳連峰の端から富士がのぞく。
(東海道と並ぶ二大街道のひとつ「中山道」は、木曽路を抜けるため別称「木曽街道」と呼ばれていた)
塩尻宿本陣跡の碑
中山道最大の本陣(川上家)があった。
本陣・西の脇本陣ともに明治15年に焼失、現在は碑があるのみ。
道路の向かい側に高札場跡と下問屋跡の碑が見える。
この辺りが中山道塩尻宿で最も賑わったところである。
小野家住宅
小野家は、屋号を「いちょう屋」と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において
旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行った。
旅籠として使われた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、
主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵を構え、さらに畑地をはさんだ奥に長屋門を置く。
建物の建設経過は、小野家が所蔵する文書により明らかになっている。
文政九年(1826)に文庫が建設され、文政十一年(1828)の火災後に
同十二年から天保七年(1836)にかけて主屋他が建設された。
創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものであった。
十王堂跡碑
十王とは、閻魔大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称で、
十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、
供養することで軽減されるとされていた、そうだ。
塩尻峠を目指す。
柿沢一里塚跡碑
江戸日本橋から58里目の一里塚
碑が建てられたのは、つい最近(平成26年11月)のことである。
双体道祖神
時期不明とある。
抱擁し合っているところから、お女郎道祖神とも呼ばれる。
信州には道祖神が多くあるが、ここ塩尻宿の街道筋にも点在している。
旅の安全や悪霊除けなど、路傍の神に祈りを込めたものまで、様々である。
双体道祖神から永福寺が見えた。
永福寺は、高野山真言宗の寺院である。
永福寺仁王門は、信州下諏訪の立木音四郎種清によって明治二十九年に建立された。
諏訪の大工棟梁・初代立川(立木)富棟は名工として知られた人物。
種清は、江戸時代の後期にお寺やお宮の建築及び彫刻で天下にその名声を知られた、
立川流の二代目立川和四郎富昌の弟子として長年に渡って修業した。
種清は希にみる天性と熱心な技術の習得により、独立してからその卓越した技能で各地の寺院や神社の
建築とその彫刻にあたり、また皇居の造営にもかかわり、数多くの名作を世に残した。
仁王尊像は、松本市の太田南海作である。
本堂へ旅の安全をお参りする。
腹に響くほどの大きな音に撞いた本人もびっくり。
立川流二代目富昌、三代目富重によって建てられた永福寺観音堂は、市指定有形文化財(建造物)
永福寺を過ぎ、柿沢交差点を過ぎると道が細くなり、今まで以上に坂道になった。
本棟民家
松本平に数多く見られる切妻造りの民家。
雀踊りと呼ばれる棟造り意匠は、風格と威厳がある。
立派な構えの住宅が続く柿沢集落辺り。
後方に塩尻周辺の住宅地が広がっている。
かなり上って来たことが分かる。
長野自動車道の柿沢橋跨道橋からみどり湖PAを望む。
長野自動車道を渡った頃から小雨が降って来た。
国道20号下のトンネルを潜り、反対側へ。
塩尻峠を目指す。
舗装された道なので歩き易い。
牛馬守護神の碑
牛馬安全の守護神として祀られている。
中山道の道標や一里塚碑などはどれも字が大きくしかも彫りが深い。
国道20号に合流した。
国道20号を200mほど進むと、
左へ再び分岐する。
いよいよ塩尻峠への道である。
塩尻峠を目指す。
13時5分、道端に無人の休憩所らしき場所が。
”ご自由にお休みください”との案内看板があった。
塩尻峠の頂上で昼食をと考えていたが、ここなら雨も凌げるので、ここで昼食にしよう。
13時35分、昼食も終わり、塩尻峠を目指す。
塩尻峠まで1Kmの表示、もう少しだ。
13時39分、東山一里塚に到着。
日本橋から57番目の一里塚で、
南側の一基だけが雑木林の中に現存していた。
大きさは、幅12m、奥行13m、高さ3m、とのこと。
薄暗い山道に赤い前掛けを掛けたお地蔵様が2体並んでいた。
その横に夜通道(よとうみち)の伝説碑があり、次のような説明があった。
いつの頃か片丘辺りのある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、
男に会うために毎夜この道を通ったことから名付けられたという。
お地蔵様とその娘の関係については分からない。
夜通道を行く元娘?2人。
こんな山中の道を男に会うためとはいえ、毎夜通ったとは女の執念は恐ろしい。
塩尻峠手前の山中に突然、1軒の本棟造りの民家が現れた。
大名や旅人の小休止場所の茶屋本陣である。
皇女和宮も休憩された、とあった。
『へぇ~っ 皇女和宮もここで休憩したんだ』
明治天皇塩尻嶺御膳水の碑
明治天皇ご来訪の折りに、ここの水が炊飯やお茶に供されたことから、御膳水と呼ばれている。
13時56分、東山一里塚から17分、塩尻峠頂上に到着した。
塩尻峠は、標高1055m、諏訪郡と筑摩郡の境であり、分水嶺でもある。
富士浅間社
松本領・諏訪領との郡境の宮として石祠が奉祀されている。
展望台があった。
明治天皇御巡幸にちなみ、塩尻峠付近は現在、塩嶺御野立公園(えんれいおのだちこうえん)と呼ばれている。
『いやぁ 素晴らしい眺めだねぇ』
岡谷市と諏訪湖が眼下に広がる。
日本一の富士山(3,776m)、第二峰の北岳(3,192m)、第三峰の奥穂高岳(3,190m)といった
我が国の三高峰が望める唯一の場所、とのこと。
天気が良ければ諏訪湖・八ヶ岳・富士山の絶景が広がる筈なのだが・・・
平成8年6月に「日本の音風景100選」、また平成17年10月には「関東の富士見100景」に選ばれている。
『残念だねぇ 富士山見たかったね~っ』
こちらは塩尻方面の眺望
一部で雨が降っているようだ。
塩尻峠からは下りである。
中山道の大石
この巨石は昔から『大石』と呼ばれている。
「木曽路名所図会」にも、「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、
横幅二間余(約3.6m)」と記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。
ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋めれれた。
雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。
岡谷市方面の眺望を観ながら下ると、
14時28分、馬頭観世音(石船観音)に到着した。
門のような入口を潜ると目の前にまるで壁のような急な石段がある。
本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、
とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかと言われている、そうだ。
『美味しい水だねっ』
石船観音の鳴沢清水という清らかな水が参拝者の喉を潤してくれる。
中山道は、国道20号の上を跨ぐように続いている。
中山道道標
右しもすは 左しほじり峠
下諏訪宿を目指す。
茶屋本陣今井家
旧今井村は、中山道塩尻峠の東の入口にあって、古来交通上の要衝で、
江戸時代にはここに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残している。
中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、
参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
今井番所跡
徳川幕府は江戸防衛の為、街道の要衝に多くの関所を設置して、
特に入鉄砲・出女・咎人(とがにん)等の検察に当たった。
この今井口の番所は口留・穀留の両面の検問を司っており、此処を通過するには前もって許可の手形が必要であった。
番所には、高島藩の出役が交替で勤め、添役として村役人の名主や年寄りが当たった。
(幕府は、諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていたが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を
必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所である)
道祖神とだけ刻まれたものもある。
緩やかな下りの道が続く。
横河川に架かる大橋を渡る。
15時33分、国道20号出早口交差点のコンビニで小休止の後、国道20号を横断して進む。
緑に囲まれた家並が続く。
かつての中山道もこんな風景だったのだろうか?
雨は降ったり止んだり、はっきりしない。
15時45分、弥林山平福寺に到着。
平福寺は真言宗智山派の寺院。
真言密教の道場として創建された。
日限地蔵尊(おひぎりさま)は、
「日を限って一心に願掛けすれば、不思議にも聞き届けてくださる」
ことで知られ、日々多くの人が参拝に訪ずれる、とのこと。
毎月23日の縁日、特に4月の例大祭には、大般若法要が行われ、
桜の咲きほころぶなか、露店や青空市が立ち並ぶ、そうだ。
”旧渡辺家住宅入口”の標識に誘われて、細い路地を入る。
50mほど進んだ所に長野県宝旧渡辺家住宅があった。
旧渡辺家は、代々高島藩主に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家である。
創築は18世紀中頃とされ、その後19世紀中頃に改築されているが、現存する武士の家として、
全国的にも貴重なものであり、県宝に指定されている。
”国宝”は、よく見聞きするが、”県宝”というのは初めてである。
この家からは、明治以降に3人の大臣を排出し、関係資料が展示されている。
左から渡辺千秋(宮内大臣)、その弟渡辺国武(大蔵大臣・逓信大臣)、千秋の三男渡辺千冬(司法大臣)
砥川(とがわ)に架かる富士見橋を渡ると中山道諏訪宿は間もなくだ。
諏訪大社下社春宮の鳥居を左手に見て、
大社通り(国道142号)を諏訪大社下社秋宮方面へ。
16時53分、諏訪大社下社秋宮前に到着。
明日あらためて参拝することにして、ここは宿へ向かおう。
この日の宿「鉄鉱泉本館」は、この先もう少しのはずだ。
16時55分、甲州道中と中山道との合流点を通過。
『ここが合流点なんだ ということは追分だねっ』
本陣岩波家
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家柄。
現当主は28代目になる。
中山道随一と云われる庭園とともに一般公開されている、とのことだが宿へ急ごう。
旧中山道と現中山道(国道20号)の分岐点に、きれいな女の人が・・・
『そろそろ到着する頃』と宿の若女将?が迎えに来てくれていたのだ。、
わざわざ迎えに来てくれたとは感激である。
鉄鉱泉本館は、旧中山道諏訪宿旅館街の入口近くに構えていた。
美人若女将の『お疲れさま~っ』のひと声に疲れも和らいだ感じだ。
鉄鉱泉本館玄関
創業100年余りという歴史を感じさせる。
2つある内湯の一つは現在改修工事中で、もう一つの風呂はちょうど女性専用時間帯だったため、
下駄履きで近くの日帰り入浴施設「旦過の湯」へ。
下駄を履いたのは何年ぶりだろう。
「旦過の湯」(たんがのゆ)
鎌倉時代、慈運寺訪れる修行僧のために建てられた、旦過寮の浴場。
700年の歴史ある源泉で温度は高く、切り傷によく効いたと伝えられ、
昔戦で傷ついた武士がよく入浴した、とのこと。
ひと風呂浴びてさっぱり、疲れもとれた。
『かんぱ~いっ』
『お疲れ様でしたぁ』
地元信州の旬な食材、山菜を用いた料理は郷土の味がした。
しっかり食べて明日も頑張ろう!!
「旧街道を歩く」第六回目(塩尻宿~下諏訪宿)の一日目を無事歩き終えた。
しかし、最大の見処である諏訪大社下社秋宮と下社春宮はまだ参拝していない。
明日も元気に、諏訪大社下社秋宮と下社春宮を訪れることにしよう。
この日の万歩計は、27,000歩を越えていた。
ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。
昨年(2014年)は、旧東海道第一ステージとして、日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも歴史的に見所が多い区間を選んで、歩くことにした。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも大変なためである。
第六回は、中山道(塩尻宿~下諏訪宿)を2日かけて歩いた。
見所・立寄り先などは、「浅田次郎と歩く中山道」(中央公論新社)を参考にした。
新宿駅7時0分発の「あずさ1号」は、自由席は長蛇の列でとても座って行けそうになかったため、
7時30分発の「あずさ3号」に乗ることにした。
30分待つのは大したことではないし、列も短い、と気楽に構えて列に並んでいると、
場内放送で「あずさ3号」は千葉駅始発と分かり、『え~っ新宿発じゃないんだぁ』とがっくり。
「あずさ」号は、全て新宿発だとばかり思い込んでいたのが間違いだった。
空席があることを祈りながら「あずさ3号」の到着を待った。
7時28分頃に到着した「あずさ3号」の自由席車内は、案の定満席状態だった。
台風一過の連休で、夏休みが始まったばかりとあって、混雑するのは当然か。
しかし、この日参加したメンバー7人のうち、運良く5人が座れた。
座れなかった2人は、通路にシートを敷いて腰を下ろした。
時々客や車掌が通ることもあるが、何とか邪魔にはならずに済みそうだ。
甲府辺りで全員座れて一安心。
10時14分、塩尻駅に到着。
改札口横の駅コンビニで弁当を購入。
体調を整えて、
10時33分、塩尻駅を出発。
先ずは大門通りへ向かう。
大門通り
大門通りを進む。
10時50分、大門神社に到着
大門神社
塩尻宿の京側の境に位置し、境内からは銅鐸が出土しており、10世紀頃の創建と推定されている。
武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所といわれている耳塚神社が隣接している。
旅の無事安全を祈願していこう。
大門神社の境内では、奉納相撲の土俵作りが行われていた。
土俵の大きさは、直径4m55Cmで、子供用も学生相撲・大相撲でも変わらないそうだ。
大門神社辺りから旧中山道に合流し、田川の塩尻橋を渡る。
大小屋交差点の分岐点には、庚申塔や秋葉大神などの石碑が5基建っている。
旧中山道は、ここを左に進む。
11時11分、堀内家住宅に到着。
文化年間に下西条村から移築したと伝えられる堀内家の建物は、県内で最も美しいと云われる築200年の本棟造り。
板葺きの大屋根と雀おどりの庇(ひさし)棟飾りに特色のある民家形式である。
国指定重要文化財となっている。
塩尻宿の碑
阿礼神社
平安朝時代の醍醐天皇の延長五年(927)に撰進された。
阿礼神社拝殿
延喜格式神名帳登載の由緒ある古社である。
旧中山道は鉤の手跡で左へ大きく曲り、国道153号に合流する。
塩尻陣屋跡近くに造り酒屋武井酒造店がある。
酒造家のシンボルである立派な杉玉(酒林ともいう)が目を引く。
塩尻宿西の脇本陣跡の碑
本陣・西の脇本陣ともに明治15年に焼失、現在は碑があるのみ。
木曽街道塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望
塩尻嶺(峠)から諏訪湖を眺めた渓斎英泉の浮世絵。
湖水は氷結している。左手は八ヶ岳連峰の端から富士がのぞく。
(東海道と並ぶ二大街道のひとつ「中山道」は、木曽路を抜けるため別称「木曽街道」と呼ばれていた)
塩尻宿本陣跡の碑
中山道最大の本陣(川上家)があった。
本陣・西の脇本陣ともに明治15年に焼失、現在は碑があるのみ。
道路の向かい側に高札場跡と下問屋跡の碑が見える。
この辺りが中山道塩尻宿で最も賑わったところである。
小野家住宅
小野家は、屋号を「いちょう屋」と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において
旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行った。
旅籠として使われた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、
主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵を構え、さらに畑地をはさんだ奥に長屋門を置く。
建物の建設経過は、小野家が所蔵する文書により明らかになっている。
文政九年(1826)に文庫が建設され、文政十一年(1828)の火災後に
同十二年から天保七年(1836)にかけて主屋他が建設された。
創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものであった。
十王堂跡碑
十王とは、閻魔大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称で、
十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、
供養することで軽減されるとされていた、そうだ。
塩尻峠を目指す。
柿沢一里塚跡碑
江戸日本橋から58里目の一里塚
碑が建てられたのは、つい最近(平成26年11月)のことである。
双体道祖神
時期不明とある。
抱擁し合っているところから、お女郎道祖神とも呼ばれる。
信州には道祖神が多くあるが、ここ塩尻宿の街道筋にも点在している。
旅の安全や悪霊除けなど、路傍の神に祈りを込めたものまで、様々である。
双体道祖神から永福寺が見えた。
永福寺は、高野山真言宗の寺院である。
永福寺仁王門は、信州下諏訪の立木音四郎種清によって明治二十九年に建立された。
諏訪の大工棟梁・初代立川(立木)富棟は名工として知られた人物。
種清は、江戸時代の後期にお寺やお宮の建築及び彫刻で天下にその名声を知られた、
立川流の二代目立川和四郎富昌の弟子として長年に渡って修業した。
種清は希にみる天性と熱心な技術の習得により、独立してからその卓越した技能で各地の寺院や神社の
建築とその彫刻にあたり、また皇居の造営にもかかわり、数多くの名作を世に残した。
仁王尊像は、松本市の太田南海作である。
本堂へ旅の安全をお参りする。
腹に響くほどの大きな音に撞いた本人もびっくり。
立川流二代目富昌、三代目富重によって建てられた永福寺観音堂は、市指定有形文化財(建造物)
永福寺を過ぎ、柿沢交差点を過ぎると道が細くなり、今まで以上に坂道になった。
本棟民家
松本平に数多く見られる切妻造りの民家。
雀踊りと呼ばれる棟造り意匠は、風格と威厳がある。
立派な構えの住宅が続く柿沢集落辺り。
後方に塩尻周辺の住宅地が広がっている。
かなり上って来たことが分かる。
長野自動車道の柿沢橋跨道橋からみどり湖PAを望む。
長野自動車道を渡った頃から小雨が降って来た。
国道20号下のトンネルを潜り、反対側へ。
塩尻峠を目指す。
舗装された道なので歩き易い。
牛馬守護神の碑
牛馬安全の守護神として祀られている。
中山道の道標や一里塚碑などはどれも字が大きくしかも彫りが深い。
国道20号に合流した。
国道20号を200mほど進むと、
左へ再び分岐する。
いよいよ塩尻峠への道である。
塩尻峠を目指す。
13時5分、道端に無人の休憩所らしき場所が。
”ご自由にお休みください”との案内看板があった。
塩尻峠の頂上で昼食をと考えていたが、ここなら雨も凌げるので、ここで昼食にしよう。
13時35分、昼食も終わり、塩尻峠を目指す。
塩尻峠まで1Kmの表示、もう少しだ。
13時39分、東山一里塚に到着。
日本橋から57番目の一里塚で、
南側の一基だけが雑木林の中に現存していた。
大きさは、幅12m、奥行13m、高さ3m、とのこと。
薄暗い山道に赤い前掛けを掛けたお地蔵様が2体並んでいた。
その横に夜通道(よとうみち)の伝説碑があり、次のような説明があった。
いつの頃か片丘辺りのある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、
男に会うために毎夜この道を通ったことから名付けられたという。
お地蔵様とその娘の関係については分からない。
夜通道を行く元娘?2人。
こんな山中の道を男に会うためとはいえ、毎夜通ったとは女の執念は恐ろしい。
塩尻峠手前の山中に突然、1軒の本棟造りの民家が現れた。
大名や旅人の小休止場所の茶屋本陣である。
皇女和宮も休憩された、とあった。
『へぇ~っ 皇女和宮もここで休憩したんだ』
明治天皇塩尻嶺御膳水の碑
明治天皇ご来訪の折りに、ここの水が炊飯やお茶に供されたことから、御膳水と呼ばれている。
13時56分、東山一里塚から17分、塩尻峠頂上に到着した。
塩尻峠は、標高1055m、諏訪郡と筑摩郡の境であり、分水嶺でもある。
富士浅間社
松本領・諏訪領との郡境の宮として石祠が奉祀されている。
展望台があった。
明治天皇御巡幸にちなみ、塩尻峠付近は現在、塩嶺御野立公園(えんれいおのだちこうえん)と呼ばれている。
『いやぁ 素晴らしい眺めだねぇ』
岡谷市と諏訪湖が眼下に広がる。
日本一の富士山(3,776m)、第二峰の北岳(3,192m)、第三峰の奥穂高岳(3,190m)といった
我が国の三高峰が望める唯一の場所、とのこと。
天気が良ければ諏訪湖・八ヶ岳・富士山の絶景が広がる筈なのだが・・・
平成8年6月に「日本の音風景100選」、また平成17年10月には「関東の富士見100景」に選ばれている。
『残念だねぇ 富士山見たかったね~っ』
こちらは塩尻方面の眺望
一部で雨が降っているようだ。
塩尻峠からは下りである。
中山道の大石
この巨石は昔から『大石』と呼ばれている。
「木曽路名所図会」にも、「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、
横幅二間余(約3.6m)」と記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。
ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋めれれた。
雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。
岡谷市方面の眺望を観ながら下ると、
14時28分、馬頭観世音(石船観音)に到着した。
門のような入口を潜ると目の前にまるで壁のような急な石段がある。
本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、
とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかと言われている、そうだ。
『美味しい水だねっ』
石船観音の鳴沢清水という清らかな水が参拝者の喉を潤してくれる。
中山道は、国道20号の上を跨ぐように続いている。
中山道道標
右しもすは 左しほじり峠
下諏訪宿を目指す。
茶屋本陣今井家
旧今井村は、中山道塩尻峠の東の入口にあって、古来交通上の要衝で、
江戸時代にはここに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残している。
中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、
参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
今井番所跡
徳川幕府は江戸防衛の為、街道の要衝に多くの関所を設置して、
特に入鉄砲・出女・咎人(とがにん)等の検察に当たった。
この今井口の番所は口留・穀留の両面の検問を司っており、此処を通過するには前もって許可の手形が必要であった。
番所には、高島藩の出役が交替で勤め、添役として村役人の名主や年寄りが当たった。
(幕府は、諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていたが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を
必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所である)
道祖神とだけ刻まれたものもある。
緩やかな下りの道が続く。
横河川に架かる大橋を渡る。
15時33分、国道20号出早口交差点のコンビニで小休止の後、国道20号を横断して進む。
緑に囲まれた家並が続く。
かつての中山道もこんな風景だったのだろうか?
雨は降ったり止んだり、はっきりしない。
15時45分、弥林山平福寺に到着。
平福寺は真言宗智山派の寺院。
真言密教の道場として創建された。
日限地蔵尊(おひぎりさま)は、
「日を限って一心に願掛けすれば、不思議にも聞き届けてくださる」
ことで知られ、日々多くの人が参拝に訪ずれる、とのこと。
毎月23日の縁日、特に4月の例大祭には、大般若法要が行われ、
桜の咲きほころぶなか、露店や青空市が立ち並ぶ、そうだ。
”旧渡辺家住宅入口”の標識に誘われて、細い路地を入る。
50mほど進んだ所に長野県宝旧渡辺家住宅があった。
旧渡辺家は、代々高島藩主に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家である。
創築は18世紀中頃とされ、その後19世紀中頃に改築されているが、現存する武士の家として、
全国的にも貴重なものであり、県宝に指定されている。
”国宝”は、よく見聞きするが、”県宝”というのは初めてである。
この家からは、明治以降に3人の大臣を排出し、関係資料が展示されている。
左から渡辺千秋(宮内大臣)、その弟渡辺国武(大蔵大臣・逓信大臣)、千秋の三男渡辺千冬(司法大臣)
砥川(とがわ)に架かる富士見橋を渡ると中山道諏訪宿は間もなくだ。
諏訪大社下社春宮の鳥居を左手に見て、
大社通り(国道142号)を諏訪大社下社秋宮方面へ。
16時53分、諏訪大社下社秋宮前に到着。
明日あらためて参拝することにして、ここは宿へ向かおう。
この日の宿「鉄鉱泉本館」は、この先もう少しのはずだ。
16時55分、甲州道中と中山道との合流点を通過。
『ここが合流点なんだ ということは追分だねっ』
本陣岩波家
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家柄。
現当主は28代目になる。
中山道随一と云われる庭園とともに一般公開されている、とのことだが宿へ急ごう。
旧中山道と現中山道(国道20号)の分岐点に、きれいな女の人が・・・
『そろそろ到着する頃』と宿の若女将?が迎えに来てくれていたのだ。、
わざわざ迎えに来てくれたとは感激である。
鉄鉱泉本館は、旧中山道諏訪宿旅館街の入口近くに構えていた。
美人若女将の『お疲れさま~っ』のひと声に疲れも和らいだ感じだ。
鉄鉱泉本館玄関
創業100年余りという歴史を感じさせる。
2つある内湯の一つは現在改修工事中で、もう一つの風呂はちょうど女性専用時間帯だったため、
下駄履きで近くの日帰り入浴施設「旦過の湯」へ。
下駄を履いたのは何年ぶりだろう。
「旦過の湯」(たんがのゆ)
鎌倉時代、慈運寺訪れる修行僧のために建てられた、旦過寮の浴場。
700年の歴史ある源泉で温度は高く、切り傷によく効いたと伝えられ、
昔戦で傷ついた武士がよく入浴した、とのこと。
ひと風呂浴びてさっぱり、疲れもとれた。
『かんぱ~いっ』
『お疲れ様でしたぁ』
地元信州の旬な食材、山菜を用いた料理は郷土の味がした。
しっかり食べて明日も頑張ろう!!
「旧街道を歩く」第六回目(塩尻宿~下諏訪宿)の一日目を無事歩き終えた。
しかし、最大の見処である諏訪大社下社秋宮と下社春宮はまだ参拝していない。
明日も元気に、諏訪大社下社秋宮と下社春宮を訪れることにしよう。
この日の万歩計は、27,000歩を越えていた。
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