ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

「矢切の渡し」で柴又帝釈天へ

2013年03月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年3月15日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第39回(2013年第10回)、「矢切りの渡しで柴又帝釈天」を参拝するウォーキングに参加した。


常磐線土浦駅、荒川沖駅などの最寄り駅から乗り込み、9時24分、スタート地となる松戸駅に到着。
人数を確認すると、この日の参加者は、23名となった。
松戸駅構内は、大変な混雑のため、準備体操は省略。
体調を整え、9時37分、最初の目的地矢切神社を目指し、出発!


松戸駅東改札口を出たところは2Fになるため、1Fに下りる。


駅前バスターミナルを通過。


既に通勤時間帯は過ぎているからか、駅前商店街の人通りは少ない。
この日の先頭はOさんにお願いした。
実はOさんも初めての道であるが、矢切神社まで行けばそこから先は何とかなるだろう。
2009年9月29日に北総線矢切駅から矢切神社を経由して帝釈天へ参拝したことがある。


イトーヨーカドー前を通過


この日は晴れで風も弱く、予想最高気温は19℃と絶好のウォーキング日和である。
『良い天気に恵まれたよねっ』


国道6号陣ケ前交差点


国道6号を横断し、県道180号を進む。


二十世紀が丘柿の木町の住宅地
車の往来が無いのを見計らって道路の反対側へ。
少しでも早目に道路を横断しておこう、という算段である。


住宅地を抜け、少し広めの松戸街道に出た。


外環道の三郷南ICから先の延伸工事の真っ最中。
かなり出来あがっている感じである。
下矢切付近。この辺りに松戸ICが造られるとのこと。


『ここを外環道が通るんだぁ』
『いつになったら出来上がるんだろうねっ』
Webで調べてみると、平成27年度の外環(千葉県区間)開通が見込まれている。
既に用地取得は99%完了しているとのこと。


10時34分、矢切神社に到着。
道を間違うことなく、何とか最初の目的地に着いて一安心。


矢切神社にこの日の安全を祈願して行こう。
宝永元年(1704)6月29日の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。
当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。
災害から逃れるように村民が台地上に移住し、鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。
かつては稲荷神社と呼ばれていた。


松戸駅を出発して約1時間経過、一息入れていくことにした。


矢切神社を後にして、次の目的地「野菊の墓文学碑」に向かう。


矢切神社のほぼ正面向かい側に矢喰村庚申塚がある。


青面金剛の庚申塔を始め、地蔵尊延命地蔵菩薩如意輪観音菩薩馬頭観世音などの石像が所狭しと集められている。


矢喰村庚申塚案内
それぞれの像にはいろんな願いが込められているのが分かる。


矢喰村庚申塚の由来
「温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地に人が住んだのは約5千年前、
朝に魚や貝を採り、夕べに鳥や獣を追う平和な生活も、下総国の国府が国府台に置かれた
千3百年ほど前から武士たちの政争の場となり、なかでも北条市や里見氏の国府台合戦は
この矢切が主戦場となり、戦没者は一万余を数えました。
家は焼かれ、田畑は荒らされ、女子供年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され、傷つき
一家は離散。
この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、
親から子、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い、
庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕お祈りをしてきました。

このたび先人たちの苦難と生きる力強さを知り、四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため
平和としあわせを祈りこの塚をつくります。
  昭和六一年十月吉日 庚申塚保存会」


「野菊の墓文学碑」へ向かう。


矢喰村庚申塚から江戸川方面に数百米行くと、「野菊の墓文学碑」への階段がある。


急な階段を上ると左手に「野菊の墓文学碑」があった。
伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の最初の一節が刻まれている。
僕の家といふは、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所・・・・・


「野菊の墓文学碑」のある西蓮寺からは眺望が望めないので、道路の反対側へ。


『なかなか良い眺めだねぇ』


西蓮寺を後にして、矢切の渡しへ向かう。
少しばかり急な坂道を降りると・・・


田園風景が広がっている。
石畳が敷かれた「野菊のこみち」を進む。


「野菊のこみち」
『いろんな野菜が植えられてるねぇ』


矢切橋だ。


矢切橋を渡り、


「野菊の小みち」は左に折れる。
『なんだか暑くなってきたわねぇ』
朝方よりも大分気温も上がったようだ。


『道はこっちで間違いないねっ』


ここのところの天気で乾燥してはいるが、ところどころ、ぬかるんだ跡がある。
『雨が降った直後はぬかるんでとても歩けないよね』


「野菊のこみち」を進むこと約15分、「矢切の渡し」の看板が見えてきた。


江戸川の土手を上る。


土手に上ると、江戸川の先にビル群や高層マンションが見えた。
金町駅辺りだろうか?


左手にはスカイツリーも見える。


「矢切の渡し」はもう直ぐだ。


11時28分、渡し場の茶店に到着した。


実は「矢切の渡し」は先週までは平日は「渡し」はしていなかったのだ。
今週から通常どおり平日も「渡し」を始めたのばかりなのである。


しかもこのところ、大風が吹いて、まともに「渡し」ていなかったと思われる。
この日は「渡し」を知らせる旗はしっかりと立てられていた。
そういう意味では、天気に恵まれ、我々は実に幸運だった、と云ってもいいだろう。


船はちょうど一人の客を乗せて向こう岸へ発ったばかりだった。
戻ってくるまで待つしかない。


船は向こう岸から客を乗せてこちらへ向かっている。
非常にゆったりとした船足である。
船頭さんは、意識してゆっくりと櫓を漕いでいるように見える。


片道10分ほどかけて、ようやく船が戻って来た。
幼稚園児らしき子供8人と付き添い2人の10人が乗っていた。


早速船に乗り込む。
料金(片道200円)は各自が直接船頭さんに渡すことになっている。


定員は30名ということで、我々一行全員が一度に乗り込むことができた。
定員オーバーで2度に渡って渡るとなると、かなり時間をロスしてしまうことを気にしていたが
心配無用であった。


ゆっくりと川面を進む。
土日などで行列が出来る時には、モーターでの運転となるそうだが、
やはり櫓を漕いで渡る方が風情がある。


約12分ほどで対岸の柴又へ到着した。


時計はちょうど12時を指したところである。
この日は弁当持参としていたが、『柴又に行くんだったら名物の鰻を食べたいわっ』
という希望者がいたことから、ここで「弁当組」と「鰻組」にいったん分かれることにした。
「弁当組」は、江戸川沿いの「柴又公園」へ、また「鰻組」は帝釈天参道の「川千屋」に向かった。


「柴又公園」に向かった男性陣は、たったの3人だけである。
弁当持参の女性陣数名は近くの公園に消えて行った。


寂しく弁当を食べるOさん。
『良い天気なんだけど、これじゃぁちょっと寂しいねぇ』


「鰻組」の一行と帝釈天で合流するまでにはかなり時間がある。
せっかくだから、「寅さん記念館」へ寄って行くことにした。


入館料(一般500円だが、65歳以上は400円)を払い、館の中に入る。
最初に現れたのは「寅さん」ロケの場面だ。
山田洋次監督や助監督、小道具関係や、カメラ、音声などの人達の実寸大のパネルが展示されている。
映画作りには大勢のスタッフが参加しているのだ。


「寅さん」が化粧(メイク)している最中。
衣裳担当も重要な役目である。


次のスペースには、柴又帝釈天の参道が再現されている。
正面には本物そっくりの帝釈天の二天門が構えている。


こちらは、「くるまや」の撮影スタジオだ。


店の奥の二階上がり口で「寅さん」が気持ち良さそうに居眠りをしている。
どんな夢を見ているのだろう。


こちらはタコ社長(太宰久雄)の工場。
妹さくら(倍賞智恵子)の夫博(前田吟)も当然いる。


昭和30年代の帝釈天参道の街並みの模型。
『わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です』の台詞が聞こえてきそうな風景である。


柴又の町並みの前には、精巧なミニチュアセットがある。


こちらは、「くるまや」の模型だ。
二階で寅さんが横になって寝ている。


「寅さん」名場面集


『結構毛だらけ猫灰だらけ お尻の回りは糞だらけ・・・』
『大したもンだよカエルのションベン 見上げたモンだよ屋根ヤのふんどし』
ご存じ寅さんの名調子が聞ける。


これは京成線の前身の動く模型。
明治32年12月より大正2年8月まで、金町~柴又間の約1.5Kmを、帝釈天の参拝者を人が押して運んでいたと初めて知った。

「寅さん記念館」は、まだまだ見所は多く、全てを紹介し切れない。
「寅さん」に会って、映画の場面を思い出すのも良いだろう。
是非一度足を運んで欲しい。

「寅さん記念館」を後にして、帝釈天に向かった。
裏から入ると目の前に大きな建物が構えている。
帝釈天の本堂(祖師堂)だ。


本堂横の帝釈堂は、日蓮大聖人が衆生(しゅじょう)の病を無くさんと、
願いをかけて刻まれた板本尊を祀る。
堂の周囲を法華経説話に取題した彫刻をめぐらしてあり、他に類のない文化財になっている。
帝釈堂内に、東方守護の持国天、北方を守る多聞天が、帝釈天の脇士として配置されている。


大鐘楼
昭和30年、名匠、林亥助棟梁によって完成された総欅の大鐘楼。
高さ約15m、豪壮な桝組と木彫を施し、関東一の鐘楼と言われる。
梵鐘は、雅楽「黄鐘調(おうしきちょう)」と言われ、昭和の銘鐘の名が高い。


二天門
帝釈天の配下の四天王のうち、南方守護の増長天、西方守護の広目天を安置する。
前述したように東方守護の持国天、北方を守る多聞天は、帝釈天の脇士として
帝釈堂に安置されている。


「鰻組」はまだ食事が終わってないようなので、柴又駅から参道を歩いてみることにした。
柴又駅前に「寅さん」の銅像が建てられている。
ふらりと旅に出る恰好が良い。


帝釈天に通じる参道入口


たくさんの土産物屋が並んでいる。


川千屋
鰻料理専門店である。
「鰻組」が今まさに食事をしているところではないだろうか?
うな重定食(\2,500~)ということなので、次に訪れる際には立寄ってみよう。


高木屋老舗
参道を挟んでテイクアウトやおみやげ等の販売店と、喫茶店の2店舗を構えている。
店の壁には故渥美清さんや山田洋次監督、歴代のマドンナの写真を飾ってあるそうだ。


とらや
柴又帝釈天参道で、明治20年「柴又屋」として創業。
当時から、参拝者の食事処、草だんごのお土産として、大いに繁盛した。
昭和44年、第1作目の「男はつらいよ」の映画に使用され、第4作目まで「寅さん」の実家として撮影が行われた。


13時15分にいったん帝釈天境内に集まり、全員揃ったところで記念撮影を済ませた。
後は、ゴールの金町駅を目指すだけである。


揃って参道を進む。


皆さん、土産も買ったようで、満足そうな笑顔に溢れている。


「うな重定食」の話で盛り上がってるのかな?


帝釈天から金町までは「柴又街道」と呼ばれていた。


金町線の電車が通過していくところ。
かつては、ここを人が押して参拝者を運んでいたのだ。


金町駅が見えてきた。


13時45分、金町駅に到着。
この日は場所も狭いため、整理運動も中止と云うことに。
これから上野方面へ行く人もいることから、ここでいったん解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れ様でした~っ』



この日は「矢切の渡しで柴又帝釈天へ」と洒落てみたが、晴れて風も弱く絶好のウォーキング日和となった。
10分余りの「矢切の渡し」であったが、ゆったりとした船旅で気分が癒された感じである。
「寅さん記念館」では懐かしの”寅さん”や”マドンナ”に会うことができ、楽しいひと時だった。
次にまた帝釈天に来る機会があれば、その時は「川千屋」の”うな重定食”を注文することにしよう。


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